薔薇の皇帝 ノクタンビュールの烙印 02

12.この大地に降る雨

 ――お前がいつか私のもとへと来るのを、楽しみにしているよ。
 その人は美しかった。恐ろしいほどに。
 嫣然と笑う彼に無謀にも反抗してみせる。命さえも、簡単に賭けて。
 ――僕は、誰が何と言おうとも自分が正しいと信じるものを曲げません! あなたのやっていることは間違っている! だから止めたんです!
 ――言ってくれるな。私の行動が間違っているとは。では聞くが、本当に『正しい』こととは何だ?
 ――本当に正しい、こと……
 ――そうだ。それを求めるのは、決して楽な道ではないぞ。誰もが幸せになれる未来などありはしない。必ずやどこかで血は流れる。今はこんな小さな街の中にいるが、この先世界に出てそれを痛感することとなったとき、果たしてお前はどうするのかな……?
 予言のように血は流れ、自分は罪人となった。迫られた選択の際に選んだ道は自分にとっては正義だけれど、人から見れば酷い悪徳以外のなにものでもないこともわかっている。
 ――見てみたいな。いざ、その時が来たらお前がどんな道を選ぶのか。
 それでもこの道を選ぶのだ。

 ――叶わぬ夢を見る者よ。その身に、皇帝の紅き祝福を――

 ◆◆◆◆◆

「……ん?」
 彼は城の一室から、窓の外を眺めた。
「ああ……来たのか」
 その大陸は人々が住まうシュルト大陸ともバロック大陸ともあらゆる意味において隔てられている。他の土地に訪れる災厄も、この土地だけはその主を恐れて避けると言うほど。
 そして災厄以上に恐れられているのは、何を隠そうこの土地の主にして、この世界の主その人だった。
 皇帝は窓の外を見る。
 全知全能と呼ばれるその力。通常の人間の常識など通用しない。彼の目は城の窓から、何百万人もが余裕で生活を営める大きさを持つ大陸の端に辿り着いた人影を捉えていた。
 紅い髪に紫の瞳の少年の姿はどこか懐かしい。ああ、来たのか。彼はそれだけを思うと、軽く指先を動かした。
 白銀の髪に紅い瞳の美しい青年は、少年の願いをすでに知っている。

 ◆◆◆◆◆

 紅雨が降り始めた。
「うわぁあああ!!」
「きゃあああ!!」
 戦いどころではない。各人が一斉に頭を押さえて蹲る。
「あ、アシェル……」
「カナンくん……」
 二人は皇帝領へと辿り着けなかったのだろうか? ジェットたちは、身の回りの物で何とか酸とも炎とも剣ともつかぬ痛みを与える血の雨から身を守ろうとする。
「だ、大丈夫だ……あいつらなら、必ず……くっ!」
 ヴァンスをはじめとするラウザンシスカの兵士たちはまだいい。紅雨に打たれているとは言っても、分厚い金属の鎧を着ている。長くはもたないが、生身よりは時間を稼ぎやすい。アシェルとカナンの二人に関しては、橋の内部までは紅雨は降らないようだった。だから問題はジェット、ソルト、フィーアの三人だ。
特にフィーアは剣士ではないので、盾代わりに自らの得物を抱えて気休め程度に雨を防ぐこともできない。頭と顔を庇った腕は服などとっくに焼かれ、無惨に爛れた痕は残り始める。
「何やってるんだカナン! 早くしろ!」
 ソルトがここにいない大将に向けてそう叫ぶ。ジェットは自らの腕の中にフィーアを抱え込んだ。旅用のマントは彼女の薄地の衣装より断然マシだろう。
「隊長!」 
 だがフィーアを雨から庇おうとすればそんなものでは頼りない。自らの身を挺する彼に、フィーアの悲鳴がかかる。
「耳元でキンキン声で喚かないでくれ……鼓膜が破ける……」
「言ってる場合ですか! 私を庇うのはやめてください、ジェット! このままではあなたまで!」
「うるさい! 俺はリーシェンと同じ年齢の女が死ぬのは見たくないんだよ!」
 苦痛を堪えて背を呪いの雨に晒すジェットの姿に、庇われたフィーアも絶望的な表情を浮かべる。と、そこへ救いの影が差した。
「ヴァンス将軍?!」
 ヴァンスだった。将軍としてジェット相手に素晴らしい剣術を見せていた彼だが、実はこの場で一番着ているものが豪勢な鎧だった。しかしその分装甲が厚く、防御力は誰よりも高い。彼ほどの実力者でなければそこまで活用はできないだろうが。
「どういうつもりだ? あんた。俺はお前らの邪魔をして贄を庇った男なんだが」
「貴様はいっそ紅雨の餌食になれと言いたいところだが、先の台詞には同感だ。私も自分の娘が死んだのと同じ年頃の娘が死ぬのは見たくない」
「お前……」
 普段は黒の末裔として、フィーアを目の仇にしているとは思えない言葉だった。
 それに、彼女を庇うにしてもそれならジェットから無理矢理引き離せばいいだけの話だった。なのに彼はフィーアを庇ったジェットごと紅雨から護ろうとしている。
 ヴァンスは決して悪い人間ではない。
 目の前で傷つこうとしている人間を見捨てられるような人間ではない。例え規律にうるさく差別意識が強く世界のためにはただ一人を犠牲にできる人間であっても。
 身勝手と言われようと、どんな人間でもそのできる範囲で精一杯生きている。考えが足りなくとも、その努力を最初から放棄している人間ばかりではない。
 本当の善人などいないように、本当の悪人などいないのかもしれない。もっとも、それすらも今目の前にあるものだけを見て言える言葉だが。それを、彼らは思った。
「くっ……」
 しかしそのようなヴァンスの努力も、この呪われた雨の前には長くもたなかった。
「将軍!」
 頑強な金属の鎧が溶け始める。雨の勢いは止まらない。この雨に降られて、生きて帰れた者はいない。
「カナン!」
「いつまでやってるんだ! 早くしろ!」
 フィーアが、ソルトが叫ぶ。彼らは後を守ったのだから、カナンにも約束を守ってほしい。
「アシェル……っ」
 彼の望みを叶える事が、すなわちリーシェンの望みであり、そしてジェットの正義であった。まさか、希望は全て絶たれてしまったのだろうか?
 希望と絶望の狭間で、彼らがただこの雨の晴れることを雲の向こうの太陽に希ったその瞬間だった。
「!」
「雨が…ッ!」
 紅い光が橋の向こう――皇帝領から発された。その光に触れた途端、空の色が、雲の色が変わる。
 もう苦痛を感じない。けれど雨は降り続いている。透明な、水の雨が。
 空が青く晴れ渡っている。実際は紅雨などこれまでの時間に比べればほんの一瞬だったのに、
 その雨は、これまで紅雨に降られて傷ついた兵士たちの身体をも癒していった。
「アシェル……」
「カナン……」
 何が起きたのか、大体の予想はついていた。けれど二十年前のリーシェンの時しか知らないジェットと、一応生まれていたとはいえそれすら幼すぎて記憶にないフィーアやソルトにはこの状況を正確に判断できない。
 その場にいる全ての人間の視線が、二度の紅雨を体験したという将軍ヴァンスへと向いた。
 信じられないような、嬉しいような、どこか悔しいような顔をしてヴァンスが彼らの望む答を返す。
「二十年前は二度目の紅雨降る前に贄が死んだから定かではないが、四十年前は紅雨の最中に贄が死んでもこんな風にはならなかった。ただ雨が止んだだけだ。だからこれは……あの贄の勝利ということだろう」
 次の瞬間、ヴァンスを除くその場の全員から歓声があがった。

 ◆◆◆◆◆

 その雨は救いの雨。
 アシェルが皇帝領の大地を踏んだ瞬間、それは起こった。
 これまでの紅雨の空とはまた違った紅い光が世界を包み込み、赤黒い雲を切り裂いたのだ。かといって世界の何が消滅するでもなく、ただ、それまで紅雨を降らせていた空と雲からその禍々しい色が抜け落ちる。
 紅い光はやがて色を変えていた。世界に広がっていくのは、どこまでも清浄な透明がかった白銀の輝き。
 残ったのは、青い空。そして、白に近いような綺麗な薄銀色の雲。光り輝くような雨がそこから降り、世界の景色を変えていく。
 サァアアアアアア。
 雨音とはこんなにも優しい音をしていただろうか。
 もう、触れても痛くない。誰も死なない雨。むしろそれは死をもたらすのではなく、紅雨によって死に絶えた土地を癒していくように思えた。
 実際アシェルやカナンの知らない遥か彼方で、紅雨によって生き物の住めない大地となっていた土地の赤い血が洗い流されていく。汚染された土も、濁った湖沼も。いまだ晒されたまま墓にも入れられない無惨な骸に関しても、聖なる雫を受けてようやく清められた大地に還る――。
 アシェルとカナンの二人も、その雨を受けていた。
「なんで……だってまだ、皇帝領に入っただけだろう……」
 皇帝に直訴したわけではない。ただその領地に足を踏み入れるだけで願いが叶うというのなら、皇帝領を訪れる人間はひっきりなしだろう。
 不思議そうに呟きながら、それでも両手を天に向けて雨粒を受ける彼の隣で、アシェルは全てを知った。
 耳元に、いつか聞いた声が通り過ぎる。
 ――お前の覚悟、とくと見せてもらった。
 ああ、そうだったのか。すとんと胸に何かが落ちて行く。
 アシェルは雨を降らす空に向かい、両手を差し伸べた。手のひらでその雨の雫を受ける。
 透明な雨。綺麗な雨。
 知らぬ内に瞳に、この雨のように透明な雫が盛り上がる。後から後から溢れてくるそれはすぐに張り詰めて、零れた。
「……アシェル?」
 アシェルは瞳を閉じる。白い瞼にも雨は降る。カナンが気遣わしげに声をかけてくるが、アシェルは答えられない。あまりにも多くの事がありすぎて、言葉にならない。平然とそれに返せるだけの精神などとうに擦り切れている。
 ここに辿り着くまで、いろいろな事があった。故郷の人々に殺されかけ、さよならも言えず幼馴染と袂を分かった。全てを捨てて逃げ続け、会う人会う人に死を望まれた。誰にも人間扱いなどしてもらえず。
 けれど、そうして嘆く分の復讐も、確かにアシェルは世界に対して果してきた。自分が生を願うために、他者の生を踏みにじってきた。アシェルが死ねば救えたはずのたくさんの人々、それを見捨ててここまで来た事は、忘れてはいない。
 どんな清浄な雨に触れても洗われるはずなどないこの手。
 それでも、もうようやく全てが終わったのだ。
 世界はこれから変わるだろうか。殺されるべき者として殺されてきた贄たち。彼らの命を、いつか誰かが拾い集めてはくれないだろうか。
いつかまたこんな時が会った時には、今度こそ世界のためにただ一人を罪人と呼んで全てを押し付けるのではなく、一人一人の幸福のために世界が努力してはくれないだろうか。
 今はただ雨が降る。
 全ての生き物の上に、等しく雨は降る。
 その雨は滾る怒りを冷やすような雨。
 その雨は熱を持つ傷口を癒すような雨。
 その雨は凍える身体を温めるような雨。
 その雨は寂しき耳朶を慰めるような雨。
 その雨は乾いた唇を潤すような雨。
 
 それは等しく世界に降るもの。誰の身にも、等しく。

 権利は与えられて、人はいつか報われるだろうか。わからない。確証もない。それでも人は願うことをやめない。数多の犠牲を払いながら。
 この行動の結果は、自分たちの思いは報われるだろうか。
 わからないけれど、雨は等しくこの身にも降る。
 アシェルは目を閉じたまま、ゆっくりと左手を青い空から透明な雨が降るその天へとかざした。
 そっと瞼を押し開ける。視線の先にはまっすぐと伸びた手の、その甲が見える。
「烙印が……」
 カナンの驚く声を聞かずとも、伸ばした手に傷一つないことをすでに彼は知っていた。アストラスト人特有の白い肌の左手には、染み一つない。
 ノクタンビュールの烙印もすでに消えている。
 アシェルがここまで来てようやく掴んだものだった。たくさんの人を死なせて多くの犠牲を出して、それでも見せ掛けだけでない正しさを求め。
 世界のために死ぬべき贄ではない、ただの、普通の人間であるという何の変哲もない手を、アシェルは自らの力で取り戻した。
 手を伸ばして空を見上げながら、涙を零したアシェルの顔にもようやく仄かな笑みが浮ぶ。全ての傷が癒えたわけではないし、自分がやってきたことを思えば顔を合わせられないような人もいくらでもいる、それでも。
 雨は優しく等しく、そして時に残酷に――。
 繰り返し繰り返し、それは世界に降り注いでいく。
 アシェルは雨を降らす空に向かい、両手を振り上げた。
「ありがとう!」
 隣に立つカナンが怪訝そうな顔をする。
「本当に、ありがとう!!」