WALTZ―悪魔と踊れ―

5.お姫様と王子様

 数日後。
「すみません、姫様……」
「いいのよ。慣れないことの連続で疲れたのでしょう。ゆっくりと身体を休めなさい」
 マルジャーナの侍女、アマンダは熱を出して寝込んでいた。本人はその日も朝からマルジャーナの部屋に仕事をするつもりで訪れたのだが、マルジャーナがそれを許さなかった。全体的に顔が赤く瞳が潤んでいる状態のアマンダは、自分が体調を崩していることに気づいていなかったようだ。
「でも姫様、あたし、本当にこれくらい平気です……定食屋で働いていた時は、少しくらい体調が悪くても働かされましたし」
 侍女たちに与えられた部屋の一つに、アマンダは寝かしつけられている。王太子に見初められた彼女はもとより一室を与えられていたので、こういう場合わざわざ部屋を移動しなくて済むのが助かった。しかしそうなると逆に体調を気遣ったり看病してくれる相手もいないので、最初の準備だけ整えにマルジャーナがやってきたのだ。
「ここはガイアード王宮だし、あなたはもう定食屋に奉公しているわけではないわ。大丈夫よ。仕事と言う仕事もないのだし、わたくしもあなたの様子が落ち着いたらまた図書室に本を返しに寄らせてもらうわ。だから、あなたが元気になってくれるのが一番よ」
 シャロンの侍女たちは生憎と仕事があって出払っている。昨日のうちからわかっていればアマンダの看病に人手を割いたのだが、今日の朝になって倒れる寸前だった彼女だ。落ち着くまでマルジャーナが様子を見ることにした。寝台脇に椅子を引き出して座る。
「こんなことに姫様のお手を借りるなんて……申し訳ありません」
「そんなに気にしなくていいのに。一番暇だったのがわたくしだと言うだけよ?」
 マルジャーナの言葉は掛け値なしの本音である。侍女たちには常日頃より主の生活を整える仕事があるが、ガイアード滞在中の予定がほとんど潰れたマルジャーナには、これと言った仕事がない。
「咳はないみたいだし、頭痛も腹痛もないのよね? 本当にただ熱を出しただけなら、きっとすぐに治るわ。アマンダ、何か食べる? 林檎とか葡萄とか果物を国王陛下が届けてくださったみたい。今皮を剥くわね」
「ひ、姫様、そこまでしてくださらなくても結構です! 自分でやりますから!」
「あら、でも熱で頭がフラフラしているときに刃物を持つのは危険よ。わたくしがやるから、横になっていてね」
 マルジャーナは乱暴でも強気でもないが、決して気が弱いわけではない。むしろこんなときはどこか有無を言わせない様子で、さっさと林檎を剥く作業にとりかかってしまう。
 立派な王宮の客室の一つとはいえ侍女部屋で、熱を出して寝込んだ侍女のために林檎を剥く主というのも珍しいだろう。果物籠に添えられていたナイフを使い、マルジャーナの手はするすると器用に林檎の皮を剥いていく。
「……姫様って、本当になんでもできますよね……」
 布団から目だけを覗かせて大人しくその様子を見ていたアマンダが、ふいにぽろりとそう口にする。
「あら? そんなことないわよ」
 むしろアマンダの方が自分の持っていないものをたくさん持っている。そう思いながら、マルジャーナは綺麗に剥いた林檎を皿に載せて寝台脇に置く。
 アマンダはすぐに手をつけようとはせず、なおも続けた。
「そうですよ。大人しくて、女の子らしくて、あたし、お姫様はそんなことしないってずっと聞いてたんですけど、お裁縫だって料理だってできるし、ピアノだってダンスだって……あたし、舞踏会では王子様の足を何度も踏んじゃって……」
「ええと、ダンスでは足を踏まれた方が悪いらしいから、気にしなくていいのではない……?」
「シャロンの姫は、国の宝。そう言われています」
「え? コーラルのこと?」
「姫様のことですよ」
 まだ五歳の妹姫の名前を出したマルジャーナに、アマンダがすかさず訂正を入れる。
「姫様を送れば、きっとガイアードとの外交も上手く行くだろうって。姫様、今まで一度も誰にも怒ったことがないって本当ですか? あたしが王宮に仕えるようになって二年経ちますけど、それでも誰かに怒ってるところ見た事ないけど……王女として相手を嗜めたり、義憤に駆られることはあっても、決して感情的に誰かを責めることはないって……」
 熱で意識が朦朧としているためか多少怪しい口調ながらいつもより饒舌に喋るアマンダ。
「あたし、王子のことは好きになっちゃいましたけど、姫様からあの人を取る気なんてまったくありませんでした」
「ええ……知っているわ」
「今では信じてもらえないかも知れませんけど、身を引くつもりでした」
「信じているわ……」
 そう、信じていた。だから憎めなかった。
 恋仲にある男が浮気をした時、女は裏切った自分の恋人ではなく相手の女を責めるものだと言う。ヴィルダーシュとマルジャーナは政略結婚の許婚同士であり間違っても恋人ではないが、その理屈から言えばマルジャーナは誰よりも女らしくないのだろう。
 ヴィルダーシュ王子の頑固さはシャロンでも有名だ。彼がどうしても折れなかったために、ガイアード側は彼とマルジャーナを結婚させることを諦めたのだろう。そろそろシャロン側にも報告を送らねばならない時期だ。国の父王たちはどうするのだろう。
 シャロン側としてはもちろん、マルジャーナとヴィルダーシュが結婚する方が都合が良い。それはガイアード側でも同じ事だろう。ただ、シャロン側ではつき返された花嫁であるマルジャーナをどうするかが一番の問題だ。
 マルジャーナだとて強くはない。わざと考えることから逃げている問題もある。これから自分はどうなるのか……。
「ねぇ、もう気にしないで、アマンダ、それよりも――」
 話を変えようとしたところで、扉の外から足音が聞こえてきた。病人の枕元に障るようなそれは、一人ではなく複数の人を連れているからだろう。
「アマンダ! 大丈夫か! 倒れたって聞いて――」
 慌てぶりが傍目にもわかるほど勢いよく扉を開いて、ヴィルダーシュが現れた。背後で彼の侍従が、殿下! うるさいです! 周りの迷惑です! と控えめながらも叫んでいる。
「マルジャーナ姫」
 アマンダを心配してやってきた彼は、マルジャーナの顔を見るなり嫌そうな顔をした。一応マルジャーナは礼儀を慮って、椅子から立ち上がり頭を下げる。
「王子……」
「殿下、アマンダのお見舞いですか?」
「ええ、そうです。マルジャーナ姫、何故ここに……」
 何故も何もその状況は看病にしか見えないだろうに何故かヴィルダーシュは尋ねてきた。
「あなたと一緒ですわ」
「ふざけないで下さい。もとはと言えばあなたのせいでしょう」
「は?」
 当たり障りのない答を返したマルジャーナに対し、それこそ何故かヴィルダーシュは敵意もあらわに睨みつけてきた。しかも今度のアマンダの不調は彼女のせいだと責め立てる。これにはマルジャーナ自身はもちろん、彼女に看病されていたアマンダも吃驚だ。
「一体何を――」
 王子が何か勘違いしているのではないかと思ったマルジャーナは口を開きかけるが、それよりも早くヴィルダーシュが言葉を続ける。
「だいたい、初対面の時からあなたは最悪だった。いくらシャロンの賓客だからと言って人の国の庭園の花を取らせるために、このか弱いアマンダ一人に梯子を持ってこさせるなんて、とんだ礼儀知らずの無作法でしかも他人を思いやる心のない、考えなしだ!」
 初めて会ったあの日の庭園、樹の枝に引っかかった小鳥を見つけた。
 ――姫様、梯子を持ってきましょう! 私、その辺りの人たちに借りてきます!
 ――え? でもアマンダ、あの高さに届く梯子となると折りたたみ式でもかなりの大きさになるのではない? あなた一人では大変よ? 誰か他に人を呼んできましょう。
 ――大丈夫です! 私、体力も腕力も下町時代に鍛えてましたから! 姫様は小鳥が落ちないように見ていてもらえますか?
 あの後、無事に小鳥を枝から外して下りた時、樹に咲いていた白い花がぽとりと地面に落ちてそれを拾い上げた。
 だけどマルジャーナはそれを落とすために樹に登ったわけでもなければ、アマンダに梯子を絶対に一人で持って来いなどと無茶を言ったわけでもない。
「それは――」
 同じ事を考えたのか、アマンダが寝台に上体を起こし顔色を変える。
「ああ、アマンダ無理はしなくていい。私が今話があるのはこの根性悪の姫君の方だ」
 ヴィルダーシュはアマンダを制し、なおマルジャーナに言葉を叩きつける。
「いくら蝶よ花よと育てられた温室の姫君だからと言って、やっていいことと悪いことの区別もつかないのか? 我が父には上手く取り入ったようだが、私はあなたのような人と死んでも結婚する気はない。さっさと国に――」
 帰れ、とそう言うつもりだったのだろう。
 ヴィルダーシュの言葉は一方的で、マルジャーナの言い分を聞きもしない。聞くどころか、そもそも彼は彼女に釈明をさせる気もないようだ。いや、むしろもとより釈明などせずとも彼の勘違いなのだが、彼はそんなこと考えもせずマルジャーナが悪いのだと決め付ける。恐らく彼は思い込みが激しく、人の言う事も聞かないだろう。
 マルジャーナがアマンダに無理をさせたと思った。だから憤慨した。身分で人を差別しない、それ自体は人が好いのだろう、それはわかっている。
 だが彼の一方的な価値観で決め付けられた方はどうなる。
「姫様!」
 悪魔が耳元で囁いた。アマンダの悲鳴で我に帰ると、両手が血に濡れている。
 話を聞かない相手を、どうやって言葉で説得できるというのか。残された手段は暴力しかないだろう。
 部屋の寝台の脇のチェストの上、果物籠には先程も林檎の皮を剥くのに使ったナイフがあった。立ち上がっていたマルジャーナがそれを手に取るのにさしたる労力は必要ない。
 ヴィルダーシュの腹部にナイフの刃が埋まる。自失していたマルジャーナが我に帰ると、その手からナイフが落ちた。ヴィルダーシュが血の染みた傷口を押さえて呆然となる。
「きゃぁあああああ!!」
「マルジャーナ姫が、王子を――!」
 ヴィルダーシュの連れていた侍女、侍従たちが叫び出し、場は騒然となった。