WALTZ―悪魔と踊れ―

4.悪魔と踊れ

 と、言うわけで舞踏会だ。
「うわわ。ひ、姫様、あたし、本当にこんなところに出ていいんですか……?」
「もちろんよ、アマンダ。アキレアス陛下から正式にお招きいただいたのだもの」
 広いホールの天井中央からきらきらとシャンデリアの明かりが届く。着飾った紳士と貴婦人たちがその場に揃い、立食用のテーブルが端の方に行儀良く並んでいる。ガイアード王宮の広間は端から端までかなりの広さがあって、それがあっても踊るのには邪魔にならない。料理と香水の匂いが入り乱れる。
 マルジャーナとアマンダが入場すると、周囲の人々の視線が一斉に彼女たちに向いた。たち、とは言うものの、その九割九部九厘はアマンダの方を見ている。
「なんとお綺麗な」
「あのレディは……」
 人々の注目を集めるのも当然であり、今宵の着飾ったアマンダは美しい。金色の髪は夜会用に結い上げられ、瞳と同じ青色の宝石を使った冠で飾られている。ドレスは胸元の白から腰周りは水色、裾が青へと色を変えているタイプで、清楚可憐から凛とした風情まで使い分けることができる一品ものだ。ちなみに元の持ち主はマルジャーナだが今日のためにアマンダのサイズに直された。
「ひ、姫様……」
「そんなに緊張しなくても大丈夫よ」
 ホール中の人々の視線を向けられて、アマンダが恐縮して縮こまる。できればマルジャーナの影に隠れたいくらいの表情をしているが、彼女よりアマンダの方が背が高い。
 そのマルジャーナは、珊瑚色でフリルとリボンとレースをふんだんに使ったドレスを身に纏っている。茶髪に茶色の瞳の彼女は、もとの色彩が穏やかなためにどんな色を着ても浮くということがない。豊満な体つきのアマンダに比べ寂しい体型を補うためのフリルとリボンだ。
 アマンダとマルジャーナの二人を見ながら、紳士淑女たちの口から感嘆の声が漏れる。
「まぁ、あの金髪のお姫様が王太子の婚約者殿……素敵ね」
「いや、栗毛の侍女殿も中々だよ」
 ……姫と侍女が逆だ。
「ヴィルダーシュ殿下はどこかしら? ねぇ、アマンダ。あなたも王子と一緒なら不安はないでしょ?」
「姫様、今夜は姫様のための夜会では?」
「ええ。最初はその予定だったけれど、今はあなたが主役のようなものよ。わたくしのことは気にしなくていいから、あなたは王子のもとにいってらっしゃい。それにわたくしは……」
 マルジャーナの脳裏を灰色の髪を持つ男がよぎる。
「わたくしも、探したい相手がいますから」
「え?」
「なんでもないわ。それより、王子殿下が見つからなければ、まず国王陛下に挨拶に行きましょう」
 当初はヴィルダーシュ王子の婚約者であるマルジャーナのガイアード国内でのお披露目が目的の舞踏会だったのだが、これも婚約解消によって御破算となってしまった。しかし王族や貴族が一度立てた予定を取りやめるのは簡単なことではなく、国中の有力貴族を集めた舞踏会ともあれば尚更だ。
 そういうわけで舞踏会自体は形を変えて、シャロンの使節であるマルジャーナの歓迎会という名目で行われることとなった。
「アマンダ!」
 アキレアス王に挨拶に行こうとする二人がさりげなく辺りを見回して人波に見知った姿を探しているところで、声がかかった。
「王子様!」
 ヴィルダーシュがアマンダの姿を見かけて歩み寄ってきた。
「ああ、来てくれたんだね!」
 黒髪にエメラルドのような緑の眼の王子は、アマンダに輝くような笑顔を向けた。着飾った美男美女が見つめあうその光景は、一幅の絵のようだ。
 ……本来の主役であるマルジャーナに対する礼儀を無視していることを考えなければ。
「本日はお招きいただきありがとうございます。王子殿下」
「……ああ、マルジャーナ姫か。どうも」
 ヴィルダーシュ王子はとてもなげやりな態度でマルジャーナに表面上だけの挨拶をした後、すぐにアマンダの手を取り彼の友人らしき貴族の一団がいる方へと消えてしまう。
「あ、ひ、姫様!」
「いってらっしゃい。アマンダ」
 突然マルジャーナから引き離されたアマンダが目を白黒させてマルジャーナを振り返るが、マルジャーナは手を振って見送るに留めた。アキレアス王への挨拶は自分がしよう。アマンダは王宮や貴族の礼儀作法に不慣れだ。でも愛する王子と一緒ならば自分と一緒に挨拶回りをするよりも寛げるに違いない、と考える。
 開会の祝辞を述べた後のアキレアス王のもとへと向かう。広間には専門の警備兵がいるので、この舞踏会では貴族や王族は侍女やお付きの者を連れずとも自由に歓談できるようになっている。
 アキレアス王は王妃と共に広間の隅にある一段高い場所から全体の光景を見渡していた。真っ先に話しかけたマルジャーナが去れば、それこそこぞって貴族たちが押しかけるのだろう。王を疲れさせないためにも、とマルジャーナはシャンデリアの明かりの下、優雅な一礼で速やかに挨拶をこなす。
「マルジャーナ姫」
「陛下、本日はありがとうございます」
 わたくしのために、との言葉を抜いて簡単に礼を述べたマルジャーナに、ガイアード王アキレアスは潜めた声で口を開く。今日の主役はマルジャーナであってマルジャーナではない。それはヴィルダーシュ王子のせいだ。
「……こちらこそ、愚息が失礼を。私からもあれに一度正式な謝罪をさせますので」
「いいえ。よろしいのですよ。これがガイアードとシャロンの国交に響くようならばわたくしも恐れながら意見させていただきますが、アマンダはリズアー家の者、ヴィルダーシュ殿下との結婚も我が国としては何の不足もありません。それよりもガイアード王国に彼女を認めていただけることが望外の喜びです」
 言いながらマルジャーナは考える。
『ガイアードと仲良くするのは大事だけれど、あなた一人が王子と喧嘩別れしたところでどうってことないからね。王子様にフラれても落ち込まなくていいのよ!』
 これは母の言だ。マルジャーナの母は普段は大人しいが、言うべき事はいつもしっかりと口に出す人だった。その母王妃の言葉に、父である王も笑って頷いていた。マルジャーナに甘い両親である彼らもまさか本当に彼女がヴィルダーシュにフラれるとは思ってもいなかっただろうが……。
「本当に申し訳ない。もとはと言えばこちらから言い出した婚約であるのに」
 もともとガイアード側がゼルヴェックとの緊張状態を考慮して持ちかけた婚約ではあるが、それ以外の意味もあるように聞こえた。息子当人よりその父であるアキレアス王の方が恐縮してマルジャーナに眼で詫びを示す。こんな人目のあるところで国王が他国の姫とは言え見た目はただの小娘であるマルジャーナに頭を下げるわけにもいかないが、誰もいないところならそのくらいしそうに見えた。
「陛下から?」
「どうぞ、アキレアスとお呼びください、マルジャーナ姫」
「わたくしの方こそ、どうぞマルジャーナと。あの、お話の続きを伺ってもよろしいでしょうか?」
 アキレアスがにこやかに頷いて話し出す。
「実は姫君の母上であられるシャロン王妃様は、私の初恋の相手で」
「え?」
 思いがけない告白に、マルジャーナは目をぱちくりとさせる。
「あなたのお父上と、母上を取り合った恋敵だったのですがね、結局完敗して、これと結婚してしまいましたよ」
 これ、と言ったところで王は王妃に後ろからどこか抓られたらしく、いて、などと小さく呟いている。その様子にマルジャーナの母を初恋と言いながらも、現在のガイアード国王夫妻の仲が良好であることが見て取れた。
「どうせあたくしは大人しくお淑やかなどではありませんよ。悪かったですわね」
 王妃がからかい半分、場を盛り上げるの半分で言うのを聞きながら、マルジャーナは失礼にならない程度の笑顔を作る。
「せめて息子には彼女の娘君であるあなたのような方を……と思っていたのですが」
 若き日の思いの成就、と言うほどでもないがかつての初恋相手と恋敵の娘を自分の息子と結婚させようと考えたことを告白した王は、悪戯に失敗した子どものような気まずい顔をしている。
「でしたら陛下、ヴィルダーシュ殿下はきっと陛下に似たのでしょう。陛下が王妃様を選んだように、殿下も王妃様のように美しくて快活な、素敵な方を選びたかったのですよ」
「マルジャーナ姫」
 王妃が頬に手をあて、まじまじと笑顔で先の台詞を言ったマルジャーナを見つめる。
 だんだんと国王に話しかけようとする人々が増えてきて、マルジャーナは一度撤退を余儀なくされた。
「それではお時間がありましたらまた後でお話しましょう、マルジャーナ姫」
「ええ。ぜひ」
 国王夫妻に頭を下げて別れ、マルジャーナは広間を彷徨う。
「エヴァトは何処にいるのかしら……?」
 アマンダと違って「華やか」とも「絶世の美貌」とも「傾国の美」とも縁のない極々普通の顔立ちの彼女は、常日頃から権力者に近づこうと虎視眈々と狙っている貴族たちの目にも留まらないらしく、誰に話しかけられることもなく一人でうろうろしていた。複雑な事情によりマルジャーナについてもアマンダについても正式な紹介がなされなかった会場で、マルジャーナを一目でシャロン王女と見抜けるのはそれこそ国王夫妻だけだろう。それでなくとも広間中の人々の注目が、ヴィルダーシュ王子と一緒にいるアマンダへと集まっている。
 自国シャロンならまだしも、ここはガイアード。連なる貴族たちに知り合いもいないマルジャーナは、この地で一人だけ面識を持った王宮司書を捜していた。彼の性格だと、まさかヴィルダーシュのようにとりまきを幾人も連れて華やかに談笑してはいないだろう。そんな姿が想像もつかない。むしろ壁際で壁の花ではないが、料理や酒を突いている姿の方が想像しやすい。
 マルジャーナは貴族たちの香水がぷんぷんと漂う広間の中央から外れ、冷めかけた料理の並ぶ壁際をぐるりと回った。
「あ、姫君!」
「エヴァト」
 程なくして灰色の髪の男は見つかった。格好こそ常と違って貴族の装いだったが、浮かぶ表情も態度もいつも通りだ。どう見ても貴族には見えないその様子を眺めながら、マルジャーナはようやく安堵する。瞳に合わせた深緑の貴族服に身を包んだエヴァトの方でも、表情を綻ばせる。
「良かった。会えましたね」
「ええ」
「こんな時に上手い言い方も知りませんで失礼かも知れませんが……可愛らしい格好ですね」
 エヴァトが珊瑚色のドレス姿のマルジャーナを見下ろして目を細める。
「あら。そんなお世辞を言ってくれなくても結構ですわよ? エヴァトの方もよく似合っておりますよ」
「いえ、お世辞ではなくて……でも、まぁ、ありがとうございます」
 自らの容姿に対しコンプレックスのあるマルジャーナの言い方にエヴァトが苦笑しながら礼を言う。マルジャーナは卑屈というほどでもないが、自身への評価は低いようだ。
「姫君はお一人ですか?」
「ええ。一緒になるはずだった方は、ほら」
 人垣の向こう、広間の中央を視線で示すとエヴァトは嫌そうに片眉を上げた。
「あれですか……ってか、あの態度ですか」
 そこにはヴィルダーシュ王子とアマンダがいた。周囲をいかにも良家の出といった身なりの良い紳士淑女に囲まれている。ヴィルダーシュは笑顔だが、アマンダは少し戸惑っている様子だ。しかしこの位置的にも、立場的にもマルジャーナに彼女をフォローすることは無理だ。ここは自力で頑張ってもらうしかない。
「それで、姫君は本来の主賓でありながらここで侘しく一人で食事、ですか? ガイアード王室側は何をしているんです?」
「アキレアス陛下と王妃様には先程ご挨拶させていただきましたわ。でも、気楽な客分であるわたくしたちと違って陛下にはお仕事がありますもの」
「ですが」
「いいのよ、エヴァト。わたくしはシャロンでは主催者側だからいつもそんなに自由にはできないの。ガイアードに招かれて自由に寛いでいいと言われて、初めて舞踏会をお客として満喫していますわ」
「……姫」
 エヴァトが困ったように笑う。
「ガイアード側もお困りでしょう。わたくしへの対応を蔑ろにはできないし、かといって王子殿下にアマンダを諦めさせることができないのでは、わたくしをガイアードにお披露目するわけにもいかないし」
「悪いのはあのバカ王子ですよ。国と国の事情を考えもなしに感情でかき回す。全てに納得して動けとは言いませんが、せめて本来の主賓であるあなたに恥を欠かせない立ち回りぐらいすればいいんだ」
 エヴァトにとっては他人事ながら、ヴィルダーシュのマルジャーナに対する態度には不満と怒りがあるようだ。マルジャーナ自身も何故自分がそれほど彼に嫌われているのかわからないのですっきりとしないものはあるが、目くじら立てるほどのことはないと思っている。
 これが国王たちガイアードの総意だと言うのであればシャロンの代表者としての立場で対応を考えねばならないだろうが、ヴィルダーシュ個人がマルジャーナを嫌うことに関しては問題ない。
「そうねぇ、でも考えてみればこれはこれで良かったのではないかしら? このまま国交的には何の問題もなく結婚して何十年も不仲と言うよりは」
 政略結婚とは本来そういうものである。結婚さえしてしまえば夫婦仲など誰が慮ってくれるものでもない。
「姫……だからと言って、そりゃ確かに十年後のことはわかりませんが……今のこれは、いいんですか?」
 マルジャーナはお付きも連れず、唯一の侍女アマンダはヴィルダーシュがさっさと連れて行ってしまって一人。普通友好国からの来賓の姫君、それも本来王太子の花嫁として迎えるはずだった人物に対してこのような扱いはないだろうと。
 しかし憤慨するエヴァトに、マルジャーナは事も無げに言って見せた。
「だって、あなたがいてくれるもの。こうして実際、わたくしの相手をしてくれているでしょう? ……エヴァト?」
 ふと気づくと、彼は目元を片手で覆ってくっくと肩を震わせている。
「……お供もつけずにお一人で図書室にいらした時から単なるお姫様ではないなぁと思っていましたが、これほどとは……」
 その様子は嬉しいのか、悲しいのか見ている方にはわからない。強いて言うのならば面白がっている?
「あなたはもう少し、周囲に対して怒った方がいいですよ? 王子に対しても、侍女殿に対しても」
「そうですか? でも王子殿下のことはよく知りませんし、アマンダのことは逆に彼女が悪い人でないことを良く知っていますもの。それに、世界は私に都合の良いようにできているわけではありませんから」
「素晴らしい心がけだとは思いますが……」
 エヴァトは妙に歯切れ悪く、そしてマルジャーナに対してというよりはどこか遠くに思いを馳せるように言う。
 この話題を繰り返しても仕方ないだろうと、話題を変えた。彼はマルジャーナに向けて手を差し出す。
「踊りませんか? お姫様」
 広間中央では、楽団の奏でる明るい調べにつられた人々が踊り始めていた。そこに加わらない人々は壁際に寄り、踊る人々を眺めている。一曲目が終わろうとしているところで、今なら二曲目に交じれるだろう。
「舞踏会なら、踊らなければ満喫したとは言えないのではありませんか?」
「ええ。そうね。でも……いいのですか?」
「こちらこそ、こんなしがない貧乏男爵ですいませんが。踊っていただけますか?」
 二度目の誘いに応じてマルジャーナはエヴァトの手の中に自分の手を滑り込ませる。
「喜んで」
 人垣の後方からゆっくりと無礼にならない程度に周囲を押し分けて、広間の中央へと出た。マルジャーナの珊瑚色のドレスの裾が、鮮やかに翻る。
「お上手ですね、姫君」
 ゆったりとした曲調に合わせて優雅に足を運ぶ。マルジャーナはもちろん、エヴァトも相手の足を踏むような無作法はしない。
「覚えさせられるのですよ。ダンスには必ず教師がついていました。たぶん市井の人々の学ぶようなものではないのでしょう。それでもわたくしなりに一生懸命でした」
 覚えさせられたというだけあってマルジャーナの足に淀みはない。一方、少し離れた場所で踊っていたヴィルダーシュとアマンダはというと、王子が渋い顔をしているところを見ると、アマンダに何度も足を踏まれているようだ。しかしこれは王子の方が悪い。アマンダは市井で生まれ育ち、宮廷の礼儀作法どころかダンスだって見様見真似が精一杯だ。
 マルジャーナとエヴァトの組は、二人とも人目を引くような顔立ちではないが、その動きの優雅さで貴族たちの注目を浴びた。
「ねぇ、あれは誰かしら? 見覚えのない顔立ちだわ。でもとっても上手な踊り方ね」
 一国の王女であり、王太子の花嫁となるはずだったマルジャーナは確かに美しくはないが、醜くもない。綺麗に着飾り、きちんと化粧をすればそれなりに愛らしい。本人だけはそう思っていないが。ふわりと揺れる珊瑚色のドレスに、人々の視線は引きつけられる。
「男性の方もだ。見た事のない……いや、待て、誰かに似ているような……」
 そのマルジャーナの相手を務めるエヴァトの方は、彼もまた彼女とは違った意味で人目を集めていた。ダンス自体は特に優れた踊り手というわけではない。だが彼はマルジャーナを相手に、穏やかな微笑を浮かべてそつなくステップを踏む。ヴィルダーシュとアマンダの組が王子は足を踏まれた痛みに顔をしかめ、アマンダがそのたびに青くなり動きがぎこちないのに比べると雲泥の差である。
 ガイアードの人々の関心はエヴァトの踊り方よりもその容姿に向かっているようだった。
「誰だ? あれは。どこかで見た事があるような……」
 誰もが彼をどこかで見かけながら、しかし名前の出てこない相手だと思う。
 そんな周囲の様子はいざ知らず、マルジャーナはエヴァトとの踊りを楽しんだ。
「先日借りた本に」
 複雑なステップの合間を縫ってマルジャーナがエヴァトにだけ聞こえるように口を開く。
「こんな場面がありましたわ」
 彼女が図書室で借りたのは最新の流行小説。清らかな心を持った美しい娘が婚約者の姫君を押しのけて王子の心を射止めるという物語だった。
「王子と娘のワルツですか?」
 内容を知っていたエヴァトが話題に反応した。しかし彼の尋ねた言葉に、マルジャーナは小さく首を振る。
「いいえ。こんな風に綺麗な舞踏会ではなく、夜の庭園でお姫様が悪魔と踊るところよ」
 もともとの王子の婚約者であった姫は、美しい娘の登場によってその立場を失う。生来顔立ちの醜かった姫君は悪魔と契約し、仮初めの美しさを手に入れるのだ。その姫君が夜の庭園で、美しくなったことを喜び感謝をこめて悪魔と踊る。挿絵付きのシーンだった。
 ちなみにその絵は、物語のラストシーンでエヴァトが言ったように王子と娘の踊る舞踏会と対照になっている。
 物語の主人公は美しい娘の方だ。だが実際に婚約者の姫君と似たような立場になってしまったマルジャーナにとってはもはや美しい娘には感情移入しがたく、姫君の身に起こったことは他人事ではない。
「あのお姫様の気持ちが、今ならわかる気がするのです」
 悪魔が耳元で囁いて、姫君は魂と引き換えに悪魔に美しくしてもらう、だが結局王子は姫を振り返ることはなく美しい娘と結ばれ、悪魔と契約した姫君の方は魂を奪われて悪魔に食い殺されてしまう。
 確かに物語の姫君は美しい娘にイヤガラセをするなど、性格が悪い。けれど、それでも。
「では俺が悪魔となりましょうか、姫」
「え?」
 彼女と手を繋いで踊るエヴァトが言った。
「あなたが自分を物語の姫君と重ねるのであれば、一緒に踊る俺は悪魔でしょう?」
「あら、ごめんなさい。そんなつもりで言ったのではないのよ」
「気にしていませんよ、それよりも――」
彼が何かを続けようとしたところで、曲が終わった。
「戻りましょうか、姫」
「……ええ」
 聞きたい気持ちはあったが次に踊ろうと進み出てきた人々の邪魔にならないようにしなければならないこともあって、マルジャーナは質問を喉の奥に封じた。
「姫君、それに――」
 踊り終わったマルジャーナとエヴァトのもとに、人々が集まる。その中に国王の姿があった。
「エヴァンス、お前が――」
 しかしアキレアスの言葉は、思いがけない闖入者によって遮られた。
「リュグベール公爵様!」
「は?」
「え?」
 腰の曲がった、何故この場にいるのかも謎でしかない老人の一人が、エヴァトに近づくなり言った。拝むように腕を合わせる。
「リュグベール様! 生きておられたのですか! 我らの救世主が!」
 老人の繰り返した名前に、マルジャーナは記憶の底をひっくり返す。
「リュグベール様とは、確か五年前にゼルヴェックとの戦争で亡くなった王弟公爵のことでしょうか……?」
 ガイアードは東にゼルヴェック、西にシャロンと隣り合う王国だ。シャロンとは友好を保っているがゼルヴェックとは戦状態にある。
 そのほとんどは冷戦と小競り合いなのだが、五年前に大きな戦争があり、そこでアキレアス王の弟である公爵が亡くなった。その公爵の名がリュグベール。
「リュグベール様……?」
「あのお方は五年前に亡くなっただろう?」
 老人の叫び声に周囲の貴族たちの注目も先程とは別の意味で集まり始めた。老人はエヴァトを拝みながら、その名を繰り返す。
「ああ、リュグベール様! その光り輝く長い銀髪、翡翠の瞳、間違いありません!」
 老人の言葉に周囲はつられてエヴァトの頭部を見た。……灰色の髪だ。しかも短い。どう見ても光り輝く長い銀髪などではないのだが、老人はすっかりと間違えているらしい。
「ちょっとおじいさん、勘弁してくださいよ。俺は王弟公爵閣下なんて、立派なお方じゃありませんよ」
 エヴァトが困ったように後頭を掻く。状況を見て取った周りの者たちは、急に興味を無くし潮のように彼らの周りから引いて行った。
「なんだ、ただの人違いか」
「当たり前だろう、リュグベール公爵様が、生きておられるわけはないのだから」
 ガイアード国内において王弟リュグベールの名は大きい。五年前の戦争は彼が敵からの襲撃に一度倒れた後も前線に姿を見せ兵の士気を鼓舞したのが大きいと伝えられている。リュグベール公爵の活躍がなければ、今頃ガイアードはゼルヴェックとの戦争に負けていただろうと言われている。
 英雄のように讃えられてはいるが、その人物が生きているわけはない。戦の最後、緊張状態が終わると彼は気力が尽きたように、それまで死ぬわけにはいかないと重傷にも関わらず張り詰めていた気をようやく緩められる段階になって、死んでしまったのだという。
「旦那様!」
「わわわ! み、皆様に失礼を……」
 結局その老人はどこか高名な貴族のご隠居だったらしく、従者たちが慌てた様子でやってきて彼を連れて行った。従者たちの話によればそのご隠居は今はよぼよぼのお爺さんでも、五年前はリュグール公爵の兵の一人として戦争に参加していたというから驚きだ。
「リュグベール様、五年前のご勇姿、今もしかと覚えておりますぞう……!」
 老人は従者たちに引きずられながら最後までエヴァトに向けてそんなことを言っていた。
「あー、はいはい」
 エヴァトが投げ遣りに手を振る隣で、マルジャーナも合わせてついつい手を振っていた。
「あー、ごほん、ノールド男爵エヴァンス」
 老人の登場で口を挟む隙のなかった国王アキレアスが、わざとらしい咳払いで注意を引き、エヴァトへと声をかけた。エヴァンス、という聞きなれない名にマルジャーナは内心でそっと首を傾げる。
「おや、国王陛下、どうも」
 自国の王相手でもいつもと全く変わらず気楽に返事をしたエヴァトを、アキレアスが軽く睨みつける。
「失礼、マルジャーナ姫様、この男を少し借りても良いでしょうか」
「ええ、わたくしは構いませんけれど」
 マルジャーナに一言断りを入れて、王はエヴァトを引きずっていった。しばらくしてエヴァトは戻って来たが、何を話したのかマルジャーナには告げず、ただ微笑むばかりだ。
 舞踏会の夜はゆっくりと更けていった。