001
皇帝領に雪が降る。
ひらりひらりと、白い花かあるいは蝶のように舞い降りる可憐な雪のひとひら。汚れのない空に降る雪は時に青く見えるほどに清らかで、そして冷めている。
雪は降り続けているが、地面に積もる前に消えてしまうのがほとんどだった。時折積もることもあるが、それは珍しいことなのだ。
雪の積もらない地面は、見事な一面の薔薇園だった。血のような、とも紅玉のような、とも形容される味わいぶかい深紅の薔薇が咲き乱れている。一つ一つが子どもの顔の半分ほども大きさのある薔薇だ。その茎に生える棘は気まぐれで、それに刺される者と刺されない者は決まっているのだとまことしやかに囁かれている。
薔薇は夏の花だ。しかし、今の皇帝領には雪が降っている。では今この地域が冬と呼ばれる季節に入っているのかと問われれば、そうでもない。
四季を通じてこの土地、薔薇大陸と呼ばれる大地、皇帝領には雪が降る。そして薔薇が咲いている。重さのない音を吸い込む白い青い雪がしんしんと降りしきる中で薔薇は咲いている。穏やかな気候の中で花は冷たく凍り付いて、なお清い香りを放つ。
ここはそういう場所なのだ。
薔薇大陸《皇帝領》。
それは皇帝の意に従う土地。この土地は代々の皇帝の人格や力の影響によって姿を変え、主に相応しい姿をとるのだという。
先代の皇帝、大地皇帝デメテルが世界を治めている頃、この土地は青い空の下虹色の花畑が白亜の宮殿を抱く美しい土地だった。
しかし今の皇帝領は違う。灰色というよりは白銀に近い不思議な曇天から青白い雪が舞い降りる薔薇の花園。その中央に漆黒の居城が威容を誇る様子は美しくないわけではないが、それを見た者の胸に去来するのはどこか倒錯的で、それでいて寂しい風だった。
アケロンティス。それはこの帝国の名であり、世界そのものの名でもあった。世界は一つの帝国なのだ。当然のようにその頂点には《皇帝》なる存在がいて世界を支配せしめている――はずであった。
しかし今は違う。
「デメテル様、この書類をどうぞ」
「ありがとう」
本来皇帝がペンを執り仕事を行うはずの執務室にいるのは、黒髪の若い女性だった。慣れた様子で作業するものの、しかし彼女は現在の皇帝ではない。
「本当に……よろしいのでしょうか?」
彼女に仕事を頼んだ執政官の一人が、机に積まれた書類の山を眺めながら申し訳なさそうな顔をした。それはデメテルと呼ばれた女性に対するものでもあり、彼女に仕事を押し付ける原因となった人物に対する後ろめたさと、その反対の苛立ちが多分に入り混じったものである。
「仕方がないわよ。状況が状況だからね。あなたたちが本来仕えるべき薔薇皇帝が執務を行えるような状況になるにはもう少しの時間と、何かのきっかけが必要でしょう。それまでは僭越ながらこの私が代行をまかされているのだから、あなたたちは気にしないで仕事を進めていいのよ」
「ですが……」
執政官が困惑するとおり、デメテルと呼ばれた女性――本来はプロセルピナと呼ばれるべきであろう――は、ここで仕事をするべき者ではない。
彼女の代わりに玉座に座り、執務室で山のように積まれた書類に目を通しサインをしなければならない存在は本来別にいるのだ。だが、今のその人物がとても執務などこなせる状態ではないためにプロセルピナが今はその役目を代行している。
もともと彼女は、現在の皇帝が玉座につくまでその座に座っていた先代の皇帝だ。執務に関しては慣れたものだった。城に仕える人々との連携もとれているし、彼らはかつての皇帝であり全世界的にそこそこに穏やかな治世を敷いたデメテル帝である彼女を慕っている。しかしそれでも新しい主が行うべきことを一切行わないという異様な状況は城中に不安を与えている。
「デメテル様、新しい皇帝陛下は……」
側に控えていた侍女の一人が、耐えかねたように口を開く。隣にいた別の侍女が嗜めるが、プロセルピナは気にすることもなく不安な顔をしたその侍女に答えてやった。
「詳しくは言えないけれど、まだ相当精神的に参っているわ」
「お医者様が毎日大変だと仰っていました」
「ええ、そうね。だから皆、もう少し、もう少しだけ我慢してくれる?」
滞りそうな執務に関してはこうしてプロセルピナが代わりに書類に判を押し代行しているが、それだけで全ての問題が片付くわけでもない。皇帝が皇帝として世界中の国家に向けて顔出しして済ませなければならない催しや儀礼が山ほどあれば、それ以上に皇帝領を暗鬱にさせる問題もある。
普通であれば神の代行者たる皇帝に反逆などする者がいるはずもないが、今回の皇帝には誰も予測できない不測の事態が絶えずつきまとっていた。世界の空気を不穏にする出来事の一つに、シュルト大陸の武の国、世界最強の軍事国家として名高いエヴェルシードの一貴族が新皇帝の即位を認めず、戦争を仕掛けてくるという噂がある。そしてプロセルピナが知ることには、それは紛うことなき事実だった。
エヴェルシードの侯爵、クルス=ユージーンが新皇帝の即位を認めず排斥戦争を仕掛けてくる。しかも、新皇帝は何の事情か、世界に己の顔を晒さず即位の式典もまだ行われていない。城の中の雑事は前皇帝が引きうけ、新皇帝は己の殻に閉じこもり続けていると言えばその側近く仕える者たちは誰だって不安になって当然だ。
自らも少なからぬ環境の変化と自身の変化、そして何より気がかりな存在のことより疲労しているプロセルピナだが、それでも周りの彼ら彼女らにこれ以上の不安と虞を抱かせないように、できるだけ優しい声音を心がけて言った。
「もう少しすれば……必ず、薔薇皇帝は立ち上がるはずだから」
彼女は知っている。新皇帝、ロゼウスは必ずこの世界へと立ち上がる。絢爛豪華にして残酷たる己の物語を始め、終わらせるために、艶やかなその姿を世界に見せつけるだろうと。彼は間違いなく、神に選ばれた皇帝なのだ。
ただ、その奥でこうも思っている。
確かにロゼウス帝は神に選ばれた運命の王子。その治世は素晴らしいものとなるだろう。
しかし、優れた王が決して優れた人格である必要はないのだ。
逆に言えば、優しい人間が良い為政者になるのではないということ。そして誰が残酷で誰が優しいのかなどと言う基準は、常人が思うほどに単純なものではない。
世界に望まれ、神に望まれた皇帝。
だが自ら望んでその立場になったのではない彼が真に皇帝として覚醒したとき、果たしてこの世界にもたらされるものは光であるのか、闇であるのか、それとも――。
◆◆◆◆◆
彼は白い瞼を半分だけ持ち上げ、部屋の天井を眺めた。漆黒の城の漆黒の部屋の中、天井ももちろん闇色をしている。
「まぁ、何にせよ出してもらえてよかったですね」
気のない口調で淡々とそう言い放ったのは、彼の世話を命じられた金髪の少女だった。人形のように美しいその少女は翡翠の瞳を、寝台の中でぼんやりとしている少年に向ける。
「ジャスパー王子」
金髪の少女ローラがそう呼びかけると、寝台の中にいた少年はようやくのろのろと視線を彼女の方へ向けた。
「もう……王子ではありません。僕は公的にはローゼンティア王家と縁を切っているのですから」
「ああ。そうでしたね。確か初代皇帝シェスラート=エヴェルシードがエヴェルシード王国を創りその王と皇帝を兼任して一年ほどはしゃぎすぎたために、皇帝と王を兼任してはならない、と」
「はしゃ……」
帝国の成立にも関わる歴史をはしゃぎすぎとのあんまりな言葉一つで表わしたローラに、ジャスパーが絶句する。
同じ部屋の中にいるこの二人、ジャスパー=ローゼンティアとローラ=スピエルドルフ。歳の近い少年少女ではあるが、しかし二人の間にはいかなる感情もない。お互いに無関心すぎるほどに無関心なのだが、訳あってローラが病みあがりのジャスパーの面倒を見ている。
ローラにそれを命じたのは、彼女の主というわけではないが、この世界の全ての人間の頂点に立つというのだからある意味主なのだろう人物だった。ロゼウス=ローゼンティア。その名からわかるとおり、ジャスパーとは血のつながった兄弟の関係になる。
世界皇帝、ロゼウス=ノスフェル=ローゼンティア。
アケロンティス帝国と言う名の世界を治める支配者にして神の代行者と、彼らは親しい。ジャスパーにとってロゼウスは兄であるし、彼自身がロゼウスの選定者だ。ローラはロゼウスの想い人の侍女として長年仕えていたために、ロゼウスとも知己である。
だからこそ二人は現在皇帝の居城にいるのだが、それは二人が二人とも望んだ、最高の結果というわけではない。
皇帝の代替わりともなれば多少の問題や争乱はつきものだが、今回のロゼウスの即位に関しては特に、歴代の皇帝も経験したことのないような事変が沸き起こった。否、起こったと過去形にするのは正しくない。問題は今でも起こり続けているのである。
ロゼウスを即位させようとする勢力と、彼を玉座につけまいとする勢力が争った。その際に、多くの血が流れた。三つの国を巻き込み四つの種族を巻き込んだその争いはそれぞれの国内の無辜の民をも奈落に叩き落したが、それ以上に当事者である彼らの未来から光を奪ったのは一人の少年の死であった。
シェリダン=エヴェルシード。
ロゼウスの想い人。
もとはエヴェルシードの国王であった彼はロゼウスが皇帝になるために必要な存在として、玉座を争った決戦のその日に亡くなっている。それ以来、皇帝となるべき存在ロゼウスは精神に変調をきたした。亡くなったシェリダンを想うあまり、ロゼウスは自殺を繰り返し、そして周囲の人間に暴力を振るう。
その被害者は主に、未来をみる力を持ちながら運命を自分の都合のいいように捻じ曲げようとした弟、選定者ジャスパーである。他にも、シェリダンを悲劇的な運命に巻き込んだ者全てを、ロゼウスは憎んでいる。
そして会話は冒頭の「出してもらえてよかった」に繋がる。
「ロゼウス様のお怒りもそろそろ解けたということかしら」
ジャスパーが上半身を起こすのを手伝い、その身体に包帯を巻きながらローラがやはり淡々とした気のない調子で言った。
「……いいえ」
二人しかいない、騒々しさとは程遠い静かな部屋だというのにそれでも消え入りそうな声で、ジャスパーは否定を唇に乗せる。
「兄様は……まだ、全然。僕を出したのは、ただ単にあれに飽きて、次の苛みを思いついたからでしょう」
「そう」
ジャスパーの悲痛な表情や声を気にする様子もなく、ローラはその身体に包帯を巻きつける。
ローゼンティア人とは吸血鬼《ヴァンピル》、その一族特有の血の通ってないかのような白い肌に白い包帯を巻きつける。包帯を巻かれる腕や脚は、細い。ジャスパーのその華奢な手足の付け根に、無惨な紅い傷痕がある。
それは彼の手足がつい先日まで斬りおとされていた痕だった。ロゼウスに執着するあまり運命を捻じ曲げようとしたジャスパーは、最愛の兄の怒りをかった。ロゼウスはジャスパーの手足を斬りおとすと、狭い箱の中に閉じ込めて一月ほど放置していたのだ。
おかげでいくら蘇り可能な吸血鬼であり、不死の皇族でもあると言ってもジャスパーの疲労は激しい。一か月間狭い箱の中に身体を折り曲げられ、斬りおとされた自分の手足と共に詰められているのは辛かった。常人ならばとうに気が狂っていてもおかしくない。いや、狂わないはずがない。自らの血の匂いに窒息し、やがては傷口に蛆が湧いてくるおぞましい光景。なのに死ねない。
ようやく繋がった手足にまだ感覚が戻ってこない。ここまで来ると、世界の支配者である皇帝の一族の証たる不老不死はもはや苦しいだけである。
肉体的にも精神的にも激しい責め苦から、ジャスパーは先日ようやく解放された。狭い箱から出され、斬りおとされた手足は膿み腐った傷口を元通りに魔術で癒され繋げられた。
けれど彼は知っている。ロゼウスの拷問がここで終わりではないことを。これはまだ序曲、前哨戦なのだ。これから永い永い時を、ロゼウス=ローゼンティアという皇帝の治世が終わるまでジャスパーは地獄の責め苦を受け続けることとなるだろう。
「あなたも大概可哀想な方ですね」
ジャスパーの手足に包帯を巻きつける作業を続けながらローラは言った。何しろ両手両足全てを根元から斬りおとされたのだ。いくら魔術で一通り軽く繋げられているとは言っても、その傷全部に包帯を巻きつけるのは大掛かりな作業だった。
「そう……ですか?」
はじめの頃こそ宮廷の医師に処置を任せていたが、それももういらないとロゼウスが断った。そして暇ならばそのぐらいやればいいとローラにジャスパーの看病をする役目を任せた。ローラはロゼウスの部下であって部下ではない。真の主は別の人間だ。ロゼウスが直接彼女を預かっているとは言えない今、本人の了承もないまま気軽に命令を出すなどということはしない。
ローラとしても元通り侍女として細々と立ち働くのも精神的に億劫であれば、かといってすることが全くないのも心の虚ろを広げていくだけ。
だからジャスパーの看病でもしていればと言われたとおり、ローラは彼に与えられた寝室に赴き、その包帯交換を行っている。
ジャスパーをこんな目に遭わせたロゼウスが、彼の健康の回復を心から願うわけはない。手当てなど適当でいい。苦しんでいても放っておきたくば放っておけ。そんな非人道的な投げ遣りさで与えられた任務を、ローラも淡々とこなす。
それでもいくら人形じみている少女だと言われようともローラも人間で、ただ黙々と作業を続けるのは退屈に過ぎた。人は何日も動かず喋らず静止したままでいることなどできないのだ。どんなに嫌いあっている相手とでも世界に二人きりであれば人は口を開かずにはいられない生き物なのだ。
同じ空間にいて始終だんまりと言うのにも飽きて、ローラはとりとめもないことを唇に乗せる。ジャスパーの包帯を替えながら可哀想だと言ったことに特に意味はない。ただ、紅く、縫い痕も生々しい四肢切断の傷口を見ていればそれが幸せだろうとは到底思えないからそう評したまで。
しかし意外にもジャスパーは自分のそんな境遇を不幸だとは想っていなかったようだ。ローラの言葉にぱちくりと深紅の目を瞬かせると、ことんと首をかしげるようにして口を開く。
「幸せですよ、僕は」
微笑を刻んだ唇は、おそらくとうの昔に病んでしまっている。
「だってどんな扱いでも、兄様も僕も、お互いに生きていますから」
何でもないような当たり前のことを告げるという口調、それ故に無神経なその言葉は、ぴり、とローラの神経を刺激した。
生きている。彼らは。
彼女の愛する主人であった少年は死んだのに。
「僕は、どんな扱いでも、兄様がそこにいてくだされば幸せです」
狂った恍惚を浮べ微笑むジャスパーの顔を見ながら、ローラの中で凶暴な感情が荒れ狂う。そこにもまれる小船のような理性も良心もとうに転覆してしまっている。後には鉛色の空だけが残り、他には何も留まらない。
全てが沈むだけ。
何も残らない。だから何も感じない。
幸せ、と吐息に乗せて囁いたジャスパーの横顔を眺めながら、ローラは包帯を丁度いい長さに切るために持っていた鋏を逆手に持ちかえる。
「ロゼウスさえいればいいの?」
彼女もとうに病んでいるのだ。主君を失ったあの日から。
「ええ」
微塵の躊躇もなくただうっそりと笑ったままジャスパーが頷く。幾人もの人を不幸にして得た血まみれの現在。それでも幸せだと。
でもローラは不幸だった。
ロゼウスがジャスパーを憎むのと同じように、彼と同じ人を愛していたローラにとってもジャスパーはともすれば憎しみの対象となるだろう。
彼女は鋏を振りあげる。
「そうですか」
そしてその鋭い切っ先を、遠慮なくジャスパーの癒えかけの腕の傷口に差し込んだ。