011
信じた神は偽りだった。それはメイセイツの人々に大きな衝撃をもたらした。王都に住む人々の中で遠方の知人を持つ者は、早速教主ローデリヒの死亡を知らせに行く。
国王の城では、何でも隣国を含め様々な土地の有力者を招いた舞踏会で騒ぎがあったという、しばらくメイセイツは中央も地方も揉め事でごたつくだろう。
崩れた教会の片付けなど、そういったことは街の人々自らの手に任せロゼウスとエチエンヌは王都の外れの丘にいた。見晴らしは良いが、道に凹凸や癖があって普段人々が訪れないという丘には彼ら以外の誰もいない。そしてこれからも来ないであろう。
灰となったローデリヒと、彼を守るために逝ったシュタッフスの亡骸はロゼウスがここまで運んできた。偽者の宗教指導者たちはしかし裁きにかけられる前に亡くなったために、誰も埋葬する人がいない。
墓穴に死体を放り込む。惨めな早桶に墓標はなく、ただ掘り返された地面の痕だけが生々しい。奇跡を謳った男の最期は惨めで、人々の記憶に留まることすらなく忘れられていくことだろう。
「ロゼウス……」
無表情で埋葬を終え、手についた土を払っているロゼウスの背中にエチエンヌは声をかける。だけど、その先が続かない。名前だけを呼んだがその後が宙ぶらりんのまま、まるで続きが思いつかない。
黒い服を着たロゼウスがそうして墓穴を眺めていると、まるで葬式のようだった。いや、実際葬式以外の何物でもないのだが、エチエンヌは自分の格好が酷く場違いに感じた。
聞きたいことはあるがきっかけがわからない。
結局何度か唇を開いては閉じを繰り返しているうちに、彼ではない別の人物がロゼウスを呼んだ。
「皇帝陛下」
振り返ったロゼウスの眼に映るのは少女と少年の二人組だ。リリとフィデルだった。
「どうした? こんなところで」
「あ、あの、お礼を言いたくて!」
口を開いたのはリリではなく彼女の隣にいる少年フィデルの方だった。ロゼウスの見慣れぬ美貌に瞬間的に顔を真っ赤に染めた彼はしかし我に帰ると、皇帝に向けて深々と頭を下げた。
「ありがとうございます、皇帝陛下。僕を生き返らせてくれて、メイセイツを救ってくださって!」
自分に対し感謝を述べる少年に対し、ロゼウスは何の表情も浮かべずにただ彼を見つめるだけだ。ローデリヒがロゼウスの叔父だということを知っているエチエンヌと、彼をここに連れて来たリリもどう対応していいのかわからない。
だからロゼウスが口を開く。
「《私》に感謝などされてもな。皇帝をこの国に連れて来たのはそこの娘だ。お前の隣にいる者に礼を言え」
小さく溜め息をつくようにして吐き出された言葉に、フィデルが隣に並んだリリを見る。リリの方はとんでもないというように慌ててぷるぷると首を横に振った。
「あたしは何にも! だって、皇帝陛下が全部……」
「リリ」
リリの言葉をロゼウスが遮ったのは、何も彼女に謙遜するなと伝えるためではない。それよりももっと強く厳しい態度でもって、皇帝は年端も行かない少女へと告げる。
「お前のしたことは、この国を争いへと導くだろう」
「――え?」
思いがけない言葉に目を見開くリリ。ロゼウスは続ける。
「ローデリヒの力によって蘇った者の中に、ガイアードから嫁いで来たこの国の王妃がいる。彼女が一度死んで蘇ったという話は、すでに王城で広まってしまっただろう。この国は争いに巻き込まれ、立ち直るには多くの資金と時間、そして流血を必要とするだろう」
丘の上に風が吹いた。墓標のない墓の上、落ちかけた陽に照らされて世界が赤い。
ロゼウスの紅い瞳に吸い込まれるようにリリは皇帝を見つめている。
「お前が悪いとは言わない。ローデリヒがメイセイツ王に取り入り権力を思うがままにすることを良しとも言わない。だが今回のこと、その責任の一端はお前にある。この国でローデリヒにうかうかと騙された者全てに責任はあるが、それでもこれから訪れる苦難について、お前が開幕の鐘を鳴らしたことに変わりはない」
まだ十五歳の少女に向ける、彼女に背負わせるにしては重過ぎるその言葉。
「皇帝陛下……」
胸の前で祈るように手を組み、リリは皇帝を見つめる。
世界皇帝はこの世の全てを背負う。だが皇帝が世界に存在するからと言って、それは全ての罪を彼に肩代わりさせるということではないのだ。
風はリリの灰色の髪をなびかせる。灰色の髪に深い緑の瞳のメイセイツ人。特に美人と言うわけでもなく、何の取り得があるというわけでもない冴えない少女。
そのリリにロゼウスは言う。
「もう少しわかりやすく言ってやろうか」
言葉の出ない様子のリリだが、ロゼウスはとどめずに言葉を重ねる。
「お前はいつか、私に助けを求めたことを後悔するのかも知れない」
エチエンヌもフィデルも、向かい合う二人をそれぞれの傍らから見つめるしかできない。ロゼウスが何を言おうとしているのか、リリが何を答えるのか、ただ見守るしかできない。
ここはローデリヒの墓の上。
道を踏み外し、やり方を間違えた男の死の果てに何を手に入れるのだろう。誰も犠牲にせず、誰もが幸せになれる道などありはしない。
どんなに綺麗な光の庭で笑っているように見える人物でも、その足下には屍の山が築かれている。
ロゼウスは誰よりもそれを知っている。知っているからこそ、その覚悟をリリに問いかける。
あの時、あの瞬間、皇帝の宮城に侵入しようとして門兵に取り押さえられたリリに感じた壮絶な覚悟。それをもう一度聞いてみたい。
もしもその覚悟が偽物だとしたら――。
「皇帝陛下」
しばし逡巡した後、リリはしっかりと顔をあげた。自分より少し背の高いロゼウスの顔を見つめて口を開く。
「あたしは、後悔なんてしません」
信じる神がいなくなっても、彼女は胸の前で手を組む。その祈りは誰に届けられるものなのだろう。
「あたしはあの時、フィデルやお父さんを助けたかったんです。あたしの家族や街の人たちを助けたかったんです。その選択を後悔したりしません」
「そのせいで、これから始まる争いの中であるいはお前自身が死んだとしても?」
「ロゼウス!?」
驚愕の質問に思わずと言った形でエチエンヌが口を挟む。フィデルも不安そうにリリの横顔を見つめる。
「はい。それでも後悔しません」
「……そうか」
ロゼウスが微笑んだ。
――助けて!
――あの人を助けて!
あの時、リリは自らが命の危機にあったにも関わらず「あの人」を、フィデルを助けてと叫んだ。自分が殺されそうなその状況で、自分以外の誰かのために動いた。
その心を、ロゼウスは信じてみたい。
ローゼンティアで認められないからと言ってメイセイツで権力を握ろうとしたローデリヒ、己の国王の座を安定させるためだけにガイアードの王女を娶ったメイセイツ王。
人は己のためだけに動く。基本的に誰しも自分の欲望に忠実だ。
それでも、人の全てがそれだけではない、自分のためだけに生きるのではなく、誰かのために自らを捧げることができるのであれば。
もう少しだけ、人という生き物を信じてみたい。
「助けたい人がいて、そして本当に助けていただいたんです。だから、大丈夫です。後悔はしません。今では街の皆も目を覚ましました。あとはあたしたちメイセイツの人間が、自分達の力で乗り越えていきたいと思っています」
「ああ、そうするといい」
切羽詰った状態にあったリリは皇帝としてのロゼウスに頼ったが、もともと彼女の父親はローデリヒの出自を確かめるためシュルト大陸の知人に連絡を取ってローデリヒのことを調べてもらっていたらしい。それが彼が教会に目をつけられた理由であり、後に教会関係者に奪われてリリに不審を覚えさせたあの手紙の内容である。
人は皇帝に頼らずとも生きて行けるはずだと。それはロゼウスが望む答だった。
ロゼウスは自身が優れた存在などとは思わない。自分が皇帝であることを、当然などと思わない。
むしろ眩しく思えるのは、自分ではなく、自分のために死なせてしまった人の方だ。
だから皇帝ではなく、人間を信じてみたい。吸血鬼の皇帝ではなく、今を懸命に、命を賭けて誰かのために生きて行ける人間の方だと。
「……頑張れ、リリ、フィデル。お前たちが前へと進めるよう私も見守るから」
「はい!」
ロゼウスが今どんなことを考えているのかリリにはわからない。彼女には、ロゼウスが愛する者を己が生きるために食い殺したという壮絶な過去など思いもつかない。
しかしだからこそ、リリの出した答は誰に誘導されたわけでもない彼女の真実だ。
「皇帝陛下、エチエンヌさん、本当にありがとうございました」
「僕からも、改めてお礼を言わせてください。陛下、本当に感謝しております」
リリとフィデルは仲睦まじく手を繋ぐと、二人で丘を降りていった。