風の青き放浪者 02

12.放浪者

 いくら遺跡内部が広いとはいえ、まったく外の空気を浴びないのは不健康だということで、秘密の抜け道があるらしい。ルルディにそれを教えてもらったアディスは、最下層の死者の街から遺跡で一番高い場所にまで上がってきた。地下から一瞬で地上に上がれる魔法の転移陣があるのがありがたい。
 地上に見えている街の形をした遺跡の中の一部分、かつては時計代わりに時を告げる鐘を鳴らしていたという尖塔の最上階に昇って、朝焼けの青い世界を眺める。東から白み始めた空は青から紫、そして黄金へと、その空気ごと世界を染め変える。
 朝の薄闇にも似た青い瞳で地上の景色を眺めていたアディスの背後に人の気配が現れた。
「アディス」
「……ゾイ」
 わざと気配を殺さずに近づいた暗殺者は、アディスに毛布を投げつけた。
「凍死が趣味でなけりゃ、早く着ろよ」
「エクレシアの人間は他国人より寒さに強いんだよ。でも、ありがとう」
 彼自身柔らかい毛布にもこもことくるまりながら、ゾイは塔の上で景色を眺めるアディスの隣に腰かけた。
 そのまま何も言わず、ただ静かに朝焼けの空を見つめながらアディスが話し出すのを待っているようだった。そして多分アディスが何も話さなければ、それはそれでいいと彼は言うのだろう。
 自分と同じか一つ二つ年下だろうその年齢で暗殺者として生きていたゾイが、並々ならぬ人生を送ってきただろうことは、アディスにもわかる。世界にはいろんな人がいるもんだなぁ、とまるで他人事のように考えた。
 それこそ非凡の中の非凡と呼ばれる人生を自分が歩んでいるのだろうことは棚に上げて。
「……好きな人がいたんだ。国に。でもその女性は、私が愛してはいけない人だった」
 唐突にこれまでの経緯と何も関係がなさそうなことを言うアディスを止めもせず、ゾイは隣をちらりと一瞥すると、あとは耳だけを傾けていた。
 それに感謝しながら、アディスはぽつぽつと、これまで、そして今彼が抱え込んでいる思いを吐露していく。
「クレオは友達なんだ。私は彼をとても大事に思っているし、将来彼を主君として仰ぐのだと信じて疑わなかった。ニネミアは私よりずっと頭が良くて、私はずっと、彼女が宰相家を継げば良いのにと思っていた」
 故郷に置いてきた人たちの面影を思い浮かべると、胸が痛む。だがそれは旅に出てから始まったことではない。二人の、そして自分の複雑な立場を考えるたびに直面してきた物思いだ。
 朝の冷たい風が頬を撫でていく。
 アディスの手の中には竪琴がある。竜の体の一部でできた竪琴は驚くほど頑丈で、事実アディスはこれを相当手荒く扱ったこともあるが、傷一つついていない。剣を受け止めれば刃の方が刃こぼれし、橋の上から激流に落としても壊れなかった。
 指が自然と覚えている曲を緩やかに爪弾きだす。音に合わせてアディスは低い声で、王国に伝わる英雄王の叙事詩をゆっくりと歌い始めた。
 ゾイ以外に聴衆と呼ばれる者がまったくいない演奏。音は風に乗り、大気に溶けていく。青から紫を経て薔薇色へと染まる世界に、吟遊詩人の声はのびやかに響く。
 歌の中で英雄王は、仲間を集め、冒険へと旅立つ。魔王を倒し、王国にかけられた呪いを解く。世界に平和を、国に救いをもたらした救国の英雄。
 だが実際にクラヴィスという名を持った一人の王は、その裏で一つの悲劇を生みだしていた。そして彼の子孫も、英雄の名に恥じない清廉な人物ばかりではない。誰よりもアディスが知っている。
 最後の一音を奏でた指が銀色の弦から離れると、アディスは再び口を開いた。
「大好きな人たちのことを想うなら、私はあの国にいない方がいいんだ」
「……」
 黙って聞いていたゾイは、その言葉を否定も肯定もしない。
 王の血はただでさえ特別視されるものだが、エクレシアの場合はそれに加えて神獣の加護のことがある。王家の守護聖獣であるランフォスは、あくまでも王族にしか従わないのだ。守護聖獣のいない国のように、王家と関わりがなくても有能な人間を立てればいいというわけにはいかない。だからエクレシアでは、他国の何倍も王族の血統は重要視されていた。
「本当は出家しようと思っていたんだ。信仰心なんかないけれど、玉座を狙う野心がないことを示して、ニネミアにも宰相家を委ねるにはそれが一番いい方法だと考えていたんだ。どうせ僕の恋は永遠に叶わないし、在野で混乱を引き起こすくらいなら俗世を捨ててしまおうかと」
「……ずいぶん思い切った方法だな。王家のことはともかく、お前が好きな相手ってどんな女なんだよ?」
「秘密」
 クレオとニネミアの立場を奪いたくないという思いも当然あるだろうが、その逃げ道に出家という選択肢を選んだのは叶わない恋の存在が一番の理由だ。敏感にそれを感じ取ったゾイの呆れた声音に、アディスは今朝初めて笑い混じりの声をあげた。
「ま、そんなわけだからさ、魔女の呪いで公然と国を出ていけるようになったことは、渡りに船だったんだ。出家は出家で両親が卒倒しそうだし、十六の身空で早々と世を儚んで家を出たと思われるより、道楽息子が吟遊詩人になるために呪いを利用したと思われている方がよっぽどいい」
「……それで、お前の本当の望みは?」
 穏やかに流れるはずだった会話に冷水を浴びせるような問いに、アディスは弾かれたように隣に座る少年を凝視した。
 ゾイもアディスの方を見ていた。深い闇色の瞳が、心の奥底まで映し出すような真摯さで見つめてくる。
「親しい奴らの幸せを壊したくない。それもお前の望みの一面ではあるんだろう。でも、そうじゃない、お前自身の、愚かでも、身勝手でも、それでも消せない本当の望みは?」
 何もかもを見透かしている、わけではない。
 ゾイには自分がアディスの深淵を覗き込んだという自覚はないのだろう。彼はただ、彼自身の経験から、アディスが口にしたことがまだ彼の全てではないとわかったのだ。けれどアディスはその洞察の鋭さに舌を巻いた。
 同時に、彼にならこの想いを打ち明けてもいいのではないかと思えた。
「――かえりたいんだ」
「何処へ?」
「何処かへ。エクレシアでも、宰相の家でもない。何処にあるのかもわからない。ただ――何処かへかえりたい」
 竪琴を片手で抱えたまま、もう片方の手でアディスは俯いた顔を覆う。
 呪いなど必要なかった。本当は旅に出る前からずっと探し続けていた。
 見知らぬ故郷を。
 エクレシアでも、宰相家でもない。玉座が欲しいわけでもない。それでもどこかへ帰りたかった。宰相家に預けられた王の隠し子という立場でも、英雄王の子孫でもない、他の誰かの面影に重ねられた秘されし王族ではなく、ただのアディスとして帰り、安らげる場所。それを探し続けていたのだ。
 〝放浪〟の呪いをかけられ、窓の外を眺めるたび行かなくちゃと呟きながら、本当はどこかにかえりたかった。
 今ではもう、現実的な故郷であるエクレシアにさえ帰れはしない。行くことはできても、帰る場所にはなりえない。
 それが魔女の呪いだ。呪いのおかげでアディスは一つの望みを叶え、もう一つの望みを永遠に失う。
 語られる英雄譚はその英雄本人を知らなければ美しい伝説となりえ、理想郷は辿り着けないからこそ夢見ることができるのかもしれない。
 手に入らぬものを探し続け、この世界を永遠にあてどなく彷徨う。呪いは確かにアディスにかけられた。決して解かれることはない。
「かえりたいんだ。何処へかはわからないけれど。かえりたい」
「アディス」
「……ごめん、変な話して」
「そんなことはない」
 努めて冷静を装った風にゾイが言う。今度はこちらの番とばかりに、ゾイもまた彼の半生を語りだした。
「俺はもともと孤児で、暗殺者を育てる組織に拾われて暗殺者として育った。だけど二年くらい前に冒険者だって男に誘われて、一度組織を抜けて冒険者になった。でも、その男は探索の最中に死んで、俺一人生き残ってしまった。組織は再び俺を受け入れて、ここ一年はまた暗殺者としての仕事をしていた」
 アディスは驚きに僅かに目を瞠る。では遺跡の入り口で彼がアディスに語った素性は、半分は事実だったのだ。ゾイには確かに冒険者としての経歴があったのだから。
「男は死の間際に、俺に〝生きろ〟と言った。それはあいつの口癖のようなものだった。よりにもよって暗殺者だった俺に、いつか俺の存在を必要とする誰かがどこかで待っているはずだから、その命と力を大事にしろって。あいつはいつも言っていた」
 段々と高くなる太陽。その日差しに暖められた空気を受けるゾイの横顔も、不思議と温かい。
「俺も早くかえりたい。組織にじゃなくて、俺を待っているその人間とやらのところに」
「……」
「こんなこと、他の誰にも言ったことがない」
 そう言うとゾイは微かに笑った。
「そろそろ朝飯の時間だな。きっとあのチビがうるさいぞ」
「エフィは食いしん坊だからね」
 この話はこれでおしまいとばかりに、ゾイは毛布を畳んで立ち上がった。日の出鑑賞というには、朝焼けはすでに消えてすっかりと一日が始まっている。彼に合わせてアディスも立ち上がりながら、さっさと塔を降りるゾイの背中を見送って、少しだけ留まった。
 同じ国で、似たような苦しみを分かち合うクレオやニネミアには言えないようなこともゾイは聞いてくれた。アディスは不思議な好意が彼に対して生まれるのを感じる。
 けれどその一方で、ゾイが残していった言葉に昨日のエフィの微睡みながらの呼びかけが、ルルディの話が、英雄王の手記が、彼に呼びかける様々なものが重なって離れない。
 英雄王はアディスがやがてエフィアルティスを目覚めさせることを知っていた。それを予言したミラも。
 アディスにとってクレオの呪いを引き受けたのは確かに渡りに船だった。だがそこには確かに、親しい人々と自ら離れることを決意した、覚悟を伴う彼自身の決断もあったはずだった。
 それなのにすべては遥か昔から決まっていたことで、しかも本当に彼らが待っているのは〝英雄王の子孫〟であって、アディス自身ではない。
 胸に湧き上がる一抹の虚しさを押し殺し、アディスはゾイの後を追って、朝食にありつくために階段を降りて行った。