薔薇の皇帝 序曲(2)

012

 黄昏の空が紅い。
「ロゼウス……」
 リリとフィデルも礼を言って立ち去り、墓標のない丘には二人だけが残された。エチエンヌとロゼウス。一見対等に見える二人の間には皇帝と従者という壁があり、エチエンヌがロゼウスを放って先に帰るなどということはできない。
 エチエンヌはロゼウスの背中を見つめ続ける。主君のシェリダンより少し背が低く、華奢な体格。前に全裸も見たことがあるが、その体つきはとても少年とは思えない。その痩身に彼はこの世界の全てを背負って行かねばならないのだという。
 ――私は、皇帝。
 ――私は三十三代皇帝、ロゼウス=ローゼンティアだ!
 メイセイツの街中で彼が叫んだとき、一体どのような気持ちだったのだろう。これまでのロゼウスはシェリダンの死以来とにかく自暴自棄で自殺を繰り返し自らを痛めつけるかジャスパーやハデスに八つ当たりを繰り返す以外することもなく、とても皇帝の責務など負おうとするようには見えなかった。一体今頃になって、何故彼は思い立ったように皇帝として立つことを決めたのだろう。
 丘の上を風が吹いていく。南のバロック大陸、更に西南に位置するメイセイツだとて、この時間帯は涼しくなるのだ。薄いシャツ一枚の下の二の腕が粟立つ。それでもロゼウスはそこを動こうとしない。
「ロゼウス」
もう一度エチエンヌは名を呼んだ。今この場所で、彼を動かせる人間は自分しかいない。いつまでもここにいるわけにも行かないのだ。彼が皇帝として意志を纏めたのなら纏めたで、さっさと皇帝領に戻らねば。
「エチエンヌ」
 これまで墓標のない墓を眺めていたロゼウスがその声に応えたのかたまたまなのか、エチエンヌの名を呼んだ。しかしその視線は正面を向いたままで、彼の方を振り返ろうとはしない。
「シェリダンを殺したのは、俺だ」
 だから唐突に口にされたその言葉に、エチエンヌはすぐさま反応することはできなかった。
「――……え?」
 思いがけない内容過ぎて頭が真っ白になり、何も考えられない。呆然と翡翠の瞳を瞠る。
 ロゼウスの言葉は続く。ゆっくりと、西に沈む紅い紅い夕陽を背景に振り返った。頬に血塗られたような朱の影が差している。
 皇帝領でのドラクルとの最終決戦を思い出す。たった数ヶ月前のことが、今ではまるで夢のようだ。あの時もロゼウスはこうして血のように紅い黄昏の光を浴びて現れて。
 どうしてあの人を救ってくれなかったのと、ローラが泣いて縋り付いた。
 ドラクルの攻撃により崩れ落ちた棟の一画。最上階にいた自分たちは、その時点で死を覚悟したのだ。あんな高さから瓦礫と共に落ちて無事なはずはないと。だからシェリダンもそれで死んでしまったのだと勝手に思っていた。
 だが真実は違うという。
「あの時、建物が崩れ落ちたあの時、俺はシェリダンを庇った。そして自分が重傷を負った。ヴァンピルは一定量の血液を失うと吸血の渇望状態に陥る。だから」
 だから、引き裂いて喰った。
 誰よりも愛していた人を。
 エチエンヌの目の前が真っ赤に染まる。ここにいるロゼウス自身から、一度は夫婦となったロザリーから、その他のヴァンピルたちからも聞かされた言葉が蘇る。
 そう、彼らは食人の習性を持つ化け物。
「お前……ッ、お前がシェリダン様を!」
 意図するより早く身体が動き、僅かな隙間を一瞬で詰めるとロゼウスの胸倉を掴む。同じくらいの身長になった今では容易すぎるほどに容易く伸びた腕がその首を絞めようとする。
 けれど、反射的なその衝動をエチエンヌは強いてぐっと堪えた。違う、どこか、何か違和感がある。
 まるで絞め殺されることを望んでいるかのように目の前のロゼウスの表情は不思議に凪いでいる。その表情に確信を得た。
「……ッ、望んでやったわけじゃ、ないんだなっ」
 冷静に考えれば当たり前のことだ。ロゼウスがシェリダンの死を望むはずがない。
「おまえ自身にも、止められ、なかったんだな……」
 理解を示す言葉のはずなのに、胸倉を掴まれたときには微動だにしなかったロゼウスの表情がそのたびに歪んでいく。血を吐くような叫びがその唇から零れた。
「でも殺したのは俺だ!」
 それでも殺したのはロゼウス自身だった。愛していたのに、愛していたからこそ殺してしまった。
 皇帝は自らの最も愛する者を蘇らせることはできない。他のことはなんでも叶える力をもっているのに。
 愛しているから、その愛情が真実だからこそロゼウスはシェリダンだけは生き返らせることができないのだ。
 エチエンヌはきつく握り締めすぎて堅くなった指を苦労して解いていく。ロゼウスから離れた。
 向かい合うロゼウスの瞳から流れ落ち、頬を濡らす一筋の光。誰よりも傷ついているのは、たぶん彼自身だ。
 愛する人を望まずに殺して自分は生き続けるなんて、エチエンヌだったら御免だ。絶対にできない。そんな思い、何に代えたってしたくない。耐えられない。
 目の前で今まさに自分ではなく別の人間がその苦しみに耐えているというのにこう思う自分はとてつもなく卑怯なのだということもわかっている。
「ロゼウス、お前、今回なんでここに来た? これまで皇帝の責務なんてまったく歯牙にもかけなかったくせに」
 ロゼウスのここ数ヶ月の狂態にも自殺行為にも、それが理由ならば納得が行った。いくらシェリダンを失ったからとはいえ過剰すぎる死の希求をエチエンヌもリチャードも怪訝に思っていたのだ。
 それが自らの手でシェリダンの命を奪ったという罪の意識からなされた行為ならば納得が行く。
 ――俺は、お前みたいな勘違い馬鹿が一番嫌いだ。死ぬべき人間がのうのうと生きて、平然と自分を正当化しているのに腹が立つ。自分は罪のない人々を堂々と踏みにじっているくせに被害者面をして。
 ロゼウスがシュタッフスにかけた言葉、これも今思えば、シェリダンを殺して生き残った自分自身に対する自責の念が口をついて出た台詞だったのだ。
 では、彼をその絶望から上辺だけとはいえ立ち直らせたものは何なのだろう。
「僕は最初、このメイセイツの教主とかいう奴を捕まえて、その力でシェリダン様を蘇らせるつもりなのかと思ってた」
 死者を蘇らせる宗教、エチエンヌがリリの話を聞いた時から思っていたのはそのことだった。どんなやり口だろうとそれが嘘でない限り、その力を使えばシェリダンを取り戻すことも可能かもしれない。
「でもお前、あの態度ってことは最初からローデリヒってのがヴァンピルだと気づいていたんだろ? だったらどうして……リリの願いを聞いてやるためだけにここに来たのか?」
 教主と最初に対面した時……否、彼の力によって蘇らされたシュタッフスを見た時点ですでに、ロゼウスはローデリヒの正体に気がついていたようだった。そして彼やロザリーの話に寄れば、ローゼンティアの者でもシェリダンを完全に蘇らせることができるほどの能力者はこの地上にすでに存在しないはずだという。ならばロゼウスの目的は死者を蘇らせる神の御業ではない。
 本当にロゼウスは皇帝として急に思い立ち、困窮する少女を救うためだけにこの国に来たのか?
「僕、お前がそんなお人好しだとは思えないんだけど」
「ああ、もちろん」
 自分が命の危機に瀕しながらも、国のフィデルや両親のことを思って叫んだリリ。あの人を助けて。己よりも誰かへの救いを求めるその心には胸を衝かれるが、基本的にロゼウスが自分と無関係な娘一人のために動くことはありえない。
「ねぇ……エチエンヌ、この世界には、予言ってものがある」
「え?」
 問に答えずいきなり語り出したロゼウスに当惑しながらも、エチエンヌは大人しくその話に耳を傾ける。
「俺は、俺も……シェリダンもハデスから聞いていたんだ。俺はシェリダンを殺して皇帝になるんだって」
「!」
「でもそれがどういう意味なのか、その時を迎えるその瞬間までわからなかった。わかっていたら……」
「……過去を振り返ってみても無駄だ。過ぎてしまったことは変えられない」
「わかっている。……わかっている。それでも」
 過去に想いを馳せたところで何一つ取り戻せはしない。ああ、わかっている。だからこそ苦しい。
「お前のせいじゃない……」
「違う、俺のせいだ」
「自分でも制御できなかったんだろう?」
「でも俺が殺した……殺したんだよ!」
 誰よりも愛している人を殺した。その罪の意識こそがロゼウスが皇帝たるに必要な条件だったのかと思い知る。慰めるようなエチエンヌの言葉もロゼウスを追い詰めるばかり。その愛が強ければ強いほど、彼はシェリダンを殺した自分自身を決して赦さないだろう。
 永遠の懺悔、終わりなき贖罪。
 こんな痛みを抱えて、どんな風に生きていけばいいのかわからない。今すぐにでも死にたいのに。
けれどロゼウスのそんな思いを救うのも結局はただ一人だ。
「……シェリダンが言っていたんだ。俺の治世が見られないのが残念だって」
「だから、皇帝になろうと?」
 どんなに首を絞め心臓を抉ったところで、どうせ死ねはしないのだから。
「立派な皇帝なんて、優れた支配者になるなんて想像もつかないけれど、でもシェリダンが望んだから……だから、俺は……《私》は……」
 ロゼウスの全ての源は彼だから。だからこそリリが助けてと叫んだあの時も反応したのだ。
 人はあんなにも脆いのに、その心だけは時折どんなものよりも強くなる。自ら危機に瀕したその状況で誰かのためにと願う哀れな愚かさは、国のために民のために汚名を着ることも厭わないシェリダンの生き方にどこか通じている。
 吸血鬼であるロゼウスより、ドラクルより、誰よりもシェリダンは強かった。
 彼こそが見習うべき手本。彼のために、彼をなぞるように生きる。
 ――私は、皇帝。
 ――私は三十三代皇帝、ロゼウス=ローゼンティアだ!
 これまで自分のことを「俺」と言っていたロゼウスが、しかし皇帝として立つと意識した瞬間、「私」という一人称を選んだ。それこそがシェリダンをなぞる行為だ。
「ロゼウス……」
「俺はシェリダンが好きだった。愛していた、今も愛している、誰よりも」

 ――この命がお前の礎として朽ち果てるのであれば、後悔しない。
 ――ありがとう、ロゼウス。私に命を、生きる意味を、生まれてきた意味を与えてくれて。

 愛している、誰よりも。その命、その存在こそ一縷の光。

 生きる意味、生まれてきた意味を相手に与えたのは果たしてどちらなのだろう。
 救うつもりで永遠の闇の底に突き落とした愛しいその手。堕ちたのはどちらだったのか。
「僕はお前が嫌いだ」
 これまで大人しく話を聞いていたエチエンヌが口を開く。その眉根は苦しげに寄せられていて、ロゼウスに向ける口調には棘があった。
 けれどエチエンヌの頬は何故か濡れていて、涼やかに吹く風が少し寒い。締め付けられたように胸が痛む。これもきっと春の肌寒さのせいだ。
「シェリダン様を殺したお前が嫌いだ。そのせいでローラを狂気に落としたお前が嫌いだ。僕たちから人間としての生を奪い、こうして皇帝としての人生の道連れにしようとするお前が嫌いだ。僕はお前が憎い。シェリダン様を殺したお前を一生赦さない」
 だけど。
「僕はお前を嫌い、疎み、憎み、……そしてずっとそばにいる、そばにいるから」
 嫌い、疎み、憎み、そしてそばにいる。
「お前のそばに……」
「嫌いなのに?」
「愛と正義は別物なんだろ?」
 ローデリヒ相手にロゼウス自身が使った言葉でやりかえし、エチエンヌは薄く微笑んだ。
 ロゼウスほど深く彼の心に入れなかったとしても、エチエンヌもシェリダンを大切に思っていたことに間違いはない。
 だから彼を愛し、彼を殺したこの皇帝に地獄の底まで付き合うのが今の自分の使命だろう。
シェリダン=エヴェルシードの愛したロゼウス=ローゼンティアに。
「シェリダン様がお前の治世を見たかったというのなら、僕が代わりにそれを見つめ続けてやる。お前が破滅するその時まで、見つめるためにそばにいるよ」
 栄光も凋落も全て。
 墓標のない丘で誓う。皇帝領にもシェリダンの墓標はない。彼の身体だけはハデスの魔術により完璧に復元され、城の隠し部屋の中で眠っている。
「……ありがとう、エチエンヌ」
 世界を深紅に染め上げる夕陽、その影を背負って立つ、世界を鮮血で染め上げる皇帝。
 薔薇の皇帝ロゼウス、今ここに誕生す。