薔薇の皇帝 序曲(2)

009

 ローデリヒ教会に雷が落ちた。
「うわぁああああ!!」
「教会が!」
 外からその光景を目撃していた人々は、絶望の叫びをあげる。目を射るほどに白い光が狙いすましたようにローデリヒ教の総本山たる大教会の建物に落ちたのだ。激しい破壊音と共に建物が崩れ壊れる。だが粉塵が消え去り、彼らが次に眼にした光景に対してあげた叫びは前以上の驚愕だった。
「え……」
「教主様!」
「みんな!」
「一体何が起こったんだ……!?」
 教会の建物は崩れた。それだけであればまだしも、瓦礫の破片すら跡形もない。雷が落ちたくらいでそこそこの面積を持つ教会がその場一体から消え去るなんてことあるわけがないのに、人々の眼前では確かに教会であった建物の破片すら見受けられない。
 そして、建物の被害はそれだけ酷くありながら、中にいた人々は傷一つ負っていないのだ。誰も彼もが自分の様子がまだよく分かっていない様子で、呆然と顔を見合わせている。
 急に見晴らしの良くなってしまった辺り一帯に、少年の通りよい声が響き渡った。
「聞け! メイセイツの民よ!」
 それはつい先刻、教会の破壊容疑で捕らえられたはずの少年だったと幾人が気づいただろうか。目立つ黒服の少年は衆人の耳目が集まると、より一層声を張り上げる。
「ここにいるのがローデリヒ教教主、ローデリヒ=ノスフェル! 見ての通りのローゼンティア人だ!」
 ロゼウスが指を指した先にローブを纏わぬままその容貌をさらしたローデリヒがいる。教会が破壊された瞬間の隙をついてエチエンヌの拘束から逃れたシュタッフスがその身を支えていた。
あれだけ手ひどいことを言われ、切り捨てられようとしていた青年が今もまだローデリヒを支えている。だが、皮肉にも側近である彼が側にいると言う理由が、あれがローデリヒだと示されても余所者の言葉に半信半疑だった人々への後押しをすることとなった。
「ローデリヒ、様、シュタッフス様……」
「教主様……本当に……」
 壊れた教会の近くで祈り始めた人々は、初めて見た教主の素顔に呆然としている。紅い瞳もさることながら、その尖った耳は魔族の特徴だ。バロック大陸の人々は魔族に馴染みが薄く、ローゼンティアの吸血鬼なんて見た事もない人間がほとんどだ。だからヴァンピルの能力も知らない。
 ローデリヒが利用したその心理を、ロゼウスが今一つ一つ暴いていく。
「お前たちはこの男に騙されていたのだ。死者の蘇生は神の御業などではない! ローゼンティア人の持つ能力の一つ、それも」
「言うな!」
 叫ぶローデリヒを無視し、偽りの神を弾劾する。
「その蘇り能力は、不完全だ」
 その言葉に人々の視線が一斉にローデリヒの方を向いた。
「お前たち、蘇った人々を見て異様だと思ったことはないか? 何かがおかしい、と。ローデリヒによって生き返らされた人物は皆、異様に彼の言う事を聞くようになったのではないか? ――この男のいう神の御業とは、死者を蘇らせる能力などではない! 死者の身体に自らの血を注ぎ込んで媒介とし、自らの操り人形とするだけの術だ!」
 《死人返りの一族》ノスフェル家。
 だがそんな簡単に死人は返ってきてはいけないのだ。
 ノスフェル家の人間が他のヴァンピルよりも死者の蘇生能力に優れているのは本当だ。だが無尽蔵にそんなことができる能力者などいない。死人を蘇らせることは難しい。
 ローゼンティアでもっとも優秀なヴァンピルであるロゼウスさえも、かつて死んだカミラを蘇らせようとして加減を間違えている。彼女は確かに蘇ったがその力は生前と全く同じと言うわけにはいかず、ヴァンピル並みに強靭な身体能力までも彼女に与えてしまった。
 ロゼウスでさえそうなのだから、彼より劣る他のヴァンピルが無理に死人を蘇らせようとしたらどうなるのか?
「今、その哀れな操り人形の糸を解いてやろう……」
 結果は、ロゼウスが指を鳴らした次の瞬間に示された。
「きゃぁああああああ!!」
「いやああ! あなたぁ!」
「お父さん死なないで!」
「やめてくれ! もうわしからこの子を奪うな!」
 街中で、道の往来で、あちこちの家の中で悲鳴があがる。ロゼウスが、ローデリヒが死者蘇生に見せかけて作ったノスフェラトゥの糸を切った途端、彼らは醜く崩れ落ち死者へと戻ったのだ。
 怪我人は体中の怪我がまた開き、病人は蒼白な顔色に戻る。
「フィデル!」
 ロゼウスの傍らでもリリが叫んだ。先程ローデリヒに取り押さえられていたフィデルも今は骸となり、彼らの足下に転がっている。
「あ、ああ……」
 涙を浮べ膝から崩れ落ちたリリをちらりと一瞥し、ロゼウスはまたローデリヒへと視線を戻す。そして彼の横のシュタッフスにも視線を送ると、口を開いた。
「結局あなたが完全に生き返らせることができたのはその男だけと言うことか」
 ローデリヒが一番初めに救った青年、シュタッフス、彼だけは死体に戻ることなくそこにそのまま立っている。
 だが同じノスフェルの血を引くロゼウスだからこそわかる。彼の蘇生も、また不完全だった。
「一蓮托生の運命か」
 ローデリヒが強くロゼウスを睨みつける。彼自身にもわかっているのだ。自らの術の不備、己の力不足が。
 確かに今もこうして息をしているシュタッフスは他のノスフェラトゥ――ヴァンピルがさして労もなく作ることができる死体人形に比べればよっぽど上等の部類だ。ローデリヒは彼の蘇生には他の者より手間をかけたのだろう。
 しかし、そのシュタッフスの命は、常にローデリヒによって握られている。 
 何故なら未熟な術者によって呼び戻されたシュタッフスの命は、ローデリヒが死んだ瞬間彼もまた共に消える運命となっているからだ。
「黙れ……」
 常の穏やかな説教とは違う怒気を孕んだ剣呑なローデリヒの声に、それまで事態を呆然として眺めていた街の人々が、思い出したように口々に彼の名を呼ぶ。
「教主様! どうかお助けください!」
「もう一度神の御業を!」
「主人を生き返らせてください!」
「お願いします!」
「ローデリヒ様!」
「うるさい!!」
 だがローデリヒは人々の訴えを一喝で封じた。
「教主様……」
 力ない失望と絶望の入り混じる呟きが辺りに漣のように満ちていく。
「だから、言っただろう」
 幼子に言い聞かせるような調子でロゼウスが人々の心にトドメを刺す。一度ローデリヒの顔を見てしまえば目の前の少年と彼が同族であることなどすぐわかる。王族であるロゼウスの語り口は彼をそうと知らない者の耳に対しても威厳あるように届いた。
「この男は、お前たちメイセイツの民を騙していたんだ」
 欺き、甘い顔をしてメイセイツから富と権力を吸いあげていたのだと。暴露するロゼウスの言葉に、人々が一斉に批難の眼差しを向ける。
 だが、街の人々だけでなく教会関係者も皆ロゼウスの言葉に呑まれている中ただ一人だけ、ローデリヒを擁護しようとする者がいた。
「そんなものは嘘だ!」
 大事な教主を背後に庇い、シュタッフスはロゼウスに負けじと声を張り上げる。
「口頭で告げた言葉など証拠として信じるに足りるものか! 現に私は生きている!」
 ローデリヒが奇跡の業で一番初めに蘇らせた青年、シュタッフスはまだ生きている。
「だが、街の人々は死体に戻った」
「お前が何かしたのだろう! 魔術のわからぬ私たちを上手く騙し、ローデリヒ様に罪を着せる気だろう!」
 そんなことはないのだと誰よりもよく内情を知りながらそれでもあえて口にしたシュタッフスの言葉に、街の人々の幾人かはまた心を揺らされる。彼らには魔術がよくわからない。それに、これまで信頼していた教主が自分たちを騙していたと考えるよりならば、突然現れた怪しい黒服の少年が罠をかけたのだと考える方が精神的に辛くない。
「どう、なんだ……」
「教主様、信じていいのですか……」
 彼らの様子をぐるりと見回して溜め息をつくと、ロゼウスは再び口を開いた。
 まったく、人の心というのは、本当に面倒なものだ。
 だがこれから先皇帝を名乗るのであれば、その面倒さにきちんと向き合わねばならぬのだろう。
「そんなに言うのであれば、見せてあげようか。《私》の力を」
「ロゼウス?」
 普段彼の使わない一人称の変化に、エチエンヌがぴくりと反応する。しかしロゼウスは彼を振り返らず、天高く片手を上げると、何事か唱え始めた。
「全知全能、万象を司る神の代行者の名において命ずる、――」
 その声、その言葉に力が宿り、それは目に見える光となって、メイセイツ中の死者たち、先程ロゼウス自身の手によって死体に戻らされた彼らを包み込んでいく。
 崩れ落ちた肉片、開いた生前の傷も見る間に癒えて元通りの肌となると、彼らはぱちりと目を開けた。そこかしこで悲鳴や歓声があがった。
「リ、リ……?」
「フィデル? ……フィデル!」
 ロゼウスたちの傍らでも、フィデルの遺体を抱きかかえていたリリの腕の中でフィデルが目を覚ました。不思議そうな顔をした少年を少女が抱きしめる。
 死者を蘇生することなど、今のロゼウスの力をもってしてみれば簡単なことだった。
「死者は還らない」
 しかし己の手で演じた奇跡とは裏腹に、ロゼウスの表情はどこか暗い。
 瞳が氷のように冷たく凍てついている。
「死者は還らない……そんな簡単に、取り戻してはいけない」
「皇帝陛下?」
「ロゼウス」
 リリとエチエンヌ、間近にいた二人はロゼウスの呟きを聞きとがめ、それぞれ異なった表情を向ける。リリは不思議そうに、エチエンヌは悲しそうに。
「リリ」
 ロゼウスは己をこの国へと招き寄せることとなった少女へ呼びかけた。
「本当は人間は、そんな簡単に蘇ったりなんかしてはいけないんだ」
「陛下……」
「二度と取り戻せないから、どうしても還すことができないから、だから……かけがえないんだ」
「ロゼウス」
 こんなにも簡単に蘇らせることができた、ロゼウスにとって多くは顔も知らない人間たち。
 あんなにも求めて、それでも決して取り戻せないたった一人。
 取り戻したいと、生き返らせたいと今も願っている。どうしても、どうしても蘇らせたい。
 だがもし何らかの方法で彼を取り戻すことができてしまったのならば、その後はどうなるのだろう。
死んでも簡単に生き返らせることができる。一度でもそう思ってしまったら、自分は今も感じているこの痛みを忘れてしまうのではないか。
それは命を冒涜する行為。
「一度だけだ」
 リリを見つめながら、その腕の中で不思議そうにしているフィデルを見つめながらロゼウスは強く言い聞かせる。それは彼女たちというよりも、まるで己に言い聞かせているようであった。
「今回だけだ。こんな大人数を一度に生き返らせるのは。あとはもうやらない。死んだ人間は生き返らない。それでいい」
 この世界で、今この瞬間にもどこかで理不尽な理由で人は死んでいる。それはその一人を愛する者にとってはとても受け入れがたく不条理なものかも知れないが、だがそれでも死とは覆してはならない原初の真理なのだろう。
「今回は俺にも無関係じゃないから、だから手を貸したまで」
 ローデリヒのことはローゼンティア王国の管轄だ。ヴァンピルが起こした問題は同じヴァンピルが解決する。だからこそロゼウスが直接出向いたまでで、そうでなければロゼウスはもはやこの手の問題に関与しないことを決意した。
 目の前に救える人間がいても、救わない。
 なりたかったのは神ではない。
 一番大事な人を救えなかった。だから、救わない。
「神は慈悲深いから、全てを見捨てる」
 誰かを救い誰かを守り誰かを愛し、だが別の誰かを救わない、そんな奇跡は不公平だろう。
 命の価値に上下などあってはならない。
 死は人を平等にする。生ではなく死こそが必要なのだ。生にや老いも病もあってどれ一つ同じ生はないが、必ず死を迎えるというそれだけはただ一つ、この世の中全ての人間に残された公平なもの。
 だから神は慈悲深いのだろう。
 誰かを救い、誰かを救わない、そんな不公平な奇跡は与えない。
 残酷だから捨てているのではなく、慈悲深いからこそ全てを見捨てるのだ。
 だからロゼウスも救わない。
「何を、した……」
 再び彼の視線を捕らえたのは、ほうほうの体で言葉を発したローデリヒだった。これまでただただ敵意の眼差しでもってロゼウスを睨みつけていたローデリヒの瞳の中に、今は驚愕が走っている。
「今のは、我らヴァンピルの蘇生能力ではない。ノスフェル家の死者蘇生でも、ヴァンピルの死人返りでもない。ロゼウス、お前一体何をした……!?」
 確かにロゼウスは優秀なヴァンピルであり、ノスフェル家の者である。だから死人を蘇らせることだってできないことではない。
だが、今のこれは違うのだ。同族だからこそ、ローデリヒはその違いに気づく。
目の前の彼は一体何者だ? 先程漠然と感じた思いがまた真に迫ってくる。ここにいるのはローデリヒの知る第四王子ロゼウスではない。
その答は、メイセイツに向けて、否、世界に向けて届けられた。
「私は、皇帝」
 思いがけない言葉に人々の間に一様に緊張が走る。
 ロゼウスが息を吸い、そして吐き出す。その思いごと吐き出すかのように。
「私は三十三代皇帝、ロゼウス=ローゼンティアだ!」
 人々を無傷のままに教会だけ落雷によって打ち壊し、ヴァンピルのかけたノスフェラトゥの術を簡単に解く。死んだはずの人間を蘇らせる。
 そんなことができる存在は。
「皇帝、陛下……」
「今の皇帝はデメテル様じゃ」
「そういえば代替わりしたと話を聞いたような気も……」
 白銀の髪に深紅の瞳、魔性の美貌を持つ少年皇帝。
 ロゼウス=ローゼンティアが世界に向けて顔を出した、これが最初の事件だ。
「さぁ、人々よ。これでローデリヒ教はペテンだとわかっただろう?」
 ローデリヒの唱えた神の御業は奇跡でもなんでもなく、ただのヴァンピルの能力だった。しかも彼は死者を蘇らせたのではなく、死体を操って蘇ったように見せていただけだった。
「終わりですよ、叔父様。じゃ、死んでください」
 偽りの奇跡で人々を騙した男に対してあっさりと死刑宣告を下し、ロゼウスは一歩、ローデリヒに歩み寄る。確かにローデリヒのしたことは許されることではない。
 けれどまたしても、その歩みをシュタッフスが阻む。
「逃げてください、ローデリヒ様」
「シュタッフス、お前」
 青年は剣を構えて立ち、全てが白日の下に曝け出された今でもローデリヒの身を守ろうとする。
 しかしローデリヒ自身はもう全てを諦めていた。目の前の甥が、いつの間にか王子ではなく、皇帝と呼ばれる存在になったと知ったその時から。
「……もういい。剣を下ろせ、降伏しろ。お前は他の者たちとは蘇生の手順が違うためにロゼウスの力にも影響されなかった。だがここで降伏すれば、お前だけは許されるかもしれん。降伏して、今度はきちんと生き返らせてもらえ」
 シュタッフスはローデリヒの手駒。それはロゼウスたちも知っている。先程はっきりと切り捨てたのだ。無罪とはいかなくとも、刑は軽くなるかもしれない。
 しかしシュタッフスは主の言葉にも首を横に振った。
「私はあなたに命を救われた、あなたの部下です」
 剣の柄を握る手に力が篭もり、地を蹴る。シュタッフスはまっすぐロゼウスに斬りかかった。
 丸腰だったはずのロゼウスの手の中にもいつの間にか一振りの剣が出現していて、ロゼウスはそれでシュタッフスの攻撃を受ける。ロゼウスの相手にこそなりはしないが、シュタッフスは人間としてはそこそこの腕前だ。
 自棄になって剣を振り回しているようにも見えるシュタッフスは、だからこそ他の誰もが手出しできないほどの気迫であった。シュタッフスの攻撃を危なげなく受け流しながら、ロゼウスは焦る様子もなく問いかける。
「いいのか? 本当にこれで」
 彼らの戦いを眺めるローデリヒは、シュタッフスが命をかけて庇ったにも関わらず逃げる様子はない。エチエンヌもロゼウスから特に指示されたわけでもないので、彼を取り押さえない。
 すでに結果の見えている戦い、これを何と言うのだろう。
 少なくとも運命などというものではない。
 ならば、餞だろうか。
「言ったはずだ。あなたが何者であろうと関係ない、私の主はあの方だけだと」
 華奢な見た目に反して恐ろしく腕の立つロゼウスと剣を合わせながら、シュタッフスが決意も固くそう宣言する。
 そう、全ては、彼がローデリヒに救われたその瞬間から決まっていたのだと。