15.魔王殺しの暗殺者
王宮に侵入したことは一度や二度ではない。
全身を黒い衣装に包んだゾイは、抜き身の刃を懐に潜ませながらイェフィラ王城に忍び込んだ。
まったく、自分は何をしているのだろうかと思う。だが、体が勝手に動くものは仕方がない。
イェフィラ王国は平和な国だ。今現在近隣諸国のどことも険悪だという話は聞いたことがない。国内にも謀反や内乱の兆しはなく、誰もが当たり前のように、平穏を享受して生きている。
一つ変わったことがあるとすれば、この国は女王制だということか。代々の王位継承権は女子にしか与えられず、男の王が立ったことは一度もない。
現女王サギニは男の心を虜にする艶めかしい美女で、本人も男漁りが趣味だというろくでもない噂が流れていることをゾイは酒場の噂で知った。そう見せかけているだけで実は愛人という名の間諜を複数擁した切れ者なのではないかと疑ったが、話を聞くだに彼女の男好きは単なる趣味ではないかという気もする。
どちらにしろそれ以上の情報は、実際に王宮に潜入してみなければわからないだろう。
呻き声すら上げずに気を失った男二人を中庭の茂みに隠し、人目のないうちにさっさと城内に入り込む。
まったく、本当に何をやっているのだろう。
理性は無駄だとゾイに訴えかける。なのに感情が合理的な判断にちっとも従ってくれない。まるであの時のようだ、と彼は二年前を思い返す。
孤児として生まれ育ち、物心つく頃には盗みに手を染めていた。生きるためには罪を犯すしか道がなく、その流れの中で当然のように人を殺し、その才覚をディミオス――処刑人という名の組織に見いだされ、暗殺者となる訓練を受けた。
十を数える前にはすでに一流の暗殺者として仕事をしていたゾイは二年半ほど前に、奇妙な冒険者と出会った。
その青年は戦闘能力はそれほどでもないが知に秀でた男だった。そして酷く説教臭く、鬱陶しいくらいのお人好し。しかもゾイのどこを気に入ったのか、人殺しのために鍛えた戦闘力を、冒険者として活かせと諭し、自分と一緒に遺跡の探索者になろうと呼びかけた。
根負けしたような形でついにゾイが仲間になったときの彼の喜びようは凄かった。暗殺者という職業柄、あまり感情を表に出さない仲間ばかりと付き合ってきた彼には腕を掴んでぐるぐるとゾイを振り回す青年の大げさな喜びがまったく理解できない未知の感覚だった。それはけっして悪い感覚ではなかった。
けれど幸福だった過去の記憶は、いつも無残な悲劇で幕を閉じる。あれ以来夢の中で何度も何度も、ゾイはその痛みを追想する。
山腹で山肌と一体化した形の遺跡を探索した時のこと。相棒である青年が崖際で罠に嵌まり、足を滑らせた。
咄嗟に伸ばした腕は確かに彼の腕を掴んだのに、今よりも更に華奢な少年だったゾイの力では、成人男性一人分の体重を支えることはできなかった。
いつまでも彼の手を離そうとしないゾイに、青年は言った。
「お前は、生きろ」
掴まれたのと逆の腕で青年が持っていたナイフがゾイの腕を浅く切り裂く。痛みよりも厄介な流れる血が、繋いだ手を滑らせ、その絆ごと解きほぐす。
落下していく青年を見つめながら、ゾイは叫んでいた。心から、心から叫んだのに、伸ばした手は届かない。
斬りつけられた腕よりも、張り裂けそうな胸の方が痛んだ。
そしてゾイは命の価値を見失い、再び暗殺者へと戻ったのだ。
失うことはそれを知らぬことよりも辛い。昔、誰を殺しても誰を害しても何も感じなかったのとは違い、今ではさまざまなことに気を取られ、足を取られる。
何か他にやることを見つけて生きていけばいいと自分でも考えるのに、暗殺以外の仕事で自分が生きていけるとも思えなかった。一部の特技に特化されすぎた自分の能力は、平凡な町民に罪のない顔で交じるには異質すぎる。
だからといってまた冒険者稼業を始めるには、相棒の死の記憶はゾイにとって深すぎた。
いくつかの仕事をこなし、妙な称号も得て、それでも再び暗殺者として動くことに慣れ始めた頃、今回の依頼が来た。
政治的な理由と私怨の中間にあるような内容で、国を割る可能性がある一人の少年を殺せというもの。何分相手が王弟なので玉座を狙う競争相手を殺してくれという話かと思えば、それはどうやら違うらしい。その依頼にはゾイの同僚がすでに動き出していたが、手に負えないということで組織から派遣された増員がゾイだった。
そしてゾイ自身もまた、その依頼に失敗したのだ。
いつも隙だらけで、あんなに殺しやすそうな標的もそうはいないだろうに、何故かそう言った時ほど彼を殺すことのできない自分に気づいてしまった。
あの竪琴を、風の中で歌う涼やかな声を聴いては駄目だ。惹き込まれてしまうから。気づいたときにはもう遅い。
城の暗い廊下を歩いて遅くまで仕事をしている侍女たちの目を盗み、ゾイはアディスたちが引き出されたという大広間まで駆け抜ける。
飄々としているのにどこか悲しげで、厭世的でもないのに常に諦観を漂わせていて、複雑な出生と運命に翻弄されている少年は、危なっかしくて目が離せない。
彼に関わる者は何故か、彼のために動いてやりたいと自然と思わせられるようだ。あるいはアディスという存在の、それが一番罪深いところなのかもしれない。
明かりのついた部屋から聞き覚えのある竪琴の音。部屋の外に立っていた見張りを容赦なくなぎ倒し、ゾイは扉の奥へと踏み込んだ。
「アディス!」
◆◆◆◆◆
「ゾイ?」
思いがけない声に名を呼ばれて振り返ったアディスが見たのは、扉外で見張りをしていた兵士が外から吹き込んできた風と共に部屋の中へ倒れ込む場面だった。
わけがわからず慌ててサギニ女王へ視線を戻すと、今度こそぎょっとして眼球が零れ落ちんばかりに目を見開いた。
闇色の髪に闇色の瞳。更に黒尽くめな装いの少年が長椅子の上の天蓋を引き裂いて女王に短刀を突きつけている。
しかし仰天しているのはアディスばかりで、他の人間はこの事態に関しまったく何も気にしていないようだった。刃を突きつけられているはずのサギニ本人でさえ余裕の表情だ。
「ふむ。そなた、綺麗な顔をしているな。まるで研ぎ澄まされた氷の刃物のような、極上の美貌。吟遊詩人殿とはまた違った趣があっていい」
男好きと噂の女王は、この場で自分の命を握っている暗殺者相手であっても品定めに余念がない。
「言ってる場合じゃないでしょ、サギニ。何、捕まってんのよ」
「悪いのう、レピ。だがわらわは運動神経がない。これっぽっちもない」
この状況にあってころころと笑えるサギニは豪胆を通り越しているが、その守護者であるレピにしても落ち着きすぎている。
「ま、それはともかく、そんな物騒なものは収めてくれ」
色を塗られた爪を女王が振ると、ゾイの握っていた短刀の刃だけがその場で前触れもなく粉々に砕けた。一瞬だけ動揺を見せすぐに女王の傍らから飛び退いた暗殺者少年に、アディスとルルディが駆け寄る。
「ゾイ、なんでここに?」
「……お前こそ、なんで漁色家の女王のところなんかに」
アディスの問いかけに、ゾイは渋い顔で尋ね返した。
「もしかしてあなた、アディス様を助けに来たの?」
ルルディの言葉に驚いたのは、当のアディスだった。
「サギニ女王は気に入った男は後宮に召し上げ、気に入らない相手は殺して河に捨ててしまうという評判だもの」
女王本人がすぐそばにいるというのにはっきりとそんなことを言ってしまうルルディは、やはり世間知らずというか、人生経験が浅すぎるのだろう。しかし女王は彼女の言葉に怒るでもなく、艶やかに笑う。
「あながち間違ってはおらんぞ。もっとも、殺して捨てるのは他国の間諜や政敵の差し向けた暗殺者ぐらいのものだが」
それ以外の男はみんなわらわのものよ。そう堂々と言ってのける妖艶な美女は、アディスとその隣のゾイに微笑を向ける。
「えーと、僕は君にありがとうって言うべきなのかな?」
「お、俺は別に」
「でもゾイ、ちょっと勘違いしてるよ。サギニ陛下は僕に興味があるというより、英雄王の血筋に興味があるらしい」
「バレたのか?!」
「向こうの彼女が神獣なんだって」
目線でレピを示すアディスに、ゾイは溜息をついた。
「さすがに俺も、神獣を二体相手にするのはきついな。一体だけならまだしも」
ゾイは口には出さなかったが、指を振るだけで彼の武器を砕いたサギニの魔力だとて侮れない。
「ちょっと待って。今、エフィを数えなかった?」
「……お前にとってはあれが一番迷惑な押しかけ守護者だろうが。お仲間の神獣がやられたらどうせ出しゃばってくるんだろうし」
「私はそんなことはしないぞ」
虹色の竜王とは戦う必要はないはずなのだが、何故かゾイはエフィをも戦うべき相手とみなしているようだ。
「二体はきついということは、一体なら勝てるということか? そうか……そなた、あの有名な〝魔王殺しの暗殺者〟なのだな」
「え?!」
「なんですの、それ?」
サギニの言葉に、ゾイは自分のことだというのに忌々しそうに鼻を鳴らす。その呼称に聞き覚えのあったアディスは目を丸くしたが、ルルディはこの辺りの事情には詳しくないようで、きょとんと小首を傾げた。
「十年位前から大陸のずっと南の方を荒らしまわっていたディカスティリオの魔王と呼ばれる存在を一年位前に倒したのが、とある組織の暗殺者だったって話」
「その魔王が神獣だったのですか?」
「そういうこと」
魔王を倒すのは勇者の仕事と相場が決まっているが、今回の勇者は暗殺者だった。自分から志願したわけではなく、どこかの国が駄目元で暗殺組織に依頼したら成功してしまったらしい。
「ディカスティリオ地方で勇者を名乗っていた冒険者たちの面目が丸つぶれだって」
「それはそうでしょうね……」
魔王と呼ばれるのは、数か国以上にわたる広大な地域を圧倒的な戦闘力で支配し、人間社会に仇なす存在だ。かつて英雄王と呼ばれたクラヴィスも魔王の一人を倒したという。
エクレシアもイェフィラも大陸最北部の国だ。現場となった大陸南部ディカスティリオ地方からは遠く、あくまで対岸の火事として扱ってきたが、世間は狭いものだ。まさかその暗殺者がゾイだとは。
「……前の相棒が死んだ直後ですぐには普通の仕事に復帰したくないって言ったら、長が俺に魔王退治の依頼を回してきたんだよ」
「ゾイってディミオスだったんだ」
「……そうだ」
処刑人【ディミオス】はこの世で最も強く、また悪名高い暗殺組織。彼らは一度引き受けた依頼は完遂するが、得意先を作らないことで有名だ。昨日使った暗殺者に敵が今日それより高い報酬を払えば、同じ相手に明日殺されるなんてことが日常茶飯事である。
「……面白い、本当に面白いな、お前たち」
サギニが扇で口元を隠しながらくすくすと笑う。
「英雄王の血を引く呪われた吟遊詩人に、生まれる前からそれに仕えることが決まっていた魔女。英雄王に捨てられた竜王と、世界最強の暗殺者。あまりに面白すぎて、わらわの後宮に収めるなんてもったいない」
アディス、と彼女は呪われた旅人であり、彼女にとっては隣国の宰相の息子である少年の名を呼んだ。
「先程の歌、見事だったぞ」
「ありがとうございます」
「特に恋歌が良かった。人は最後に大団円の恋の成就で結ばれるくだりを好むのであろうが、私は途中の悲劇の場面が一番素晴らしかったと思うぞ。――叶わぬ恋でもしているのか?」
アディスは青い目を瞠った。彼の倍の年月を生きる女王は、若者をからかうのを面白がるように嫣然と笑う。
「歌には人柄が表れるな。そなたは一見飄々としているように見えて、その実根は真面目で少年らしい硬質さも併せ持っている。まるで朝焼けの空に吹き渡る、冷たく清々しい風のようだ」
彼女が身動きすると、その肢体にまとわりつく装身具がしゃらりと鳴った。
「これはその褒美だ。お前たちが探していたものであろう」
そう言ってサギニが差し出したのは、アディスたちが忍び込もうとした宝物庫に収められていた宝石だった。
その中にエフィの羽根――彼の力と記憶が封じ込められている。
「あ――ありがとうございます!」
「“放浪”の呪いか。だが少し羨ましいな。わらわもいつか、ここではないどこかへと行ってみたいものじゃ」
また立ち寄ってぜひ旅の話を聞かせるようにと、そういってサギニは彼らを送り出す。
「今ならまだ間に合うだろう。お前が行けば、スタヴロスの野望も止められる。――もっとも、あやつを殺した先に何があるのかはわらわの知ったことではないが」
アディスたちは頭を下げて、女王の前を辞した。
◆◆◆◆◆
イェフィラ王宮の門前まで、四人はとりあえず出てきた。門番が彼らを不審者と不思議な者を見る中間の目で見遣る。サギニ女王に後宮に招かれて、こんな短時間で生きたまま出てくる人間が少ないからだろう。
「エクレシアに向かいたいんだ」
祖国で異変が起きていることを知らされたアディスは、エフィとルルディにそう切り出した。エフィの羽根集めをいったん中断してでも、彼はエクレシア王国に戻らねばならない。
アディスが国を出た理由は、それがクレオの立場を守ることになるからだ。そうでなければ、何のために呪いまで引き受けたのか。
まだ手の届く範囲にいるのに、彼の危機を見過ごすことはできない。
「アディス様、これを」
ルルディが再び水の上にエフィの髪針を浮かべた羅針盤を見せる。その針が目指す方向は以前とは違う。
「どうやら都合のよいことに、次にエフィ様の羽根が封じられているのはエクレシア王国のようですよ」
「本当かい?」
「ええ」
一つ目の羽根はカタフィギオ遺跡の英雄王の墓所に封じられていた。となれば、英雄王の祖国であるエクレシアにも何か残されていても不思議ではない。
「――ならば行こう、エクレシアへ。王弟閣下を止めてエフィの羽根も手に入れて、一石二鳥を目指すぞ!」
新たに気合いを入れ直したアディスたちは、サギニ女王の助言通り、一路エクレシアを目指すことにする。
「お……おいっ」
まだ明けやらぬ闇の中、ゾイが少々口ごもりながらアディスを見つめた。
「アディス、俺は……お、お前が望むなら力を貸してやってもいいぞ」
「ぷっ」
背後でルルディが失笑する。ゾイは射殺すような眼差しを向けたが、墓守の魔女は涼しい顔をしている。
そして申し出をされた当の本人はというと。
「え、別にいいよそんなの」
「……」
「ゾイにはゾイのやることがあるだろ? 僕の問題は僕が解決するよ」
ゾイは呆気にとられた。
アディスはそれを知ってか知らずか、――たぶん確信犯なのだろう。のほほんと笑う。
カタフィギオ遺跡で別れた時は引き留めたくせに、今のこのあっさり具合はなんだ。だがゾイが言葉を探して口をぱくぱくとさせている間に、アディスはエフィとルルディを連れて去ってしまう。
去り際に竜の子が、勝利を喜ぶかのように嫣然とその幼い見た目に不相応な笑みを浮かべていたのが癪に障る。
「な、何なんだよ―――!」
どうにも納得のいかないアディスの行動に、ゾイは矢も楯もたまらなくなって吠えた。