棘ある花を愛すれば【本編終了後】
傷つけたい。誰よりも酷く。この愛と同じ程に深く。
あなたを苦しめ、絶望させたい。――この自分の手で。
◆◆◆◆◆
「私という者がありながら、いい度胸だな」
自分で口にしておきながら、シェリダンはそれを、なんて陳腐な台詞だろうと思った。
こんな台詞、まるで安い恋愛小説の振られ男が恋人と間男の情事現場に踏み込む時ぐらいしか見たことがない。まさか自分の人生で使用する時が来ることなど想像もつかなかった。――ありきたりで独創性の欠片もない、つまらない男の台詞だ。
だが、同時に思う。現実などこんなものなのかもしれないと。面白味のない台詞、ありふれた浮気と言う名の裏切りなんて、世間のそこかしこに溢れ返っている。そして自分だけは相手との間に絶対の信頼関係があるなどと自惚れることができるほど、生憎とシェリダンは愚かになれなかった。
なんにせよ今、彼以上に憐れなのは明るい月の光に裸身を晒されて縮こまる寝台の上の女の方だ。
純朴そうな面差しとは裏腹に豊満な肢体。病的な痩身ではなく健康的な印象を与える肉付きの良い体つきは、まさしく「彼」の好みだ。
その憐れなる間男ならぬ間女を、シェリダンは睨み付ける。
「――そこな女」
「は、はい!」
彼の眼光にびくりと怯えた様子を見せ、それが尚更シェリダンの怒りを煽るのだと知ってか知らずか、女はますます一夜の遊び相手に抱きついた。
「脳天から真っ二つにされたくなければ、さっさと出て行け」
剣を抜きつつ宣言すれば、あとはもう女の返事はまともな言葉にならなかった。とるものもとりあえず寝台を抜け出そうとしたところで、くらりと眩暈を引き起こしたかのように倒れかける。
「おっと」
それを、白い手が支えた。
「駄目だよ、無理をしちゃ。結構血をもらっちゃったから、今動くと貧血になるよ」
もうすでに貧血を起こして倒れかけた女を優しく抱きかかえながら、ロゼウスがその耳元で囁く。自力で立ち上がれない女がその腕に縋るようにしなだれかかるのを、シェリダンは音がするほどきつく唇を噛みしめながら睨み付けた。
「――良い度胸だな、ロゼウス」
“自分というものがありながら”見事なまでに堂々と裏切って別の相手を寝台に引きずり込んだ“恋人”を、シェリダンは睨み付ける。
先程「間女」に向けた視線など比べ物にならない程に底冷えした、人を射殺せそうなほどの眼光だがもちろんロゼウスはそんなものに動揺するような可愛げはない。あったらそもそも浮気相手を寝台に引きずり込んだりしない。
「今更だろう?」
腕の中に倒れ込んだ女の髪を優しく梳きながら、ロゼウスはシェリダンに流し目を送る。
「俺がこういう男だって元から知ってたくせに」
今更だろう。
そう、ロゼウスは繰り返した。
◆◆◆◆◆
暖かな料理の香りが鼻腔をくすぐる。
真夜中にも関わらず火まで焚いて、ローラが料理をしているのだ。それも軽いものというわけではなく、食べやすいような工夫はされているが、そのまま晩餐にまで出せそうなしっかりした料理だ。
「貧血を起こした若い女性を、そのまま帰すわけにはいかないでしょう」
そう言って次々に皿を並べるローラの手際は、いかにもこの状況に慣れているようだった。メイド服の裾が翻るごとに、卓の上に料理が増えていく。
「手馴れているな」
「手馴れておりますとも」
呆れ半分感心半分のシェリダンの言葉にさらりと頷きながら、ローラは食後のデザート作りにまでとりかかった。軽く皮を剥いた果物を更に並べたかと思うと、シェリダンの前にもそれを一皿差し出す。
「……何の真似だ」
「シェリダン様もこの時間に起きていらっしゃるなら少し何か口にしたほうがいいですわ。人間お腹が空くと考えなくてもいいようなことを考えてしまいますからね」
「私にアレを怒らず不問にしろとでも言うのか」
「そんなこと申し上げてはおりません。それを召し上がってなおロゼウス様の行動にお怒りになられるなら存分にどうぞ。私は別に痴話喧嘩を止めやしませんわよ。とりなす義理もありませんし」
優しいのかつれないのか誰の味方なのかよくわからない台詞と共に、ローラは料理の続きにとりかかった。包丁が食材を刻む心地良いリズムを耳にしながら、シェリダンは綺麗に切り分けられた果物を仏頂面で口に運ぶ。――美味い。
「そもそもこんな料理が必要になる事態をアレが持ちこむ事に対して何かないのか」
「とは言っても、今更ですからねぇ。ロゼウス様お好きでしょう、巨乳美少女」
自他共に認める貧――もとい、可憐な胸の持ち主であるローラが言った。
シェリダンが「死んでいた」この四千年の間にロゼウスはローラとの間に娘まで設けたはずだが、根本的な女の趣味は変わっていないらしい。
こんな時にシェリダンは、自分がいない間に世界が随分と色を変えたことを考えずにはいられない。彼がいない世界で、ローラたちはシェリダンの知らない新たな絆をロゼウスと結んだのだ。
世界に、時間に、世間に、そして彼らにさえ取り残されているのは、シェリダン一人だけだった。
「ローラ、お前は嫉妬などしないのか?」
「嫉妬?」
「アレとの間に娘を産んだのではないか」
親馬鹿全開のロゼウスが世界一いい女について尋ねられて真っ先に名前を出す彼とローラの愛娘は、今ではゼファードの妻としてエヴェルシード王妃となっている。
「そりゃ産みましたけど。でももうアルジャンティアもいい年ですし。もともと私は奴隷で召使で部下。そこに愛人という肩書が加わったところで、何の変化もありません。それともシェリダン様、ロゼウス様の子どもでも産みたいんですか」
「……阿呆なことを言うな。そもそも何で私が産む側なんだ」
「突っ込むべきはそこでもない気がしますが……まぁ否定的な答が返ってきて良かったです。さすがに実はそうしたいんだとか言われたらいくら私でも引きますわよ」
「……ローラ……」
望む答が返って来ないうえにどんどん話が明後日の方にずれていくのは気のせいか? と頭を抱えるシェリダンに、ローラはくすくすと“邪気たっぷりの無邪気な”笑いを向ける。
「冗談ですわよ。シェリダン様が何を仰りたいのかくらいわかりますわ。ですが残念ながら、その問題に関しては私はお役に立てそうにありません。私とロゼウス様は、そういう関係ではありませんから」
そういう関係でもないのに子どもを産んだのかとか、じゃあ何故子どもを産んだのだとかいう質問を重ねても無駄なのだ、とローラは言う。そこに関してはもはや性別の違いというよりも、ロゼウスに対するお互いの関係性の違いだと言うしかないと。
言葉にできない関係というのは確かに多々あるだろう。四千年の付き合いがあっても、ロゼウスとローラたちは所詮主人と部下という関係性を超えない間柄だということかもしれない。
それでも、シェリダンにはこうしてロゼウスの女遊びの後始末というか、その面倒まできっちり見てやっているローラのことが不思議でならなかった。どうせなら……。
「ロゼウスの奴も、どうせ女を抱きたくて仕方がないというのであれば、お前を抱けばいいのに」
それならまだ納得できるとシェリダンが呟くと、ローラが半眼で生温い視線を向けてくる。
「シェリダン様……」
「な、なんだその眼は。おい、待て。私は何か間違ったことを言ったか」
「何かというよりは何から何まで、それはもう、一から十まで全てにおいて間違った発言です」
「どういう意味だ?!」
「そのままですわよ。ですがまぁ……これに関してはロゼウス様の責任も多大に存在するので、もう私の口からは何も言えませんわ」
はぁ、とこれ見よがしに深く溜息をついて、ローラはシェリダンの手元の空になった皿を下げた。
シェリダンが知る頃の姿より三、四歳年上の少女の外見をとるようになったローラは、以前よりも「女」を感じさせるようになった。まだシェリダンが同じ空間にいるのも耐えられない程の色香を放つ訳ではないが、双子の弟であるエチエンヌと区別のつかない見た目をしていた頃とは自然と扱いが異なる。
外見こそは少女と女の過渡期を演じているが、ローラの中身は完全に女性だ。もっともこれは今更言うまでもないことであり、他者に言わせれば「女という生き物は、生まれた時から女である」らしいのだが。
それでもシェリダンは思ってしまう。
なんとなく納得が行かない。面白くない。
シェリダンには理解不能で苛立たしいものでしかないロゼウスの行動に、ローラや他の者たちはさして不審を覚えないようなのだ。
この状況に苛立ち憤っているのはシェリダンだけ。その憤りを誰も否定はしないが、積極的な肯定もしなければ慰めもしない。別にそんなものを欲しているわけではないが、何もなく「これが当然」という顔をされても逆にどうしていいかわからない。
何故。どうして。
疑問符は責める言葉となり、その対象であるロゼウスが明言を返すまでにはシェリダンの内側で跳ね返るだけだった。何故、どうして。どうしてロゼウスはあんなことをするのか。
自分がいるのに。
四千年の時を超えて、ようやく気持ちが通じたと思ったのに。
どうして。
「シェリダン様」
ふと気づけばローラが廊下に通じる扉に手をかけている。
「そろそろ程良い頃合いでしょうから声を掛けに行こうと思うのですが、一緒に行きます?」
◆◆◆◆◆
「だからただの生理現象だって。別に深い意味なんてないよ。強いて言えば単に彼女が俺の好みだった。それだけ」
男でありながら男を愛して、それでも女の中に出したいと思う時があるだけだと。
それだけのことだとロゼウスは言う。
「好みの相手ならば誰にでも声をかけるのか。お前は」
「うん、そう。まぁさすがにフェザーと付き合ってた時はあいつの報復が多方面に恐ろしすぎてろくに遊べなかったけどね」
事後の気だるさを隠そうともせずに答えるロゼウスを、シェリダンは部屋の入口に背を預けてもたれたままで睨んだ。
浮気相手の女はローラに介抱されてその手料理を味わっている頃だろう。エチエンヌやリチャードに関しては慣れすぎて起きてくる気配もない。
饐えたような匂いのする、仮にも恋人と呼ぶべき相手と浮気相手が場を交わし合っていた部屋に足を踏み入れる気にはなれず、シェリダンは戸口で不機嫌そうに腕を組みながら部屋の中のロゼウスをねめつけるのみだ。
解放感のある大きな窓は空気の入れ替えのためにか開け放たれ、降り注ぐ月光が淡い影を落としている。
ロゼウスは悪びれる様子もなく、銀の月の光を浴びながらまだ口付けの痕も消えない裸身を堂々と晒していた。
「何故あの女なんだ? あんなゆきずりの、何の変哲もない町娘。女ならお前にはローラがいるだろう? そうでなくとも」
「そういうことじゃないんだってば。わかんないかなぁ。シェリダンには。――わかんないよね。お前にはきっと――わからない」
「……どういう意味だ」
「そのまんまだよ」
毒婦の表情でくすくすと、ロゼウスは淫靡に笑う。
「ねぇ、それって嫉妬? 嫉妬なんかしたの? 四千年の永き眠りより蘇りしかつての武国の王陛下が、たかが吸血鬼の“食事”を兼ねた情事に嫉妬?」
「……だったら悪いか」
「ううん」
ロゼウスはしごく満足そうに微笑むと、薄物一枚羽織ってシェリダンに歩み寄る。
気まぐれな猫がすぐさま懐く相手を変えるように、しかめっ面のシェリダンに抱きついた。
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傷つけたい。誰よりも酷く。この愛と同じ程に深く。
あなたを苦しめ、絶望させたい。――この自分の手で。
穏やかで幸福な日々は真綿で首を絞められるよう。
幸せが大きければ大きい程、それを失う日を今か今かと恐れ続ける。
誰かに奪われるくらいならば、その前に全てをめちゃくちゃに、この手で壊してしまいたい。
あなたの心が血を流すその瞬間こそ、もっとも生を強く感じる。だから。
◆◆◆◆◆
「もっと嘆いて、苦しんで、傷ついて」
「……そんな風に私を追い詰めて楽しいか!」
抱きついて囁くロゼウスに、シェリダンが押し殺した罵声を浴びせる。
「うん、楽しい」
「お前――」
「だって、それでも離れられないんでしょ?」
上目遣いに見上げてくる深紅の瞳は蛇のようだ。
抱きしめる腕に無意識に力がこもる。
骨が軋んで痛い程だろうに、それでもロゼウスはうっとりとシェリダンに身を預け、この上なく幸せそうに微笑んだ。
「好きだよ、シェリダン」
「――うそつき」
◆◆◆◆◆
最初から歪な関係だった。
わかっているのだ。世間で持て囃されるような平凡な幸福など、自分たちの間柄で築き上げるのは不可能だということ。
それでも淡い夢の一つくらい見せてくれたっていいじゃないか。
「……私は」
そして先程彼自身が否定した、今更すぎる今更の言葉をシェリダンも口にした。
「お前が、好きなんだ」
抱きしめた肩口に顔を埋めると、ロゼウスの香りだけではなく、先程の女の残り香が甘く香った。
最初から、歪な関係だった。
シェリダン自身もわかっている。もしもあの時あの瞬間ではなく、もっと違う平凡で平穏な出会い方をしていたら。
シェリダンはそれでもロゼウスに恋をする。
けれどロゼウスの方は――少しでも状況が違えば、彼はシェリダンなんかに見向きもしなかったに違いない。
わかりきっていることなのに、それが酷く腹立たしい。
しなやかな女の肌は生来嫌悪の対象だった。それに今では、憎悪に近いものを覚えるようになってしまった。他の誰でもなくロゼウスがそういった女をこそ本来好むから。
男が女を望むのは自然の摂理だ。本来責められるようなことではない。それでもロゼウスが選ぶ相手がローラのような女であればまだ納得や自制をしようというのに、彼が連れ込むのはことごとくシェリダンの許容できる範囲外の女ばかりだ。
女の柔肌にロゼウスの白い手が触れるだけで嫉妬に腸が煮えくり返る。いっそ壊れてしまいたいくらいに憎いのに、臆病な狂気が他の焼け付くような感情の影に隠れてしまう。
「――うん。知ってるよ、シェリダン。お前が俺を愛していることくらい。俺がお前を愛していることの次くらいにはよく知ってる」
「……嘘だ」
それでもシェリダンには、他に選べるような道はないのだ。
ロゼウスに惹かれたその瞬間から、彼の行く末は決まっていた。
「だが。それでもいい。――私の気持ちは変わらない」
棘のある花を愛したのは、他の誰でもない自分自身なのだから。
了.