3.お姫様と侍女
「姫様、これをどうぞ」
「ありがとう」
マルジャーナは侍女の一人から手渡された道具箱を自分の手元に広げた。飴色のテーブルの上には刺繍やレース編みの道具が市場さながらに広げられている状態だ。もっともマルジャーナは市を見た事がないので、これは下町育ちのアマンダの使った表現である。テーブルには彼女とその他数名の侍女たちがついていた。
シャロンから連れて来た侍女たちと一緒に、今日は手芸をするのだ。洋裁の中でもこういった装飾と芸術に関係する刺繍やレース編みはシャロンでは貴族女性の嗜みであり、王女であるマルジャーナも覚えさせられた。
もちろん仕立屋ではない彼女たちが急いで作り上げるべきものなどないのだが、急遽予定に組み込まれたのだ。本来ならガイアード側から歓待を受けて身体が空く暇もなくなる予定だったのだが、婚約がご破算になったので何故か隣国訪問中にみんなで刺繍の練習だ。
とは言ってもマルジャーナは手先は器用な方で、刺繍もレース編みも自分の服を一から作るのも実はお針子並に得意だった。もっとも刺繍までならまだしも服を作るのは身分の高い女性の仕事ではなく、誰に披露できるわけでもない特技だが。
顔も綺麗ではないのに、綺麗に作れる洋服は公式には披露できない。わたくしって本当に……と複雑な気持ちになっているマルジャーナのことはいざ知らず、侍女たちは作業を開始する。
手元には注意をしながらもマルジャーナはついついこそりとアマンダの方を窺ってしまう。マルジャーナの侍女たちの中でも一際可愛がられているアマンダだが、今は彼女から離れて隅の方で縮こまっている。
アマンダもマルジャーナに対して気まずいという思いはあるのだ。ただ、城に上がってたった数年、それももとは下町育ちだという彼女にとって王宮は居心地の良い場所ではなかった。今回も突然王子に見初められ主君であるマルジャーナを差し置いて求婚されて、彼女としてはどうしていいのかわからなかったのだろう。勝手に進められる結婚話に当事者だというのに口を挟めずに流されている。
マルジャーナとは対照的にアマンダはこういった貴族女性の嗜み、といった作業は苦手だ。皿洗いや薪割りの方が得意だという。
「まぁ、アマンダ。そこ、間違っているわ」
一人の少女が指摘すると、周りの者たちも口々に囀る。
「あら、本当。模様が変ね。これじゃ人前には出せないわ」
「しっかりしなさいよ、こんなもの、初歩の初歩よ」
顔立ちは他の侍女など比べ物にならないほど美しいアマンダは、しかし生まれた時から貴族の世界で生きてきた彼女たちには決して礼儀作法や貴族の嗜みという面で敵いはしない。そう言った様子が、家柄では決して彼女に敵わない他の侍女たちの格好の餌食となる。
「姫様?」
マルジャーナはそっと立ち上がり、隅で一人、慣れないレース編みに挑戦しているアマンダのもとへ向かった。
「大丈夫よ、アマンダ。ほら、ここをこうして見て。一度覚えたら、きっとすぐにできるようになるわ」
「マルジャーナ姫様……」
周りにからかわれて顔を真っ赤にして泣きそうになっていたアマンダが、マルジャーナの言葉にほっとした顔になる。
「この部分を作るときにコツがあるのよ。ほら、こうやってこっちを固定しながら針を動かしてみて? ね、簡単でしょう? でも、ここがわかるまでが難しいのよね? わたくしも初めはそうだったわ」
「あ、ありがとうございます……」
マルジャーナの口出しに、それまでアマンダをからかっていた侍女たちはぴたりと口を噤む。さすがに王女様のやることに文句はつけられない。もっとも彼女たちに言わせれば、アマンダによって婚約を潰された姫君が彼女を庇うことの方がおかしいのであろうが。
だがそれでも、マルジャーナはこういうことは嫌だ。自分のものでもない権力だがこういう時には出し惜しみなく活用する。どうせアマンダをからかう彼女たちにしてみても偉そうに囀ることができるのは本人たちではなくシャロンの重臣である父の権力なのだから。
そして彼女たちは名目上自分たちの主君の娘であるマルジャーナを敬いながら、心の底ではさして美人でもなく突出して優れたところもないマルジャーナを見下しているのもわかっている。わかってしまうのだ。
彼女の周りの侍女でそんなことを少しもしなかったのは、アマンダだけだ。
午後の休憩を挟み、続いた作業も西の空が赤く染まる頃にはお開きとなる。侍女たちはそれぞれ夕食までの一時、マルジャーナが呼ぶまでは休み時間と言う事であっさりとはけていった。
そんな中、一人だけ部屋に残ったアマンダが話しかけてくる。
「どうしたの? もうすることはないし、あなたも休憩に行っていいのよ?」
マルジャーナが声をかけると、俯いていた彼女は顔を上げる。意を決した風に話しかけてきた。
「姫様……私のこと、怒っていますか?」
「いいえ」
アマンダの当然と言えば当然、思いがけないと言えば思いがけない問にマルジャーナは間髪入れずに否定を返した。彼女に問われる前から、マルジャーナは自身の胸の内で何度も繰り返したのだ。アマンダを恨んでいる? 王子の心を奪った彼女を。答はいつも否だ。
アマンダと王子が恋仲になったのは事実。だがそこにアマンダの悪意が介在したわけではない。マルジャーナとアマンダは主従でありながら同時に友人のような関係でもあって、お互いに信頼しあっていた、とマルジャーナは思っている。彼女だけがそう思っているのかもしれないが。
「いいえ……アマンダ、あなたはわたくしの大事なお友達だもの」
先程までこの部屋にいた侍女たちと違い、不美人なマルジャーナを唯一嗤うことのなかったアマンダ。彼女の心根が、その容姿に見合う程に美しいのはマルジャーナ自身が一番良く知っている。そんなアマンダを、王子が好きになるのは仕方がない。それでも普通の政略結婚ならば婚約解消とはいかなかったろうが、ガイアードはその方向を選んだ。それだけのこと。
「ちょっと複雑な気持ちはするけれど、私はあなたに幸せになってほしいと思うわ」
これは本心だ。アマンダがそれを見て、深く深く頭を下げ、震える声で言った。
「本当に、申し訳ございません……ありがとうございます」
その言葉に、マルジャーナはこの話がヴィルダーシュの一方的な恋ではなく、アマンダも彼を憎からず思っていることを知る。そうでなければ多分彼女はマルジャーナにもっと早く相談して、身を引きますと堂々と宣言したはずだろう、何があっても。そのくらいはマルジャーナは彼女に信用されているはずだ。
「顔を上げて、アマンダ。そんな顔しないで。明日のガイアード王主催の舞踏会、一緒に出ましょうね。殿下があなたを待っているわ」
わたくしを待っている人はいないけれど。
心の中でそう呟きながら、マルジャーナは今にも泣き出しそうなアマンダを励ました。
◆◆◆◆◆
夕食を終えた後、少しだけ時間が空いた。明日の準備で晩餐もいつもより短くなったのだ。もっともマルジャーナはいつでも暇なようなものなので、この場合の時間とは「図書室に寄る時間」ということだ。あまり深夜まで図書室を開け放しておくことはどこの王宮でも非常時でもない限りないと思われる。
「あれ? こんな時間にどうしたんですか? 姫君」
そこには、いつもと同じく司書のエヴァトがいた。退屈そうに一冊の本を眺めていたのから視線を上げてマルジャーナを認め、居住まいを心持ち正す。あくまでも心持ちというところに、彼の性格が窺える。
「本を返しに来ましたの。あまり長く借りているのも悪いと思って」
「いえ、全然別に構いませんよ。何しろ利用者はそれほど多くありませんし、姫君が借りたのは小説であって何かの研究書とか政治学の本とかじゃありませんし」
本を貸し出した当人であり、ほとんど仕事のないエヴァトはマルジャーナが借りていった本を知っていた。タイトルだけ見ても最近流行りの小説であり内容も知っているらしい。
「面白かったですか?」
カウンター内でそれを受け取り尋ねてくるのに対し、マルジャーナは簡単に答える。
「ええ。面白かったわ」
そこで少し途切れた会話に、エヴァトが別の話題を持ち出してきた。
「そういえば、明日は国王主催の舞踏会でしたね。姫君もそれに出るのでしょう?」
「ええ。というか、当初の予定では一応わたくしが主賓だったはずです」
ガイアード王が開く舞踏会はマルジャーナの歓迎のためのもののはずだ。
「……当初はって、では、明日は……? 俺も詳しいことは聞いてないんですが、まさか侍女殿が主賓に……?」
恐る恐ると言った様子でエヴァトが尋ねると、マルジャーナはにっこり笑って否定した。
「いえ、アマンダのことはまだ大々的に公表してはおりませんから。もちろんアマンダも出ますし、王子と踊るでしょうけれどね」
エヴァトは複雑な表情をした。それでいいのか? とマルジャーナに問いかけてくる。
「ええ。もちろん」
「そうですか……いや、まぁ、じゃあ会場ではよろしくお願いしますね、姫君」
「あなたも舞踏会に参加するのですか?」
エヴァトの言葉に、マルジャーナは少し驚いた。大々的なお披露目ではなく内輪での歓迎会ということはつまり、国内有数の貴族たちの間だけで行われるということだ。それに、一介の司書が参加するものなのだろうか。
「ええ、まあ一応。これでも貴族なので」
「貴族だったの?」
一応と言うが、マルジャーナの目から見てエヴァトはとても貴族には見えない。自国で多数の貴族を見ているしそういった人々と王宮で働いている人々とはやはり雰囲気に違いがあるので人を見る目はあるつもりだったのだが、エヴァトに関してはわからなかった。
「まぁ、そうでしたの。ごめんなさいね、失礼をして」
「いえいえ、シャロンの姫君が俺程度一介の成り上がり男爵に失礼などありませんよ、むしろこちらの方がいつもこんな感じで失礼ですが勘弁してもらいたい」
「それはもちろん。けれど、では明日は舞踏会で会えるということなのですね」
顔見知りなど一人もいなければ、きっとアマンダのことがあり、王子とも話すことはないだろう舞踏会だ。義務とはいえ心の底では憂鬱だったマルジャーナなのだが、エヴァトも参加すると聞いて何だか嬉しくなった。
「では明日は、よろしくお願いしますね、エヴァト」
「ええ。お姫様、こちらこそぜひよろしくお願いします」
エヴァトがぺこりと灰色の頭を下げる。
「待っていますよ、姫君」
自分を待つ人などいないと思っていた舞踏会に、待っていると言ってくれる相手ができた。それだけでマルジャーナは嬉しかった。