07
「ここは、何?」
トワルの魔術によって治されたロシンの喉から、疑問の言葉が口を突いて出る。
「ここがルグラント王家に代々伝わる書物を集めた書庫のうちの一つ、第二書庫。つまり――禁書を集めた部屋だよ」
トワルはロシンを連れて、城の近くの遺跡にまでやってきていた。王城内ではなく、城門を出て少しした場所にある遺跡で、これの管理もルグラント王家の仕事だった。しかしまだ幼かったロシンはここの管理について何も知らず、逆にトワルに自分の一族のしていたことを教えられることとなった。
「禁書?」
「そう、人の血肉や命を使って行う、禁忌の魔術を収めた書。その力の強大さとあまりにも倫理にもとる行使方法、そうして発動した術が大概ろくなことに使われないということから、使用の禁止が全世界的に定められている書物」
「全世界的にって……」
トワルの説明に、ロシンは言葉を失った。この世界には、世界中の国々の意志を統一して何かを決定するような機関はないのだ。それでも使用が禁じられているとは、つまりどこの国もがそれは間違いなく危険であると認めた、最悪の兵器ということではないか。
そんな恐ろしいものが自国の中にあるということすら、これまでロシンは知らなかった。
驚いてばかりのロシンには、その時トワルが何を考えて自分をこの部屋に連れてきたのかまで推測する余裕がない。
「そう、禁書は危険な書物だ。この中の一冊でも扱いを間違えれば、国の一つや二つ、簡単に滅ぼすことができる。確かに人間の生贄は必要だったりするけれど、それだって戦争被害の比ではないし」
遺跡の一室内だというのに、明らかに近代の人々の手が入れられきちんと管理された部屋。多少埃っぽくはあるが、何千年もの年月まるで誰も入らなかったわけではない。
「ルグラントはこの部屋を管理する定めを負っているんだから、決して滅びてはいけなかった王国だ」
その王国を滅ぼした反乱軍に加担したはずの魔術師は言う。
「けれどこの場所が禁書の保管室に定められた理由と同じく、魔力が溜まりやすい地形であるルグラントの代々の王族はその魔力の余波で狂いやすい。ルグラントの王族は特殊な力を持っているために、もっともこの土地の影響を受けやすいんだね」
遺跡を管理しなければならなかった王族。
その遺跡が立つ土地の影響を最も受ける一族。
そして必ず狂っていく、一国の支配者。
「だがその書を使いこなすことができれば、彼に――創造の魔術師に一歩近づける」
ロシンの中で何かが繋がりそうな気がした。だがそれが形になる前に、彼の脇腹に灼熱が走る。
「――え?」
力が抜けた足ががくりと崩れ、ロシンは血をまき散らしながら埃っぽい床の上に倒れる。赤い血が降りかかったとき、本棚に収められている古びた本の背表紙の題が、静かに輝いた気がした。
「禁書の管理者にルグラント王族が選ばれたのは、彼らに利用価値があったからだ。負の魔力の影響を受ける彼らの血は、同時に禁書を制御する力も持っていた」
トワルの声音は変わらない。今まさにロシンを刺したその腕で少年の体を抱き上げると、血を掬い取るために傷口をまさぐった。
「……っ、ぁ、ぁあああああ!」
激しい痛みにびくんと体を跳ねさせるロシンの様子を見てさえ、トワルはこれまでと同じ態度を崩さない。
「君がいてくれてよかった、ロシン王子。反乱軍が王族を全員殺すなんて言うから、どうしようと思ったんだ。でも君がいてくれるおかげで、僕の研究がようやく進む」
「けんきゅ、って……禁、書は、き、し、されて、るって……」
「そうだよ。でもそれがどうした? 目の前に世界の秘密に触れられる呪具があるのに、手に取らない魔術師はいないよ」
痛みに喘ぐロシンを冷たく見下ろしながら、口元に薄い笑みさえ浮かべてトワルは言う。
「大丈夫、ロシン王子。君を殺しはしないよ。君はとても貴重な最後のルグラント王族だ。僕のために、いつでも新鮮な血を提供してくれればいい」
ロシンは刺された脇腹の傷も痛かったが、それよりも酷く胸が痛い気がしながらトワルの気の触れたような言葉を聞いていた。
反乱軍に襲われてから、初めて優しくしてくれた相手だったのだ、彼は。
けれどそれは王族であるロシンの血を採ることが目的だった。ロシンをルグラント王族として恨みをぶつけてくる以外の人間にようやく出会えたと思ったのに、それは上辺だけの偽りだった。
いや……違う。トワルには最初からロシンに優しくしている気はなかった。彼は初めから研究のためにロシンを預かったと言っていたのだ。ロシンが勝手に期待をかけて、裏切られた気分になっているだけなのだ。
彼だけはロシンを王子としてではなく見てくれていた気がしたけれど、本当はトワルこそがもっとも王子としてのロシンを必要としていたのだろう。そしてロシンを王子だからという理由で痛めつけた男たちは、それでも心のどこかでロシンに手加減していたに違いない。本当に彼を王族としてしか見ていなかったのなら、さっさと殺していたはずだ。
自分がこれまでいかに何も見ようとしていなかったかを、ロシンは思い知る。
だから彼の国は滅びたのだ。そして無知と愚かさの代償を、この先一生、支払っていかねばならない。
諦めて目を閉じた少年の顔に、突如として熱いものが降りかかる。
「……え?」
子どものように目を丸くして驚いた顔で、トワルは今度は彼自身が赤い血を噴出させて倒れる。ロシンに加えられたものとは違い手心のまるでない一撃は、容赦なくその生命を奪っていた。
「どうせ、こんなことだろうと思ったよ……」
苦い顔をして、トワルの命を奪った長剣を携えて立っていたのは、ソルバだった。
◆◆◆◆◆
「これでよかったのですか、長」
「ああ」
城の塔の上から、二人の人物が遠くの丘を眺めやる。
「王子よりもむしろソルバの腕の方が惜しいが、仕方がない。これ以上あいつを押さえつけておくのも酷だろう」
「部隊長の造反は、組織に影響を及ぼすのでは?」
「だが、良いこともあっただろう? 世の中には滅びた国の王子より、その王子に入れあげた腕利きの隊長より、野放しにしておくと厄介な奴というのは存在するんだ」
「……トワルのことですか」
「やれやれ、これだから辰砂教は困るな。魔術師の価値観は俺にはわからん」
反乱軍の首領が眺める丘の先に、単騎で駆けていく馬影がある。その背には一人の男と、彼に抱えられた少年が乗っているはずだ。
「禁書を操る野心溢れた魔術師なんて、長く置いておくもんじゃないさ。それに王子様なんてのも、生かしておいたら必ず騒動の種になる。かといって今更俺の気が変わりましたで殺すわけにもいかないしな。トワルの命とロシン王子の身柄は、これまでの働きの褒賞としてソルバにくれてやるさ」
それはソルバの罪を問わず、全てを許すことと同義だった。その言葉を聞いていた男は軽く目を細める。
「これからはお前がソルバの後を継いで隊長になれ、カロブ。ソルバが抜けた分も、お前にはたっぷり働いてもらうからな。ここにいたら狂っていくだろうあいつらと違って、俺たちは自分の故郷に足をつけていなければ狂ってしまう人間だから」
「――はい」
◆◆◆◆◆
たくましい腕に抱きしめられて馬の背に揺られながら、ロシンはいまだ夢の中にいるような心地でいた。
「ソルバ……なんで来たの?」
自分を罪人と呼んだ男のことを、ロシンは忘れていなかった。駆けつけて一撃でトワルの命を奪った男は「これで俺も追われる身、罪人だな」と悲しげに笑った。
何故そうまでして、仮にも同じ組織の仲間を殺してまでロシンを助けにきてくれたのだろう。
ロシンにとって、世界はわからないことだらけだ。
トワルの野心も、ソルバの想いも。
そして――。
「あの人、本当に本物の創造の魔術師だったのかな……」
「さぁな」
ソルバが駆け付けた時には、ロシンはすでに脇腹を刺される重傷を負っていた。魔術師であるトワルは自分でその傷を治すつもりだったのだろうが、ソルバにはそんな力はない。
トワルはロシンを殺すつもりで刺したのではないので、普通の手当てでも一命は取り留めただろう。だが包帯で傷を巻くだけの手当てでは、その後すぐにこうして馬に乗ることはできなかった。
二人が今、馬で逃亡を図れているのは、ロシンの傷を魔術であっという間に塞いだ人間がいるからだ。
『君の一族がこの遺跡の守り人だというのは本当の話だ。でももはや、その血ではここにある禁書の力を抑えきれなくなっている。代々の王がその力に狂わされていくことからも明らかだろう』
ロシンは自分を抱きしめるソルバの腕に縋りつく。
『君にはもう何の力も、その役目もない。今はもう王子ですらないみたいだし? だから行きなよ。君が望むままに』
雪のような銀髪に赤と青の色違いの瞳をした、奇抜な格好の少年。突然遺跡内に現れ、何の予備動作もなしにロシンの傷を塞いでみた彼は、もしかしたら本物の――。
だとしたら皮肉なことだ。あんなにも創造の魔術師に近づきたがっていたトワルは生涯彼を見ること叶わず、創造の魔術師などお伽噺だと思っていた自分が彼の姿を目にすることが叶うなど。
罪人の自分が。
「ロシン……ローセフィド」
呼びかけるソルバの声に顔を上げたロシンは、丘の上の燃えるような夕日を目にする。背後にはルグラントの王城があった。彼が生まれ育った場所であり、そしてもう二度と帰ることはない。
「……帰りたいか?」
「ううん」
ソルバの力ならロシンを殺すことも、力尽くで引きずっていくことも簡単だろう。なのにロシンの意志を尋ねる声は震えている。
彼は力では手に入らないものがあることを知っている男なのだ。これまでのロシンとその家族のような、民に暴虐を強いていた王族とは違って。
もう帰ることはできない。これまでいた場所に、いた時間に戻れない。
それでもロシンは今、不思議と穏やかな気持ちでいた。
トワルの死と共に、数々の恨み言や胸の中の澱が洗い流されていってしまったようだ。国が亡び、王子としての存在意義もなくし、今の自分に何が残っているのだろう。
多くのものを失ったと同時に、何かから解放されたような。これまで失っていたものが戻ってきたような――。
赤い夕陽が世界を染めている。戦乱の炎と違い、その赤は優しく深い。城の外の世界は広く、悲しいほどに美しい。だからもっと、世界を知りたいと思った。そこに生きる人たちの喜びも苦しみも。
背後の男の胸に、全てを預けてもたれかかる。
「連れていって、どこまでも」
了.