薔薇の皇帝 ノクタンビュールの烙印 02

11.人の足掻き

 贄を追うようにとはいえ、本当にそんなに正確に贄の足跡を紅雨が追ってくるわけではない。
 だから彼らより先回りした街に、紅雨の被害を受けた土地もあった。その被害に合った村や街の様子を、アシェルだとして知らぬわけではない。
 酷いものだった。辺り一帯全てが血に染められた街。紅雨の被害は、贄が見つからず紅い雨が降る期間が長くなるほどその威力も増す。
 皮膚を溶かされ内臓が爛れ四肢がちぎれたその無惨な屍たち。吐き気を抑えるのに必死だった。堪えきれずに嘔吐して、ジェットに背をさすってもらった。
建物は溶かされてその芯を剥き出しにし、畑は汚染されて黒く染まっている。池や湖には紅い雨が溜まり死の池となり、その雨が降った場所に生きている者は一人も残らない。
 これは全て、アシェルが関係している出来事だ。もっと早くに贄として名乗り出れば、起こらなかったはずの悲劇。
死んだ方がいいのかもしれない、と思った。どんなに決意を固めても心はくじけそうになる。人が死んで喜ぶ趣味はない。こうして被害に合うのは、ほとんどがアシェルとは何の関係もない、面識すらない人々だ。
 彼らを不幸にしたいわけではないのだ。アシェルが死んで話が早く済むのなら、そうするべきだろうかと思った事は一度や二度ではない。紅雨に降られて死ぬ事は、あまりにも辛いことだとわかっている。見ているだけでもそう思うのに、実際に転がる骸たちが味わったその苦痛は、どれ程のものだったのだろう。
けれど、それでも。

 ◆◆◆◆◆

「アシェル……君には、死んでもらう」
 カナンがそう言ったとき、ようやくアシェルは彼に組み伏せられているというこの状況を理解した。
「アシェル!」
 遠く、ジェットの声が聞こえる。まだ姿がかろうじて見える程度の距離。しかし彼はラウザンシスカの兵士を相手にするので手一杯で、とてもこちらを助けに来れそうな状況ではない。
 鞘にはめたままの剣で強かに打ち据えられ、今また地面に接している背中が酷く痛い。長い指が食い込む肩もずきずきと疼く。
 だが痛みに悠長に嘆く暇などアシェルにはない。
「退いてください、カナンさん」
 アシェルは自分を押さえ込む金髪の少年にそう言った。
「な……」
「退いてください」
「何を言っているんだ」
「退いてください」
 三度、アシェルは繰り返す。辛抱強く、諦め悪く。
「この状況がわかっているのか、君は? ……いや、自分の立場が、本当にわかっているのか!?」
 あまりにも冷静なアシェルの態度に不審を感じ、言葉を重ねるうちに激してきたらしく、最後にはカナンも怒鳴り声の糾弾になる。
 しかしアシェルも負けてはいない。
「僕は行かなきゃいけないんです。皇帝領に。皇帝陛下に頼んで、紅雨を、この世界から永遠に消してしまわないと」
「何?」
 アシェルの言葉は、カナンにとっては予想の範囲外を超えたものだった。カナンにはアシェルの言う事が、都合の良い夢物語に聞こえる。
 残虐非道で知られる皇帝に、直訴? それも、紅雨を止めてほしいなどと。
「馬鹿なことを言うな! 皇帝陛下がそんな頼みを聞き入れるわけないだろう!」
「どうしてそんなことが言い切れるんです? やってみなくちゃわからないじゃないですか!? それとも、皇帝陛下があの雨を消す事はできないとでも?」
「前例がある! 紅雨が降り始めた最初の頃、誰もがあの雨を止めてくれと皇帝陛下に願った! けれど皇帝は聞き入れなかった! 代わりにノクタンビュールの烙印を持つ者を贄として差し出せば一時的に被害を抑えられると仰せになったんだ!」
 紅雨についての情報が乏しいカナンは、ラウザンシスカを出る前にそ権限の全てを使って血の雨について調べていたのだ。けれど、被害を減らす芳しい情報は得られなかった。
 この世の神とも言われる皇帝についての嘆願もすでに前例があったが、結果は軒並み却下で終わっている。 
「できないと仰ったんですか?」
「え?」
「皇帝陛下は、『できない』と仰ったんですか? それとも『やらない』と?」
 カナンは記憶を辿る。紅雨について、皇帝への嘆願をしに行った者の返答は……。
 脳裏の知識を手繰っても手繰っても、それらしき答は見つからない。皇帝に雨を止めてくださいと嘆願した者、贄を教えて下さいと嘆願した者、死者を生き返らせてほしいと嘆願した者、どれも結果は芳しくないが、その返答が「できない」か「やらない」かだったなど。
「わからないんですか? つまり、皇帝陛下がどちらの理由で申し出を却下したのかはまだわかっていないんですね? だったら、その理由は『できない』ではなく『やらない』かも知れないじゃないですか! だったら、僕が説得でも脅迫でも何でもして、皇帝陛下に雨を止めてもらいます!」
「な、そんな無茶なことを……!」
「やってみなくちゃわからないじゃないですか!」
 叫んだアシェルの声に、カナンは金色の瞳に揺らぎを見せる。
 対照的に、彼に組み敷かれた紅髪の少年の、朝焼けの紫の瞳には迷いがない。
 言葉通り、何がなんでも皇帝に直訴するつもりの視線だ。
「くっ……」
 これはまずい、とカナンは思った。
 この瞳を見つめ続けては駄目だ。彼はカナンの心を揺らす。あのサジタリエンの街で出会った時のように、不思議な底知れない瞳でカナンの動きを縛り付けてしまう。
 世界に大きな犠牲を出して逃出した贄を、許すわけにはいかないのに。
「君が生きている限り、紅雨は止まらない。何億人もの人が、君のせいで死ぬんだぞ!」
 金髪に金色の髪の少年、カナンは生まれはシルヴァーニだが、ラウザンシスカの勇者。
 王命を受けて、贄であるアシェルを殺しに来たのだ。それが彼の正義。
「君のせいで、何人の人間が死んだと思っているんだ!? 赤子も老人も男も女も、善人悪人も、全てが紅い雨の中に消えた! 罪のない人だって大勢いたのに、受ける必要のない罰だけを受けて死んだんだ!」
 そうだ。思い返せ。
 彼の……贄として当然の責務を放り出して我が身可愛さに逃出したアシェルのせいで、どれ程の人が死んだのか。何の罪もない人々が、皮膚を溶かし骨を焼き内臓を爛れさせる雨を受けて苦しみもがきながら死んだのだ。遺族は悲しみに暮れ、畑や田が駄目になった人々は日々の糧を得る術を失って彼らもまた遠からず破滅を辿るしかない。
 世界中の人々にそんな苦痛を与えて、アシェル一人がのうのうと生きるなんて、そんなことが許されるわけない。
彼さえ死ねば救えたはずの人間が、何人いると思っている。人の命を数で測るものではないと思っているけれど、この犠牲者の数を見るにつけ、その思いは強まっていく。
「君はそんな大量殺戮を犯して、本当に平気なのか!? 君は人間の命を、何だと思って――」
「人間、人間って」
 繰り返されるその言葉を、アシェルは悲鳴のような声で遮った。

「じゃあ僕は人間じゃないの?!」

 カナンが動きを止める。
「人を、世界を救えとみんな僕に言う。僕を責める。でも、どうして僕の言うことは聞いてくれないの!? 僕は、人間じゃないの?!」
 世界中誰もが持っている当然の権利をアシェルにだけは認めてくれない。そんな彼らはもしも自分が贄となった時に、本当に「当たり前に」世界のために喜んで死ぬとでも言うのだろうか。
「あなたと同じ、人間ではないんですか?!」
 誰もアシェルを「人間」として見てはくれない。
 アシェルには怖いものがある。
 死ぬよりも、怖いものがある。
 確かにこの世界に生き、存在しているというのにそうは扱われないということ。人間扱いされないということ。
 世界に誰も味方がいない。それは真の孤独。
 ジェットだけはアシェルを助けてくれるけれど、彼が本当に愛しいのはリーシェンだ。アシェルの、アシェルだけを愛して護って無条件に存在を肯定してくれる存在などいない。
 それだけが怖かった。世界の中で真の孤独を味わう。
 それさえなければ、死んでも良かったのに。
 世界がアシェルを一人の人間として見てくれるのなら死んでも良かった。世界に名乗りをあげて死んでいったリーシェンなどもそうだろう。
 贄として世界のために差し出された自分たちに、世界が人殺しの罪悪感を覚えるほどに自分たちを認めてくれるなら、彼らは死んでもよかったのだ。でも実際はそうではない。贄は死んで当然だと蔑まれる。好きでその運命を負ったわけでもないのに。烙印を受けたその瞬間から「人間」ではなくなる。
 僕はここにいる。
 それを、誰かが知っていてくれれば、赦してくれれば。
 それだけでよかったのに。
「人として生きて死にたいと願う事は、そんなにも罪深いのですか……?」
 多くの人を紅雨の被害で死なせたからではない、贄として運命付けられたその瞬間から
《夢遊病者(ノクタンビュール)》にはそんな権利は与えられていなかったのに。
 カナンの手から完全に力が抜ける。
「俺は……」
 アシェルは気づかない。紫の瞳に涙を溜めて、ただひたすら自分の上に覆いかぶさるカナンを睨み据えている。
 皮肉なことに、その、生の当たり前の欲に溢れ、諦めを知らない瞳こそが今まで見た誰のどんな表情よりも、カナンの眼には美しく映った。
「紅雨を止める、と言った」
 金色の瞳を瞑った少年はぽつりと呟く。
 お互いが怒鳴りあうのを止めれば、急に辺りの音が耳によく聞こえてくる。どうやらジェットたちの方も、盛大にやりあっているようだ。喉を張り上げて叫ぶ声が聞こえる。
「それは、何のため?」
「これ以上の被害を出さないため。あの雨がある限り、何度こんなことがあっても犠牲は減らない。例え贄がすぐに命を絶ったとしても、その贄を犠牲にして世界を救っても意味がない。そんなもの、ただの欺瞞だ。だから僕はこれ以上誰死ななくていいように、あの雨をこの世から消したい」
 それがアシェルの願い。
 カナンは力なくそれを嘲笑する。
「それこそ欺瞞じゃないのか? だってこうしている間にも人は死ぬ。君が死なないから世界中で人が死ぬ。笑わせないでくれ。君のはただの自己保身だろう。そうでなければ、何故自分が死んでから皇帝陛下への直訴を誰かに頼まない。それが一番被害を少なくする方法だろう。皇帝領に向かいたいのは、これから生まれてくる贄のためだって? 嘘をつくな。自分のためだろう」
「そうだよ」
 皮肉と嘲弄と侮蔑の棘に溢れたカナンの言葉を、けれどアシェルは平然と受け流す。
 驚いて瞳を開けたカナンの視界に、初めて会った時から惹きつけられてやまないあの強い意志を込めた紫の瞳があった。
「僕は、生きたいという自分の願いを否定しません。だからこそ、他の人の生を否定することもしません。だからこそ、皇帝領に行きたいんです。願いさえ叶ったら罰は受けます。たくさんの人を犠牲にした僕の罪を、否定はしません。悪だ罪だと呼ばれても結構! あの紅雨を永遠にこの世から消す事ができたなら、もう死んでもかまいません!」
 受けるべき罰は受ける。
 けれど今のままではあまりにも理不尽だ。せっかく生まれてきたのに何一つ得られずに全てを奪われていく。
 せめて人間として、生きて、死にたい。
 贄として世界に殺されたのでは、ただ死ぬだけだ。その前に一度だけでいい、生かせて。
 それすらも夢遊病者(ノクタンビュール)の見る、虚しい、叶えられない夢だというのだろうか。
「――――」
 永遠のような沈黙の後に、カナンが一言で返答する。

「わかった」

 アシェルがこれまで求め続けた道の、それが答だった。

 ◆◆◆◆◆

「紅雨が来るぞ!」
 兵士たちが叫び、混乱が始まる。一時的にできた隙を縫って一気に片をつけてしまいたいのだが情けない話、動揺しているのはこちらも同じ。
彼らはお互いにそう思っていた。剣の腕があからさまに鈍っている。
「くそっ! ……アシェル!!」
 せめてそちらどうにかならないかと、ジェットが苦し紛れにアシェルの名を呼んだ時だった。
「ジェットさん、後頼みます!」
「アシェル!?」
 呼んだ本人にも予想外なほどいい返事が返ってきた。驚きのあまり、ジェットはヴァンスとの鍔迫り合いを力押しで一時相手を押しのけて中断し、視線を一度橋の上でカナンに取り押さえられてしまったはずのアシェルの方へと向けた。
「なっ……」
 自分が将軍と剣戟を重ねている間に、一体何があったのか。
「フィーア! ソルト! 後を頼む!」
「カナン!?」
「カナンくん!?」
 先程のアシェルとそっくりな台詞を、金髪金瞳の勇者が自分の仲間たちに投げた。呼ばれたソルトとフィーアも仰天している。
「なんで贄と一緒に逃げてるの?!」
 顔の横まで手をあげて仰天しているフィーアの言うとおり、アシェルはカナンに助けられていた。うっかり水晶を放り出した彼女の足元では、ガシャンと透明な珠が割れる音がする。
「ああっ!」
「フィーア! 水晶はこの際もうどうでもいい! それよりなんだよこの状況!?」
 ソルトとフィーアの二人は、近くのラウザンシスカ兵たちから刺さる視線が痛い。彼らの胸中は言葉にしてもらわなくても聞こえる。何しろ二人もカナンに対して今まさに同じ事を思っているからだ。
 まさか、こんな、紅雨がすぐ側に迫っていてあと数瞬で自分たちも死にそうなこの状況で。
「裏切るのか!? 勇者殿!?」
 彼らが聞きたいことを、ヴァンスが声を張り上げて代弁した。
「すみません! 将軍!」
 否定すらせずに、カナンはアシェルの手を引いて駆けていく。二人とももともと足が速く、鎧をつけない軽装だ。いざ走り出せばあっという間に背中が見えなくなる。
「お、追え!! 贄を逃がすな!」
 流石のヴァンスも一瞬呆然としたらしく、号令が遅れた。彼の言葉に同じく我に帰ったラウザンシスカの兵士たちが、二人を追いかけようと橋の方へ進む。ジェットはいまだヴァンスの相手をしていて、彼がジェットを押さえ込んでいれば、橋の入り口を通り抜けられないこともない。
 しかしジェットとは別に、それを阻む者たちがいる。
「フィーア、ばったもんでもなんでもいいから、結界作れ!」
「ばったもん言うな! 失礼な男ね!」
 カナンから「後を頼」まれてしまったソルトとフィーアの二人である。
「貴様らもか!」
 ヴァンスがさらに憤激するが、ジェットは何とも言いがたい様子でかつては仲間とも呼んだ二人に目を向ける。
「すいませんジェット隊長。急で悪いんですがこの場は寝返らせてくれませんか?」
「私たち元盗賊団のメンバーが手を組めば、この人数を足止めすることも無理ではないでしょう?」
 彼らはこれまでの任務への忠実具合をどうやったらそんなあっさり翻(ひるがえ)せるのかという気安い態度で、ジェットにそう申し出てきた。
「こちらとしては助かるが、いいのか? そして本気か?」
「ええ」
「うちの大将がああいう道を選んじゃったなら、俺たちはそれに従うしかないからな」
 黒髪黒瞳の忌まわしき魔術師の民、黒の末裔として迫害されていたフィーア。ラウザンシスカの孤児として、幾度となく犯罪に手を染めてきたソルト。彼らがジェットと面識があるのはその、三人が最も荒れていた時代だ。もう数人のメンバーと組んで大陸中を騒がせる盗賊団として活動していた。
 その後ジェットがフィーアの姉であり、リーシェンの死に関係する魔術師スィーアと出会ったことによって「次の贄を護る」というリーシェンとの約束を思い出して盗賊を抜けて用兵となり、直接の上司とも言える隊長だった彼を失ったソルトとフィーアも盗賊をやめた。
 それでもジェットほどには打ち込めるものを見つけ出せなかった二人の前に現れて、傭兵とは名ばかりの犯罪スレスレの堕落から救ってくれたのはカナンなのだ。あの少年が選んだ道ならどんな道でもソルトとフィーアは信じる。
「そうか、なら!」
 あの頃は確かにお互い未熟だったが、それでも確かに気心の知れたかつての仲間を得てジェットの橙色の瞳にも生気が戻る。
 盗賊仲間など、美しい縁ではない。お互いが自分の目的のためなら、先程までのように容赦なく敵対できるし、殺しあえる関係だ。
 だからこそ、こういうときの彼らが本気であることもジェットは知っている。
「アシェルたちが皇帝領に着くまで、ここを死守するぞ!」
「おう!」
「了解!」
 迫り来る紅い空と大勢の兵士を睨みながら、力強く宣言するジェットに二つの声が応えた。

 ◆◆◆◆◆

「頼んでおいてなんですけど、本当にいいんですか!? 裏切っちゃって!!」
 上がる息を誤魔化すように、そうして自分を鼓舞するように、アシェルは半ば怒鳴りながら自分の手を引いて走るカナンに尋ねた。
「ああ!」
「後悔しません?!」
「しないよ!!」
 こちらも威勢よく言い返して、カナンはアシェルを振り返ると同時に背後の空を確認する。
「紅雨……」
 それは世界を絶望に染め上げる、呪われた血の雨。夕刻とは違う不自然な紅が空を覆い、真白の太陽だけが白々しく輝いている。血を吸ったように赤黒い雲が近づいてきて、その胎から滅びを吐き出そうとしている。
 そんなことにはさせない。
「絶対に、皇帝領へ辿り着く。あの雨を止めてもらう」
 アシェルの決意に、カナンも頷く。
「世界のために一人を犠牲にするなんて間違ってる。でも一人を生かすために世界を犠牲にしていいわけでもない。だから」
「あの雨を、消さないと」
 全ての元凶はあれだ。あの雨さえ消えれば、もう無用な苦しみも醜い欺瞞も存在しなくなる。
「カナンさん……」
「ん?」
「引き返すなら今のうちですよ。僕を殺すのも」
 白い石と、金箔の貼られた手摺りでできた橋をひた駆ける。駆けて、駆けて、無事に辿り着いたのならば、この足が砕けても構わない。
「大丈夫。もう、俺にも、本当に大切なことがわかったから」
 数々の花が四季も雨季乾季も問わず咲き乱れるため虹色に見えるという皇帝領までは、まだ少し距離がある。アシェルたちがこの橋を渡り終える前に紅雨は降り始めるだろう。
 何もあの雨に触れたものが一瞬で煙のように消えてしまうとは思わないが、それでもここは橋の上なのだ。諸島をまたぐというのだからその規模の大きさと高さは普通の橋や建物の比ではなく、逆に強度は地上よりも期待できない。下手をすれば足場が先に溶けて全員死ぬのかもしれない。アシェルたちは勿論、ジェットも、カナンの仲間も。
 それでもいいというのだろうか。
「君を殺したところで、問題の根本的な解決にはならないんだろう。ここで引き返したり君を殺したりすれば、それこそこれまでの犠牲が全て無駄になる」
「カナンさん」
「君に教えられてようやくわかったよ。例えどんな立場であっても、どんな状況であっても、人は最後まで一人一人が、相手のことを考える努力をしなきゃいけないんだって」
 我が身に降りかかった悲劇を喜ぶ者はいない。けれど、自らの痛みと損得にばかり目を向けて、相手のことを無視していいわけではないのだ。
 自分が痛いと感じるように相手も痛いと感じる。自分が生きたいように相手も生きたいと願う。そんな当たり前のことを、カナンはこれまで忘れていた。
 幼い頃の記憶が蘇る。カナンの異相を受け入れられずにいがみ合う両親。あの時に言えばよかったのだ。それでも自分は人間で、だから彼らに愛してほしかったのだと。
言えなかったばかりに、カナンの家族には今でも亀裂が走ったままだ。最後まで努力することもせず、最悪の可能性ばかり想像して自分が傷つきたくないあまりに、戦う前から逃げていたのだ。
 言えばよかったのに、愛してほしいと。
 そのために嫌われたとしても、きっとろくな話もできず遠い大陸へと離れ離れになった今よりはずっとマシなはずだ。
 今度こそ両親とちゃんと話をしてみようかと、カナンは思う。生きて帰れたら。
 この旅路から、生きて帰ったら。
 他者のためと言いつつ自分のことしか考えなくて、険しい崖の前には尻込みし、しまいには己の弱さを正当化したいがために相手の方が悪だと蔑む、そんな欺瞞を乗り越えたのなら。
「ヴァンス将軍さ」
「?」
「あの、大柄な偉そうな人。悪い人ではないんだけれど、俺のこと一度も名前で呼んでくれたことないんだ」
 規律に厳しい将軍ヴァンスからは、カナンはいつも名前ではなく「勇者殿」と呼ばれる。それは多分、彼がアシェルを「贄」と呼ぶのと同じ理由なのだろう。
「じゃあ、僕があなたを呼んであげます。あなたの名を、この命ある限り何度でも。カナンさん」
「ありがとう……アシェル」
 口を動かしながらも足は止めない。正直、こうして会話を交わすのも辛いが、黙ると逆に不安や疲れがどっと押し寄せてきそうで二人は怖いのだ。
 今のアシェルは、先程の打撲も旅の疲れも含む全身の痛みや疲労を堪え、カナンに手を引かれてやっと走っている状態だった。地に伏せって怒鳴りあった間に少しだけ体力は回復したが、絶好調どころか常態ともほど遠い。
 けれど足を止めるわけにはいかないのだ。これは自分のわがまま、自分の願い、自分の正義。ならば自分が貫かなくてどうするのか。
 本当はまだ、本当の正義なんてわからないけれど。悪だと、罪だと言われても、自分が嫌だと思うことをまた別の誰かに味わわせるは嫌だから。
 橋の上でも地平線と言うのか、とにかく曖昧だった線が途切れ、虹色の景色が鮮明になった。目前に皇帝領は迫っている。橋の終わりが近い。
 そして元来た橋の袂にも、紅雨の雲が近いづく。呪われた雨が降り始めた。
「僕は」
 アシェルと繋いだカナンの手にも、緊張の汗がじっとりと滲んでいた。それでもカナンは手を離さない。アシェルも離さない。
「僕の答は」
 あの日から考え続けていたそれ。幼馴染のスー、自分を護ってくれたジェットや、こうして手を引いてくれるカナン、様々な出会いの中で、絡まる糸が一つ一つ解きほぐされていった、アシェルの真実。
 ――本当に『正しい』こととは何だ?
「僕の答はこれだ!」
 カナンに手を引かれたまま、アシェルの足が橋の終わりを蹴って皇帝領の大地を踏む。
 その瞬間、眩い紅の光が世界に広がった。