薔薇の皇帝 序曲(2)

008

 部屋の入り口に立っていたのは白銀の髪に深紅の瞳の少年だった。
「お久しぶりです、ノスフェル大公爵ローデリヒ卿」
 嫣然と笑うその顔にローデリヒは見覚えがある。忘れたくても忘れられない、忌々しいあの、
「……ドラクル=ローゼンティア!」
しかし叫ばれたその瞬間、少年は少し吃驚したようにぱちぱちと長い睫毛を瞬かせた。彼の存在感に埋もれて気づいていなかったが、その傍らに立っていた二人、エチエンヌとリリが怪訝そうにロゼウスを見遣る。リリは純粋に知らない名前に驚いているだけだが、エチエンヌは若干複雑な表情をしている。
 ドラクルと呼ばれた当の本人、ロゼウスは小さく溜め息をついた。
「ある程度年齢のいった人って、必ず俺と兄様を間違えるんだよね」
「そんなに似てたっけ?」
「昔の兄様を知ってる人からすればね」
 そのやりとりにローデリヒの方でも違和感を覚えたらしく、彼はまじまじとロゼウスの姿を見つめる。
「お前は……」
「ロゼウス=ローゼンティア」
「第四王子か」
「ええ、一応」
 真実は母である第一王妃クローディアの不貞により第一王子であった彼だが、ドラクルがまだ今のロゼウス程の年齢だった頃にローゼンティアを出たローデリヒは知らない。公式には今もブラムス王の子女は十三人、第一王子はドラクルとなっている。
 そう、メイセイツでローデリヒ教なる宗教を起こしたその人物、教主ローデリヒとは。
「ローゼンティア人……?」
 銀より灰の強いような灰銀の髪に、赤い瞳。ローブに隠していた耳の先は尖っている。
 それは間違いなく、ロゼウスと同じローゼンティア人の特徴だ。
「せめて偽名くらい使うべきじゃなかったんですか? 一発でわかりましたよ」
 最初からお見通しだったという表情で、特に感慨もなさそうにロゼウスはそう告げる。
「はっ! お前などに何がわかる。苦労知らずの王子様が」
 一方彼らは彼らで、正体がバレたその瞬間からローデリヒはあからさまな敵意を隠そうともしなかった。何の因縁があるというのか、ロゼウスを殺意のこもった眼差しで睨みつける。彼の傍らにいるシュタッフスは事態に半分ついていけないらしく戸惑った顔をしているが、主であるローデリヒに従うという姿勢を崩すことだけはなさそうだ。
 そんな彼らの事情はどうでもいいものとして、ロゼウスはただ自分のペースで話を進める。
「楽しいですか? 叔父様。こんな風にわざわざ世界の反対側までやってきて怪しい新興宗教なんか始めちゃって、シュルト大陸の人間なら魔族が関わっているんだろうなと一発でわかるようなちゃちな茶番で民衆を騙して、そこにいる、一度死んだ男を人形のようにそばに置いて自分だけの王国を作るのが」
 頬に人差し指の先をあてて、わざとらしく可愛い子ぶりっこで尋ねるロゼウスの態度に、ローデリヒの眉間に皺が寄る。
「叔父さん、て」
「ヴァンピルは見た目の年齢と実年齢が吊りあわない。相当若く見えても、あの人は俺の叔父、今年で七、八十歳だったっけ」
 外見年齢は三十前後の美青年に対し、ロゼウスは事も無げにおっさんとそう評する。エチエンヌの疑問にあっさりと答えたロゼウスは、再びローデリヒへと視線を戻した。
「やりすぎましたね。叔父様。そこの男のことはともかく、国の中枢にまで手をかけるなんて。バレたらどうなるかわからないあなたでもないでしょうに」
「……おやおや、何のことかな、ロゼウス王子」
 これまでロゼウスに一方的に軽い口調で詰られているだけに見えたローデリヒが、一転して口の端を吊り上げた。
「私の正体を知るものはいないんだよ、ここにいるシュタッフス以外には。何故ならロゼウス王子――貴様はここで死ぬのだからな!」
 行け、とローデリヒの指図に従い、シュタッフスが短剣を抜いて襲い掛かってきた。狭い室内で振り回すには、長剣は得物として大きすぎる。だが短刀やナイフと言ったものの扱いにおいては、この場で右に出る者のない人間がもう一人いる。
「――エチエンヌ」
「ああ」
 ローデリヒがシュタッフスを差し向けるのと同時にロゼウスは傍らに控えた少年の名を呼んだ。金髪の華奢な、下手をすると女の子のように見えてしまう少年はまったくもって強そうには見えない。だが彼はロゼウスに淡々と応えると、斬りかかって来たシュタッフスを自らのナイフとワイヤーであっという間に取り押さえてしまう。
 男の身体を彼自身の勢いを利用して投げ飛ばすと、片手で床にその首を縫いつけ、もう片方の手でナイフを突きつけた。
「シュタッフス!」
 この展開はローデリヒにも予想外だったらしく、先程の余裕らしきものは一瞬で崩れた。ロゼウスがそんな叔父を冷めた眼差しで眺める。
「ご自分が肉体派でないのを理解されて他人を差し向けたところまでは評価しますよ、叔父上。だけど相手が悪すぎましたね」
「黙れ!」
 シュタッフスが弱いわけではない。政務や駆け引きには疎くとも、彼の武人としての腕は中々だ。しかし、ロゼウスの言うとおりに相手が悪すぎた。他人の目からはか弱げな少年に見えても、エチエンヌは武の国エヴェルシードで鍛え上げられた元国王の懐刀。シェリダンの依頼で諜報から暗殺まで請け負っていた彼が、生半な相手に引けを取るわけはない。
「くそっ」
「じゃ、さっさと観念していただきましょうか、叔父様。俺もあなたなんかにかけている時間がもったいないもので」
 先日まで自らのやるべき仕事を放り出してプロセルピナに押し付けていたくせに、ロゼウスはいけしゃあしゃあとそう言った。ローデリヒたちはもちろんそんなこと知らないのだから別にいいのだが、シュタッフスを押さえ込みながらエチエンヌはやはり複雑だった。
 毒づいたローデリヒが、しかし往生際悪くまたも配下の名を呼ぶ。
「フィデル!」
「え?」
 出てきた意外な名前に、それまで力と戦いで進む事態に口出しできず見守っていたリリの口から驚きが零れた。
 ロゼウスが目元を険しくする。しかしその険しさは厄介な、や面倒な、ではなくただただ冷たい、言うならばローデリヒを蔑むような色だった。
 続き部屋からやってきた少年の体を無理矢理引き寄せて、ローデリヒがその首筋に隠し持っていた短剣の刃を突きつける。
「フィデル!」
 思わず飛び出そうとしたリリの身はロゼウスの手によって片手で簡単に引きとめられてしまった。
「皇帝陛下!」
「今飛び出すな危ない。……心配せずとも、最後にはちゃんとあいつもお前のもとに返してやる」
 リリにはそう言い聞かせ、ロゼウスは侮蔑を隠しもしない表情を浮かべるとローデリヒの方へ視線を戻した。
「馬鹿ですか? 叔父様。こちらにも人質がいるのに、そんな真似が通用するとでも?」
「現にお前の横の娘は動揺している。それに私にとっては、シュタッフスは人質にはなりえない」
 エチエンヌに取り押さえられたままのシュタッフスが、そのままの姿勢で身を硬くした。
「ローデリヒ、様」
 彼の様子に逆に敵であるはずのエチエンヌの方が動揺してしまう。
「な、だって仲間なんだろ?」
「そうだよ。私の可愛い駒だ。だがこのほど使えないことがわかった。ならば、もういらない」
 いらない、と。実際に言われてみた人間でなければわからないだろう残酷な響を持つ言葉でもってシュタッフスをあっさりと切り捨て、ローデリヒはますます強く、フィデルの首筋に刃を突きつける。リリが悲鳴を押し殺した。
「やはり、あなたはそうなのか……」
 自国で権力を握りそこね、義兄であるブラムス王の不興を買った男、当時、王太子の地位にあったドラクルに代わりに役職を奪われたと逆恨みしたまま国を出奔したローデリヒ=ノスフェル。
「でも、そういうの好きですよ」
 くす、と小さくロゼウスは笑う。
「ローゼンティアでもともと高い地位にあり、しかし己の無能ゆえに失脚した。自国を恨み、かといってあの国の中で成り上がる度胸も持てない。何も知らない人間たちを騙したぶらかして、世界の反対側では一国を形成するほど当たり前なヴァンピルの能力を使って金儲けに信者集め……」
 はぁ、とロゼウスは溜め息をつく。
「やっぱり、くだらないな。ヴァンピルなんて。俺とあなただけかも知れないけれど」
 フィデルに刃を突きつけたままのローデリヒに向かい、ロゼウスはゆっくりと手をさしのべる。
「来るな!」
「別に腕を伸ばしただけで足は動かしちゃいませんよ。それにこの距離じゃどうせ届かない」
 だけど、差し招くように手を伸ばす。
「今更この場で言っても無意味にも程がありますけれど、俺は結構あなたが好きでしたよ? たぶんドラクルもそうだったと思います」
「何を戯言を!」
 意図のわからない台詞ながらも反射的な反発を覚え、ローデリヒが叫ぶ。
「本当ですよ? だって俺もドラクルも他人に簡単に引き摺り下ろされるようなたまじゃありませんし、自分が安全圏にいる上であなたのように自らの力の限界まで足掻いて足掻いて足掻いて、無様なまでに足掻いているあなたを見ているのは、あなたは惨めですけど嫌いではなかった」
 遠慮のえの字もなく言いたい放題言ったロゼウス。七歳前の姿しか知らなかったとはいえ、ローデリヒにもこの少年はもともとこんな性格だったろうかという疑問がそろそろと芽生え始める。同じ顔のドラクルはまだ物腰が柔らかく対人態度も丁寧だった。これは一体誰だろう。
 すっとロゼウスは瞳を細め、彼を射る。幸か不幸かローデリヒはロゼウスという王子を名前程度しか知らなかった。だから彼が昔と、何がどう違うのかわからない。
「俺たちが……俺が、何故ここに来たのか考えなかったんですか? 叔父様」
 ロゼウスはシレーナ教やラクリシオン教が送り込んだ間者ではない。デメテルの遣いでもない。だが、彼は彼の目的があってこの国に来た。
 先程から何度も繰り返しているが、ローゼンティアはメイセイツから見て世界の裏側だ。そんなところからわざわざ第四王子が国を空けて出てくるわけがない。
ローデリヒが持っている情報は古いが、それ以上に問題なのは彼自身の考えのなさだ。
「ローゼンティアから私を捜索するよう命令でも出たのか?」
「そんな自信過剰に陥らずとも、あの国では十年前からあなたの行方なんて全く気にしておりませんご心配なく。俺がここに来たのは極めて個人的な理由です。あなたを裁いてほしいと依頼を受けたため」
 ロゼウスの個人的は、正確には個人的とは言わないだろう。それはリリから世界皇帝への嘆願だ。
「邪魔者も役に立たない者もさっさと始末する。いいやり方ですね、叔父様。血の繋がりをとても感じますよ。だって俺は俺の欲のために、俺の兄であるドラクルを殺しましたから」
「何?」
 訥々とこれまでと調子を変えず極当たり前のような顔でロゼウスが語った言葉にローデリヒはにわかに反応できなかった。殺した? 誰が、誰を? ロゼウスが、ドラクルを? あの、他に比類なき才能を秘めた完璧なる王太子であった、彼を?
 そしてそれとこれがどう繋がるのか。
「そしてあなたも殺します。叔父様、あなたはやりすぎた。俺はあなたが嫌いではありませんけど、愛と正義は別物なので」
 
 彼は何者なのだろう?

 ローデリヒは血の繋がりの上では甥に当たる少年を前に得体の知れない戦慄を覚えた。
 ロゼウスがぱちりと指を鳴らす。その瞬間、教会全体を貫くような衝撃が建物に走った。
「きゃぁああああああ!!」
「うわぁ!?」
「なんだ!?」
「わああああああああ!!」
 教会中のあちらこちらから悲鳴が上がる中、ローデリヒの目の前の少年だけが平然としている。艶めいた紅い唇が囁く、吐息で織り上げたような言葉をヴァンピルの聴覚が聞き取った。
「さぁ、裁きの時間だ」