薔薇の皇帝 序曲(1)

004

 リリの父親は、メイセイツの学府で教師をしていた。温厚な人柄で人望もあり、子どもたちに慕われている。それが、新興宗教の指導者、教主の目に留まった。
「は? 私が、ですか?」
「ええ、ぜひとも」
 自宅にやってきた宗教関係者と、父親が玄関先で短いやりとりを交わしていたのをリリは見ている。でも内容まではよくわからなかった。父親は彼らの頼みを断ったようで、家族に対してはなんでもないと笑ってすませていたからだ。
 メイセイツで国王までも虜にしたという新しい宗教の名はローデリヒ教。教主の名がローデリヒと言うのだ。国王が彼に入れ込み、その名を奉じることを許可したのだ。
 メイセイツの王妃は数ヶ月前から病に伏せり、危ない状況だったと言う。その王妃が病で亡くなったところに現れ、彼女を蘇らせたのがローデリヒだ。それ以来王は彼を厚遇している。
 メイセイツの王妃は友好国カウナードから輿入れした姫君。政略結婚で得た王妃を王が特に寵愛しているという話はなかったが、まだ年若くこれと言って健康に問題のなかった彼女が突然死ねばメイセイツとカウナードの友好に罅が入る。特に現国王の立場はメイセイツの中でも複雑で、その権力を支えているのはカウナードから輿入れした王妃だというから、彼女に死なれては困るのだろう。王には別に愛人もいると噂されているのだが……。
 そんなメイセイツの事情はともかく、教主ローデリヒは王妃を生き返らせ、彼の名を冠した宗教を奉じることをメイセイツで許可された。その積極的な信者は国王その人であり、国民は反対することも出来ない。大陸の端にあるメイセイツではこれまでバロック大陸で一般的に教えを守られていたシレーナ教が主流だったが、それが今度のことで変革を促されそうになっている。
 国王の後押しはもちろんだが、何より国民にとっては教主による奇跡の業を目の前で見たことが大きな理由だった。教主のもとには連日愛しい者を亡くした信者が押しかけ、生き返らせてほしいと頼み込んでいるという。
 教主はその頼みをほとんど全て聞いているらしく、街中は蘇った死者が生前と変わらぬ姿で歩いているという状況だ。
それでもリリやその家族にとってローデリヒ教は特に生活に関わるものでもなかった頃、それは起きた。
「……そうか、そうだったのか。やはりローデリヒという人物は」
「お父さん?」
 ある日リリが家に帰ると、父が書斎で何か手紙らしきものを眺めていた。
「どうかしたの?」
「いや、なんでもないよ、リリ。私は、少し出かけてくるからね」
 父は慎重に手紙を畳みなおすと懐に入れ、その晩遅くに出かけていった。行き先は家族も聞かされていない。
そして二度と帰ってこなかった。
「あの、お父さんを知りませんか!?」
「先生? ううん、最近見てないよ」
 リリと母は父の姿を求めて街中を探し歩いた。知り合いと顔を合わせては片っ端から話を聞いていく。けれど杳としてその行方は知れない。
 絶望に陥りそうになった時、ようやく父の消息が知れた。
「嘘……」
「あなた!」
 教会の中央に横たわる柩に冷たい身体が横たわっている。
「ご主人を生き返らせてあげましょうか?」
 その時、囁いた教主の声をリリは神の使いではなく、悪魔のようだと思った。
「お願いします! どうか、どうか主人を……!」
 母は一も二もなく顔を隠した胡散臭い教主に縋ったが、リリは無条件に相手を信じることはできなかった。父の遺体はあの日に出かけた時のままの服装をしている。
 だが懐に手を差し入れても、あの手紙が見つからない。
「教主様、これはどういうことですか!?」
「リリ?」
「どうしました? 娘さん」
 リリはまだ幼い。十五歳は子どもだ。帝国の文化レベルという意味で言えば立派に労働力として扱われるが、それでもその馬鹿正直さは、やはり子どものそれと言うしかないのだろう。
「お父さんの手紙は――――」
 父があの日出かける前、手紙を見つめながら教主ローデリヒの名を呟いていたことを彼女は覚えている。父の死に彼らが関わっていないなんてことはありえない。手紙のことを口にすると、教会の関係者がこぞって顔色を変えた。
「そうか。君は知っていたのか――――」
 教主の命令で、リリは母と引き離された。
 教会の地下にある牢獄へと閉じ込められる。
 神を信じる場所の地下に何故こんなものが。あの宗教はおそらくまともなものではあるまい。
 国中が奇跡の人、ローデリヒの登場に沸いていた頃、浮かない顔をしていた父の様子を思い返す。そういえば教会の関係者が家に来た後、父はどこかと連絡をとっていたようだった。その結果があの手紙なのだろうか。
 父は生き返り、教会で信者の一人として働いているという。教師であった彼は街の人に慕われているから、人集めには最適だ。母もリリのことなど忘れたように父と共に教会で働いているという。
 そんなのおかしい。牢の中で叫ぶ彼女の言葉を、教会関係者は聞かなかったかのように徹底的に無視する。彼女に対する扱いは囚人というよりもまるで言い訳を聞かない子どもを反省させるためのそれだとでも思っているようで、誰一人リリが教会の地下に閉じ込められていることについてそう深刻には考えていないようだった。対外的には彼女が何か大変なことをやらかして、その反省のために教会で預かっているとされているようだった。
 リリの中で焦燥と疑念が募る。それはある出来事によって確信となった。教主ローデリヒが彼女に直接会いに来たのだ。
 ローデリヒの傍らには、陰のように体格の良い剣士の男が付添っている。それはローデリヒの奇跡の業によって真っ先に蘇らされた、あの馬車に跳ねられた男だった。
「気分はどうかな? リリ嬢。私の言う事を聞く気になったかい?」
「だったらお父さんとお母さんに会わせて! あたしをここから出してよ!」
「出してあげるさ。あの手紙のことを忘れて、君が言う事を聞くようになったらね」
「そんなこと……っ」
 手紙のことと言われても、リリはその内容自体に関しては知らないのだ。ただそういうものがあったということを知っているだけで。
「君はお父さんが生き返って嬉しくないのかい?」
「!」
 ローデリヒはそう言ってリリを脅す。顔も性別も謎の教主とされているが間近で話してみれば、彼は恐らく成人男性だろうというところまではリリにもわかった。その男が脅しをかけてくる。
「そうか、じゃあ、君にも一度死んでもらおうかな」
「――え?」
「私は死者を生き返らせて自由にすることはできるけれど、生きている人間に好きに言う事を聞かせることなどできないからね」
「あ、あなたは――」
「ローデリヒ様」
 牢の鉄格子ごしに教主が手を伸ばし、リリの腕を捕らえる。恐怖に青褪める彼女を救う形で、外から声がかけられた。
「司教様がお呼びです」
「私は忙しいのだが」
「それが、向こうで問題が起き自分では対処できないと」
「わかった、すぐに行く」
 外からの声に呼ばれて、ローデリヒと剣士は地下から出て行った。ほっと胸を撫で下ろす彼女に、再び声がかけられる。
「大丈夫?」
「あなたは……?」
「僕はフィデル。この教会の下働きだよ」
 ローデリヒを止めてリリを救ったのは、一人の少年だった。同じメイセイツ人だ。リリも顔は知っている。閉じ込められたリリの世話をしていた数人の教会関係者の中には彼も含まれている。しかし言葉を交わしたのはこれが初めてだった。彼の名前を聞いたのも。
顔を出したフィデルの手には小さな鍵が握られている。彼はそれをリリの入れられた牢の鍵穴に差し込んだ。
「ど、どうして」
「こんなの、おかしいと思うから。僕はローデリヒ様のもとで、君みたいな人をいっぱい見て来た。あの方は怖い人だ。僕を拾ってくれた人ではあるけれど……」
 フィデルはそこで顔を歪め、真剣な眼差しでリリに告げた。
「逃げて」
「え?」
「教主様は当分戻ってこない。だから、今のうちに逃げて」
「でも、そんなことしたらあなたは」
「僕のことは大丈夫。このままここにいたら、君は間違いなく殺される。そうやって殺された後に教主様に生き返らされて人形のようになってしまった人たちを、僕は何人も見てきてるんだ」
 フィデルの眼差しは真剣で、嘘をついている様子はない。その、自分と同じ緑の瞳にリリは吸い込まれるように頷く。
「え、ええ」
「だから逃げて。逃げて、どうかこのことを皇帝に知らせて」
「皇帝?」
「うん。あのね、数日前に同じようにここに入れられていた、教師だっていう男の人が教えてくれた。国王様に言っても駄目なことは、皇帝陛下に言えばいいんだって。皇帝陛下はこの世界の支配者だから、きっと願いを聞いてくれるって」
 教師、その言葉にリリはハッとした。それはきっと父のことではないのか。やはり父はローデリヒ教について何かを知ってしまったのだ。だから殺されて、生き返った今でもフィデルの言うとおりであれば人形のように操られているという。先ほどのローデリヒの言葉から考えても、彼の言う死者蘇生は生前の姿そのままに生き返らせるのではなく、まるで自らの手駒とするようだった。
 そんなの許せない。父を、母を、騙されている人々を救わねば。
「でも、どうしてあなたは私のことを助けてくれるの?」
「え? そ、それは……」
 リリはフィデルが困ったような笑顔を浮かべるのを見た。だが、答は得られなかった。それよりも、と彼は再び表情を引き締めて続ける。
「いいね。必ず辿り着いて。皇帝領に。皇帝陛下のもとに。大丈夫、きっと助けてもらえる。きっと――――」
 だって、相手は皇帝陛下なのだから。
 自分たちを救ってくれるはずの人だ。
 それもまた一種の宗教じみてはいるけれど。
 フィデルに言われたとおりに、リリは牢を抜けだす。見張りの目を盗んで教会から逃げ出した。
 早く辿り着き、そして戻らなければ。皇帝を連れてこの地に。そうでなければフィデルの命が危ういことくらい彼女にもわかった。
 どうか、どうか皇帝陛下。
 私たちメイセイツの民を助けて――――。
 見つからないように一度家に戻りありったけの金をかき集め強行軍で皇帝領まで旅をしたリリの努力は実を結び、皇帝が動き出す。

 ◆◆◆◆◆

「ふぅん。じゃあ助けてほしいというのはそのフィデルとかいう者でいいんだな」
「は、はいそうです。あの、あとできれば、お父さんもお母さんも、街の人たちも」
「まぁ、なるようにはなる」
 リリたちメイセイツの民にとっての希望の星、頼みの綱である皇帝は無造作に頷いて、不安な顔をしたリリから外の景色に目を向ける。馬車はもうすぐ目的地であるメイセイツ王国に入るところだ。メイセイツが皇帝領から近いというべきか、神速の馬車が早いというべきか。少女の足で幾日もかかった道のりを馬車はたった一日で駆けていく。
「でも、いいんですか? メイセイツの民はほとんどみんな、その教主という人物を信じているんでしょう? いきなり皇帝が現れて誰も知らない水面下の事件についてお前を裁くとか言い出したら王国で暴動が起きませんかね」
 エチエンヌがリリに向かって尋ねる。リリとしてはこの、金髪緑目のシルヴァーニ人の少年は何故皇帝に対しては呼び捨てで自分に対しては時々敬語なのだろうと不思議に思いながらも頷いた。
「はい……でも、皇帝陛下は絶対ですから」
 帝国においては、何人たりとも皇帝に逆らうことは許されない。
「絶対、ねぇ……」
 エチエンヌが微妙な顔をする横で、二人から眼差しを向けられたロゼウスはリリを宥めるように先ほどのエチエンヌの問に代わりに答えた。
「暴動についてはそう規模の大きいものにはならないだろうさ。俺が適当に上手くやれればね。教主ローデリヒを引き摺り下ろすのは、奴の化けの皮をはいでからにすればいい。正体を現して失望された奇跡の人がどんな扱いになろうと人は構わないものだ」
 あっけらかんとそう言い放ったロゼウスに対し、エチエンヌは意外そうな、リリは不安な眼差しを再び向ける。
 馬車はメイセイツに辿り着こうとしていた。窓の外を流れる景色が段々と緩やかになっていく。スピードが徐徐に落とされているのだ。
「ロゼウス? その言い方だと何か策があるみたいに聞こえるんだけど。英雄を引き摺り下ろすって、相手が本当に死者を蘇らせることのできる奇跡の人だったらどうするんだ?」
「さぁ、どうだろうね」
 馬車が止まった。メイセイツに到着したことを、皇帝領で皇帝に仕える御者が告げる。