17.祖国は胸の遥か彼方
「エフィ、ランフォスの居場所について何かわかる?」
「……エクレシアの領土内にはいるようだ。気配が絶えていないから、死んでないことはわかる。でも、詳しくどこにいるのかまでは感知できない。どうやら酷く弱っているようだ」
エフィは部屋の中からその壁の向こうまで見透かすように視線を彷徨わせると、可愛い顔の眉間に皺を寄せた。
「妙だ。何かの魔術がランフォスの力を絡め捕り、弱めている。国中にその気配がいくつかに分かれて散逸していて、私の感知網の邪魔をする。だが気配はこの城とそう遠くない場所に漂っているのは確かだ」
エフィの言葉を聞いて、何かを考え込んだルルディがアディスに向き直り尋ねた。
「アディス様、国内の地図はありますか? なければ、この城下だけでも」
「すぐに手に入るけれど、何に使うんだ?」
「わたくしたちだけでは、ランフォス殿の居場所を探し出すことは難しいでしょう。けれどエフィ様の力と、人間の知識を合わせれば、何かがわかるかもしれませんよ」
アディスはクレオに頼み、国内と王都、両方の地図を出してもらった。
「エフィ様、散逸しているというランフォス殿の気配が具体的にどこに集中しているのかはわかりませんか?」
エフィに魔力的な感知網と地図の縮尺の合わせ方を教えたルルディは、彼の言葉を頼りにペンでその場所を地図に書き記していく。
「魔力による罠で神獣を陥れようなどと考えるのは、いかにも愚かなる人間の考えです。だったら鍵は人間が使う魔術にこそあるはず。この力の散らばり方の法則を読み解けば、きっと何か魔術的な意味が――……」
彼女は真剣な顔で、黙って地図を睨む。
じっと睨む。何の反応もしない。
周囲がじっと待っている間に、反応のない少女のこめかみに、じっとりと汗が浮かぶ。
「……ルルディ? 何かわかったかい?」
「おかしいわ。何の図形にもならなければ、どんな呪文も隠されている様子じゃない。あ、あれ? わたくしの知っている魔術ではないのかしら?」
予想に反してどんな事実も示してくれない地図にルルディがあたふたと取り乱し始めた横で、彼女の脇から地図を覗き込んでいたニネミアがふと目を瞠った。
「あら? この場所って……」
「姉さん、何かわかったの?」
「いえ。どこかで見たような気がしたのだけれど。どこだったかしら……?」
王国全土ではなく城下だけを記した地図を手にして首を捻るニネミアの隣で、クレオが手を打ち合わせる。
「わかった! 昏睡事件の被害者の分布だ。今朝会議室で見たのと同じような形だ」
「っ! 殿下、私がそちらを確認して参ります」
クレオの言葉にニネミアが動き出した。宰相の娘という立場を利用して、会議で使われた書類をどこの部署からかがめてくる気だろう。
「そういえばこの事件は、魔術師たちが解決することになったんだったな」
「魔術師? 警備隊じゃなくて?」
ふと思い出したように呟いたクレオの言葉に、アディスは思わず首を傾げた。城下で起きた事件の大概は、王都警備隊の管轄だ。王都に住む者なら、子どもでもそう考えるはず。
「スタヴロス殿下の御推薦だ。事件の性質が魔術的だからと、魔術師たちに回された。そのことに不満を持つ者も多かったが……僕もニネミアも不思議には思っていた。何故魔術師に事件の対応を任せたのか……」
「それは、その王弟殿下がこの事件が魔術によって引き起こされたものだと知っていたからではないですか?」
ルルディの言葉に、アディスとクレオは目を丸くした。
「わたくしが先程見て何も気づけなかった通り、この被害者分布は一見魔術と何の関係もありません。けれど、それがエフィ様の感知した、ランフォス殿の散逸した気配と一致しているというなら話は別です」
折しもニネミアが昏睡事件被害者の分布が描き込まれた会議資料を持ってきて、一同はそれと先程の地図を比較した。
いくつか漏れやズレはあるものの、その印のほとんどが奇妙なほどに一致していた。
「眠りの檻……」
小さく呟いたエフィの言葉を、ルルディが魔術師でない三人にもわかりやすく説明する。
「恐らく術者は、人々の夢を媒介に、ランフォス殿に眠りの術をかけたのでしょう」
「夢を媒介にって……具体的にはどういう意味なんだ? 国王陛下が昏睡状態だってのもそれと関係あるのか?」
「国王陛下は現在の聖獣の主という立場ですから、陛下が害されるとその影響は守護であるランフォス殿にも伝わります。けれど眠りの術は、この条件に抵触せずすり抜ける場合が多いんです。まず、陛下に眠りの術を使い、ランフォス殿が眠りの術の影響を受けやすくなったところで、城下の大勢の人々の眠りを術に変換してぶつけたんでしょう。相当高度な技ですよ」
魔術に関する専門的な説明は門外漢のクレオや魔術をかじった程度にしか知らないアディスには半分程度しか理解できなかったが、それでも彼女の説明からは、相手が途方もない実力を持っていることが感じられた。
エフィの感知したところによると生きているはずのランフォスは、しかし彼女が守るべき王の危機にも姿を現さない。それは、彼女自身が魔術によって人々の意識に引きずられ、眠らされているからだという。
だが同時に、アディスやクレオたちは不思議にも思った。彼らの知る限り、王弟スタヴロス自身は魔術師ではないのだ。彼が強力な魔術師を抱えているという噂も聞かない。もっとも、貴族お抱えの暗殺者のように人知れず重用されている実力者という可能性もなきにしもあらずだが。
「ルルディ、君の見立てでは、その術とやらはどれくらいの魔術師なら使える?」
「……そうですね。眠りの術自体は単純でも、その方向性を意図して曲げて、他者と連結させて魔力の檻に構成しなおし、しかもそれが神獣の意識を封じ込めるくらいとなりますと……最低でも一国の宮廷魔術師長級、魔術師協会協会長級の力が必要になりますよ。あるいは運命の魔女ミラのような魔術師ならばできるかもしれませんが。ちなみにわたくしではこの術をかけることは無理です」
「ミラか……」
自分とクレオの呪われた運命を取り換えた魔女の顔を思い出し、アディスは思案する。伝説の英雄王の仲間であったという彼女なら、確かになんでもできるだろう。
「個人的には、ミラはそんなことしないと思うけど……」
「ミラ? ……まだ生きていたのか、あの女。だとしたら奴ならやりかねないぞ。ランフォスとは不仲だったからな」
またもや遠い時代の記憶を持ち出してエフィが口を挟む。
「そ、そうなの?」
「ああ。……いや、でも違うな。ミラはランフォスは気に入らないだろうが、クラヴィスの信望者でもあった。その血筋に仇なすようなことはないだろう」
過去の記憶を頻繁に引き出しているせいか、エフィの口調まで気づくと大人びたものになっている。
「……アディス。その……その子は一体何者なんだ?」
「クレオ。ええと、その、彼は……」
「言う必要はない。私を捨てた男の子孫と馴れ合う気はない」
エフィは剣呑な眼差しでクレオを睨んだ。その眼光の鋭さに、クレオは息を呑む。
二人の様子を見ていたアディスは、自身もエフィに言いたいことがいろいろと浮かぶ。だがクレオとニネミアの手前、口に出すのは憚られた。
「……結局のところ、私たちはどう動けばいいのかしらね」
ニネミアが疲れた顔でそう口にしたことにより、皆は元の話題に戻った。
「ええと、まず解決しなければならない問題は、陛下と城下の民を昏睡から目覚めさせること、本物のランフォスの居場所を見つけること、王弟殿下の企みを暴くこと、の三点だね」
「最後の問題は、前二つを解決すればおのずと表面化するだろう。父上自身に罠にかけられた自覚がなくても、封じられた聖獣が黙っているわけはない。問題は、どうやって前二つを解決するかだ」
アディスたちは額を突き合わせた。
「城下の民にかけられた眠りの術に関しては、わたくしが何とかできると思います」
「ルルディ? でも、君にはこの術はかけられないって言ってなかった?」
名乗りを上げた墓守の魔女に、アディスは不安な目を向ける。彼女の実力を信じていないわけではないが、相手もまた強大な力を持つのだ。危険ではないのだろうか。
「わたくしにはこの術をかけることはできませんし、完全に解くこともできません。けれど、構成の一部を壊すことはできます。恐らく神獣を封じる眠りには城下の人々の力が注がれているでしょうから、そちらだけでも解けばランフォス殿を探しやすくなるでしょう。そこからは、アディス様の出番です」
「僕?」
魔術師ではないアディスは自分に何ができるのかと、きょとんとした目でルルディを見返した。
「わたくしは城下を巡ります。ですからアディス様は、エフィ様と共に、ランフォス殿にかけられている眠りの術を壊してください。あなた方二人ならできるでしょう」
「……わかった、やってみるよ」
ルルディの目にはアディスに対し、物言いたげな光が宿っている。それをここで即座に口にしないのは、アディスの背景を知っている彼女がクレオたちに遠慮しているからだろう。
「僕たちは、王弟の動向に気を配ることにする」
「私も、最近腑抜けているお父様にちょっと喝を入れてくるわ」
表だって動くわけにはいかないクレオとニネミアは、今まで通りに生活しながら目に見える敵であるスタヴロスを見張ることになった。
一同の顔を見回して、クレオが一瞬、瞳を和ませる。
「みなさん、我が国の危機に協力してくれてありがとう。それに――アディス」
王太子は、陽だまりのように微笑んだ。
「お前が戻ってきてくれて嬉しいよ。――おかえり」
放浪の呪いを受けた旅人は、困ったような笑みを返した。
◆◆◆◆◆
ルルディが街に出ている間、アディスは気になることがあるからと、エフィを連れて王城内をこっそり歩いていた。
本来こそこそする必要はない立場なのだが、スタヴロスは何故かアディスを目の敵にしている。彼に見つかったり他の使用人たちの口から自分がいたことを王弟に知られるとまずいので、アディスは再び宴の時のように変装した。けれど今度は魔術で顔までは変えていない。
特徴的な青い髪を隠し、茶髪に茶色の瞳の地味な印象の若者となったアディスは、城の中庭に足を踏み入れる。警備兵にはクレオの許可証を見せて、英雄王の霊廟がある一角へとやってきた。
庭園の隅にあるこの場所には、手入れをする庭師以外は滅多に訪れる者もない。だがアディスはその昔、クレオとニネミアの三人で探検と称してこの場所に入り込んだことがある。
ランフォスにかけられた術を解くには、住民にかけられた術を解くことと、ランフォス自身にかけられた封印の二つを解くことが鍵となる。ルルディは彼女自身が先に城下の民の術を解くと宣言したが、アディスがランフォスの封印を先に解けば、ルルディもやりやすくなるに違いない。
吹く風に木々は葉を揺らし、地下霊廟の入り口に立つ灰白色の墓標に木漏れ日を投げかける。
かつて子どもたち三人で忍び込んだ場所に、アディスは再び踏み込んだ。あの時見つけたのは中身がからっぽの棺。英雄王の真の墓所はカタフィギオ遺跡にあったのだから当然だ。
そして棺の奥には、一つの祭壇があった。
その祭壇の形がエリピア遺跡でエフィの卵が置かれていたものとよく似ていたことを、アディスは思い出したのだ。確証はないが、もしやそこにランフォスがいるのではないかと考える。
「エフィ、行くよ」
「うん」
竜の子はルルディの方ではなく、アディスにくっついてやってきた。彼と一緒に、アディスは地下の入り口を開き、霊廟の中に入り込む。
幼い頃の記憶とは、玄室の入り口に立つ前から違っていた。淡い紅色の光が漏れてきていたのだ。
エリピア遺跡ではエフィの眠る卵を鎖が取り巻いていた。
そしてこの霊廟では、翼を畳んで眠る炎の鳥を同じように鎖が縛り付けている。
「ランフォス……」
やはり聖獣はここにいた。だがアディスは同時に気づいた。
「どうやって目覚めさせよう……」
手を伸ばして炎の鳥に触れようとすると、透明な壁に阻まれた。これが封印ということなのか、アディスの声はランフォスに届いていないようだ。
「というか、目覚めさせてもいいの? ランフォスが今目を覚ましたら、きっとあの王子じゃなくてアディスを王として選ぶよ?」
「う」
「それともアディス、王になりたい?」
かつて、一人の少年を英雄と呼ばれるにまで押し上げた竜の子は無邪気さを装っていう。
「アディスが望むなら、王国をあげるよ」
「いらないよ!?」
エフィのとんでもない発言に、アディスは慌ててぶるぶると首を横に振った。王になんてなりたくはない。それはアディスの本心だ。そう思っていなければ、クレオにかけられた呪いを引き受けて国を出たりはしない。
今アディスがここにいるのだって、エクレシアに帰ってきたつもりはないのだ。この出来事が解決したら、また旅に出る。例えアディスにその気がなくても、呪いが彼をこの国に留まらせはしないだろう。
だがエフィはアディスの言葉を彼の思惑とは違う意味で受け取ったのか、すねたように頬を膨らませる。
「また、なの? そうやって私の申し出を拒絶するの? ランフォスのことは連れてったくせに!」
「エフィ」
また、はこちらの台詞だ。エフィの言葉はカタフィギオの英雄王の墓所で聞いた時と同じく、クラヴィス王に向けられた言葉であってアディスに対するものではない。
エフィはアディスと英雄王を混同している。
「どうして私じゃ駄目なの? 弱いランフォスなんかより、私の方がずっと強い。今は羽根を失っているけど、それを全部取り戻したら、世界だって手に入れられる」
幼い容貌に、その稚さに不似合いな擦り切れた感情が覗く。
「だから、王になって。アディス。私にだって守護聖獣は務まる。ランフォスじゃなくても!」
「エフィ、僕は――」
アディスの言葉もまた、エフィに届かなかった。
彼らの会話を遮るように、どこからか歌が聞こえてくる。それがアディスの意識に干渉し、彼を強制的な眠りへと叩き込もうとする。
「しまっ――エフィ、逃げ……」
竪琴があれば抵抗くらいできたかもしれないが、そんなものを持って歩けば自分の正体を喧伝するようなものだからと置いてきたのがまずかった。
否、もしかしたら例え竪琴があったとしてもこの相手には通じないかもしれない、とアディスは闇に堕ちる意識の最後の欠片で考えた。
だってあの竪琴は、他でもないこの歌声の主から贈られたのだ。彼女が今回の件に関わっていると気づかなかったのは迂闊だった。
すべてはアディスの旅の始まりから一つの線でつながっていたのだ。彼女がクレオを王太子の座から追い落とそうとしたその時から。
気を失って崩れ落ちたアディスから視線を離し、残されたエフィは背後を振り返る。
青銀の髪の美しい女――クレオに呪いをかけた魔女、ドロシアが立っていた。