風の青き放浪者 01

2.宰相家の道楽息子

 夜が明けようとしている。
 白み始める東の空から差し込む光に、黎明の樹海は薄青い闇を退けるように淡い紫に染まっていった。まだ春の終わりだが、冬の雪の日の朝のようにしんと音を吸って静まり返った世界が、刷毛で塗ったように薄らと色づいて行く。
 目覚め出した小鳥たちの囀りに浅い眠りから引き起こされ、アディスはその光景を目にした。
「うわぁ……!」
 野宿に寝ぼけていた頭は、眼下に広がる壮大な光景に一気に冴え渡った。彼の見渡す世界は青く、鬱蒼と茂る木々の葉の藍色から空の天辺の薔薇色がかった青にまで濃淡を描いている。それほど高い山ではないはずなのだが、中腹からでも空が酷く近く思えた。
 吹く風に今の空と同じ色に染められた青銀の髪をなぶられながら、アディスは朝の冷たい空気を吸った。肌寒さに引き寄せたマントが風にはためき翻る。
 近くのちょうど良い切り株に腰を下ろすと、何を置いてきてもこれだけは手放せなかった竪琴を荷物の中から取り出した。一、二度音を確かめると、この空気に相応しい曲を奏で始める。
 アディスが宰相家の「道楽息子」と称されるのは、この竪琴の腕が理由だった。しょっちゅう城下町に降りては酒場で吟遊詩人のように歌うアディスの行動を、父である宰相ソヴァロをはじめとして良くは思わない人間が多い。
 だが、アディスにとって歌と竪琴は、趣味を通り越してもはや彼の一部だった。だからこそアディスは道楽息子と呼ばれるのだ。
「ん……?」
 赤い羽をした小鳥が数羽、アディスの肩や頭上へと降りてくる。彼はくすぐったく笑って、小鳥たちに話しかける。
「この竪琴が聴きたいの? ランフォスみたいだね」
 エクレシアの守護聖獣がアディスに懐いていた一番の理由はこの竪琴の音であろうと、アディス自身は思っている。王家の守護聖獣はよく王子の護衛という名目で、彼らに混ざってアディスの竪琴を聞いていた。
 その頃のことを思いだし、アディスは森の動物たちに聞かせるつもりで竪琴を奏で始めた。
 朝焼けにのびやかな音が溶けていく。彼が歌うと、茂みに隠れていた栗鼠や兎、鹿に狸など他の動物たちも傍にやってきた。アディスが素知らぬ顔で竪琴を奏で続けていると、動物たちは安心してそれに聞き入る。
 歌いながらアディスは、誰かが自分を呼ぶのを感じた。
 だが実際に聞こえるのは自分の声と竪琴の音色だけで、あとは鳥の囀りくらいのものだ。
 風の中、声ならぬ声が呼ぶ。
 不思議に思いながらも、まだ音楽を聞きたそうな動物たちのために、もう一曲奏でようと弦に指をかける。
 故郷を出発したばかりで、アディスは自分が寂しいのだとわかっていた。でも認めるのは少し癪で、だからこそアディスはその気持ちもすべて、歌声と竪琴の音色に変換して大気に溶かしてしまう。
(さよなら、クレオ。さよなら、ニネミア。さよなら、父さん母さん、さよなら――)
 たとえ呪いが解けたとしても、彼は帰れない。決して帰れはしない。
 自分があの国にいない方がいいのだと、十二分に知っているのだから。

 ◆◆◆◆◆

 歌声が聞こえる。竪琴の音も。
 吟遊詩人が歌っているのだ。馴染み深いその音と歌声が、彼の意識を疼かせる。
(ああ、これは私の一部が奏でる音)
(あの人にしか出せない音色)
 もうすぐ、目覚めがやってくる――。

 ◆◆◆◆◆

 山の中をしばらく歩いていくと、やがてあたりに霧が立ち込めた。
 危険だろうかと思いつつも、アディスは霧の中に足を踏み入れる。驚いたことに、すぐに霧は晴れ、目の前に湖が現れた。
 それもただの湖ではない、その中心部には見上げるほどの大木が何故か生えていて、その根本に広がる湖自体の中にも、ここにあるにはあまりにも不思議なものが沈んでいる。
いきなり魔物にでも化かされたのだろうかと自分で自分の視覚が信じられなくなるアディスの目の前で、湖の岸に立っていた目隠しをした女が振り返った。
「ミラ……」
「おや、アディス殿。これはこれは、思ったよりも早い再会となりましたね。それとも、これも運命とでも言うべきでしょうか」
「運命?」
 見知らぬ場所で鉢合わせた顔見知りの魔女は、随分と感傷的な単語を持ち出してきた。
「なぁ、ミラ。ここはもしかして……」
 周囲でさわさわとやわらかな風に揺れて梢を鳴らす木々を仰ぎながら、アディスは尋ねる。返って来たのは、ミラの静かな微笑。
「アディス殿のお考えの通りですよ。この場所は現実ではありません」
「やっぱり」
 ここが本当にアディスが足で歩いてきた道の先だというのなら、どう考えてもミラがこの場所にいるはずがないのだ。彼女はエクレシアの王城にいるはずなのだし、魔術での転移も使えるが、わざわざアディスをそこで待ち伏せる理由がない。だとしたらこの場所の方がアディスの元いたところではないのだろう。
「ここは夢とも現ともつかぬ世界と世界の狭間――異層と呼ばれる場所にある図書館です」
「図書館だって?」
「アディス殿の目にはそうお見えになりませんか?」
 お見えになるも何も、ここはどう見ても屋外だ。
「えーと、僕の眼にはここは、とても大きな泉とその中心からバカでかい樹が一本生えているように見えるんだが。それに湖の中には、幾つもの本が沈んでいるように見える」
「なるほど」
 アディスの言葉にミラは何を納得したのか、目隠しで見えないはずの目をこの空間の中央に聳え立つ巨木へと向ける。
「ここは世界のあらゆる記憶と記録が集う場所。よく記憶の図書館や博物館と言い表されますが、アディス殿にはこのように見えているのですか」
 このように、と彼女が口にする頃には、ミラにはアディスと同じ景色が見えているようだった。
「この空間には誰もが訪れることができるわけではありません」
「……魔術的な空間ってことか。でも、何故僕が?」
「それは恐らく、あなたが誰にも相談せず〝放浪〟の呪いを引きうけて国を出ようとした理由と同じでしょうね」
 ミラの言い様に、アディスは顔を顰めた。
「言った覚えはないはずだけど、何もかもお見通しなんだね」
「伊達に〝千里眼の魔女〟と呼ばれてはおりません」
「そうだったな。偉大なる運命の魔女ミラよ」
 アディスは溜息をついて、ミラの足元に広がる泉に目を移した。
「これは知識の泉。この中に沈んでいる本の中に、この世の全てが存在します。この本の一冊一冊が誰かの人生そのものであり、この世界の一部なのです。――あなたは世界に選ばれた」
「ぞっとしないね」
 勇者物語を夢見る若者にしては意外なほどにあっさりと、アディスは世界を代弁したミラの発言を否定する。
「仕方がないでしょう。望むと望まざるとに関わらず、あなたは英雄王の血を継ぐ者なのだから」
「ミラ!」
 アディスの悲鳴のような呼び声にも応えず、ミラはすっと腕を伸ばし、湖の向こうを指し示した。
 霧が境界線となり、山々に遠く見える、ある一帯がぼやけている。
「あの向こうに何があるか知っていますか?」
「……知らない」
 アディスの答に、そこだけ鮮やかにさらけ出された紅色の唇に魔女は薄く微笑みを浮かべる。それは預言だ。
「あそこで、あなたは“運命”に出会うでしょう」
「神秘主義者じゃないんで、運命とか宿命とか連呼されるとちょっと腰が引けるんだけど」
「それでも」
 ミラの声は強い。
「それでも……それがあなたの運命です。人は自らがどのような血を持ち、どこにどんな人間として生れ落ちるのかを選べはしません」
 千里眼の魔女とて、生まれる前から自分の未来を見ることは叶わなかった。
「選ぶのはあなたです。その先に何があろうとも」
「でも見るだけは見て来いと?」
「そう」
「……」
 押し付けられた運命などうんざりだとアディスは思う。現状に満足しているのなら尚更。
「本当に満足しているのですか?」
 口に出してもいない言葉を勝手に読んだ魔女は、アディスに問いかける。
「満足していたら、あなたはわざわざ、呪いを理由に国を出たりしなかったのでは?」
「それは――」
 そうかもしれない。いや、確かにそうなのだろう。
 だが人には、死力を尽くしてでも叶えるべき願いもあれば、反対にどんなに望んでも、越えてはいけない一線というのも存在するのだ。
「行ってみれば良いでしょう。あの場所に、あなたの望むものがあるのかもしれないのだから」
「それは、千里眼の魔女、預言者としての言葉か?」
「ええ、そうです」
 アディスは溜息をついた。
「――いいよ。いつも頼みを聞いてもらっている身だから、一度くらいはあなたの言うことを聞くさ」
 それを聞いて、ミラは微笑んだ。
「アディス、あなたならきっと――」
 歩き出した彼の背にかけられた言葉は、途中で不思議な霧に遮られて聞こえなくなってしまった。