薔薇の皇帝 序曲(1)

薔薇の皇帝 序曲 01

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 さぁ、この命を使って、お前に呪いをかけよう。

 白い瞼の下、過ぎ去った悪夢は日々彼のもとをおとなう。この目を抉り出してしまえばそれが見えなくなるのではないかと思いその可能性に縋って実際に眼球を指で刳りだしてみたところ、眼窩が酷く痛んだだけだった。目などあってもなくても瞼の裏の記憶に残る惨状は、いつも心の深い部分を踏みにじるように夜毎訪れる。
 忘れられないのは、千切れた手足。鋭いが鉄の刃物に比べればもちろん切れ味の悪い牙で容赦なく食いちぎられた、それ。斬りおとされた指がただただ無惨に転がっていた。
 血の海に鎮座する朱金の宝玉、白い肌のどこも紅く染まり、もとの色が見えない。藍色は血を吸って黒く、砕けた骨から覗く潰れた臓腑、美しい顔立ちの半分が壊れた人形のように、えぐりとられ……。
 心が絶望に染め上げられ、いつもそこで絶叫する。そこで目を覚ます、いつもそれを繰り返す。
 寝台に上半身だけ起こし、目元を掌で押さえた。先日抉り取った眼球も今は元通りに癒えている。
 癒す必要もない自分の傷はこんなにもあっさりと癒えるのに、本当に取り戻したいものは取り戻せない。
 毎晩毎晩、地獄の記憶を繰り返す。夜毎彼を殺すたびに、自分の中のどこか深い部分もざっくりと切り裂いていく。切り裂かれた傷口からは骨が覗き、血が止まらず、傷口が腐り膿んでいく。
 病んでいく。
 このままでは、戻れなくなる。頭のどこかでわかっているのに、悪夢へと滑り落ちる自分を止めることもできない。
酷い夢だとわかっていても、自分が彼を思い出せるのはもうあの悪夢の中だけだった。不敵に吊り上げた口の端を、悲しげな伏せた瞳を、困ったように下げられた眉を、満面の笑みを、やわらかな微笑を思い出したいと願うのに、いつもそれはちゃんとした形となる前に、緋色の記憶に乱暴に塗りつぶされていってしまう。でも、それも当然なのかもしれない。
彼を殺した自分が、その笑顔を思い出していいはずがない。その微笑みに安らぎを求めるなんて、あまりにもだいそれている。心のどこかでそうわかっていた。
 だから夢の中で、愚かな過ちを繰り返す。愛しい者をこの手にかけ屠るその瞬間、相手の命より己の飢えを優先したその浅ましい罪を繰り返す。何度も、何度でも。
 気が狂って行く。
 音を立てて崩れていく世界、虹色の景色から色彩が消え、全ての物の温度は氷のように冷たい。それも本当はわかっている。崩れていくのはこの世界ではなく、自分の方。
 こんなことをしても何もならないのに。いつもと同じ場面で目覚め、涙の浮いた両目を拭うと彼は己の身体を抱きしめた。震える身体を震える腕で抱きしめたところで、震えは治まらない。ますます酷くなるばかりだ。
 永遠のような荊の螺旋から抜け出せない。
 地獄のように甘美な悪夢から逃げ出せない。
 こんなにも弱い自分が、何故生き残ったのか。その理由が今もわからない。どう考えても納得がいかない。本当に世界に必要だったのは、彼のような存在だったはずなのに。
 死ぬべき者が生きて、生きるべき者が死んでしまった。
嫌だ。気持ち悪い。あるべきものがあるべき場所に納まらない、嵌らないパズルのピースを一つの絵の欠落に無理矢理押し込んだかのような現状が息苦しい。
これが神の告げる運命だと言うのであれば。
自分は、神を信じない。
神に縋らない。
神は何故この自分を選んだのか。もっと他にいくらでも相応しい者はいただろうに。
選んだ者に、何故慈悲を与えてはくれなかったのか。
こんな罪を犯すならば、生まれてきたくなんかなかったのに。
何故自分だったのか。
神に選ばれ、神が遠ざかる。神の代行者。それはもっとも神に近く、遠い存在。
神に選ばれ神に見捨てられた。
「俺は……」
 自らに与えられた運命の意味を、まだ、知らない。