薔薇の皇帝 序曲(2)

013

 さぁ、この命を使って、お前に呪いをかけよう。

 ――皇帝としてのお前の治世を見られないのは残念だが……。
 そんな風に言葉を残した少年はもうどこにもいない。
 私を殺してもお前は生きろ。
 その言葉がまさしく呪いとなって皇帝を縛る。
 彼のための皇帝。彼の命を礎にして生まれた皇帝。
 死者は還らないのだ。永遠に取り戻せない。だからこそ、命が失われることは酷く悲しく、尊い。
 わかっていて皇帝はそれを踏みにじる。
 世界を鮮血に染め上げて、毒々しい花を咲かせよう。
ロゼウス=ローゼンティアの治世の全てがシェリダン=エヴェルシードのためのもの。

 しかしそれがこんな結末を連れてくることになるとは、きっと呪いをかけた本人すらその時には自覚していなかったに違いない。

 ◆◆◆◆◆

 皇歴もすでに七千年代に入り、四千年の治世を敷くロゼウス帝の御世に翳りもまだ見えぬ頃。
 目の前で薄い胸に手をあて、にっこりと笑った少年の行動と発言に玉座のある謁見の間に集う面々はすべからく度肝を抜かれていた。
「……ハァ!?」
 明らかにずれたタイミングで、それでもエチエンヌが声をあげたのは流石としか言いようがない。他の者はまだ呆気にとられていて、声も出せないような状態だ。それは短い階段下に立つルルティスから言葉をかけられた皇帝自身ですら例外ではない。
「……ちょっと待った。今の話、もう一度聞かせてくれ」
「ええ、はい。ですから陛下、御身の治世は永く四千年もの間帝国に磐石の治世を敷いておきながら、その薔薇皇帝に関する書物が一冊もないということに、私は激しく憤慨を覚えるのです。ですからここは歴史学者として、僭越ながら、私が薔薇皇帝を記す人間の魁となろうかと思いまして」
 つらつらと言葉の内容と言葉遣いに関してはともかく、よくこれだけのことを平然と言えると思うようなことを述べたルルティスは、誰に言われるでもなく自主的に皇帝の前で跪いた。
 ……身体的には跪いているのだが、彼の性格というか発言というかのせいで、全く跪いている態度に見えないのがご愛嬌だ。
「と、いうわけですのでこの私めに陛下の過去から私生活からその全てを見せてください、というかさらけ出してください、むしろ観察させてください。いえもうむしろ書物に記すために勝手に観察させていただきます」
いいですよね? とうっかり頷いてしまいそうなほどさらりととんでもないことを言うルルティスは凶悪だ。決定権という言葉はどこにあってしかも誰のものなのだろうか。その笑顔が整っている分余計に厄介だった。
「だからちょっと待ってください、ていうか待ちたまえストーップ!」
 ついにあんたまで壊れたか、とこの場での発言を許されてはいないが同席までは許可されている重臣たちに憐れまれながらも、皇帝の数少ない側近の一人リチャードが何とか声をあげる。
「勝手にそのようなことをお決めにならないでください! 相手はコレでも皇帝陛下なのですよ!」
「……コレでもは余計だリチャード」
 たまえと言ったりお決めにと言ったり大分敬語が混乱しているリチャードは自らもさらりと余計な発言を零しつつ、それでも何とか、何とか天下の皇帝の尊厳を守ろうと努力する。
 しかし敵は手強い。
「駄目ですか? でも偉大なる統治者に関する伝記の執筆は不可欠ですよ。これからの歴史教育にはぜひ皇帝陛下の経歴や思想、行動の指針や真意なども世界に向けて明かした方がいいと思われますが?」
「いえ、ですから問題はそういうことではなくて」
「大丈夫です。執筆は私が手掛けますから。陛下はただそこにいらっしゃってくだされば適当に追いかけます。体力と持久力には少しばかり自信がありますので、地獄の果てまでお供いたします」
「いや、だからそうではなく」
 どこの世界に、世界中から恐怖される皇帝に私生活をさらけ出せと言う学者がいようか。いや、ここにいるが。
そしてこれほどまでにはっきりとしたストーカー宣言があろうか。いや、ない。
「ああ、そういえば自己紹介が遅れていましたね」
 天下の帝国上層部の面々を鮮やかに翻弄しつつ、その少年は皇帝の前で名乗りをあげた。
 分厚いレンズの向こうの朱金の瞳を、皇帝であるロゼウスはすでに見知っている。だからこそこの発言にはもはや呆気にとられるしかない。
「我が名はルルティス……ルルティス=ランシェット」
 それまで状況が状況だっただけに詳しい事情や何故この場にいるのかが後回しにされていた少年は、この瞬間、誰の記憶にも忘れられない存在となって刻み付けられた。大人しげな印象とは裏腹に、その中身は豪胆で図々しく、しかもそれを相手に感じさせない。
 だがしかし、やはりその発言や宣言をふと顧みると彼が口にすることはただひたすらとんでもないことだった。いかに学者が探究心に正直な生き物と言えど、ここまでずけずけとしたお願いをさも当然のように皇帝相手にした人間はいない。これまで四千年間、虐殺の薔薇皇帝相手にここまで大胆な行動をとった者はいないはずだが。

「皇帝陛下、あなたを見つめるために、御前に参上いたしました」

 にっこりと少年は笑う。
 その満面の笑みに馴染みはないが、やはりその瞳は遠く懐かしく、そして見知ったもので。
 ロゼウスは込み上げるあらゆる言葉を飲み込んだ。いや、むしろこの状況では飲み込まざるを得なかったというべきか。
「……ああ、許可する」
「ロゼウス!?」
「陛下!?」
 ぎょっとして慌てふためくエチエンヌとリチャード、傍らで何がツボにはまったのか、腹を抱えてひたすら笑い続けているローラを横目に、ロゼウスは深々と溜め息をついた。
「光栄です、皇帝陛下」

 あの日、止まったと思われた宿命の歯車が動き出す。
 そして、新たな物語が始まるのだ。

 《続く》