薔薇の皇帝SS

かの人は焔

「少しくらい、抵抗なさったらどうなんです?」
 言いながらリチャードは、薬を塗りつけた布をジャスパーの頬に貼った。一瞬の冷やりとした感覚に、少年は僅かに瞳を細める。
 普段から冷たすぎるその表情は無慈悲な天使のようにも見える美貌の少年だが、今のジャスパーは傷だらけだ。腫れた頬、切れた口の端、顔だけでなく身体の方にも傷がある。どれもまだ生々しく、たわむれに傷ついたというには深い。
 そんなジャスパーを眺める方が辛いとでも言うように、リチャードはてきぱきと手当てをする。遥か昔、それこそおとぎ話と呼べるほど昔は軍人だったリチャードは生傷や怪我の手当てになれている。その彼をしても、ジャスパーにつけられた傷には眉をひそめざるを得ない。
 それは傷の種類が違うからだ。リチャードが慣れているのは戦闘や訓練でできた傷。今、華奢な少年の白い肌を無残に彩る赤い痕は。
「……暴力の捌け口にされているのですよ、あなたは」
 れっきとした加虐の痕だ。
「余計な御世話だ」
 その身を案じるリチャードの台詞を、しかしジャスパーは険のある眼差しとともに振り払う。言葉だけでなく実際に彼は手を出し、新たな布を貼り付けようとしたリチャードの手を掴んで引き留めた。
 ジャスパーは肉体年齢としては14歳、年頃の少女のように折れそうなほど細い腕だが、その手に掴まれたリチャードはまったく腕を動かすことができない。ヴァンピルの腕力は、本来人間など相手にならぬほど強い。
 そのヴァンピルであるジャスパーを虐待できるというのだから、相手ももちろん限られている。何より一見大人しげな顔をしているジャスパーはこの反応からもわかるとおり、見かけほど大人しい性格ではない。彼が心の底から従う相手はただ一人。
「僕は、兄様になら何をされても構わない」
 ロゼウス=ローゼンティア。今はこの世界唯一の皇帝である。ジャスパーにとっては異母兄ということになっている。
 しかしそのロゼウスは自らが皇帝の座にある事実を疎んじ、自らを皇帝の座に押し上げた全ての要因を憎むあまりに、自らの弟であり皇帝としての彼を見出す役割を持つ《選定者》たるジャスパーをも憎んでいる。
 ロゼウスが皇帝となった、その運命こそがロゼウスから最愛の人を奪ったことは確かだ。
 そして失われたその人は、リチャードにとっても誰より敬愛する主君であった。
 瞼を伏せて囁くジャスパーの表情は作りもののように綺麗だと思いながら、リチャードはまた一方でかつての主君のことを思い出す。名目上現在は皇帝ロゼウスの従者とされている彼だが、心は今でもかつての主人の部下のままだ。
「あなたは、ロゼウス様を妄信しすぎですよ。あの方があなたを傍に置くのは、愛情などでは――」
「そんなことはわかっています。ただ、それでも僕は……」
 妄執であるが、妄信ではない。
 彼が兄を想うようには、彼は兄から愛されてはいない。そんなことは知っている。
 それでも縋っていたいのだと。
 次代が見つかるまで不死なる皇帝と違い、選定者は皇帝の後に生き延びることこそないが、それより早くであれば自由に死ねる存在だ。つまり、誰かが殺すこともできるのである。そんなジャスパーをすぐには殺さず傍に置いているロゼウスの心までは、確かにリチャードもはっきりとはわからない。
 だが少なくとも、日常的にあらゆる拷問を加えるのを愛情とは呼べないだろう。
「ヴァンピルの傷なんて、どうせすぐに塞がるのに」
 掴んでいたリチャードの腕こそ離したものの、ジャスパーはそっぽを向きながら小さな声でそう言った。確かにリチャードも知っているが、ローゼンティアの吸血鬼たちは腕力もさながらその回復力も人間以上であり、小さな傷ならすぐに癒えてしまう。人間だったら痕が残るだろう今回のジャスパーの傷跡も、あと数刻もすれば元通り白い肌へと再生するだろう。
「それでも、痛みは感じるのでしょう。だったら、人と同じようにその傷は案じられて良いはずです」
「でも」
「かつて私の主は」
 ジャスパーの言葉を遮るようにして、リチャードは無理にでもと告げた。
「あなたの兄上に、同じことを言ったはずです」
 兄と呼ぶ存在から酷い暴力を振るわれていた。その経験自体はロゼウスも同じ。再生力が強すぎて、傷など跡形も残らないヴァンピルの白い美しい肌。だが傷が残らなければ、その傷の痛みを感じなかったことにも、その傷を与えられた心の痛みも感じなかったことにはならないのか? と。
 そんなことはないだろう。
「……ですから、ちゃんと抵抗はしないと」
 同じような経験をしたはずなのに、何故ロゼウスがこんなことをできるのかがリチャードにはわからない。感情的なものは結局、どんなに上辺でわかったふりをしてもその本当のところは本人でなければ理解できないのだ。
 だが本人でないからこそ、客観的に見て判断できるものもある。ジャスパーやハデスへのロゼウスの態度はまるで八つ当たりだ。リチャードにはそう見える。そうとしか見えない。
 けれど、とやはり伏し目がちにジャスパーは言う。
「兄様と僕では、違う。僕はそれでも……あの人が好きだから」
 幼い故に献身的で、なのにある一点では狂信的とも言えるほどに熟したその思い。腐りきって落ちた果実のように、無残に弾けて腐臭を放つ。
「あの方は……皇帝陛下は……完璧ではありませんよ」
「そんなことはわかっている。そんなものを求めた覚えもない」
 人の発明において、最も優れているものは歯車だという。
 リチャードは思うのだ。
 薔薇の皇帝ロゼウスは、この世界の歯車だ。
 神の意志と避けられぬ運命により作られた、この世で最高の歯車。彼に勝る傑作は二度と生まれないだろう、何よりも優れた神の創造物。
 けれど歯車は、動力にはなれない。
 そして彼の主はまるで火のような人で、薔薇皇帝という世界の歯車を動かすのは、いつも――。
「そういうあなたは、どうなんです?」
いつの間にか作業する手が止まっていたリチャードの方を向いて、ジャスパーが問いかける。
「僕に優しくする義理なんて、本当はないのに。あなたは本当は兄様を恨んでいるのではないですか? シェリダン王のことだって、それに……」
 何故か途中言いにくそうに言葉を切り、逡巡したのち覚悟を決めたのか、ジャスパーは続けた。
「……ローラのことだって」
「……ああ」
 実を言うとジャスパーがかつての主の名を口にした後、他にロゼウスを恨む要因として思い当たることがなかったリチャードはぱちぱちと瞳を瞬かせた。
 かつてリチャードの名目上の妻だったはずのローラは、今ではロゼウスの愛人だ。それも数ある愛人のうちの一人である。そのことをジャスパーは言ったのだ。いつも皇帝によく仕えているように見えるリチャードも、本当はロゼウスを殴らずにはいられないほど怒っているのではないかと。
 が。
「いえ、私は――――」 
 疑る視線のジャスパーに構わず、爽やかにリチャードは言う。
「十五歳未満にしか興味がないもので」
 かつてローラは幼いこ頃の薬物乱用のせいで十五歳という年齢より幼く見えた。そして現在ではロゼウスの力により、年相応の姿になった。相応と言ってもその後その姿でもう何百年も生き続けているのだが、精神年齢と肉体年齢はとりあえずつり合いがとれていると言えよう。
 そして現在も肉体年齢十四歳のジャスパーは、次の瞬間容赦なくリチャードを殴り飛ばした。

 おわり

・オマケの後日談

ジャスパー「お、お兄様~」
ロゼウス「どうした、ジャスパー」
かくかくしかじか(事情説明)
ジャスパー「ということなんです……」
ロゼウス「……(無言)」
エチエンヌ「リチャードさん、それは……」
リチャード「え? 何かおかしいですか?(不自然なほどに爽やかな笑顔)」
ロゼウス「……リチャード」
リチャード「はい」
ロゼウス「今後、うちの弟に近づくの禁止」
リチャード「な、そんな殺生な! 若くて綺麗な子の肌は長寿の秘薬!」
ロゼウス「そんなもんなくても半不老不死だろうが。変態は黙ってろ」
リチャード「ってあなたがそれを言いますか!?」

ローラ「……私、早めに別れておいて正解だったようね」