WALTZ―悪魔と踊れ―

7.あなたとわたしの物語

 牢獄の中に姫君が一人。
「はぁ……」
 思わず溜め息をつかずにいられないのはもちろんマルジャーナである。姫君といえども滞在先の王国の王子を刺すことなど許されないことだ。なので、牢屋に入れられた。しかしやはり姫君なので、そのまま凍え死にや飢え死にしそうな目には遭わされない。鉄格子が嵌められた牢獄の中だが、それなりに快適空間へと整えられている。
 その中でマルジャーナは一人、重い溜め息をつく。やってしまった……。そんな言葉では済まされないような、最大の暴走を。
 彼女は血の拭われた自らの掌に視線を落とす。この手が人を刺した。自らの言い分を何一つ聞いてくれなかったヴィルダーシュを。
 彼の怪我がどの程度のものかわからないが、自分が相手の腹部に思い切り刃を埋め込んだのは覚えている。とんでもないことをした。王子は生きているのだろうか。その場面を見ていたアマンダはどうしたのだろう。
「でも、後悔はしてないわ」
 王女を閉じ込めた牢獄の前には当然見張りがいる。中にいる人物の身分と、事件の内容が内容なのでそれは見張りと言うより兵士の姿をした下男のような者なのだが、ガイアードの兵士であることには間違いない。それを知っていてマルジャーナは呟く。独り言には多少大きな声で、聞こえるように、彼らの国の王子を刺した、それでも、
「後悔はしていないわ」
 と。刺したいから刺した、それだけだ。綺麗な言葉で取り繕って自分を弁護して命乞いをする気など毛頭なかった。一国の王太子を刺したのだから、罪に問われないということはないだろう。それでも後悔はしない。今もしていない。
 ヴィルダーシュはマルジャーナの言い分を一切聞かずに彼女を知った気で罵倒した。だからマルジャーナもヴィルダーシュの言い分を聞かずに彼をその言葉だけで判断して刺したのだ。それを悔やむ気持ちなどない。
 ――私はあなたのような人と死んでも結婚する気はない。
 その言葉をマルジャーナはヴィルダーシュにそっくり返す。結婚を潰してくれたアマンダに感謝したいくらいだ。マルジャーナは死んでも彼と結婚する気はない。比喩ではなく文字通り、彼を伴侶とするぐらいなら、このまま喜んで死刑にでもなんでもやってやる。
 騒ぐでも泣き喚くでもなく牢獄の中で静かにそう息巻いていたマルジャーナの耳に、足音が聞こえた。今度はヴィルダーシュのように騒がしくもない、落ち着いた足音だ。
「姫君」
「……エヴァト?」
 一瞬、誰だかわからなかった。エヴァトは何故か、あの舞踏会の夜よりもきちんとした衣装を着込んでいる。普段はやる気のない、貴族然とした雰囲気の欠片もない彼だが、今はまるで一国の王のように堂々としている。
「どうして、ここに」
「あなたが王子を刺したって聞いて。それで……大丈夫ですか?」
「わたくしは問題ありません。体調は万全です」
「心の方は?」
 問いかける声があまりにも優しいのでマルジャーナは泣きたくなった。
「後悔は、していません」
 だけど涙は零さずにぐっと堪え、三度目のその言葉をはっきりと口にする。それは彼女のプライドだった。
「王子の容態は?」
「重傷です」
 エヴァトの答に覚悟していたこととはいえ、一瞬ぎゅっと胸を締め付けられるような感覚に陥る。これで彼が死んだら、あの優しいガイアード王夫妻は王太子を失うのだ。
 しかし続いたエヴァトの言葉は彼女の予想を斜め上に滑っていった。
「あなたに刺された場所はたいしたことありませんが、侍女殿に殴られた顔面が」
「……は?」
 誰が、何だって? 思考停止するマルジャーナを置いて、エヴァトがさらりと説明する。
「姫君があのバカを刺したのは果物ナイフで、しかも王族の無駄に豪華で布の無駄遣いな分厚い衣装の上からでしょう。あなたみたいにか弱い娘さんが全力で刺したってそんなもの大事には至りませんよ。それよりもあの侍女さん、アマンダとか言いましたっけ? 彼女が王子が軽傷だと知れた途端に全力で……あの子の方が姫よりよほど力あるんですね……『王子のバカ! 姫様はあんたの言うような人じゃないのよ!』と王子の顔面を殴り飛ばしたせいで、歯が二本ほど抜けたそうです」
 それは確かに重傷だ。
「安心しましたか?」
 問われて、マルジャーナは自分の胸の内に聞いてみる。
「……いえ、もっと深く刺しておけば良かったと……」
 エヴァトが苦笑した。
「その後、もともと熱があった侍女殿もぱったり倒れてしまったので今はガイアード側もシャロン側も大騒ぎですが……本当に大丈夫ですか? 姫君」
「え、ええ」
 ちょっと色々な意味で想像外の事態に陥っていると聞かされたために動揺はしたが、耐えられないほどではない。
「それで……どうして、あなたがここに来たの……?」
 マルジャーナがふと真面目な顔つきになって尋ねると、エヴァトも表情を改める。いつもの笑顔から、真面目な表情へと。
「王子は軽傷とはいえ、シャロン王国の王女であるあなたがガイアードの王太子を刺した、この事実は変わりません」
「ええ」
「このことが明るみになれば、二国の間には亀裂が入るでしょう。あなたもお咎めなしで済まされるわけはありません」
「ええ。だから、ガイアードはわたくしを処刑し、シャロンはそれを受け入れるでしょう。そしてヴィルダーシュ王子の花嫁にはアマンダがなる……それで全てが治まるでしょう」
 友好関係にある一国の王子を刺した、刺し殺そうとしたのはそれだけのことなのだから。
「そうですね。普通ならね。ですが姫君、この城の者たちはみんな、あなたが王子に虐げられていたことを知っています」
「虐げられ……」
「今だからこそ誰もがはっきりと言いますよ。王子のあなたへの扱いは、あまりにも不当であったと。バカ王子は後先考えずに行動することが多々ありますからね。あれで迷惑している人間も少なからずいたんです。この城の中でも、あなたに同情的な声は多数寄せられています。姫君……」
 何か言いかけたエヴァトは、ふと気づいて牢獄の見張りに手を振った。手振りで下がれ、と告げると兵士は撤退していく。二人きりになった室内で改めて口を開いた。
「ここで、提案があるんです。姫君、俺と一緒に逃げませんか?」
「え……」
 てっきり自分は処刑、もしくはそれに準じる扱いで処分されるのだと思っていたマルジャーナは突然の言葉に目を見開いた。
「今のわたくしと関わるのは、あなたにとって有益とは言えませんよ、エヴァト。どうか火の粉が降りかからないうちに、あなたこそ逃げてください」
 エヴァトはゆっくりと首を横に振ると、マルジャーナの前に一つの書状を差し出した。ガイアード国王の御璽が押されたそれは貴族の叙爵を示している。『エヴァンス=ノールドを侯爵に任命する。』
「今しがたこれを国王陛下から貰ってきました。そしてもう一つ、あなたです、姫君」
「わたくし?」
 エヴァトの叙爵とマルジャーナ、一体何のことだかわからない彼女に彼は一から説明する。その真摯な緑の瞳が翡翠のように煌いた。
 マルジャーナの脳裏に舞踏会での老人の言葉が蘇る。銀髪に、翡翠の瞳。
 ――リュグベール公爵様!
「聞いてくれますか、姫。私はこのガイアード国王の弟、リュグベール=アル=エルヴァスティン=ドーレル=ガイアード公爵……」
 聞いているマルジャーナもごくりと息を詰める。しかし次の言葉は別の意味で意表を衝くものだった。
「の、影武者です」
「……影武者?」
「ええ、つまるところただの村人ですね」
 もったいぶった言い回しの末に影武者?
 だがエヴァトの言葉はそこで終わりではなく、続きがあった。
「五年前、あの舞踏会でご老人も言っていたでしょう、ゼルヴェックとの戦争があった」
「リュグベール公爵はその時、ゼルヴェックの大軍を前にしても重傷の体で怯むことなく兵士たちの前に姿を現し、ガイアード軍を導いたと聞いておりますけど」
「ええ。そう伝えられていますね。けれど真実は違います。リュグベール公は戦の上手として知られていましたが、五年前は戦いの初めの方で命を落としていたのですよ。困ったのは残された者たちです。王国上層部は、彼なしでは兵士たちの心を支えられないことを知っていました。ですから、影武者を立てたのです」
 それが自分だとエヴァトは言う。
「戦の初期に亡くなった公爵の代わりに、その辺の村から適当に選ばれた影武者が俺です。リュグベール公爵最後の伝説と言われている時期の公爵は、俺なんですよ」
 強い日差しの下では銀色に見えるかもしれない灰色の髪を振って、エヴァトが苦笑する。その顔はやはりとても貴族とは思えず、マルジャーナの親しんだあの王宮司書だ。
「影武者としての功績、そして口止め料として、俺は男爵位に加えかなりの褒章をガイアードからもらえることになっていました。しかし、そこはそれ、その辺でただ鍬振るって畑耕していた農民がすぐに戦争の褒章にあれやこれが欲しいなんて思いつくと思いますか? でも受け取らないことには王国も口止めできたと安心できない。そこで王宮にとりあえず司書として雇ってもらったまま、五年もズルズル来てしまったわけですが……」
 そこに今回の事件が起きた。
「俺は国王に言いました。欲しいものは、爵位とマルジャーナ姫だと」
 告白じみた言葉にマルジャーナが目を瞠る。
「ガイアードとしてもシャロンとしても、このままあなたを王女として国においておくわけにはいかないでしょう。かといって、殺すわけにはもっといかない。何せ今回のことは全面的にうちの国のバカ王子が悪いんですからね」
 ――こんな奴、こんな奴に叔父上の戦功を代わりにくれてやるとは何事ですか!
 その昔、リュグベールの影武者を務めたエヴァトに幼かった王子が言った言葉。その時からエヴァトは彼を見放している。物の道理を全て理解しろとは言わないが、世の中やっていいことと悪いことがあるのだ。ヴィルダーシュは一見正義漢に見えて実はその区別がついていないのだとエヴァトは思う。
「マルジャーナ姫は、この国で『病死』したことになります。それが両国の体面を保ったまま事を治める一番穏便な方法だ。王女としての地位を全て捨てて、俺と行きませんか? 一応これでも侯爵の位はもらったんで、そこそこいい暮らしはできると思いますよ」
 ほら、とあまりにも軽く掲げられた紙、しかしそこに書かれている内容は重い。
「俺は王子でも、国王でもありませんが、でも悪い取引を唆す悪魔にくらいはなれますよ。十六歳のぴちぴちの美形王子とは違って三十路のろくでもない男ですが、どうです? 結婚してくれませんか? 姫君」
 牢獄の鉄格子を挟んで二人、夜の中で。
 少女は王子様を刺したお姫様失格の姫君で、男はハリボテの爵位を手にした、知恵も勇気も学も強さもないただの男。二人とも輝かしい功績や世間の注目よりも、それらを集める人への嫉妬や不満の方が共感できる。勇者より天使より悪魔の方が身近な存在だ。
「物語とは、全然違うのね」
 まるで物語にはならない情景。牢獄の鉄格子の中では、ワルツも踊れない。どんなに意外性を狙った流行の小説もこんな場面を描きはしないだろうけれど。
 けれど彼女には、それで十分だった。
 目元に溢れた熱い雫をマルジャーナは自分の指で拭い、エヴァトに応える。広い鉄格子の隙間から彼が手を差し入れた。ワルツに誘うように。
 舞踏会の日のようにマルジャーナはその掌に自分の手を滑り込ませ、微笑んで頷いた。
「喜んで」