3.生まれ変わる卵
霧の中を歩いて行くと、やがてゆらめくような淡い茶の影が見えて来た。近付くにつれて輪郭のはっきりしてきたそれが、朽ちかけた古代の遺跡の一つだと気づくのにさして時間はかからなかった。
「神殿……?」
葡萄の蔦を模した繊細な彫刻が全面に施された柱に手を触れながら、アディスは巨大にして荘厳な建物を見上げて呟いた。
屋根が丸く、いくつもの柱が立ち並び、大きな玄関を備えたこれは恐らく古代の宗教的な建築物の一つだ。住宅地ならばもっと簡素な箱型の建物が統一性なく無秩序に並んでいるものだし、権力者の城や墓場であれば似たような様式だが更に巨大であるはずだ。
もっとも、これらのアディスの知識には、これが古代エクレシア地方の遺跡であるならば、という注釈がつく。
足元を漂う靄をかきわけながら、アディスは苔むした神殿の中へと足を踏み入れた。
ここへ来た経緯が経緯であるものだから、今更怖いだの用心だのといった言葉は全て無用の長物だ。とにかく自分がここに「引き寄せられた」理由を探さなければ、安心して旅を続けられそうもない。
長靴の音がコツコツと廊下に響く。湿気の多い土地らしく、冷たい石造りの通路は露に濡れていた。暗がりでぼんやりと苔が青白く光っている。道標のごとく点々と生えるそれを辿るように、アディスは足を進めた。
――誰かが呼んでいる。
やがて道は途切れ、広い空間へと行き当たる。高い天井には遥か遠き時代の神々が戯れる世界が描かれ、一部欠けた場所から光が差し込んでいた。
その光を中央で浴びるように、大きな祭壇が建っている。
祭壇の上に、大きな卵が一つ鎮座していた。
「え。何?」
アディスは思わず固まった。
これが芸術的に美麗な古代の神像などならまだしも、つるんとしたいかにも触り心地良さそうな丸くて巨大な卵が一つ、祭壇の上にどーんと鎮座しているのである。一種異様とも言える光景に、宰相の変わり者の息子も目を丸くした。
白を基調に光に照らされて様々な淡い色合いを帯びる虹色の卵。形は鶏の卵と似ているが、とにかく大きい。アディスが両腕を広げて抱えあげることができるかどうかといった大きさだ。台座に納められて、四方八方から伸びた鎖で祭壇の上に固定されている。
光源が高い天井の僅かな破れ目しかないため、部屋の四隅は暗く、その中で僅かに輝きながら沈黙している卵は、どこか寂しそうにも見える。
(寂しそう? ただの卵なのに? まだ生まれてもいないのに)
そもそも古代の遺跡であるこの古びて朽ちかけた建造物の中に放置されていたのだろう卵が、まだ生きているわけもないのに。
だがアディスの心には次の瞬間、今の考えとは相反する感覚が走った。ハっと顔を上げて卵を見つめる。
「お前か? 今まで僕を呼んでいたのは」
誰かに呼ばれている、アディスはこの旅に出てからずっとそう感じて来た。その呼び声を発していたのは、この卵なのだろうか。
恐る恐る指を伸ばし、卵の表面に触れる。
「!」
どくん、と何かが鼓動を打った気がした。アディスは驚きのあまり卵から離れてそれに触れた自分の手のひらを見つめた。
信じられないような事態だが、もう、間違いがない。
この卵は生きている。
信じられないとは言っても、どうせこの世の中信じられないことばかりだ。そもそも自分が霧の中の見知らぬ湖で王都にいるはずのミラと顔を合わせてからこの遺跡に来たという時点で、魔術の助けなしには説明できないような異常事態である。
だがそれでも、卵に自分が呼ばれているというこの感覚は、到底他者に説明できるような事態ではないとアディスは思った。
もう一度卵の表面に手を触れる。今度は、先程より穏やかな鼓動が伝わってきた。とくん、とくんと、安定したリズムを届けて来る。先程はまさか、卵の方でも驚いていたのだろうか。
「……そうなのかもしれないね」
触れた先から流れ込んでくる、不思議な懐かしさ。いくら記憶を振り返っても卵に知りあいはいないはずなのだが、どうしてか酷く慕わしい。
「お前は何故、僕を呼んだんだ……?」
誰かに見られたら滑稽だろうな、と今の自分の姿の奇矯さを意識しながらもどうしても話しかけずにはいられなかったアディスがそう口を開いた時、卵の方でも何かを言いたげにほんのりと輝きを強くしたようだった。
しかし次の瞬間、アディスに伝わってきた感情は親しみではなく警告のそれだった。卵が恐怖と警戒を訴えると同時に、アディスもその足音に気づいた。
「誰だ!」
と誰何されたがその台詞はこちらのものだ、とアディスは思った。
黒尽くめに覆面までした怪しい男たちが五人ほど、部屋の入口に武器を手にして集まっている。
「そちらこそ、一体どちら様かな?」
アディスの問いに、覆面の男たちは心なしかたじろいだようだった。武人らしき体格の良い男たちからすれば、見るからにひ弱そうな細身の少年など恐れるに足りない。だが、アディスとて伊達に十六年間、宰相の息子として生きて来たわけではないのだ。背筋を伸ばし胸を張って声を上げる彼の姿には、不思議な威圧感がある。
「宰相家の……ッ」
「馬鹿! 黙れ!」
しかも相手はアディスのことを知っていたようだ。王子ならともかく政治の表舞台にまだ顔を出したこともない宰相の息子など、自国民だって一部の者しか顔を知らぬはずなのに。
「私を知っているようだな。それほど有名人になったつもりはないが、つまりお前たちはエクレシアの人間なんだな」
問いかけではなく、確認。アディスの言葉に男たちは今度こそ間違えようもなくたじろいだ。とはいえ、アディスも人のことは言えない。
「……我々が何処の国の何者であるかなど、あなたにとってはどうでもいいことではありませぬか。それにあなたこそ、何故このような何もない遺跡にいらっしゃるのです?」
同じ問いを向けられると、アディスにも返せる言葉はなかった。う、と言葉に詰まったその姿に、男たちの首領格らしき先程の男が続ける。
「我々はあなた様の背後にあるその卵に用があるのです。あなたがこの遺跡に用があるわけではないなら、何も聞かずに立ち去るのが身のためですよ」
「それではまるで脅しのようだな。私としては、自国の民はできればもっと紳士的な者たちだと信じたいのだが」
「我々は十分に紳士です、閣下」
覆面の奥で、男が笑う気配がした。気のせいか、肌にまとわりつく湿気がその湿度を増した気さえする。
「――だってほら、あなたの首はまだ胴体と繋がっているではありませんか」
くす、と微かな笑い声が届く。
これ以上はまずい。アディスは脳裏で理性が激しく警鐘を鳴らすのを感じていた。
しかしアディスの中の別の部分はまた、もう一つ彼の心に響く声の存在も感じ取っていた。言葉にならない悲鳴。背後の卵が黒尽くめの男たちを前にして、怯え、助けを求めている。
悪戯や失敗の言い訳をするたびに、懲りないと言われ続けた唇をアディスは開く。
「もしお前たちが本当に紳士だというならば、聞かせてほしいな。この卵に一体何をする気かを」
「しかるべきところに返して、きちんと暖めて孵すのですよ」
「それだけ?」
「ええ」
「――どうせそのしかるべきところというのは、お前たちにとって、ということなのだろうな?」
確認を含むアディスの問いかけに、黒尽くめの男たちは剣を抜いた。アディスも咄嗟に懐に手を伸ばす。
「閣下、あなたにはどうやらここで死んでいただく必要ができたようだ」
「悪いが僕の予定表には今日死亡とは書かれていないんだ!」
言いざま、先頭きって飛びかかってきた二人の男にアディスは小さな球をそれぞれ投げ付けた。小さな破裂音と共に、男たち二人が一瞬で昏倒する。
「魔法弾とは小癪な真似を」
「宰相の息子の財力と権力を舐めないでくれ」
魔法弾とは、魔術師がその力の一部を小さな石に込めたものだ。用途は多岐に渡り、その威力も種類や値段によって違う。今アディスが使ったのは、相手を昏倒させる眠りの魔術が込められた攻撃用の弾だ。盗賊避けに購入しておいたものが早速役に立った。しかしこの攻撃手段は数が限られている。
二人の男は倒したが、残りは三人。それも全員が武器を持っている。一方のアディスに残された魔法弾は残り一つ。それも相手に当たらなければ意味がない。
そこに、先程主にアディスと言葉を交わした首領格の男の声が飛んだ。
「何を馬鹿正直に身構えているんだ。俺たちの目的はこっちだぞ。そこの非力な坊ちゃんとは、一人遊んでやればそれで十分だろう」
男の言葉に残る二人の部下らしき黒尽くめが反応した。彼らは一瞬で役割分担し、一人がアディスに飛びかかってくる。
「一応生け捕りにしとけよ?」
首領の言葉に合わせ、男の一人がやすやすと組み伏せたアディスの腕を捩じり上げた。手にしていた竪琴が地面に硬い音を立てて落ちる。
「うぁっ!」
魔法弾を投げつけようとした手は見え透いていたらしく、あっさりと押さえこまれた。武人ではないアディスには、素手で大の男を振り払うような力はない。
だが彼には一つだけ、身内しか知らないような特技がある。抑えつけられた腕を自ら捩じり、痛みを堪えて彼は先程落ちた自分の竪琴に指を伸ばした。
ピン、と弾かれた糸が高い音を一音鳴らした。それに合わせて響き渡った魔力が相手の神経を刺激し、気絶させるとまではいかないものの、男たちの動きを鈍らせる。
「何っ?!」
腕の力が緩んだ隙をついて、アディスは男の拘束から抜け出した。しかし奥の手が割れてしまった以上、アディスにはこれ以上抵抗できる手段はない。
だからといって、卵を見捨てるのも嫌だった。それにこのまま逃げたところで、どうやらまずい場面を見てしまったらしい男たちに命を狙われることは確実だ。
だったら、やるだけなんでもやってやる。
アディスは腕を広げ、卵を庇うようにその正面に立った。
「無駄なことを……」
黒尽くめの男の嘆息が響く。確かにこの行為は無駄かもしれない。けれど、それでも。
「お前たちにこの卵は渡さない」
人もそれ以外の生き物も生まれて来る場所や時を選べはしないが、少なくともこの卵が本来手にするはずの運命は、怪しい男たちに攫われて何らかの組織に利用されることではないはずだ。
「やれやれ、坊ちゃん。あんたはそれが何の卵か知っているのか?」
「何の卵なんだよ?」
「竜」
「竜?!」
このような状態で安置され特別に狙われているのだからただの卵ではないと思ったが、まさか竜の卵だとは。アディスは男の答に呆然とする。
「そう、竜だ。神獣のいう不死身ってのは、一度死んでも卵に戻ってもう一度生まれ変わることなんだとさ。その卵の中身は、かつて大勢の人間を殺してこの大陸を悪夢で満たした古代の禍の竜王だ。いわゆる、生まれてきちゃいけない存在って奴だな」
生まれてきてはいけない存在。
アディスは自分自身がそう言われたわけでもないのに、胸が痛む気がした。
「どうだ、これでも卵を渡す気にはならないか?」
「……渡さない」
目の前の男の、覆面に隠された目を強く睨む。
「この卵が竜の生まれ変わりだというのなら、その未来はもう、生まれ変わった竜のものだ。過去にどんな罪を犯そうと、それとこの卵は関係ない――私は、新しく生まれて来る命が持つ可能性を信じる」
その時、台座の上で卵が揺れ動き、柔らかな色合いだった殻が、真っ白に強く輝いた。今にもその殻に手をかけようとしていた男たちが驚いて身を引く。
パリン、とまるで硝子の砕けるような硬く澄んだ音がした。
次の瞬間、部屋中に溢れた虹色の光の洪水が全てを吹き飛ばした。