006
これでいい。これで。
無人の牢の扉をそっと閉め、フィデルは小さく息をついた。先刻までここに閉じ込められていた少女、リリは逃げ出した。あとは彼女が無事に皇帝領まで辿り着ければ良いのだが……。
「フィデル」
一面識しかない少女を案じるフィデルの背に、冷たい声がかけられた。
「お前、裏切ったな」
「シュッタフス様!」
細身の青年が、いつの間にか音も立てずにフィデルの背後に忍び寄っている。
「わかっているのだろうな。ローデリヒ様に背くというのがどういうことか」
「シュタッフス様、こ、これは……!」
「言い訳ならば、ローデリヒ様の御前で直々にするがいい」
言葉とは裏腹に、シュタッフスは腰にはいた剣を抜いている。白刃の煌きにフィデルが息を飲んだ。
「もっとも、その時のお前は、もうすでに今のお前ではないがな」
(リリ――――!!)
青年が刃を振り上げる。フィデルはきつく目を閉じ、先ほど逃がした少女の名を心で強く唱えた。
どうか、どうか彼女だけでも――――。
空の牢獄に、鉄格子の隙間から鮮血が飛び散った。
◆◆◆◆◆
「大人しくここに入っていろ!」
シュタッフスと駆けつけた数人の僧兵に拘束され、ロゼウスたち一行はローデリヒ教の本拠地へと連れてこられた。王都のほぼ中央にある大教会の地下室には、宗教施設には不似合いな牢獄がある。
本来なら警吏の仕事だろう建造物破壊犯の逮捕は王都内に波紋を呼んでいるらしく、彼らを三人纏めて牢獄の一室に詰め込んだきり僧兵たちは姿を消してしまう。牢番の看守の気配もない。
メイセイツの民は荒事に慣れていないらしく、人々は過剰な怯えようだ。ロゼウスたちが付近の教会や街並みを大怪獣のように破壊して回っているなどという噂も流れているらしく、教会関係者は今頃てんやわんやだ。
そのおかげで、牢にぶち込まれた後のロゼウスたちは落ち着けるわけではあるが。
「さて、と」
黄土色の煉瓦作りの教会の地下、牢獄は狭い。それでも華奢な少年少女が三人横たわるくらいなら十分だ。もっとも彼らは横たわらず、それぞれ土の床に直に腰を下ろして座り込んでいるわけだが。ちなみに洋服が汚れるなどという考えは、教会破壊の時点ですでにない。
埃っぽい地下全体の空気、微妙に感じる寒気、天井に怪しげな染み、灰色の鉄格子には彼らをここに入れた連中がしっかりと鍵をかけていくのを見た。だが。
「僕たち、教会を素手で破壊した男と一緒なんだけどね」
いくら地下室に鍵をかけ鉄格子つきの牢獄に閉じ込めたところで、部屋自体を破壊できれば意味がないのでは? エチエンヌはもっともなことを考えるが、ロゼウスはあっさりと言い捨てた。
「バカなんだろ? 奴ら」
「ははは……」
国全体が戦闘に備えた作りであり、特に王城はどのように攻め込まれてもいいように頑強な岩の要塞となっていたエヴェルシードでの暮らしが長いエチエンヌには信じられないことだが、メイセイツの彼らは本気らしい。この対応からも、メイセイツの人々は人外の力を持つ犯罪者に弱いのだとわかる。
もともとバロック大陸はシュルト大陸に比べて平和だ。それはひとえにシュルト大陸には前述した戦争大好き国家が存在するためなのだが、とにかくバロック大陸の人々が有事に弱いのは確かなようである。
「こっちも見た目完全に子どもだしね。舐められてるのかも」
「そうかもな」
それはともかく、まずはリリの怪我の治療だと、ロゼウスは早速覚えたての使い方で魔術を行う。皇帝として得た全知を用いて行われる術は、リリの身に痛みを感じることのないよう麻酔をかけ、傷を痕も残さず癒し、服までもそっくりそのまま治すものだ。
しかしリリの表情は晴れない。
「エチエンヌ、お前は怪我ないよな?」
「もちろん……その、ごめん、守れなくて」
問われたエチエンヌは前半をロゼウスに、後半をリリに向けて返す。その段になって初めて、男二人は彼女の様子が奇妙に大人しくおかしいことに気づいた。
「リリ?」
ロゼウスが名を呼ぶが、リリは彼の方を向かないまま、力なく首を横に振る。外傷は全部塞いだはずなのに、彼女は顔をあげない。
「もう……いいんです」
「は?」
小さく呟かれた言葉の内容に、ロゼウスは怪訝な表情を浮かべた。
「皇帝陛下、エチエンヌさん……もう、いいんです」
「なんだって?」
「えっと。リリ、さん? それどういうこと? もしかして、この依頼を」
「……はい、取り消してください」
「はぁ?」
ますます怪訝な顔つきになって、ロゼウスはリリへと再度問いかける。ちょっと不機嫌な様子がエチエンヌからは見て取れたが、彼もリリの口から説明を聞きたかったので黙っていた。
「もう、あたしの願いは無駄だったってわかりましたから……」
「願い?」
リリは先ほどロゼウスに治療された腕を、傷のあったあたりをさすった。その仕草と彼女が傷を負った時の様子を思い出し、ロゼウスは一つの結論に至る。
――嘘……嘘よ! フィデル! あなたがどうして!?
あの時、ローブを纏いリリに斬りつけてきた相手、それは彼らとそう歳の変わらぬ少年だったではないか。彼のことをリリはフィデルと呼んだ。
それは確か、リリが危険を冒してまで皇帝領へと駆け込み、助けてほしいと訴えた相手ではなかったか。
「……お前が助けてほしかった相手というのは、あいつか?」
ロゼウスの言葉に、リリがこくんと頷く。エチエンヌが目を瞠り、けれど何も言えないままロゼウスとリリを見比べた。
「あの時、お前を刺した男が、お前が助けたかった相手なんだな?」
「ええ!?」
堪えきれずリリの瞳から涙が零れ落ちる。彼女の顔自体は上げられていないが、頬を伝った雫がきらりと光を反射したのがロゼウスたちの目に映った。
震えてはいるがまだしゃくりあげるとまではいかないか細い声で、リリは自分の推論を語る。
「あの人、たぶん死んだんです」
「何故そう思う?」
「だって、フィデルが……あんなことするはずないのに」
「それは……」
まがりなりにも助けようとしていた相手からの手酷い裏切りに傷つく少女にかける言葉が見つからないエチエンヌは、何をするでもなくおろおろしている。対照的に、ロゼウスはあえて冷徹を装うかのように厳しい声音で更に尋ねた。
「人間は誰しもその場その場で都合の良いことを言って生きているものだ。それがあの男の本性だったかも知れないだろう。何故そう思う?」
「そんなことはありません!」
ぴしゃりと跳ね除ける強さでリリは首を振り、ロゼウスを振り返る。
「あたしはあの時、確かにフィデルを信じました。フィデルが信用に値する人物だと、あたし自身で判断をつけました!」
それは一見、恋や情に流された愚かな娘の戯言なのかもしれない。
しかしリリの言葉には続きがあった。
「皇帝領へ行け、なんて、ただあたしを嵌めるためだけにそんなこと言うなんて思えません」
「それはそうだな」
「あたしは、あたしがわざわざ罠に嵌める程の価値がある人間だとも思いません」
「そうだな。間接的とはいえこの宗教の秘密に近づいてしまったお前を処分するなら、ただ単に殺せばいい。わざわざフィデルとかいう人間を使う理由はない。もとからお前の顔見知りだと言うのであればともかく」
リリは首を横に振った。彼女が牢から逃がしてもらう際にフィデルに感謝以上の信頼を寄せたのはたまたまなのだ。彼でなければ、同じように逃がしてもらっても違う結果になったかもしれない。それはわからない。
だがリリはフィデルを信じたのだという。
彼を救えると、きっと助けられると思ったからここまで頑張ってきたのだ。土の床にぽたぽたと雫が垂れる。
「あたしは――――」
後悔と、例えようのない悲しさがリリの胸を蝕む。しかしそれをぐっと堪え、リリは最後の根拠を口にする。
「それに、教主様が言っていました。生きている人間を操る事はできないけれど、死者なら操れるって――――」
「そうか」
「ロゼウス?」
その言葉に頷くロゼウスの様子は、先ほどまでとは何となく違って見える。エチエンヌがそっと首を傾げた。その次の瞬間。
げいん!
「きゃあ!」
「うわっ! 何やってんだよロゼウス!」
突然何を思ったか、ロゼウスがリリの背中を蹴り飛ばす。
「~~~~~~っ!!」
もちろんか弱い人間の少女相手に全力どころか半分の力も出すわけはなく、リリが痛みを感じない程度に力は調節している。しかし突然の暴挙に蹴られた当の本人は唖然とし、エチエンヌも思わず頭を抱えて呆然とする。
そんな二人のまっとうな困惑も知らず、むしろあえて無視してロゼウスは言った。
「そう思うのだったら、こんなところでめそめそ泣くのはやめろ」
ロゼウス自身も結構よく泣いていることを知っているエチエンヌは、その態度になんだか一言物申したくなった。しかしロゼウスに何事か考えがありそうなので黙っていた。
「お前は相手を信じているのだろう? 相手がお前のことを刺しても。相手がただ自分を裏切ったのではなく人格を奪われ操られているのだとそう考えられるほど、信じた相手なのだろう?」
「は、はい」
蹴られて軽く転がった体勢のまま、つられるようにリリが頷き返す。
「お前は、相手が操られているだけだとわかっているのに、そうしたらもう自分はどうすることもできないだなんて言葉で片付けて諦めてしまうのか?」
「――」
その言葉にリリがぴくりと震えた。緑の瞳に迷いが走る。
「良いことを教えてあげる」
ふいにロゼウスは屈みこむと、リリの耳元に唇を近づけて言った。
「お前の思うとおり、確かにあの男は教主と名乗る男により操られている。それも、一度殺されて――――」
「じゃあ、やっぱり、フィデルは!」
何故そんなことがロゼウスにわかるのかと問うのも忘れ、リリはロゼウスの言葉にまたしても泣きそうに表情を歪めた。しかし彼の言葉はそこで終わりではなかった。
「だが、助ける方法はある」
「え?」
「助ける方法はある。そう言ったら――」
「助けてください!」
間髪いれずにリリは即答した。
「あの人を、助けてください!」
少女の瞳は必死で、とても自分に斬りつけた相手の命についての台詞とは思えない。
「ロゼウス、お前……」
一連のやりとりを聞いていてこちらはこちらで思うことがあったのか、エチエンヌが眉根を寄せる。だが彼らがそれ以上話を進める前に、ロゼウスが唇に指を当てた。
「足音がする」
「!」
地下室の扉に目を向ける。
そこから、一人の男が姿を現した。
◆◆◆◆◆
深い山の中、夜はしんと静まり返っている。掴んだのはその辺りに落ちていた、子どもが両手で抱えるような石だった。
頭より高く持ち上げて、渾身の力で振り下ろす。すると目の前の相手は血を流して倒れた。ぴくりとも動かず、地面に打ちふしている。赤い血がその体から流れ出てじわじわと円を広げていく。血だまり。
咄嗟の自分の行動に、彼は呆然とした。手の中にはまだ重たい石がある。目の前の相手を撲殺した際の血で汚れて。
「……仕方なかったんだ」
口から零れた幼い声は、誰が責める前に勝手に言い訳を口にしていた。
「仕方が、なかったんだ……!」
そして、凶器を投捨てると彼は一目散に逃げ出した。
誰か、誰か助けてと繰り返し願いながら。
◆◆◆◆◆
きぃと金属の軋む音を立てて鉄製の扉を開き入ってきたのは、先ほど見た顔だ。
「シュタッフス様!」
リリが悲鳴をあげて近くにいたロゼウスにしがみつく。彼女にとっては、ついさっき自分を蹴り飛ばした皇帝よりも、一見紳士然としたこの青年剣士の方が恐ろしい。
「何の用だ?」
そんなリリや先程はリリを守れなかったためか警戒を強くするエチエンヌとは裏腹に、ロゼウスは余裕ともただの無関心ともとれる態度でシュタッフスに早々に牢獄への訪問理由を尋ねた。尋ねられた方は顔色を変えないまま、逆に声音だけは不思議そうに言い返す。
「何の用も何も、それはこちらの台詞なのだが。お前たちは一体何の用でこのメイセイツに現れた。何故ローデリヒ様の邪魔をする」
もっともと言えばもっともだが、状況を考えれば今更でもある質問だ。
「お前の眼は節穴か? この娘に見覚えはないか?」
リリを示し、ロゼウスが言う。シュタッフスは僅かに顔をしかめた。その表情が示すところは、やはり、と言ったところだ。
「お前たちは、大地皇帝デメテルの使いの者か?」
「違う」
シュタッフスの方では相手の一挙手一動を見逃さないようにと身構えた質問にロゼウスはあっさりと否定を返す。彼の言葉はつまりロゼウスたちが世界皇帝の関係者ではないかと疑うもので、確かにその通りなのだがロゼウスはプロセルピナに言われたのではなく自分の意志でここに来ることを決めたので嘘は言っていない。
むしろ、今の質問でメイセイツの問題が少しだけ見えてきた。これだけ皇帝領近くにある国でありながら、メイセイツではまだ皇帝の代替わりが伝えられていないのだ。つまり国の上層部がそれどころではないということで、メイセイツはかなり奥深くまでローデリヒ教に毒されているということか。
だが一つの物事に偏り、大局を見ることを忘れた者が上に立つ国は常に破滅と隣あわせだ。今の彼らのように。
「そこの娘は西の街道から皇帝領へと向かうルートを辿ったはずだが」
「でも違う」
「では、シレーナ教、ラクリシオン教の手の者か?」
シュルト大陸に普及しているのはラクリシオン教、バロック大陸ではシレーナ教。これが帝国世界の二代宗教であり、これ以外の教えはほとんど存在しない。否、正確にはこの二宗教が他の宗教の存在を認めないと言うのが正しい。
世界は、国家は、様々な問題を抱えている。
だがとりあえず今シュタッフスの問に答えるとすれば、それはロゼウスたちとは関係のない問題だ。
「それも違うよ」
「本当に」
「ああ」
ロゼウスのあっさりとした態度に苛立つでもなく、シュタッフスは呆れたように小さく溜め息をつく。彼は悪徳宗教の関係者にしては狂的な信仰を押し付け異教徒を弾劾する意志はないようで、ただ事務的に与えられた役目をこなしているだけといった様子だ。
「では、何故お前たちはここに来た」
「この娘に頼まれたからだ。街や自分の両親を助けてほしいと」
あえてフィデルの名前を出さず、ロゼウスはそう告げた。街中でリリがフィデルの名を呼んで取り乱したところを彼らも見ているかもしれないが、それでもわざわざこちらから人質の価値がある人物の名を知らせてやる義理はない。
「では、質問を変えよう。お前は何者だ?」
「その前にこちらも聞きたいことがあるんだけど」
捕虜や囚人のように牢に入れられているにも関わらず余裕を崩さないロゼウスの態度にシュタッフスが不審を覚えはじめた頃、彼は問いかけた。シュタッフスにも少し考えればロゼウスの力があればこの牢をすぐに脱出できるという考えはないようだ。
あからさまな抜けの多い問題だらけの宗教、しかしその教えに弱みを握られ、国の実権を握られている国家。世界は深く病んでいる。
そしてその闇を、生み出しているのは。
「お前はどうして生きている?」
これまで常に平坦な表情を浮かべていた青年の顔に初めて動揺の色が現れる。
「、何をっ!」
「説明は必要ないだろう? お前ももうわかっているのだろう?」
何もかもを見透かしたような笑みでロゼウスが煽ると、青年の顔にはそれまでにはなかった恐怖の色が浮かんだ。
シュタッフスの変貌に、事態を呆気にとられて眺めていたリリとエチエンヌは驚いた顔をする。
「向こうも俺のことはわかっているはずだ。やめたらどうだ? こんな茶番」
「……!」
なおも相手方を刺激するようなことを告げるロゼウスに、シュタッフスはようやく我に帰ったように強い憎悪の視線をロゼウスに向けると、搾り出すような声を漏らした。
「たとえあなたが何者であろうとも、私はあの方に仕えるまでだ……!」
そして地下室に入ってきた時の落ち着きとは打って変わって踵を打ち鳴らすと、彼らを振り返ることもなくシュタッフスは出て行った。