WALTZ―悪魔と踊れ―

2.お姫様と司書

「エヴァトは好きな人とかいます?」
 十六歳の少女から不意打ちに尋ねられた三十男は額を本棚にぶつけた。
「ひ、姫君……いきなり何を?」
 今日も今日とてやることはなし、暇を持て余して図書室へとやってきたマルジャーナだ。エヴァトが勧めた新刊、図書室に新しく仕入れたという本の並ぶ小さな棚を眺めながらの、突然の言葉だった。
「いえ、何故、古今東西物語には『恋』とつくものが多いのかと思って」
 どうやらマルジャーナに他意はないらしく、ふと思いついて尋ねたことだったらしい。彼女の眼線は彼の方ではなく、本の背表紙を眺めている。確かにエヴァトが彼女に見ていったらどうかと勧めた棚に入っているのは、どれも恋と名のつく物語ばかりだ。むしろ恋愛要素が全く絡まない物語の方が珍しい。
「えーと、まあ、人間にとって昔から『どのように生きるか?』と『どのように恋をするか?』は二大問題らしいですからね」
「だとしたら、わたくしは『どのように生きるか?』を考えていることになるのかしら。だってどのように恋をするかって……そもそも、恋って自分でしようと思ってするものなのですか?」
「うーん……」
 艶めいた雰囲気はなくただただ素朴に尋ねてくる年頃の姫君に対し、エヴァトはひたすら返答に困る。
「恋……恋かぁ。そうですね……恋をしたい、というのは所謂女の子の夢というヤツじゃないでしょうか……えーと、あと人間は恋をしたいかどうかは別にして、『恋人が欲しい』という願望は常に抱えているものなんじゃないですか? 『結婚したい』とか『彼女が欲しい』とかよく聞きますね」
 エヴァト=ノール。三十歳。人生でここまで返答に気を遣った会話もなかなかない。
「恋ってヤツは……まぁ、人の夢の一つなんじゃないでしょうかね」
「そうかしら? そういうものなのかしら」
 マルジャーナは実感が湧かないようで、きょとんとしている。
「わたくしにはよくわからないわ。恋をしなくても生きていけると思うもの」
「……まぁ、そう、ですね。恋をしないと死んじゃう病ってのは俺も聞いたことないですよ……」
「なのに何故人は恋をするのかしら? したいと望むものなのかしら?」
 一冊の本を手に取りそのいかにも可愛らしい桃色の装丁を眺めながら半ば独り言めいた口調で言うマルジャーナの様子に、ふとエヴァトは気づく。
 こう見えてもマルジャーナは姫君だ。こう見えても、というのは失礼だが、シャロンの第一王女という栄えある立場であることには違いない。そして王族の栄光と引き換えに、彼女の結婚は定められた政略結婚だった。恋などする余裕はない。むしろ、夫となるはずだった人物以外の男に恋などしてしまったら本人も周囲も困るはず。
 そしてその仮定を見事にひっくり返したのが、今のマルジャーナの状況でもある。しなくてもいいはずの恋をしたヴィルダーシュのせいで、周囲は大迷惑だ。何よりマルジャーナが大変だ。
「姫君は……バ、じゃない。ヴィルダーシュ殿下のことがお好きだったのですか?」
「いいえ」
 覚悟を決めたエヴァトの問いかけに対し、マルジャーナはあっさりと答えた。
「正確に言うと、よくわからないと言ったところです。だって、お話する間もなく婚約解消を申し渡されたのですもの」
「……」
 恋をしたことがないのはマルジャーナの方だ。だが、恋をする前に恋に踏みつけられた少女は未来に夢を描かない。
「まぁ……そうですね。恋なんてしなくても生きていけますよ」
 王宮司書はそう締めくくって、二人きりの図書室で仕事に戻った。

 ◆◆◆◆◆

 正式な対面はまだだったが、マルジャーナはヴィルダーシュに会ったことがある。
 それはマルジャーナたちが、ガイアードに到着したその日のことだった。一日目から王子に会えるなどと思ってもいなかったマルジャーナは、一番仲の良い侍女のアマンダと共に王宮の中庭を見て回っていた。
 建物の内部を見て回るのは城勤めの人々も緊張するだろうし、多くの人と顔を合わせなければならないのはシャロン側も気を遣う。かといって部屋に引きこもるのもつまらないし、庭ならば警備の兵士数名だけだから、と彼女たちはガイアード王宮の見事な中庭を見て回っていた。
 見事とは言っても素直に言えば庭園の作りはシャロン王宮の方が立派だ。故国の庭園は噴水が特徴で、その彫刻は一種の芸術品だと他国からも絶賛されている。
 その故国には少し劣るがやはり王宮だけあって立派な庭園を、マルジャーナとアマンダが二人で見て回っているとき、それは起きた。
「あ、見て。アマンダ、あそこに……」
「どうしたんですか? 姫様、ええと、あ、小鳥さんですね」
 マルジャーナの指を伸ばした先を見て、アマンダも主君の発見したものを目視する。庭園の樹の一つの枝と枝の間で、小鳥がもがいていた。
「……なんであんなところでもがいているんでしょう?」
「わからないわ。でも、何だか可哀想。助けてあげられないかしら」
 近くに鳥の巣があるわけでもなければ、その鳥は小さいが雛といったかんじでもない。たまたま羽を休めた枝に引っかかってしまったところなのだろう。
「姫様、梯子を持ってきましょう! 私、その辺りの人たちに借りてきます!」
「え? でもアマンダ、あの高さに届く梯子となると折りたたみ式でもかなりの大きさになるのではない? あなた一人では大変よ? 誰か他に人を呼んできましょう」
「大丈夫です! 私、体力も腕力も下町時代に鍛えてましたから! 姫様は小鳥が落ちないように見ていてもらえますか?」
「ほ、本当に大丈夫なの? アマンダ、無理はしないでね!」
「はい!」
 元気の良い侍女は快活に返事をすると、すぐさま走り出して梯子を調達しに言った。いつもながらその行動力をちょっと呆気にとられつつ見送ったマルジャーナは、また不安げな表情で枝の合間でもがいている小鳥に視線を戻した。ぴぃぴぃと不安げに鳴いている。
「姫様! 借りて参りました!」
「ありがとう」
 アマンダが戻ってきて、マルジャーナに梯子を示す。それを樹に立てかけると、アマンダが下で支えマルジャーナが梯子を上った。
 マルジャーナが小鳥を木の枝の合間から外してやると、羽をばたつかせていた小鳥は勢いよく飛び立って逃げてしまった。どうやら小鳥は枝葉だけでなく、樹に絡まっていた別の植物の蔓にも足をとられてもがいていたようだが、あれだけ飛べる元気があるのであれば怪我などはないのだろう。そのことに少しだけほっとする。
 マルジャーナが梯子を降りようとしたとき、枝に咲いていた白い花が一輪、枯れかけの枝ごとぽとりと落ちた。枝の長さは小指の長さほどにも満たず、花の形が崩れるでもなく落ちたので、とても綺麗だ。
 アマンダに礼を言って梯子を降りると、マルジャーナは地面に落ちたその花を何とはなしに手にとる。枝は枯れかかりもう少しで自然と落ちたのだろうが、今のマルジャーナの行動でそれが早まったのは事実だろう。ごめんなさいね、と地に落ちた花を持ちかえり花瓶にでも飾ろうかと考え、拾い上げたその時、
「あ……」
「姫様、あの方、もしかして……」
 顔を上げた先にいたのだ。言葉を交わせるほど近くではない。だが、相手の顔を見るには十分な距離にヴィルダーシュ王子が。
 王子はふいと顔を背けると、部下らしき別の男性に声をかけられてマルジャーナたちには特に興味を示さず、すぐに行ってしまった。
「姫様、この梯子ってもしかしてあの王子に返せばいいんでしょうか? 私その辺の兵士の方から借りてきてしまったんですけど」
「いえ……たぶん返す相手は……違うと思うわ……」
 アマンダが梯子を持つ隣で、マルジャーナの手の中には白い花が残った。

 ◆◆◆◆◆

 何しろすることがないもので、借りた本は一日で読み終わってしまった。それを返し、また借りる。マルジャーナが図書室に通う日々が続いた。だが今日は何か様子が違う。
「あら?」
 エヴァトのいる図書室に向けていた足を、マルジャーナはその入り口で一度止めた。図書室の入り口に、二、三人の人が集まっている。扉の向こうからは彼女の足を止めさせた罵声が聞こえた。
「だから、貴様は――――」
「そんなもの、俺が知るか! 文句だったらてめぇの親父に言いやがれ! この――」
 がなる片方の声はエヴァト、もう一人にも聞き覚えがあるような。マルジャーナは人垣の一番外側から、すぐ側にいた司書らしき男に尋ねた。
「どうしたのですか?」
「シャロンの王女殿下! いえ、あのその、いつものエヴァトとヴィルダーシュ王子の喧嘩です」
「え?」
 返ってきた言葉に、マルジャーナはぽかんとした。「いつもの」ということは、ガイアードでは、たかだか王宮司書の一人と王太子が喧嘩する習慣があるのか?
「エヴァトと王子っていつも喧嘩しているのですか?」
「ええ、はい」
「それって罰されたりしないのですか?」
「さぁ? 私どもにはわかりませんが、あいつはいろいろと特別みたいですから。時々国王陛下とも話している姿を見かけるくらいですし」
 話してくれる男も詳しい事情は知らないらしく、半ば首を傾げながら騒音絶えない図書室へと視線を戻す。
「ええと、止めなくて良いのかしら?」
「たぶん、そろそろ終わりま――」
 男の言葉が言い終わらないうちに、確かに図書室の入り口からヴィルダーシュが出てくる。心なしか髪型や服装が多少乱れているような。
 マルジャーナは入り口に立ち尽くしていた司書たちとともに、図書室の中へと足を踏み入れた。
「エヴァト、俺たちもう入ってもいいか」
「ああ。大丈夫……って、姫君?」 
 司書たちは控え室のような奥の小部屋に戻ったが、マルジャーナはその場に残る。エヴァトが彼女の姿を目に留めて多少気まずい顔をした。深刻な様子ではなく苦笑を浮かべて。
 エヴァトの服装もやはり少し乱れている。王子と掴み合いの喧嘩でもしていたのだろうか。一国の王太子と掴み合いになっても問題にならないなんて、エヴァトは一体どういった素性の人物なのだろう。飄々とした彼の性格は嫌いではないが、こんなときは不思議になる。
「さっきの声、聞かれていたのなら驚いたでしょう? 気にしないで下さい。俺とバカ王子の喧嘩はいつものことですよ」
「はぁ……」
 気にならないはずはないのだが、マルジャーナとしては何とも答えようがない。しかしエヴァトはその話を続ける気はないのか、マルジャーナの手にしていた本に目を留める。
「それ、もう読み終わったんですか? 早いですね」
「そうでもありませんよ。暇だったものですから」
 カウンターに先日借りた本を返しながら、マルジャーナはしかし新しく借りるものを探しに行く事はせずエヴァトの前で立ち尽くす。
「姫君?」
「エヴァト、その傷……」
「ああ、これですか」
 マルジャーナの目についたものは、エヴァトの服の襟ぐりから覗く傷痕だった。もとの肌の色とは違う悲惨な傷痕が見える範囲だけでもかなり広い。
「五年前のあれですよ」
「国境戦争ですか? ゼルヴェックとの」
「そうそう」
 ヴィルダーシュとマルジャーナの結婚の第一目的は、両国の友好を深めるというものだった。それには五年前の、ガイアードとゼルヴェックの戦争が大きく関わっている。
「……大変な思いをされたのですね」
「それほどでもありませんよ。お見苦しいものを見せてすいません」
 エヴァトが椅子の背に引っ掛けていた上着を着込もうとする手をマルジャーナは止めないが、代わりに告げる。
「見苦しいなんてことありませんよ。誰かを守った証ですもの」
「敵国の人間を殺した証でもありますよ。もしかしたら、自分だけが得をしたいために意気揚々と戦場で人殺ししていた証拠かもしれない」
 軽い口調で空恐ろしいことを口にするエヴァトに、しかしマルジャーナはいつも通りの態度で花のように口を開く。
「例えそうだとしても、わたくしがあなたを見苦しいと思うことはありませんわ」
「……変わった人ですね、姫」
 エヴァトが不思議そうな顔をする。
「ええ。信じていませんから。今のお話」
「俺が嘘つきだとでも?」
「いいえ。そうではなくて、あなたはそんなことをしないと。本当にそうであったとしても、何か理由があったのだと。これだけお話していればわかりますもの」
「これがヴィルダーシュ王子だったら?」
 マルジャーナが言葉に詰まる。顎に手を当てて考え始めた。先程、どうやらこの室内でエヴァトと怒鳴りあっていたという王子だったら。
「……どうでしょう。わたくし王子殿下のことはほとんど知りませんから。実際にお話して見なければどんな方かわかりませんもの」
「俺のことはわかってくださると?」
「少しだけ」
「……俺にも、何となく姫様のことがわかりましたよ」
「まぁ、嬉しいわ」
 邪気のない笑みに、エヴァトは口の端を吊り上げ、眉の端を下げた。困ったような複雑な笑顔。
「……本当に、変わった姫君だ」