2.人と人ならざる者たち
確かこの街は人間の言葉で言えば、タルティアン王国王都モレーゼとなる。青の大陸の南東部に位置し、穏やかな気候で作物が良く育つことで知られる国だ。「豊穣の国」と他国に呼ばれるだけあって自然の豊かな環境は幻獣たちにとっても居心地よく、青の大陸内で最も幻獣が多く生息する地域でもある。たぶん幻獣に限らず、普通の生き物にとってもそうだろう。
街の中心を大きな河が流れ、その上に幅の広い橋が架けてあって、人々や荷馬車が行き来する。街の何処から見てもはっきりとわかる大きな建物が東と西に一つずつあって、それぞれ王様の住むお城と、大地の神を祀る神殿らしい。
……? 気のせいかな。どうにもこの街、大地神だけじゃなくて別の神様の気配を感じるのだけれど。
都市を囲む城壁の周りには濠が巡らされ、街の外には畑や果樹園が広がっていた。侵入に当たっては城壁を乗り越えるしかないかと思ったが、猫の姿で人々の足下をくぐるようにして紛れたら何のお咎めもなく入ることができた。猫さまさまである。
人間の作る街並みはとても可愛い。漆喰の白い壁に、緑に染めた瓦で屋根を作っている。タルティアンをはじめ大地神信仰の国々が多いこの地方では屋根瓦を緑色に焼くことが多いそうだ。そんな家々の窓辺には季節の花が飾られている。街中にも樹や花が植えられていて、良い香りを放っている。
しかし実際に雑多な香りが入り乱れるこの中で一人の人間の香りを嗅ぎ分けるのには閉口した。暗殺者は野生動物もかくやというほどに匂いが淡いのだ。街中を歩く他の人間たちを嗅いでも、普通人間とはもっと強い匂いを放つ生き物だと思うのだが……。
とはいえなんとか辿り着き、薄暗い路地裏に立ち並ぶ一件の酒場の前でわたしは足を止める。街の中心部からほんの少し外れた区画でありながら完全な裏道ではない、日常と非日常をわける境界のような位置にあるその店。
二階部分の窓から生えて壁を這う蔦が自然の装飾と目隠しになっている、見た目だけは普通の酒場だ。しかしこれは完全に計算された位置らしく、ここから眺める世界はわたしの目から見てもどうにも曖昧だ。
肩を怒らせて歩く強面の大男よりも、そのすぐ後ろでにこにこと穏やかな笑みを浮かべている、鉄と血の匂いのする優しそうなお兄さんの方が強そうで恐ろしい。恐らくこの人も黒尽くめの少年と同類だ。足音を殺して歩いているのは、何か前の人に用があるのかな? おや、ナイフを取り出したようだ。
「ぎゃっ!」
更に辺りを見回すと、隣の建物の二階の窓から半身を見せている綺麗なお姉さんと目が合った。お姉さんはわたしを見てちょっと吃驚したような顔をして、すぐに「秘密よ坊や」と言うように笑顔で唇の前に指を一本立てた。開けた胸元の辺りから古びた強い血の匂いをさせているお姉さんは吸血鬼だ。街中に普通に住んでいる吸血鬼はちょっと珍しい。
狭い道を歩いていた一人の人間の男がお姉さんに手招きされてふらふらと建物の中に入って行った。
「あひゃ……あひゃひゃひゃひゃ!」
血を吸われているんだろうけどなんか夢見心地らしい楽しそうな声がするからまぁいいか。それよりあの少年のことだと、わたしは酒場に足を踏み入れた。
カウンターのある一階部分には少年の姿はない。グラスを磨く狐の尻尾のお兄さんと、人間の客たちの姿があるだけだ。二階に繋がる階段があったので、わたしは見つからないようにそこを昇った。
ようやくあの少年の匂いを見つけた。しかし、その部屋の扉は鍵がかかっていて入れない。わたしは隣の空き室から忍び込み、窓枠伝いに問題の部屋のバルコニーに忍び込んだ。
部屋の中から不思議な気配がする。一人は人間だ。わたしが追いかけてきた少年だろう。でももう一人のこの気配は……。
「おかえり、ゾイ」
聞こえてきた声に耳を傾ける。少年のものではない声が彼の名を呼び、ようやくわたしはその名を知った。
「なんか騒がしいな」
え! もう気づかれた?!
「外か。何かあったんじゃないか? さっき下の酒場で危ない目をしていた若いのが人を刺したとか。隣の吸血娼婦がまた男の血を吸ったとか」
なんだわたしのことじゃなかったのか。ほっと安堵の息をついていると、ゾイの呆れ声が聞こえてくる。
「その若いのはあんたの知り合いだし、隣の娼婦が吸血鬼だなんてただの噂だろ?」
「そうだな。噂だな。――それよりも今回の仕事の首尾を話してもらおうか」
ゾイともう一人で話をしている。声から察するにこちらもまた、人間で言えば十代半ばの少年だろう。
「施設は潰してきたし、捕まった生き物たちも一応解放してきた。だが、今回の奴らは末端の一部って感じだったな」
話題はわたしも掴まったあの密漁者のことらしい。ゾイの口ぶりからするとただの密漁者ではなく、もっと大きく組織的な動きをしているようだ。
「やはり頭を押さえないとダメだな。詳しい目的は聞けたか?」
「一応……な。だが、どう考えても建前だろう。死にかけの王子のために幻獣を集めるなんて」
タルティアンの現在の王子様は生まれつき体が弱いとかで、王様は王子様の体を治す薬を探し続けていた。近頃一段と王子の具合が悪くなり、王は病を治した者にはたくさんの褒美を与えるとお触れを出しているという。
「人魚の生き胆を喰えば不老不死に。一角獣の角は万病に効くのだったかな? 不死鳥は涙が薬で血が不老不死だったか」
鈴の音に似た声が歌うように幻獣の特性を並べた。貴重な効能を持つ幻獣の体の一部はしばしばそうして人間に妙薬扱いされる。
「王子の病を癒すのが目的なら、そういう種族を狙えばいい。だが施設の中には妙薬とは無関係な幻獣が何匹も掴まっていた。お国のためなんて、ちょうど良い口実だろうよ」
「だろうな。問題はその口実で集めた幻獣たちを、奴らが実際に何の目的で、どういう風に使っているかだ」
わたしは捕まった部屋の中で見た幻獣たちの顔ぶれを思い返す。人魚こそ水槽に入れられていたが、あとの者たちは特に人間にとって有益となる幻獣とは思えなかった。しかしそれはわたし自身が幻獣だからであり、人間が彼らをどのように利用するのか想像もつかないからかもしれない。そういうわたし自身も人魚や一角獣と違って、人にとって有用な薬となるような種族ではない。わたしの血を飲んでもせいぜい鳥の言葉がわかるようになるくらいだ。
「なぁ……長(おさ)。今回の依頼、何故俺なんだ?」
「どういう意味だ? ゾイ」
ゾイの声が、もう一人の少年を長と呼んだ。彼が組織に属しその長が今ここにいる少年であることがこれではっきりとした。
「密漁・密売組織の粛清くらい、俺じゃなくてもできるだろう。それに、こんな依頼を誰が何のためにするのかもわからない。まぁ、あんたの依頼が意味不明なのは今に始まったことじゃないが」
「そうだ。今更だろう? お前はもうすでにこの仕事を半分以上しっかり引き受けているじゃないか。今更何故そんなことを言いだす? 今日の作業で何かあったのか?」
「――別に」
「なら構わないだろう? お前からしてみれば簡単な仕事かもしれないが、相手は獰猛で知られる竜や一角獣まで捕らえるような組織だ。不測の事態があった場合に対処できる人間は限られている。わかるだろう? “魔王殺し”」
わたしはそっと息を呑む。
“魔王殺し”とは、“処刑人(ディミオス)”と言う名の暗殺組織が擁する暗殺者のことだ。その名の通り、かつて大陸の一部地域を支配して魔王と畏れられた怪物を単身で殺したという。
「……わかったよ。やればいいんだろう、やれば。とりあえず奴らの頭の行動の拠点がこの街のどこかにあるのは間違いない。もう少しこの辺りで調べてみる」
ゾイが溜息半分でそう言った。部屋を出る気配を見せたので、わたしもついていこうと伸びをする。次の瞬間、鋭い声がとんだ。
「誰だ!」
気づかれた!
厳しい誰何の声と共に、わたしの潜むバルコニーを隠すカーテンが開け放たれた。
長と呼ばれていたその人を見てわたしは驚愕する。大地の神を奉ずるこの国で感じ取ったもう一つの神の気配を思い出した。
薄紅の髪に空色の瞳。見た目は人間の子どもにしか見えないが、その本性は神々の末子にて最強の闘神として名高い――破壊神。
なんでそんなお方がこんなところに?!
「何者だ。お前のようなものが何故ここにいる」
わたしは畏れのあまり、声を出すこともできなかった。ぽかんと口をあけて彼を見上げるばかりで、視線一つ動かせない。
「……おい、黙ってないで、なんとか言っ――」
「なぁ、長。あんたさっきから仔猫に向かって何ムキになってんだ」
ゾイの不思議そうな問いかけが、わたしと破壊神様の間に張りつめた緊張の糸を切る。
「……猫、だと?」
破壊神様は美しい顔の眉間に皺を寄せて、わたしから意識は離さないまま眼だけはゾイの方を向いた。
「そうだろ? どっからどう見ても猫じゃないか。まぁ確かに視線を感じたと思って駆けつけたらそれが猫だったなんて格好悪くて引っ込みがつかないのもわかるけど」
「ゾイ、お前にはこれが、猫に見えるのか?」
「それ以外の何かあるか?」
ゾイはひたすら黒い目を瞬いて、わたしと破壊神様の間で視線を往復させた。
そういえばわたしは街に潜入する際に、自分に変化の魔法をかけて猫の姿になっていたのだった。わたしの魔術はつたないので強大な力を持つ破壊神様にはかかっていないも同然に見えるようだが、人間であり魔術師ではないゾイにはちゃんと猫に見えているらしい。
変化の魔術で姿形を変えても、魂の波長までは変えられない。魔力を持つ者が変化の術をかけられた者を見た場合、本来の姿と魔術で変化後の姿が二重写しになって見える。ところが未熟な術では常人より格段に優れた感知力を持つ存在には、魂の波長通り本来の姿に見えているらしい。
ゾイがわたしの体をひょいと抱き上げて腕の中に収めた。思いがけず近くなった視線に、わたしは思わずまじまじと彼の顔を見つめる。
「随分小さいな。まだ赤ん坊か?」
「……なるほど、どうやら本気で、お前にはそれが猫に見えているらしいな」
「だから、猫じゃなかったら何なんだよ」
「なんでもいい。猫に見えるなら、そう思っておけ。どうやらその生き物は、単にお前についてきただけのようだしな」
わたしがゾイに助けられた幻獣だということを察したのか、破壊神様はそう言ってひらひらと手を振った。どうせわたしに害意があったところで、破壊神様どころか“魔王殺し”に敵うかどうかもわからないからだろう。
わたしはほっと息を吐いた。にゃあと猫の声で鳴きながら、ゾイを見上げる。
「仕方がないから、とりあえずミルクでもやってくるよ」
「好きにしろ」
わたしはゾイに抱かれたまま下の酒場へ向かう。出されたミルクをありがたく頂いてからその日はお暇した。