薔薇の皇帝 序曲(1)

002

「ええ? ジャスパー王子が重傷? 警備は一体何をやってるんですか」 
「いえ、エチエンヌ殿、それが……」
「はぁ? ローラが――――」
 報告を受け、エチエンヌは一瞬だけ顔色を変えた。しかし動揺したのは本当にその瞬間だけで、すぐに自分を取り戻すと連絡をしにやって来た兵士にてきぱきと指示を出した。
本来なら彼以外の者やもっと上の立場のものに指示を仰いだ方がいいだろうが、この場合エチエンヌとリチャード以外でまともな指示を出せる人間は皆無に近かった。皇帝としてのロゼウスの仕事を全て肩代わりしているプロセルピナに、内輪の揉め事の片付けまでさせるのも忍びない。
「はぁ」
「大丈夫か?」
この皇帝領でそこそこの権力を持ち、エチエンヌ以外で指示を出せる人間、リチャードは彼と同じ室内にいた。ここはエチエンヌの部屋だ。城の一室、皇族に匹敵する権力ある者の部屋を彼らはそれぞれ得ている。
処理こそさっさとエチエンヌは済ませてしまったが、内容に関しては同じ室内にいたリチャードも聞いている。姉の凶行の後始末をさせられたエチエンヌを気遣い、リチャードはポットから新しく彼のために温かいお茶をカップに注いだ。
「ありがとうございます。はぁ……ローラもまた、無茶をやってくれるよ」
「ロゼウス様は?」
「先にどうするか聞きに行ったけど『ああ、そう』の一言だけだって。だから代わりに王子の治療と部屋の片付けだけ頼んでおいた」
「そうだな。それがいい」
 ロゼウスはジャスパーに対して酷薄な態度をとり続け、庇う様子がないどころかそもそも彼を責め苛む張本人なのだ。今更ジャスパーがようやく繋がった腕をローラに斬りおとされたところで積極的に助けようとするとは思えない。
 ローラと同じくもとはシェリダンの部下であったエチエンヌとリチャードの二人。彼らはシェリダン亡き今、ロゼウスの直属の部下、側近として皇帝領に住んでいる。執務も何もかも放り出して狂気の自殺とジャスパーやハデスへの暴行を繰り返す新皇帝ロゼウスの扱いにもとからの皇帝領の臣下たちは恐れおののき手を焼いていることもあって、少しでもロゼウスに干渉することができるエチエンヌやリチャードの存在は早くもこの土地で皇帝の側近としての地位を固めつつあった。
 本来なら皇帝の側近としてつくのはその家族や、知人であることが多い。ロゼウスと彼らは確かに知己ではあるが、それこそがまず他者の眼から見ては不自然でもあった。皇歴三〇〇四年現在の帝国では、国から国への移住はそう多いことではない。旅や移動を生業とする旅芸人や商人、よほど交易の活発な港地域、交通の要所などの生まれでもなければ、人は他国人と関わらないのが普通だ。しかしローゼンティアもシルヴァーニもエヴェルシードもその類には当てはまらない。
 ローゼンティアに至っては大陸最東端の魔族の国としてほとんど鎖国状態のようなものであったのに、どうやってその国出身の皇帝が隣国エヴェルシード人のリチャードはともかく、シルヴァーニ人のローラやエチエンヌと出会ったのか。皇帝の経歴を知らない皇帝領の使用人たちの間では一つの謎とされている。
そう、薔薇の皇帝ロゼウスは帝国において謎の存在とされているのだ。
 今現在のロゼウスは精神がまったく安定しておらず、人前に出られるような状態ではない。そのため即位の式典や各国の王たちへの顔見せもまだだった。かと思えば、謎とされるはずの新皇帝に正式な戴冠も終わらぬこの時期からすでにエヴェルシード貴族ユージーン侯爵が反旗を翻して皇帝領侵略の準備をしている。だが、何故彼が新皇帝に反旗を翻したのかを知る者は少ない。
 ロゼウスの家族であるローゼンティア王族、彼らはロゼウスが皇帝の座に至るまでの戦いの中でほとんどが死に絶え、生き残り今は即位して女王となったロザリーも口を閉ざす。エヴェルシードにおいてはロゼ王妃がロゼウス王子であることを知る者自体がまず少なく、そして例えそれを知っていたとしても、国を追放されたシェリダン王の行方を気にする者も身内以外にいないであろうから真実は広がらない。そもそも第四王子としてドラクルに故意に人脈を広げないよう囲われて育てられたロゼウスという存在自体が隠されていたようなものなのだから、直接彼を見知った者でもなければロゼウスに関する情報は今では広がりようがないのだ。
 真実と一連の出来事を知っている者たちにとっては今更話題にするようなことでもないが、そう改めて考えてみれば、ロゼウス=ローゼンティアとは謎多き存在だ。
 下手に彼を侮れば痛い目を見る事はすでに実証されている。
 皇帝領近い国の王族や貴族は地理的に有利な条件を生かして、新皇帝が即位するという噂を聞きつけてすぐに謁見を申し込んだ。各国の王族や貴族というものはどれだけ有力者との縁故を築けるかがその世界で上手く生きていけるかの鍵であるからだ。中には気の早い貴族などがいて、新皇帝が十七歳の王子だと聞くや否や自らの親族の娘と娶わせようとする者まで現れる始末。
 しかしその全てに対して、ロゼウスは面会を断った。謁見を無為に断られるほど相手の貴族王族にとって不愉快なこともない。早速各国の王族貴族を敵に回したロゼウスだが、問題はこの後である。
 自分を相手にしない新皇帝に業を煮やした近隣国の王の一人が、皇帝の礼儀知らずを盾に皇帝領に不服を述べてきた。執念深く、そしてロゼウスの恐ろしさを知らないその王の訴えが連日伝えられる鬱陶しさに、ついにロゼウスがキレた。まさしくキレたとしかいいようがない。
 皇帝の城にまでやってきたその王を問答無用で半殺しの目に遭わせたのだ。
 むしろロゼウス自身としては殺す気だったのだろう。怖いもの知らずで無謀なその王の命がまだあるのは、たまたま近くにいたプロセルピナが必死でとりなしたからだった。それまで歴代最高の力を持つと言われ、新皇帝の即位と共に死ぬという慣習じみた運命を裏切ってまだ生きている先代皇帝。その彼女が必死にロゼウスの機嫌をとり助命嘆願するのを見ていた他の貴族たちは、新しい皇帝には一切の常識もこれまでのようなやり方も通用しないことを知った。下手に機嫌取りなどとしようものなら、その瞬間に殺されるということも。
 世間にまだ披露目をしない新皇帝のその素顔。彼がどのような者なのか、ロゼウスを知らぬ者たちにとってはまったく何もわからない。
否、今のロゼウスがわからないのは、何も彼らに限ったことではない。
「ねぇ、リチャードさん」
「どうした?」
「僕たちさ……っていうかロゼウスさ、これからどうするんだろ」
「……さぁな」
 エチエンヌやリチャードといったロゼウスの側近たちにも、今の彼の行動は先が見えなかった。先も何もロゼウスは自らの命も未来もいらないと日々泣き叫んで狂ったように自殺を繰り返すのだ。決して死ねない不死の皇帝の体で。不老不死である限り彼が死ぬことはないのに、彼の頭にはそれしかない。目標のない人生とは辛いものだ。それが単純に夢や希望がないということではなく、ただ生きるということを許容しない絶望であれば尚更だ。そのロゼウスの側に仕えるエチエンヌやリチャードたちも、自らの身の振り方をどうするべきか覚悟を決められずにいる。
「なぁ、エチエンヌ」
「ん?」
 リチャードはエチエンヌの分だけでなく、自分の分のお茶も淹れながら目の前の少年に尋ねる。
 エチエンヌは少年だ。紛れもなく。そんな当たり前のことであり、これまでと同じように少年である彼について今更言及するのも傍から見れば滑稽かも知れないが、それでもリチャードは尋ねる。
 少年から「少年」になったエチエンヌへ。
「何故お前は、その姿をロゼウス様からいただいた?」
 言葉の上では何も変わっていないように思えるが、両者には大きな違いがあった。これまでのエチエンヌは十一、二歳の少年であった。女性であればこのぐらいの年頃は幼女と表現して差し支えなく、少年でなければ子どもとただ評される年頃だろう。だが今、リチャードの目の前にいるエチエンヌは十五、六歳の身体をした「少年」としか呼び様のない人間だった。
「それは……別にいいじゃん。大人になりたいっていうのが、僕とローラの昔からの願いだったんだし」
 エチエンヌの双子の姉であるローラと弟と同様に実年齢に相応しい十五歳の身体をロゼウスから与えられている。
「それは知っている。だが、今になってだろう。お前たちのその決断が、すでに道を決めているように私には思える」
「それならリチャードさんも一緒でしょう。ロゼウスからあなただって不老不死をもらったんだ」
「ああ」
「ねぇ、リチャードさん。妙に迂遠な言い回しは止めようよ。そうだよ、僕は願っている。そしてあなたも願っているんだ。シェリダン様に再びお会いできるその日を」
 人間の魂は生まれ変わるのだという。
 その日を待っている。何百年何千年かかるかわからないその時を、待っている。普通の人間であればとうてい一人の人間が生まれ変わるのを待つには足りない永い永い時を、ロゼウスという皇帝の力に賭けてただ、待ち続けている。
「シェスラート=ローゼンティアはロゼウスに。ロゼッテ=エヴェルシードはシェリダン様に生まれ変わった。なら、ありえない話じゃない。シェリダン様の生まれ変わりに会うことも」
「だが、あの方は始皇帝候補と違う、魔族とも違うただの人間だ。生まれ変わったからといって、再び私たちをお会いになられるかはわからない」
 そもそも人間は前世の記憶など持って生まれてくることはない。思い出すこともない。
「わかってる。それにいくら皇帝が不老不死だからって、その治世は無限ではない、どんなに良い治世をした王だってだいたい数年から数百年前後で退位してるってわかってる。シェリダン様の生まれ変わりに会える確立なんて万に一つもないって。でも、それでも」
 ローラは言ったのだ。あの方が生まれ変わるのを待つと。
 その姿は鏡映しのエチエンヌ自身の姿だった。砂漠で砂金を探すような可能性に縋って、かの人が生まれ変わるのを待つという。
それは途方もない狂気。
それでも人は願う。
「問題は、ロゼウスなんだよね」
 エチエンヌがふと眉を曇らせた。
 それが愚劣な生き方とはいえ、エチエンヌやリチャードはこの世界でみっともなく生にしがみついて生きて行く覚悟を決めた。だが、彼らの運命の中心に居ながらまだその在り方をはっきりと定められない者がいる。それは皇帝であるロゼウス自身だ。
 エチエンヌは冷め始めた紅茶のカップを口元に運ぶ。
 どんなに悲しくても、苦しくても人は腹の減る生き物だ。シェリダンを失った悲嘆にくれてもエチエンヌやリチャード、あのローラでさえ食事をしないということはありえない。
 大切な人が死んでも呼吸はできる。
 大切な人が死んでも食事をとることができる。
 生とはこの世の残酷なのだと知った。そして。
「ロゼウス、あれからずっと食事をとっていないんだって?」
「ああ。私が知る限りではまだ一度も」
 シェリダンを殺したというその日から、ロゼウスは一度も食事をしていない。もともとヴァンピルである彼の生態は人間とは違うが、それでもあれは異常だった。
 覚悟を決める決めないなどという前に、ロゼウスはまだ、自分がシェリダンを殺してしまったことに苦しんでいる。
 愛している人間をその手にかけるのは辛いことだろう。わかっているがエチエンヌたちは同情などしない。ただ困ったものだと思うだけだ。何故なら彼が望まずに殺してしまった相手は、エチエンヌたちにとって何より大切な人だったのだから。
だがあの状態のロゼウスを憎んでも無駄だと言う事も十分すぎるほどにわかっている。
 彼らが憎まずとも、ロゼウスは自分で自分を憎んでいる。憎み続けている。
 前に進むことも後に下がることもできず、ただ同じ場所で苦しんでいる。それがもどかしい。
「行く先が地獄でもいいから、さっさと立ち直って歩き出せばいいのに」
 ぽつりとエチエンヌは呟く。
 主であるロゼウスがその方向性を決めてくれなければ、エチエンヌたちも動けない。まさかこのままずっと落ち込み続けているわけではないだろうし、何よりいくら才能があろうともそんな人物が皇帝として存在するのは無意味だ。それではロゼウスを皇帝にするために死んだというシェリダンが報われない。
「何かないかな。ロゼウスを奮い立たせるような何かが」
「あの方を奮い立たせるのに、シェリダン様の存在以外何かあると思うのか?」
「ないね」
 八方塞だった。世界は閉塞していく。
 そんな二人が溜め息をつきあっていると、ふいに外から扉が叩かれた。
「あの、エチエンヌ様、リチャード様、実は――――」
 それは、皇帝ロゼウスを帝国の歴史に登場させた最初の事件だった。

 ◆◆◆◆◆

 驚きすぎている侍女が要領を得ない報告をしている途中、その報告内容に関わる当の本人がひょいと顔を出した。
「出かけるよ。エチエンヌ、リチャード。仕度して。ああ、どちらかはこっちに残ってくれてもいいけど」
「は?」
「はぁ」
 背後から気配もさせずに突然現れたロゼウスの姿に、可哀想な侍女が驚いて腰を抜かす。ロゼウスは絶世の美少年だが、人形のように美しすぎるので人間離れした行動をとられると周りの人間の心臓に悪い。
 それは腰を抜かした侍女ばかりにではなく、エチエンヌとリチャードにとってもそうだった。奇行と暴挙への慣れ故に悲鳴をあげて倒れることこそしないが、それまで部屋に閉じこもりいつものように手首を切って血まみれでぼんやりしていた彼が何故、平然と民の着るような服を着て現れ、そんなことを言い出したのか。
「ロゼウス? 一体どうし――」
部屋の入り口に向かい、扉の外のロゼウスに問いかける途中でエチエンヌはふと彼の背後にそれまで隠れていた小柄な人陰に気づく。
「……ダレ?」
 警戒心も露に金の眉を歪めるエチエンヌの険しい表情に怯え、彼とそう歳の変わらない少女がびくりと身体を震わせる。さして気にした様子もなく、ロゼウスは淡々と事実を述べた。
「メイセイツのリリ。彼女から皇帝に依頼だ。メイセイツ王国で起きている宗教絡みの事件を解決し、人々を救って欲しいと」
「はぁ?」
 ロゼウスの説明は端的過ぎて、逆に要領を得ない。ここは自分が勇気を振り絞らねばならないと判断したのだろう、リリと呼ばれた少女がおずおずと前に進み出る。
「あの、実は――――」