薔薇の皇帝SS

薔薇の皇帝 小話

今日枯れて明日また咲く花のひととき

「ねぇ、エチエンヌ。髪切って」
 そして彼は無造作に小刀を取り出すと、細いのに力強く有無を言わせない手つきでエチエンヌの手に押し付けた。押し付けられた方は目をぱちくりとさせて、目の前でくるりと背を向けた少年の背中を見遣る。その背を覆う白銀の艶やかな髪は確かに、高く結い上げてもまだ彼が身動きするたびにふわりと宙を舞う程には、長い。
 皇帝の私室には今彼ら二人きりで、値のつけられない調度たちで埋め尽くされようともまだ広い部屋は使われている真紅という色彩に反して酷く寒々しい。その部屋の温度を更に下げるような声で、エチエンヌは言った。
「……何で僕が」
「イヤなら別にいいけど」
 拒否の意味を言外に含ませた呟きに返されたのは、微かなからかいを含んだ声音。鈴を転がすような、小鳥の囀りのようなその声も、エチエンヌにとっては不快な音の鎖に過ぎない。目の前の人物は確かにこの世で敵う者なき絶世の美形なのだが、だからどうしたというのがここ数百年のエチエンヌの抱く感想である。
「で、どうするの?」
「……わかった。やってやる」
 大嫌いな相手と言葉を交わすのは消耗する。それが、現在この世で最も偉い人間だなんて関係ない。一言ごとに自らの機嫌が下降していくのを感じながら、エチエンヌはそれでも小刀を握った。一度手元の卓の上に置いて、背を向けた相手の髪を手にすくい、丁寧に梳ってから再び小刀を持ち直す。
「切るよ」
「うん」
 宣告して、小刀を銀糸にあてた。まずは失敗してもいいようなところから切っていく。柔らかな髪は音もなくぱらぱらと床に落ちる。部屋の惨状など構う知ったことではない。どうせエチエンヌの部屋ではない。困るのは彼に髪を切れと要求した主自身であり、彼が何かを望めば周囲の者たちはすぐにそれを整える義務があるのだから、掃除夫の仕事が増えることなどエチエンヌにはどうだっていいことだ。
 ただ、相手の望むままにその髪を切っていく。長いだけに切るのは楽そうで大変だ。とにかく長さがあるために量が多い。切った髪で織物の一つでも作れそうなほどそれは長くて見事な白銀の絹糸だった。
「どんな風にしたいの?」
 それ、最初に聞くべきことじゃない? と突っ込まれつつエチエンヌは大分髪を切った後で尋ねた。それでもまだ長さには充分余裕があるのだからやはり構いはしない。女ではあるまいし、いちいち髪型など気にしたところでどうなるわけでもない。
 肩へ届くほどの長さまで切った時、一房を指先で掬い上げた拍子にふとその指が相手のうなじに触れた。
 滑らかな肌の感触を知って、ぞくりと、一瞬不快な熱が背筋を駆け上がる。
 この時になってようやく、エチエンヌは相手が自分に対し酷く無防備な姿を晒していることに気づいた。至近距離で背後を見せて、武器をもたずに蹲っている。晒された白い喉首と、薄い背中からすぐにも突き破れそうな心臓。
 もしも今この瞬間この白い首をこうして持っている小刀で掻っ切ってやれば、エチエンヌは自由になれる。そうすることは簡単だ。髪を切るという名目で渡された小刀は現に今だって首のすぐ横に落ちた一房へと当てられている。これを、ほんの少し、力を込めて横にずらせば。
 けれど夢想は現実になることはなく、エチエンヌは最後の一房を切り整えると小刀を卓の上に戻した。そして白い首を切り裂く代わりに、髪を切るために背後に寄ったその姿勢のまま、自らの唇を軽く押し当てる。そこから伝わるものは、愛情でも憎悪でも憐憫でも悲哀でも侮蔑でも憤怒でも情欲でもなく。
「終わったよ」
 吐息のように耳元で囁いて鏡を差し出した。そこに映るのは、彼がまだこの立場となる前と同じ髪型の彼であり。
 主君がそれを見て出来栄えを確認している間にエチエンヌはその背から腕を回して彼の身体にしがみついた。爪が相手の皮膚に食い込むのを感じたけれど、どうでもよかった。ここに宿るものは、もちろん愛情でも憎悪でも他のどんな言葉で言い表せるような単純な感情でもなく。
「……いい出来栄えだ」
 結局エチエンヌは彼の口から、どんな髪型にするのか指示をもらってはいない。
「うん」
 昔と同じ髪型へと戻った皇帝ロゼウスは、ただくすくすと小さく笑った。

 この髪がまた伸びる頃にもやはりお前は俺の側にいて、そうして俺を憎みな
がら共に愛するあの人を待つのだろう。我が共犯者よ。

 了.