010
あれはもう、遠い記憶。
深い山の中、夜はしんと静まり返っている。掴んだのはその辺りに落ちていた、子どもが両手で抱えるような石だった。
頭より高く持ち上げて、渾身の力で振り下ろす。すると目の前の相手は血を流して倒れた。ぴくりとも動かず、地面に打ちふしている。赤い血がその体から流れ出てじわじわと円を広げていく。血だまり。
咄嗟の自分の行動に、彼は呆然とした。手の中にはまだ重たい石がある。目の前の相手を撲殺した際の血で汚れて。
「……仕方なかったんだ」
口から零れた幼い声は、誰が責める前に勝手に言い訳を口にしていた。
「仕方が、なかったんだ……!」
そして、凶器を投捨てると彼は一目散に逃げ出した。
誰か、誰か助けてと繰り返し願う。祈りは届かず、誰も彼を助けてはくれなかった。
空き家に盗みに入り、血のついた服を着替え、日銭を稼ぐようにして何とか生きてきた。あとは暴力と犯罪と、ありとあらゆるものに手を染めた。
望まずともただ生きたいと思うそれだけで日々この身は底深い闇に落ちていく。
そして、罰を受けた。
――おい! 人が撥ねられたぞ!
大通りを乱暴に曲がって通りがかった貴族の馬車。暴走に近い状態で走る馬に、避ける間も蹴り飛ばされた。身体の骨が砕け、潰れた内臓から血があふれ出す感覚と共に絶命する。次に目を開けると、そこには天使がいた。
――大丈夫かい?
白いローブで全身を覆い、ヴェールで顔を隠した神の御使い、少なくともシュタッフスにとって、ローデリヒはそう見えた。
当初は一夜の宿として明け渡された廃教会で懺悔する。自分にだけは特別だと素顔を晒したローデリヒの暖かな紅い瞳のもと、口減らしとして両親に殺されそうになり、逆に彼らを殺してしまったことを告白した。
それが、更なる破滅へと転げ落ちることになるとも知らず。
◆◆◆◆◆
「お前は親殺しなんだって?」
先程の盗み聞きの成果を発揮し、ロゼウスが出したその単語にぴくりとシュタッフスが反応する。小さな声はやりとりを見守る民衆には届かなかっただろうが、目の前のシュタッフスと、ヴァンピルであるローデリヒにだけは聞こえた。
「愚かだな。お前は両親を殺したという罪悪感に囚われるあまりに思考を放棄した。そしてローデリヒの指示のもと、何人も何人も殺してきた」
ノスフェル家の一員であるとはいえ、ローデリヒの死者蘇生能力はそれほど高くはない。だけれどノスフェル家の一員であるから、死体人形を作る技術は超一流だ。外見上は確実に生者と死者で見分けがつかず、生活の上の言動でそれと見分けるしかない。
シュタッフス以外にまともに死者の蘇生を行わなかったというのは、つまり、彼以外は全て生き返らせたのではなく、死体に仮初めの生を与えたということだ。その中にはリリの両親やフィデルのように、シュタッフスが手をかけた者たちも含まれていたはずだ。死体人形は、死体でなければ作れない。
「親を殺したという罪悪感があるのに、他の人間を手にかけるのに罪悪感はないのか? 矛盾しているな」
「……黙れ」
「俺は、お前みたいな勘違い馬鹿が一番嫌いだ。死ぬべき人間がのうのうと生きて、平然と自分を正当化しているのに腹が立つ。自分は罪のない人々を堂々と踏みにじっているくせに被害者面をして。お前の親の命なんかよりお前に殺された他人の命の方が重いのだとわからないか」
「うるさい!」
剣を合わせながらのロゼウスの容赦ない言葉に、能面のようだったシュタッフスの表情に引き攣れが走る。
だがそれは醜いというよりも、どこか悲しい。
「それでもこれが私の望んだ生き方だ!」
裂ぱくの気合と共に、シュタッフスが剣を振り上げる。
ロゼウスは苦もなくそれを受けとめるとあっさりと弾き返した。あんな細腕から繰り出された攻撃とは到底思えぬ重さに、シュタッフスの表情が更に歪む。
だが彼は降伏して剣を下ろすことだけはしなかった。
「ローデリヒは先程お前を見捨てたぞ。それにお前以外の人間を何人も殺しているのに、何故お前だけ特別だなどと言いきれる? この先お前以上に使い勝手の良い駒が現れて、用済みになればお前もあっさりと捨てられるのかもしれない」
「そんなことは関係ない!」
ガキンッ、と噛みあった刃が嫌な音を建てて磨り減る。紅い火花が僅かに散り、重い手ごたえが伝わった。
「私が慕っているのだ」
一歩後退して距離を取り、深く息をつく間にシュタッフスは言った。
「私が勝手に慕い、この身を捧げると決めたのだ。他の誰がそれを否定しようとも、私は確かに救われたのだ」
確かにローデリヒは酷いひとだ。シュタッフスの罪の告白を逆手に取り彼を脅迫して、自分のいいように働かせてきた。自分が両親を殺したことよりもローデリヒに言われて殺してきた人間の数の方がよほど多く、自分を殺そうとした両親を殺すより何の罪もない人々を殺す方がよほど罪深い、それもわかっている。
それでも、彼だけだったのだ。
――嘆く事はない。同じ立場だったのならたぶん、私も同じ行動をとる。必ずそうする。お前が悪いのではない。
シュタッフスの罪を、罪と言う名の決して癒えぬ傷を真正面から受け止めてくれたのは。
ただ利用するだけなら慰めなど欠片もいらなかったはずなのに、何故あんな自分にとって都合の良い言葉をかけてくれたのか。卑怯でずるくて酷いひとだけど、だからこそ彼に救われた。
私の神様。
紛い物の信仰でも、それだけが真実だった。内情を知るが故に誰よりもローデリヒ教を信じていなかったシュタッフスは、けれどローデリヒ自身を慕い続けた。
「私はここを引かない。私の命はローデリヒ様に救われたのだ。これはすでにローデリヒ様のものなのだ」
そろそろ痺れてきただろう腕になお力を込め、シュタッフスが堂々と告白する。
「この命がその礎として朽ち果てるのであれば、後悔しない」
ハッと一瞬ロゼウスが目を瞠った。それはどこかで聞いた言葉だ。
――この命がお前の礎として朽ち果てるのであれば、後悔しない。
――ありがとう、ロゼウス。私に命を、生きる意味を、生まれてきた意味を与えてくれて。
正面から斬りかかったシュタッフスの動きはあっさりとロゼウスに読まれていた。神速の剣が舞い、トドメの一撃が青年の体に埋まる。
鮮血が宙に舞い、次の瞬間その身体が地面に叩きつけられる。受身の取れなかった身体は強い音を立てて地面とぶつかり、血を撒き散らした。
致命傷をロゼウスに与えられて、それでもまだかすかに息のあるシュタッフスのもとに誰かが――ローデリヒが屈みこむ。
「愚かな男だ」
「ロー、デリヒ……様……」
「私は貴様を利用していただけだ。そんなこともわからないのか」
つまらなそうな表情でシュタッフスを見下ろしながら、しかし冷たい言葉とは裏腹にローデリヒの手が地面に落ちたシュタッフスの手を包む。ぬめる血に滑らないようにしっかりと、体温の消え行く手を握った。シュタッフスが僅かに驚いたように目を見張る。
相変わらず彼は微笑まない。だがそれでこそシュタッフスの知るローデリヒだ。初めて出会った日のような優しい顔はもう見れないけれど、それで構わなかった。瀕死の口元に自然と小さな笑みが浮ぶ。
そして青年は事切れた。
「……馬鹿な男だ」
繰り返されたローデリヒの言葉は、今度はシュタッフスに向けられたものではないのか。誰にともなく呟いた言葉の後に、彼は絶命した青年の手を握ったまま、もう片方の手で懐から短剣をとりだす。
それを自らの首に突きつけた。
「!」
「叔父様」
反射的に止めに入ろうとしたエチエンヌとリリ、フィデルをロゼウスは伸ばした腕の動きで制した。自らは口を開き、ローデリヒへと話しかける。
「俺はさっき話したとおり皇帝になった。でもそれ以上にローゼンティア本国は大変なことになっている。母上や他の王妃たちが以前から父上を裏切りヴラディスラフ大公と密通を働いていた不義が発覚した。……ドラクルは、本当は大公の子で王子じゃなかった。ローゼンティア自体もエヴェルシードに侵略された多くのひとが死んだ。今の女王はロザリー」
聞かされた祖国の現状に、ローデリヒが少しだけ驚いたような顔をする。だが、もう関係がないと言うように、露悪的に微笑を浮かべなおした。
「それがどうした?」
「運命に選ばれ、神に愛された存在なんてない」
「神に選ばれ皇帝となったお前がそれを言うのか」
ローデリヒが祖国にいた頃、完全無欠の王太子に見えたドラクルが実はそうではなかったように。
違うとはっきり否定された今でも、正直ローデリヒはロゼウスの面影にドラクルを重ねていた。だから尚更彼が憎らしかった。ドラクルはいずれ全てを手に入れあの王国を継ぐのだと思っていたから。
だが、そうはならなかった。
目の前の少年もドラクルではない。面差しも性格も彼に似ているが。昔は逆に顔だけよく似て性格は全く似ていない兄弟だったのにどうしてこうなったのか。ロゼウスもロゼウスで何かあったのだろう。
神は贔屓などしない。
慈悲深く全てを見捨てたまう。
「それでも私はお前が、お前らが羨ましくて憎らしかった」
ローデリヒは言う。今でもそうだ。皇帝になったということはロゼウスは才能に溢れているということだろう。だがローデリヒにはそれがない。甥であるドラクルにもロゼウスにも敵わない。
「もとから、持てる者であるお前らが」
彼は事切れたシュタッフスの手を強く握る。
「ローゼンティアにいては私は突出できない。だからこんな異大陸の遠く離れた国まで来た。偽りの奇跡を仕立て上げ、暴利を貪るために。ああ、そうだよ、全部全部嘘だったんだ」
集った街中の人々に聞こえるようにはっきりと言うと、ローデリヒは短剣を握る手にも力を入れなおした。白い首にぷっくりと紅い球が浮く。
「だが、これだけは私のものだ。この愚か者だけは最期まで私のために死んだ。これだけが、私が手に入れた唯一のもの」
無能ながら傲慢でローゼンティアでは決して大成しなかったローデリヒ。だがシュタッフスだけが、彼が手に入れた唯一のもの。
不完全な蘇生の術は逆に二人を繋いだ。ローデリヒが死ねばシュタッフスも死ぬ。一蓮托生だ。
しかし、それはシュタッフスが死んでもローデリヒが死ぬという逆方向には働かない。あくまでもローデリヒが主でシュタッフスが従、一方的な隷属だ。
それでも。
「私のものなんだよ」
それでも、それを永遠にするためにローデリヒは自らの首に短剣を突き刺す。
ぐらりと傾いだ身体はシュタッフスの流した血と、自らが今撒き散らした鮮血の水たまりの上に落ちる。
白い手は先に逝った青年の手を堅く握り締めたまま、神の奇跡による復活を謳った男は二度と蘇る事はなかった。