風の青き放浪者 04

22.飛べない竜と呪われた旅人

 黒髪の少年が式典会場たる王宮に辿り着いた時、その場はあらゆるものが吹き飛び薙ぎ倒されて大惨事の様相を呈していた。
「うわっ。なんだこれ」
「ゾイ、こっちこっち」
 結局カタラを仕留めきれずに逃げられてしまったというゾイに、アディスはこちらであった出来事を説明する。
「なんか結局この事態って、全部僕が発端ってか原因みたいだね」
 こんな場面にも関わらずのほほんとした感想を漏らすアディスに、来たばかりのゾイが容赦なく突っ込んだ。
「この国の事情はともかく、あいつを国に入れちまったっていうその一点だけで何もかもお前が悪いだろ」
「酷い。僕は僕で一生懸命なのに」
「じゃあ一生懸命この状況を何とかしろ」
 強大に過ぎる神獣の力の前では、もはや敵も味方も関係ない。ルルディとドロシア、二人の凄腕の魔女が張った結界が人々を暴風から守っている。けれどかつて悪竜王と呼ばれたエフィの力はすさまじく、今にも結界が破れそうだ。
「ルルディ、僕だけを外に出せる?」
「アディス様、できますけれど、今のエフィ様には……」
 アディスの意図を察したルルディが顔を曇らせる。アディスにももちろんわかっていた。今のエフィは説得が通じるような相手ではない。
 かつて英雄王と共に旅した竜の王。何者にも勝るその強大な力。しかしそれを収める幼い精神に穿たれた、深い傷。生まれ変わっても、その傷が完全に癒えることはなかった。
 クラヴィス王の守護者となれなかったことは、エフィの心に深い翳りを落としている。知識の泉でその光景を見てしまった以上、アディスにはエフィばかりを責められない。
「大丈夫大丈夫」
「無理です! この地にはアディス様の他にもクラヴィス王の血を引く者が多すぎて、エフィ様ご自身にもその感情と力を制御することができないのですよ!」
 ルルディの発言はあっさりと先程のやりとりでアディスがぼかした王の隠し子云々の真実を暴露してしまっている。事態が事態なので仕方ないだろうと、その収拾には他の人物があたった。
「あー、王弟の反逆罪により先程からこの式典の場は非公式の場だ。だからここでの発言に深い意味はない。いいな?」
「いいですわね? だいたい宰相家にも薄く王族の血は何度か入っておりますし」
 ソヴァロとニネミアが結界の中、遠巻きにこちらを見ている貴族連中に言い含める。
 その間にアディスはルルディを説得していた。
「大丈夫だよ、ルルディ。例えどんな力を持っていたって、悪竜の王や英雄の仲間というどんな肩書きを持っていたって、エフィはエフィなんだから」
「アディス様」
「……もしもの話をしてもいいかな。もしも、例えば私が王家の血を引くとしたら――」
 たとえ話としては際どい内容に、周囲の者たちが息を呑む。
「私は王子として、エフィを止めるために守護獣にするとか、もしくはエフィを討つとかしなければいけないんだと思う。でも」
 アディスは静かに目を伏せた。
「私はアディス。ただのアディスだ。例え呪われていようといまいとね。だから――私にできることだけをするよ」
 ルルディが頷いて、アディスを結界の外へ出そうとする。だが。
 バアァン!!
「うわぉ!」
「……おい、これちょっと無茶じゃないか?」
 アディスが結界を出ようとしたその瞬間、ものすごい暴風が彼らの鼻面を直撃した。
 樹の枝や式典会場に用意された椅子などの飛来物は結界が阻んだが、それらと結界のぶつかりあう衝突音が凄まじい。金属の重い扉を閉じたように、押しつぶされれば人間などひとたまりもないと思わせる強さだった。
「えーと。ちょっと待った。今のはナシで」
「そうしとけ」
 あっさり前言を撤回したアディスに皆何も言えず、ゾイだけが疲れたような諦めたような顔で彼を結界のもう一歩内側へと引き戻した。
「殺していいなら俺が出るが。だてに魔王殺しと呼ばれちゃいないぜ」
「駄目だよ! エフィに無用な傷をつけるのはやめて!」
「じゃあどうすんだよ! そんな甘いこと言ってられる状況か!」
「とにかく、まずはエフィ様にお心を鎮めてもらわねば」
 アディスにゾイにルルディ、エフィの関係者である三人がぎゃあぎゃあと喚くが、有効な解決策は誰も思いつけない。
「……私がやるわ」
 人間など紙屑のようにちぎられそうな嵐を眺めながら、口を開いたのはドロシアだった。
「ドロシア! いくら君でも……」
「要は悪竜王の気を引ければなんでも良いのでしょう? その竪琴を貸して」
 蒼白になるスタヴロスを押しのけて、ドロシアは彼らよりも一歩前に出た。振り返った彼女の青い瞳にひたと見据えられて、アディスはもとは彼女のものであった竪琴を差し出す。
 白い指が何度か確かめるように弦を弾いた後、穏やかな曲を奏で始めた。
「――」
 彼女の声とそこに込められた魔力がエフィに届くと、嵐の勢いが見る間に弱まった。
「この曲は……」
 青銀の髪の魔女が歌うのは、アディスが初めて彼女に会ったときに聞いたのと同じ歌だった。
 旅立つ一人の少年の姿を描いた歌。
 それは英雄王の叙事詩。
 荒れ狂っていた風が止み、虹色の竜の姿が露わになる。
「今だ! アディス!」
 アディスと、彼についてゾイが結界の外に出た。ゾイは不意の攻撃にすぐさま対応できるよう双剣を抜いているが、巨大な竜相手に通用するのかどうかはわからない。そしてアディスは完全な手ぶらだ。唯一の持ち物だった竪琴もドロシアに渡してしまった今、武器になるものも身を守るものも何もない。
「エフィ……エフィアルティス」
「どうして」
 虹色の竜の大きな瞳は、硝子玉のように虚ろだ。
「どうしてクラヴィスもアディスも、私を必要としないの?」
 ぴしぴしと、加えられる力に従って巨体を支える地面に亀裂が走る。
 ぎらりと、鈍い輝きが竜の瞳に宿った。
「どうしても私を拒み続けるというなら、私は君を食べちゃうよ? その悲哀も、苦痛も、命も、その血の一滴までも、食べて私のものにする」
 本能的な恐怖を感じたのか、ゾイが剣を握る手に力を込めた。
「それとも、また私を殺すの?」
 アディスは顔色を変えない。英雄王クラヴィスが、何故エフィを止めきれずに一度殺してしまったのか彼は知っている。
 ――そう、魔王の力を取り込んで狂い始めたエフィは、自分を拒絶した英雄王のことを喰らおうとしたのだ。
 人間と価値観の違う神獣がその愛情や執着を、どのような形で満たそうとするのかアディスには完全には理解できない。ただ、イェフィラでサギニ女王の色漁りに関する話題に強い嫌悪を示していたエフィの場合、執着は人の愛情とは異なり、食欲という感情に結びついているようだ。
 竜の苛立ちを表して、鞭のようにしなりながら巨大な尾が地面を叩く。叩かれた地面には人ほどに大きな罅が入った。
「私を受け入れない世界なんていらない。誰も私を見てくれない。アディスも……クラヴィスも! だったらもうこんな世界どうでもいい! 全部、全部壊してやる!」
 人の言葉に聞こえながら、それは同時に獰猛な獣の凶悪な吠え声であった。
 無垢な狂気の宿る虹色の瞳を見上げて、アディスは重々しく言う。
「――わかった、エフィ。一緒に世界を滅ぼそう!」
「――は」
 会場の空気が一瞬で凍りついた。
「え?」
「ちょ」
「アディス?!」
 結界の中で誰もがぽかんとし、ゾイがその場に頭を抱えて蹲る。そして宰相は倒れた。
 アディスは両手を広げてエフィに語りかける。
「いいよ。君がしたいと本気で思うことは、僕には止められない。――君は自由な風だ。だから僕も、君を留めようなんて思わない。普通だったらここで王国や王族の責務を優先するべきなんだろうけど、僕はただの宰相の道楽息子だしね」
 エフィがぴくりと眉を動かす。アディスの言葉の何かが彼の琴線に触れたのだ。胸の内側がざわめく。
「本当に……私が望むなら世界も滅ぼすと……」
「うん、それが君の本当の望みなら」
「本当の、望み……」
 アディスはどこか自嘲するような表情で笑い、エフィに手を差し伸べる。
「エフィ。僕は君を従えたいわけじゃない。君に従いたいわけでもない。ただ君が困っている時は、僕は君の助けになる。僕が困っている時は、君に助けてほしい。僕が君に望むのは、支配でも服従でもなくそういう関係だ」
 愛してほしいと、そうでないなら壊してしまえと、叫ぶエフィの姿は鏡で己の姿を見るようなものだとアディスは思う。
 人間はとても脆弱だから、集団の中で生きていくためにそれら社会生活に不都合な凶暴な感情を極力押し殺す。そうでなければ、その集団自体から逃げ出す。――アディスが叶わぬ恋のために、エクレシアを旅立ったように。
 けれどエフィは最強の力を持つと言われる神獣の一人だ。だから愛してほしいと望むことを諦めることができない。
「いや、助けてほしいというのは、ちょっと違うかな」
 エフィに投げかけた言葉は、アディス自身、何度も問われてきたことだった。ゾイやルルディに何が欲しいのかと問われ続け、アディスはそれでようやく自らの望みを自覚したのだ。
 自分の本当の望みでも、誰かに言葉にして尋ねてもらえるのとそうでないのでは、出てくる言葉は違うのかもしれない。人は他人の姿を通して、初めて自分自身の姿を自覚する。
「エフィ、僕は君に、僕が悲しむ時や苦しむ時は、ただ傍にいてほしい。僕も君が悲しい時苦しい時、きっと傍にいる」
 ならばエフィも、アディス自身の瞳の中に映る彼自身の姿を見つけ出すことができるだろうか。
 凶悪な竜王ではなく、ただ一人でいいから誰かに必要とされたいと泣き叫ぶ、孤独な幼い子どもの姿を。
「僕は君が好きだよ、エフィ」
 竜が瞠目する。
「だから聞こう。エフィアルティス、君の本当の望みは……?」
「……私は」
 エフィは小さな声で呟いた。
「私はただ……誰かに傍にいてほしかっただけ。役割とか、力とかそういうことは関係なく、ただ大好きな人の傍にいさせてほしかった」
 アディスは天に手を差し伸べる。項垂れるように首を垂れた竜の頬に額を寄せた。
「一緒にいよう」
 竜の大きな瞳から、ぽろりと涙が零れる。
 次の瞬間、幼児の姿に戻ったエフィは空を滑るようにして、アディスの腕の中に飛び込んだ。