風の青き放浪者 03

18.歪な夢に虚ろな墓標

「ここですね」
 ルルディはエクレシア王都にある、一つの家にやってきていた。
「あなたが城の魔術師ですか?」
「ええ、そうです」
 扉を開けて出てきた、不安そうな住人の女性の言葉に、ルルディはさらりと嘘を答える。彼女は別にエクレシアの宮廷魔術師でもなんでもないが、そうでも言わないと家の中に入れてもらえそうにない。
 国王シグヌムを除いた最初の被害者は、この家に住む十歳の女の子だった。クレオとニネミアからそれを聞いていたルルディは、彼女について色々と下調べをしてからやってきたのだ。
 少女の母親に案内されて、ルルディは眠り続ける彼女の寝台の脇に腰を下ろす。そして少女の手を取ると、彼女の〝夢〟に入り込むために精神を集中し始めた。
 エクレシアの守護聖獣である神獣ランフォスにかけられた封印は、人々の眠りに落ちる意識を利用して対象を夢の中に誘い込む術。
 神獣を捕らえるための力の源とされた人々は、衰弱するでもなくただずっと眠り続けている。彼らはその中で夢を見ている。何の不安も恐怖もない、ただ安らかな夢。
 明日が来るのが怖い、未来に何の希望もない、いっそこの夢から覚めずにいられたら。
 人々のそんな気持ちを利用して、この術は対象の意識を絡め取るのだ。夢の中に逃げ込みたい人間に幸せな夢を見せることによって、さらに現実からの逃避願望を高め、夢の中に留まらせる。
 ルルディはそれを逆手にとって、神獣本人に呼びかけるのではなく、術に使われた昏睡患者の方から事態の解決を試みた。
 現実に不安を持って夢の中に逃げ込んだ彼らの悩みを解決してやれば、ランフォスを拘束している力も弱まるはずだ。この術を使った魔術師に単身では敵わないルルディにとっては、それが最も早い道だった。
 詠唱を唱え、眠り続ける少女の夢の中へと入りこむ。ルルディの意識は薄紅色の雲の中を泳ぐようにして下降していき、少女の夢の深層に降り立つ。
 いつの間にか景色は、よくある街の風景に変わっていた。ルルディも今では知っている、エクレシアの王都の外観そのままだ。二人の少女が遊んでいて、片方の少女と同じ顔をした少女が、その光景をさらに見つめている。
 その少女こそが、ルルディが寝台の上で見た、眠り続ける少女本人だ。
「こんにちは」
 突然背後から話しかけたルルディの存在に、少女は飛び上がって驚いたようだった。無理もない。夢の中は完全に閉じた個人の世界で、その中に見知らぬ人間が入ってくることなど普通はありえないのだから。
「お姉さん、誰?」
「わたくしは魔術師よ。あなたが目を覚まさなくなって、お母さんやみんなが心配しているわ。さ、帰りましょう。起きて現実に戻るのよ」
 ルルディの見たところ、少女は自分が夢の中にいることを十分に自覚しているようだった。だからこうして話しかけてみたのだが、少女は悲しげに首を横に振る。
「あたし……イヤ」
「いや?」
「目を覚ましたくないの。だって起きても、もうあの子はいないんだもの。もう、会えない。それなのにこの夢から覚めて一人になるのはイヤ」
 少女が見つめる先にいるのは、彼女の幻と一緒に遊んでいるもう一人の少女の存在だった。恐らく友人だろう。戯れあう二人の幻の顔はどちらも幸福そうだ。これは彼女の過去の記憶なのだろうか。
「もう会えないって……あなたのお友達は、いったいどうしたの?」
「二か月前に、隣街に引っ越しちゃったの」
 そうたいしたことではないと思うのだが、少女の眼差しは真剣だ。
「隣街なんて、あたし一人じゃ行けないもん。それに会わない間にあたしのこと忘れられちゃうかもしれないし」
 ルルディにとっては、硬貨数枚払って相乗り馬車にでも乗ればすぐの距離だ。だがこの少女にとって友人が隣の街に引っ越してしまったことは、世界の反対側に行ってしまったかのように遠く感じるものらしい。
 ふとルルディは、自分にとって昔、この少女くらいの年頃の時には何を考えていたかを思い出した。
 少女とルルディの年齢差は五歳程度だ。彼女の悩みは五年も待てば、十分に自分の力で解決できる小さな問題。でも自分が十歳当時はどうだっただろう。
 アディスがカタフィギオ遺跡に来る前。多くの先祖が、彼女の両親がそうであったように、真の主君である英雄王の子孫とエフィアルティスに会えなかった日々。自分はあの遺跡の地下で、誰にもその存在すら知られずに朽ちるのだと思っていた。
 遺跡の中ですら一人で過ごすのは広く感じられて仕方がなかったルルディにとって、今ならどこにでも行けるというこの考えは、アディスやエフィと出会ってから生まれたものだ。
「自分だけの力で自分の知る世界の外へ出ることは、とても難しいわね。でも大丈夫よ。あなたはきっとすぐに大きくなって、大人になって、この世界の外へ出ていける。どこにだって好きなところへ行けるわ。そうなればお友達のところへいくのだって難しくはない」
 ルルディは彼女の体験談として、心からそう告げる。それでも少女はまだ不安そうな顔をしていた。
「大丈夫よ」
 子どもの世界も、視野も、彼らが自分で思っているより酷く狭い。けれどほんの少しだけ彼らが成長した先には、今よりもずっと広い世界が、彼らの手の届く場所で待っている。
「恐れなくても、焦らなくても、ちゃんとその日はやってくるわ。でもそのためには、ずっとこの夢の中にいてはいけないの。ここではあなたはずっと子どものままで成長できない。その悲しみから抜け出すことさえもできないのよ」
 不安に沈んでいた少女の眼差しが揺れた。
 起きなければ、目を覚まさなければ。でもやはりまだ怖いという気持ち。大人になって隣街の友人に会いに行けるまであと数年。それまでの間に、自分が相手に忘れ去られてしまうのではないかと。
「そんなことはないわ」
 自信たっぷりに言い放ったルルディの台詞の向こうから、少女は自分の名を呼ぶ声を聴いた。
 それは夢の中の幻の友人の唇からではなく、まるで天から降ってくるかのように聞こえてくる。
「どうして?」
「あなたは外ではもう二か月眠りっぱなしだから、お友達が心配してお見舞いに来たのよ」
 少女の家に来るまでに、ルルディがしていた下調べがこれだった。眠りの術に引き込まれた患者たちの共通点は、何か夢に逃げ込みたくなるような事情があること。彼女の場合は、友人の引越しがそれにあたった。
「戻りましょう。あなたはあなたのお友達と、これから一緒に成長していけばいい。二人がそれぞれ大きくなれば、それだけ離れた距離も縮まるわ」
 友人の声をよく聞こうと、天を仰いでいた少女がルルディに振り返って頷いた。
「うん。あたし、帰る。ちゃんと自分の世界へ」
 ルルディの差しのべた手に、少女の手が触れた。周囲の穏やかな景色がゆっくりと薄れ、消えていく。
「ありがとう、お姉ちゃん」
 ルルディが次に少女の声を聴いたのは、目覚めた現実の彼女の唇からだった。

 ◆◆◆◆◆

 クレオはいつものように、諸侯たちが集う会議へと出席していた。
 王である父が臥せってからは、スタヴロスに国を乗っ取られないために彼は相当の無理をしていた。まだ十六歳の王子が、国を動かす政治の全てを握るのは土台無茶な話である。こんな時彼を支える立場であるソヴァロすらアディスの出奔に気落ちしていて城に顔を出すことが少なくなっていた。クレオにとっては、せめてこれ以上悪いことが起きないように現状を維持するだけで精一杯だった。
 いつも物怖じせずに誰とでも話ができ、吟遊詩人を名乗るだけあって人を楽しませることが好きなアディスとは違い、クレオは致命的に立ち回りが下手だった。
 動作や頭の回転が鈍いわけではない。むしろ軍部などの一部では、武人としての彼の強さを評価する者もいる。だがそれ以上に多くの人間が、少女じみた容貌であり人付き合いに慣れているともいえないクレオを遠巻きに、自分たちとは関係のない世界の人間として眺めていた。
 宰相の息子とは思えないほどに気さくで取っ付きやすいが、式典や儀礼ではこれ以上なく貴族的な振る舞いもできるアディス。常に堅実な成果を上げるが、それを演出する術を知らないクレオ。
 それでもアディスに玉座に昇る野心がない以上、クレオがこの国の第一王位継承者なのだ。
 〝放浪〟の呪いさえアディスに背負わせたクレオには、自らの全てで国を守る義務がある。
 気を張って会議室に入室したクレオは、しかしその常と違う空気に眉根を寄せた。
「殿下……」
「どうした? 何かあったのか?」
 その答は、まもなく知れた。
 王弟スタヴロスの横に、小さな子どもがいたのだ。
 クレオは驚いた。何故なら、それはアディスが連れていた少年だったからだ。
エクレシアの重臣たちが揃って怪訝な顔をする中、スタヴロスは見せびらかすように子どもを諸侯の面前へと差し出す。
「彼の名はエフィ。かつて英雄王クラヴィスと共に魔王と戦った伝説の神獣だ」
 エクレシアの人間は半信半疑ながらも、稚い姿に見合わず只ならぬ威圧感を発するその子どもを見つめた。
 竜の子は平然とした顔で、スタヴロスを守るようにその前に佇んでいる。
 何故彼がこんなところで、まるでスタヴロスの味方をするようにいるのか、クレオにはまったくわけがわからなかった。
 竜の威光を背に、王弟は自信と野心に満ちた笑みを浮かべながら口を開く。
「英雄王の時代より彼を守護せし神獣の名において宣言しよう。私は聖獣に選ばれし者として、病に伏せる兄に代わり、この国の王として即位する」

 ◆◆◆◆◆

「ゾイ!」
 突然前触れもなくその空間に移動してきたルルディに、ゾイは飲んでいた酒を噴いた。
 酒場の客も大部分が噴いて、店主は磨いていたグラスを取り落す。
「ちょ、ばっ、お前、何なんだよ!」
 いくら彼女が高位の魔術師であるとはいえ、こんな風に予告もなしに突然現れるのでは、もうなんでもありだ。
 自分が突如として空中に現れたせいで引き起こされた混乱に見向きもせず、墓守の魔女は暗殺者に救援を要請する。
「あなたの力を貸して! アディス様を助けたいのよ!」
「アディスを?」
 イェフィラであんな別れ方をしたゾイは反射的に嫌そうな顔をする。
 けれど結局は気になったのか、ルルディの求めに応じて彼女と共に、転移術でその場から消えた。
「坊ちゃん、食い逃げ……」
 後には、呆然とした酒場の客と店主だけが残された。