風の青き放浪者 02

9.つながれた手

 これは夢だ、とゾイにはわかった。
 目の前で穏やかに微笑む人は、もうこの世にはいない。だからこれは夢でしかないのだ。
 夢の中だから、死んだ人に再び会える。手袋をしていない自分の右腕の皮膚は滑らかで、あるはずの傷も見えない――。
 けれど、夢の中ですらゾイは彼を救えない。
 奈落が見える。崖の上に自分たちはいる。軋みをあげる自分の腕の先に、彼の命が繋がっている。
 その腕に鋭くも小さな痛みが走った。流れ出す絶望的な赤はぬめり、繋いだ手を引き離す。
 すり抜けた指の先から響く、掠れた囁き。
「お前は、生きろ」

 ◆◆◆◆◆

「う……」
 奈落の岸辺に打ち上げられて、アディスは呻きながら身を起こした。
 全身が酷く痛むが、幸いにも怪我はそれだけだ。水も飲んでいないし吐き気もない。死ぬほど体は重く気分は最悪だが、まさしくそれが生きている証というやつだろう。どうやらここはまだ彼岸ではなく此岸のようだ。
 黒い岸辺の黒ばかりの視界の端に場違いな程の白を見つけ、アディスはふいにこれまでの並々ならぬ経緯を思い出した。
倒れ伏して白い面を晒すゾイへと慌てて駆け寄る。
「ゾイ! ゾイ! ……しっかりしろ!」
 ぱっと見にも彼は体中のあちこちを怪我している。その上、意識もなければ、まずいことに唇に手を当てても呼吸が感じられなかった。冷たい頬に手を触れて一瞬愕然としかけたアディスは、すぐに我に返ると、応急処置を施し始めた。
 こういう時は無理に水を吐かせるよりも、まずは気道の確保だとかつてニネミアに教えられたことを思い出す。それから人工呼吸だ。地面に横たえた体に震える手をかける。
 ほとんど無我夢中で、アディスはゾイを救うことに神経を傾けていた。唇を重ねて息を吹き込み、胸が膨らむことを確認する。人工呼吸を二回行ったら、今度は胸骨の圧迫を開始する。
 何度かそれを繰り返すうちに、ゾイの口から咳と共に自発的な呼吸が零れた。それが刺激となり、ごほごほと咳き込むのを繰り返しながらも、薄らと彼が目を開ける。
「ああ……」
 アディスは途端に気が抜けて、まだぼんやりとしている少年の傍らにへたりこんだ。両手で顔を覆う。
「神よ……」
 唇から自然と言葉が零れ落ちていた。エクレシアはかつて炎神の呪いを受けた国で、アディス自身何年も自分は神の慈悲など信じていないと思っていたのに。
「ア……ディス」
「ゾイ、大丈夫?」
「お前、なんで……」
 意識を取り戻し、同じように橋の上でのやりとりを思い出したらしいゾイが上体を起こしながら驚愕の眼差しをアディスに向けてくる。
「なんで……」
「いや、なんとなく」
「なんとなくかよ」
 よりによってその答えはないだろうと、ゾイの顔が驚きから一気に不機嫌へと変わる。けれど彼にとって一番何が不愉快なのかは、ゾイ自身もやはりはっきりとわかってはいないようだった。
「あーもう、とんだ恥さらしだ。殺すはずの相手を助けようとしたばかりか、その相手に助けられるなんて……」
 先程のアディスとは明らかに別の意味でゾイは顔を覆う。しばらくそうして動かない彼を、アディス自身もぼぅっと見つめていた。
「そういえば、ゾイ、怪我は?」
「言うな。足を挫いてんのに」
「ええっ?! 大変じゃないか!」
「そうだよ。だからってどうしようもないだろ」
 むっつりとした顔でそう言ったゾイは、眉根を寄せたまま、ほんの少し気まずそうな顔でアディスに聞いた。
「……お前は?」
「ああ、僕? 僕は無傷。まったくもって元気」
「それはそれでなんでだよ」
「たぶんエフィが守護の術をかけてくれたんだと思うけど……」
 脳裏に虹色の髪の竜の子を思い描きながらアディスは言った。と、同時に、流れに落ちる前に聞いた冷たい囁きまでも思い出す。
落ちてきた橋を探そうと上空を見上げるも、岩壁の岩肌が無限に続くばかりで何も見えない。どうやら彼ら二人は川の中をずいぶんと流されたらしい。
「あのガキは何者だ? 詠唱も道具もなしにあんな強力な魔術を使いやがった」
 よく見ればゾイの体には血の出ない切り傷――カマイタチによってやられた傷が何か所かあった。それは激流に落ちた時ではなく、あの時エフィにつけられたものらしい。
「エフィは人間じゃないんだ。エリピア遺跡ってところで見つけた神獣の子どもだよ」
 アディスの言葉にゾイは何故か一瞬息を呑んだ。続いてチッと舌打ちすると、忌々しげな表情で呟く。
「カタラの奴……わざと黙ってやがったな」
「へ?」
「なんでもない。こっちの話だ。それより、これからどうするんだよ?」
「どうって……」
「俺を殺さないのか?」
 折れたという足を示しながらゾイは言う。
「今ならお前でも、俺を殺せるだろ?」
「素手で? 僕にはナイフを持ち歩く習慣はないよ」
「首を絞めればいいだろ? ――ほら」
 彼の思いがけない脆さを感じさせるような、ぞっとするほどに白い喉をさらけ出すゾイに、アディスは苦笑とも困惑ともつかぬ、何とも言えない情けない笑みを向けた。
 恐らくゾイはゾイで、誰にも知りえぬ傷をその胸に抱えているのだろう。アディスにも彼自身以外には明かせぬ秘めた思いがあるように。
 だから本当は、誰とも争いたくなんかない。例え命を狙われようとも。
 臆病な自分は、自らの傷口をさらけ出して他人に触れることのできる勇気がない。
「頼むから僕を試すのはやめてくれよ、ゾイ。僕に君が殺せるわけないよ。そんなつもりだったら、最初から起こそうとしないで放置してるってば」
「……そうだな。一時休戦といくか」
 ついさっきまで殺す者と殺される者という立場だった二人だが、遺跡の奥、現在地もわからないこの場所でいがみ合っていても仕方ない。いい加減体も冷えてきたことだし、と二人はとりあえず休戦を決める。
「僕はエフィを探さないと。ゾイ、君はどうする?」
「どうするも何も、自力じゃ動けないんだが」
 水に濡れた艶やかな黒髪を、ゾイは苛立たしげにぐしゃぐしゃとかき回す。しかしその苛立ちも長く続かず、彼はくしゅん、と妙に可愛いくしゃみをする。
「寒い」
「濡れたからね。っていうかここ冷えるね」
「道具は……あるはずもないか。それに元の場所に、いや遺跡の入り口にでもいいんだが、どうやって戻ればいいのかわからないな」
 きょろきょろととにかく何か見つからないかと二人は辺りを見回した。そして同時に同じことを思った。しかも片方は迷いなくそれを口に出した。
「せっかく助かったのに、死ぬかも」
 岸辺の温度は橋の上に比べてもかなり低い。濡れた服を乾かそうにも火の気がまるでなく、このままの状態でいればそれだけで凍死できるだろう。アディスは魔力こそ多いが、いざ魔術を使う段になると、小さな火を起こすことすら難しい。風系統の術なら少しは使えるが、この場で役に立ちそうな術は知らない。
「一応僕は氷の国エクレシアの出身だから人より寒さには強いけど、それでもこれじゃ長くはもたないよ」
「……」
 自己申告通り、アディスにはまだ余裕がある。だが、ゾイはすでに顔色が悪く、唇も紫になっている。もともと溺れて死にかけたのだ。無理もない。
「あの神獣のガキがお前を守ったんだろ? 今度もあいつが助けに来るんじゃないか」
「とはいえ僕もエフィの実力に関しては正直よくわからないからなぁ」
「……なんだそれ。あいつ神獣なんだろ?」
「そうなんだけど……」
 以前に卵の状態を狙われていたエフィが羽根を失って本来より弱体化していることをどこまで告げていいものかとアディスは迷う。濁した言葉の先を追及しても仕方がないとゾイは思ったのか、痛む足で無理をして立ち上がろうとした。そして転びかける。
「くっ」
「無理しない方がいいよ」
「だからって、ずっとこのままってわけにはいかないだろ」
「それはそうなんだけど」
 埒の明かない状況に、ゾイは次第に苛立ってきたようだ。
「……とりあえず服脱いで、絞ろうか。干す場所もなければ、乾くかどうかもわからないけどね」
「そうだな」
 自分がクレオのように火属性の人間ではないことを今日この時ほど残念に思ったことはないとアディスは考えた。属性の相性さえあえば、せめてこの河原で火を起こすことくらいできただろうに。
 できないものはできないので仕方なく、二人の少年は着ている服を脱いで水気を絞り取る。そのまま着るのが躊躇われるような有様だが、替えなどないのだから仕方ない。
「お前……それ……」
 ふいに、ゾイがぎょっとした顔でアディスの胸のあたりを見た。
 アディスの左胸には、薄青い光で複雑な魔方陣が描かれている。綺麗な円と流線が交錯する美しいとすら言っていい紋様だが、それが人肌の、しかも心臓の真上にある様子はどこか禍々しい。
「ああ、これ? 呪いだよ。〝放浪〟という名の呪い。このことは聞いてなかった?」
「聞いてない」
「うちの国の王子様が呪われてね、でも彼は世継ぎの唯一の王子様だったから、僕がその呪いを引き受けた」
 上着の生地を捩じって水を落としながらなんでもないことのように言うアディスの腕を、ふいにゾイがひったくるように掴んだ。
「お前はいつもそうなのか。他人を助けるために、自分が犠牲になって平然みたいな顔をして」
「別にそんなことは――」
「だったらさっきのあれはなんだ。手を離してもいいなんて、あの時のお前の立場で普通は出ない台詞だぞ」
 アディスの腕を掴んだゾイの手からもまた、血が滴っている。
 エフィのカマイタチで斬られた傷とは違い、そこだけまるで古傷が裂けたようだ。ゾイはその傷がまるでどんな重傷よりも痛むような顔をしている。
「お前は……お前たちはどうして……」
「お話の最中にすみませんが、そのままでは凍えてしまいますよ」
 淡々とした声がかけられたのはその時だった。
「あと、見目麗しい殿方の裸体はわたくしのような女には刺激が強すぎるので、できれば少しの間だけ濡れた服を着てくださった方がありがたいのですが」
 どこかとぼけた台詞を少年二人にかけながら、河の向こうからやってきたのは、一人の少女だった。夕焼けのように燃える茜色の髪と、対照的に静かで深い緑の瞳が鮮やかな、アディスやゾイと同じくらいの年齢の少女だ。白と黒で構成された、可愛らしいが奇抜な衣装を着ている。片手に持った精緻な造りの杖がいかにも魔術師的だ。
 少女のもう片方の手には、アディスが激流に落としたはずの竪琴があった。
「僕の!」
「それではあなたがアディス様ですね? わたくしはこの遺跡の番人たる墓守ルルディ。エフィアルティス様の命に従い、あなたをお迎えに上がりました」
 虹色の髪の竜の子の名を出して、ルルディと名乗った少女はにっこりと笑った。