003
「いいね。必ず辿り着いて。皇帝領に。皇帝陛下のもとに。大丈夫、きっと助けてもらえる。きっと――――」
だって、皇帝なのだから。
リリは走っていた。自身の体力の限界を越えて、体がはちきれそうになる。肺が破れそうなのはもちろんのこと、熱を持った足が痛い。それでも走る。辿り着くまでは、止まることを許されない。そしてすぐに引き返すのだ。あの人を助けるために。
美しい花畑も、疲れきった少女の足には彼女を阻む試練の一つでしかなかった。皇帝領、皇帝の宮城の足下には花畑が広がっていると聞いた事はあるが、こんな薔薇園だったなんて知らなかった。薔薇の棘が足に食い込み、小さな傷を幾つも幾つも作っていく。それでも走る。
「皇帝陛下」
はらはらと白い雪が降り、彼女の頬を掠めていく。その雪は不思議に重さも熱もなく、ただやわらかい。けれどリリの頬は冷たく、濡れている。涙を流す時間も惜しいと思うのに彼女の瞳から涙が零れている。
「皇帝……助けて……」
残してきた人のことを考えると、心配と不安で涙がついつい零れてしまう。服の袖で顔が赤くなるほど無造作にそれを拭い、リリは走った。
故郷であるメイセイツ王国からここまで、形振り構わずにやってきてどうにか皇帝領にまで辿り着いたのだ。ここで立ち止まっては意味がない。なけなしの路銀、食事すらほとんどとらない日々、泥だらけの衣服、年頃の少女だと言うのに身だしなみに構う余裕もなく、ただただ皇帝に会い、縋り付いてでも願いを叶えてもらいたい一心でリリは走っていた。
けれど彼女の足は、思ってもみないところで止められてしまった。
「通せない? どうしてですか!?」
両側から槍を交差させて道を塞ぐ二人の兵士に止められて、リリは王城の入り口の門に縋りつきながら叫ぶ。馬車や軍隊を通すための広い門ではなく使用人が出入りする用の小さな門だが、人一人通るだけなら十分な広さがある。それでも眼前が槍によって阻まれてはそれ以上進むことができない。
兵士たちにとってこれは職務だ。目の前で薄汚い小娘が偉大なる皇帝陛下の城に踏み込もうとするのを止めないわけにはいかない。
しかしリリにとってはその真面目さが忌々しい。ようやくここまで来たというのにこんなところで時間をとられている暇はないのだ。
「どいて! お願いだからどいてってば!」
少女は懇願し、兵士たちはますます警戒して槍を構え堅く門を閉ざす。なんとしてでも皇帝に会わねばならない。なんとしてでも皇帝に会わせてはならない。
「娘よ! 皇帝陛下にお目どおり願いたくば、きちんと手続を踏め!」
「そんなもの知らないわよ!」
「王国の方でまず王に対し申請の書類を提出して」
「できないわよそんなこと! だって王様とじかに話せる身分なんかじゃないもの!」
「それでも各国の貴族はそうしているのだ!」
「あたしは貴族なんかじゃないわ!」
「お前がメイセイツ人ならその国の貴族や王族のツテを辿って」
灰色の髪に緑の瞳というリリの容姿から判断したのか、兵士の一人が彼女の出身国を見事に当てた。しかしその口から出された故国の名に、リリは感情を揺らされて叫ぶ。
「あんたたちは、メイセイツが今どうなっているか知らないからそんなことが言えるのよ!」
現在のメイセイツが平民が国王に皇帝への謁見申請の書類を提出してくれるよう頼めるような状態であれば、彼女がこんなところに今いるわけはないのだ。
しかしリリの乱暴な言葉に、兵士たちもついに我慢の限界が来たようだった。生意気な小娘としてリリの身体を地面に押さえつけると、その顔の横に槍を突きたてる。
「!」
「薄汚いガキめ! こちらが優しくしていればつけあがりやがって!」
一人がリリの腕を地面に押し付け、もう一人が槍を突き立てている。リリの目の前で鈍色の輝きが地面に埋まっていた。
頭の上で兵士が叫ぶ。
「お前は自分の行動がどれほど礼儀知らずで常識外れかわかっているのか!? 本来皇帝陛下の宮城に、お前のような者は入れられん! この皇帝領の敷地内に足を踏み入れることが許されただけでもありがたく思え!」
ここの兵士たちにも当然、新皇帝がとある国の王を半殺しにしたという噂は届いている。否、もはや噂などというレベルではなくそれは紛うことなき事実。
そんな皇帝のいる城に、こんな無作法で汚れた娘を通したとなればどうなるか。次に危ないのは自分たちの首だ。兵士たちはそう考える。
リリの方ではそんなこと知らず、自分を押さえ込む兵士たちに向かって叫ぶ。
「どうしてよ! 皇帝陛下は全ての権力の頂点に立ち、また全ての権力から一線を画した万民の主なんでしょ! だったら身分なんて関係なく、あたしの話も聞く義務があるはずだわ!」
「貴様、皇帝陛下になんということを!」
「離してよ! あたしはどうしても皇帝にお願いしなきゃいけないことがあるのよ!!」
頬が地面にすれ、一言しゃべるだけでも痛い。掴まれた髪がぶちぶちと音を立てて抜けて行く。くたびれた衣服は擦り切れて破れそうだ。
漆黒の城を目前にし、こんなところで自分とさして変わりない立場の平民の兵士たちに邪魔をされてしまうことが悔しい。けれどリリの瞳には不屈の光が宿り、力の強い男たちの乱暴にも怯えることなく、怯まぬ瞳で彼らを睨む。
「皇帝に会わせてよ!」
「駄目だと何度言ったらわかる!」
「ここまでしたら、もう不審者扱いでいいんじゃないか?」
二人組の門衛の兵士たちのうち、これまで主に口を開いていたのは最初に返答した一人だった。やる気なさそうに槍だけを義務的に地面に刺していたもう一人の無口な男がようやく口を開く。
「え? おい、待てよ」
これまでリリを怒鳴りつけていた男の方が呆気にとられている。
「皇帝陛下に非礼を働こうという輩だ。処分しても問題はないだろう」
「だ、だがこんな子どもを」
「そんなことは関係がない」
男が地面から槍を引き抜く。もう一人の兵士が驚いてリリを押さえつける手を地面から離した。リリはその隙に素早く身を起こした。
平民が貴族や王族、ましてや皇帝などと言う偉い人に逆らってはいけない。そんなことは兵士たちもリリももちろんわかっている。だがそこではいそうですかと言って殺されてやるわけにもいかないのだ。
彼女は駆け出し、兵士たちが彼女に気をとられて槍を離した一瞬の隙に門へと縋り付いた。無駄なことだと告げる理性を無視して必死に叫ぶ。喉を裂くようなこの声が、どうか城の中にいる皇帝にも届くように。
届きさえすれば、あとはもうどうなっても構わない。
「皇帝陛下!」
兵士たちが彼女を止めようと駆け出す。リリはすぐに再び取り押さえられた。それでもめげずに叫ぶ。
「助けて!」
男の一人が槍を振り上げる。それでも叫ぶ。
「あの人を助けて!」
神がこの世にいないとは思わない。だが故国があんな状態である以上、素直にその御心を信じることもできない。
あるいはラクリシオンやシレーナといった大陸で普及している宗教の信徒であれば無心に祈れたのだろうか。
わからない。私の神はいない。
「――何をしている?」
だが祈りはここにある。
「皇帝陛下!」
兵士の男たちの驚きの声と共に、刺されようとした一瞬恐怖に目を瞑ったリリは恐る恐る瞼をあげた。
目の前に知らない人がいる。後姿では、白銀の輝きと尖った耳の先しかわからない。
白い手が兵士の突き出した槍を、羽にでも触れるように簡単に止めている。
兵士たちはこの人物を皇帝と呼んだ。
(あれ? 今の皇帝って、黒髪の女の人だって聞いてたけれど……)
王族には新皇帝の報せが届いていても、小国の民の隅々にまでその報せは行き届いていない。リリは己の思い描いた皇帝像と違う目の前の人物の持つ色彩に一瞬、戸惑いを浮かべた。
しかしそんな戸惑いは次の瞬間、存在自体が優美であるとしか言いようのない振る舞いで振り返ったその人の顔を見て消え去る。
白い肌に白銀の髪、そして滴る血もかくやの深紅の瞳。恐ろしいほどに造作の整った顔立ちは少年とも少女ともつかない。リリより僅かに年上だろうという若さだ。
「あ、あなたが……」
リリの言葉に、その人は無造作に頷く。その声音までも透き通った硝子の鈴を鳴らすよう。
「そうだ」
一陣の風が吹き、皇帝領の大気を振るわせる。花のように舞う白い雪を纏わせたその姿は、不思議と艶やかに毒々しく、それでいて神々しい。
「俺が、この世界の皇帝だ」
一人の少女の祈りが、薔薇の皇帝を動かす。
◆◆◆◆◆
「で、どういう風の吹き回し?」
ローラはジャスパーの看病にならぬ看病役、リチャードはプロセルピナの補佐として城に残り、ロゼウスはエチエンヌだけを連れてリリと共にメイセイツ王国へと向かうことにした。
メイセイツ王国。皇帝から言えばバロック大陸西方部メイセイツ地方。その領主がメイセイツ公爵、メイセイツ王となる。
大陸の西端にあるかの国は、皇帝領とも程近い。リリが乗合馬車を使い、自分の足を酷使してでも何とか皇帝領に辿り着けたというのは、この距離にも関係がある。
国土は大陸一般と言われる大きさで、特に目立った産業もない。民も王族も慎ましやかに暮らしを送る国だったが、今は少し違うという。
「ある宗教が、王都で流行り始めたんです」
「宗教?」
「はい」
馬車の中で、エチエンヌとロゼウスはリリから事情を聞いていた。ロゼウスに関しては城の門前で彼女を助け出した時に簡単に説明はされているが、それではわからないこともある。もう少し詳しい話を、とやることもない馬車の中で求めた。
長旅で身も心も疲弊していたリリは目的地に着いてすぐにまた出発することになったが、その辺りのフォローはロゼウスであり抜け目はない。侍女に言いつけてリリの簡単な旅支度を調えさせ、湯浴みで汚れも落とさせた。そしてハデスの魔術により体力気力を回復させ、一刻も早くメイセイツに戻って国を何とかしたいと願うリリの求めに応じた形だ。
メイセイツの少女、リリは十五歳。メイセイツ人らしい灰色の髪と緑の瞳を持ち、黄色い肌をしている。顔立ちはぱっとせず、どこにでもいそうな普通の少女だった。その彼女が何故皇帝の助けを求めて皇帝領にまでやって来たかと言うと。
「二月ほど前からでしょうか、メイセイツである宗教が流行り始めました・・・・・・それは、異国から来た賢者だと名乗る者が始めたものです」
リリの話すところによると、始めは誰も相手にしなかったというその賢者が始めた宗教が今では爆発的に広まり、今では一国の国教となって国を動かそうともいう勢いらしい。まだ正式に認められてはいないが、国王もその魅力にとり憑かれているというのだ。門前でリリが国王に申請書の依頼をできるはずもないと叫んだのはこのことである。国王が傾倒する宗教に反対する旨を当の国王に伝えられるはずがない。
その宗教の特徴とは。
「死者を……蘇らせる?」
「はい」
異国の賢者が始めたというその教えの中に、信ずる者は死者をも蘇らせるという奇跡の業がある。
「教主様……とあたしたちは呼んでいました。その教主様は数々の奇跡を起こしました。その中の最も大きなものが、死者を蘇らせること」
「そうか、それで……」
「え?」
エチエンヌは何故ロゼウスが今回のリリの頼みを聞くことにしたのか、ようやく得心が言った。
皇帝には死者を蘇らせる力がある。だが、それはたった一人においては使えない。
皇帝は愛する者を蘇らせることができない。
最愛の者を自らの手で蘇らせることのできないロゼウスは、その奇跡の業の話に興味を持ったのだろう。だからリリを伴ってメイセイツへ向かうことに決めたのだ。
しかしそれを今目の前で、真剣に皇帝の善意を信じている少女に言うわけにもいかない。エチエンヌは不自然にならないよう別の言葉をひねり出して繋ぐ。
「えーと、影武者とか、実は生き返った人の姿を誰も見た事がないとかそういうのではなくてですか?」
こめかみに指を当てながらエチエンヌが尋ねるが、リリはいいえと首を横に振る。馬車の振動に合わせて、彼女の頬を縁取る髪がゆらゆらと揺れた。
見た目こそ地味に偽装しているが皇帝の馬車は足が速く、そろそろ皇帝領を抜けようとしている。薔薇大陸とバロック大陸を繋ぐ大橋へと差し掛かった。虹色の光で作り上げられた魔術の橋だ。
「教主様は人々の目の前でその奇跡を行ったんです」
「生き返らされたのはどんな人? その人が死んだのはどんな状況だったんですか?」
「ある程度の医学知識があり、死に至った要因が要因であればその場で蘇生可能だったという場合もあるしな」
エチエンヌの問に重ねて、ロゼウスも言葉を添える。現在の世界の教育制度は統一されておらず、リリがどれほど知識を持っているのか、学識に優れているのか彼らにはわからない。むしろ、王子であったロゼウスはともかく奴隷育ちのエチエンヌもなかなか変則的な人生を辿っているためにその知識量に関する思いは複雑だ。だが彼は軍事国家に一時期身を置いていたために、怪我の治療などその手の知識に関しては別の国で育った子どもよりは格段に詳しいだろう。
二人の懸念にも関わらず、リリは存外にしっかりとした口調でロゼウスたちの言いたいことを瞬時に察し答えた。
「はい、第一の犠牲者に関しては、その場での蘇生は不可能な状況でした。彼は……体格のいい屈強な男の人なんですが、その人は馬車に跳ねられたんです」
「跳ねられた?」
「はい。運悪く六頭立ての馬車で、体中の骨が折れ曲がり、胸が凹み、大量の血を流し、即死であることは一目瞭然でした。ですが、教主様が……」
話しぶりを聞くに確かにその状況ではまっとうな医学では蘇生も何もないだろう。リリの表情が曇る。
「教主様が死者の体の脇に跪いてその顔に触れ何事か行うと、全身の傷が痕もなく癒えて生き返ったんです」
「傷が癒えたって……」
話を聞いて、エチエンヌがぽかんとする。リリの語った様子ではとてもケチな手品程度では誤魔化せない状況のようだが、それでもその教主とやらは死者を蘇らせたという。
「……教主とは、どんな人物だ? 顔は? 男か、女か、若いか、老人か、醜いか、美しいか」
「ロゼウス?」
一見これまでとは何の関係もないようなことをロゼウスは問いかけた。リリが律儀に答える。
「あ、いえ、教主様に関してはいつも白いヴェールを被っておられて、その顔を見たものはいないんです。でもたぶん、若い男の人だと言う話です。薄灰色の髪の、でも肌がメイセイツ人にしては白すぎるので、多分異国の人だと言われてて――」
「灰色の髪……黒ではなく?」
「はい」
黒髪、と聞いてエチエンヌにもロゼウスの意図が掴めた。
「黒髪って……ロゼウス、お前は相手が《黒の末裔》だと思っているのか?」
確かにそれなら、とエチエンヌも納得だ。《黒の末裔》は魔術に優れた一族で、先代皇帝プロセルピナ、その弟にして帝国宰相ハデスを筆頭に強力な力を持つ者が多い。他民族にほとんど魔力を持つ者が生まれず、普通は魔術など見た事もない者からすればそれは十分に奇跡の業に見えることだろう。
「ああ、そう思ったんだけど、どうだろうな。《黒の末裔》に死者を蘇らせるほどの力はないし」
「そういえば、そうだったね……」
いくら魔術を使えるとは言っても、魔術師は神のように万能というわけではないのだ。《黒の末裔》なら大怪我をした人物の傷を一瞬で治すことぐらいできるだろうが、完璧に死んだ人間を生き返らせることはできない。
「本当に死者を蘇らせることができるんだったら、凄いんだけどなぁ……」
「ええ、そうですね」
エチエンヌのぼやきに対し、リリが表情を暗くして頷く。
「どうしたの?」
「はい……あの、あたしの個人的な話をしてもいいでしょうか」
「そういえば、まだお前の話を聞いていなかったな。『あの人』とは誰だ?」
「!」
ロゼウスの問いかけにリリがハッと顔色を変えた。
「助けて、と言っていただろう。あの人を助けて、と。お前が助けてほしい相手とは誰のことだ?」
「それは……」
「今更言えないなどとは言わせないぞ。お前はその相手を救うためにここ、皇帝領にまで乗り込んできたのだろう」
長い長い橋を渡り終わり、馬車は皇帝領を抜ける。
意を決した様子でリリは顔をあげた。
「最初からお話してもよいでしょうか。今度はメイセイツの宗教というよりも、あたしの個人的な話、になってしまいますが」
「かまわない。言え」
「ありがとうございます……それでは」
そしてリリは、宗教の問題から少し離れて、けれどそれを契機として彼女自身が味わった危機に関して話し始めた。