風の青き放浪者 04

23.最後の祈り

 いつも通り十歳になるやならずやの子どもの姿に戻ったエフィは、アディスの腕の中でひたすら泣き続けていた。虹色にきらきらと輝く髪を、アディスは優しく撫でてやる。
「アディス、アディス」
「最初に約束したよね。私は君の翼を見つける手助けをしてあげるって。途中で手を離したりなんてしない。私は呪いのせいでこの国に留まれないけれど、その分君がどこに行こうとついていける。それじゃ駄目かな?」
 王国には留まれない。人の王の玉座や冠を得ることはない。
 アディスがもしも得られるとしたら、それはきっと荒野の玉座に風の冠。それでは駄目かと小首を傾げて問いかけるアディスに、エフィはふるふると首を横に振って答える。
「ううん。駄目じゃない。駄目じゃないよ。アディス」
 そしてまたアディスの胸にしがみついて泣きだした。例え強大な竜王の力を持とうとも、アディスの腕の中にいるのは、小さな子どもそのものだ。少し高い体温を伝えてくるその体も、傷つきやすいその心も。
 背後でルルディとドロシアが結界を解き、人々がようやく安堵の息をつく。
「ああ……そうか」
「どうしたんですの? 聖獣殿」
「エフィアルティスだ。どうも力が弱いと思ったら、その大部分を失っているのか」
「弱い? あれで?」
 ランフォスの言葉にスタヴロスやシグヌムが愕然とする。先程局地的な暴風を巻き起こした魔力は、人間の魔術師と考えれば桁違いの強さだった。
「弱いと言っても、その状態ですらあれは私よりは強い神獣だ。けれど昔……英雄王の隣にいた時のエフィアルティスは、もっと強大な存在だった。それでも私たち神獣に言わせれば、それを従えていたクラヴィスの方がよほど化け物だったのだが」
「ご先祖様……」
 クレオが苦笑した。
 今回の一連の出来事において、英雄王は持ち上げられたり貶められたり、もう死んでいるからとはいえ散々な扱いだ。
 ランフォスやエフィの態度を見るに、クラヴィスもきっと英雄と讃えられながらも、その人生にはいろいろとあったのだろう。そう、自分たちが肩書きや身分にも関わらず小さなことに悩み、傷つき、それを越えていくように。
「スタヴロス」
 シグヌム王が、今回のことを仕組んだ弟の名を呼ぶ。
 だが兄として、王としてこの国に立つ男の目にあるのは憎しみではなかった。一方のスタヴロスは兄への激しい憎悪が今は一時表に現れるのを潜め、罰の悪い顔をしている。だが彼はいつまでも往生際の悪い態度は見せなかった。毅然と立つと、一度は絶えた怒りの火を再び灯し、兄に向き合う。
「兄上。今度のことに対し、私はどのような罰をも受けます」
「スタヴロス」
「お互いに目を背けてはいましたが、我らの間には長い間、一つの問題がありました。その問題を清算するのは、今が程良い時期なのでしょう」
 スタヴロスはクレオを一瞥する。
 今ここで彼ら王と王弟の抱えた問題に決着をつけなければ、それはクレオの代まで禍根を残すことになるのだと暗に示した。
 王は厳しい眼差しで跪く弟を見つめていた。誰もが彼の下す判決を待ち、嵐が去った後の式典会場は緊張に包まれていた。
「私は王として、お前の企んだ物事の全てを赦すことはできない」
 当然の言葉を耳にしながら、スタヴロスは表情を見せずに深く俯く。
「だが同時に、この事態の責は私にもあることを知っている。この国が聖獣の加護を求めるあまり、神獣の親愛を受けている当主たる王には反目しにくい構造の国家だということも。恐らく私も、気づかないうちに勝手をしすぎて、お前や他の者たちに無理をさせていたのだろう」
「兄上」
「もう一度やりなおそうではないか。王弟スタヴロス。私もお前も、罪を償い、お互いの至らぬところを直していこう。そしてこのたび負担を強いた分も、より一層民のためになるよう努力し続けよう」
 王弟は信じられない言葉を聞いたかのように、顔を上げて目を見開いていた。
 だが、やがてその驚きを収めると、決然とした表情で兄の前に頭を垂れる。
「御意……エクレシア王陛下よ」
 王の寛大さに、ひとまずここにいる人間たちは安堵を覚える。スタヴロスは暗愚な領主ではない。国王への反逆は重罪だが、彼の統治を必要としている民がいることもまた事実だった。
 これからも苦難の道は続くだろう。しかし生きながら償い続けることと、死によって自らの責から逃れることの間には、似て非なる永遠の距離がある。
 少なくともエクレシアという国は、この結果に満足していた。
 緊張が切れた会場で、しかしアディスは異質なものを感じた。
 これは――殺意?
 ハッと彼が振り返った時には、城の尖塔の屋根に上っていた男が弓弦から手を離していた。
「スタヴロス!」
 鋭い矢の軌跡に、悲鳴と共に女が割って入った。青銀の髪が一瞬ふわりと靡き、崩れるその体に引きずられて落ちていく。
「ドロシア!」
 誰もが呆然とした。アディスも、クレオやニネミア、シグヌムにソヴァロ、ルルディにゾイ、エフィやランフォス。そして誰よりもスタヴロスが。
 あまりにも不意打ちだった。ゾイが射手の顔を見て畜生と毒づくのが聞こえた。
「カタラ、貴様……っ!」
「それは俺の台詞だぜ、ゾイ。暗殺者のくせに、何標的と馴染んでいるんだよ」
 エリピア遺跡でエフィの卵を奪おうとし、先程アディスが入れられていた牢の前でも出くわしたあの男。ゾイと同じくディミオスに所属する暗殺者が、雇い主であったはずのスタヴロスを狙ったのだ。
 それをドロシアが庇い、身代わりとなって矢を受けた。
「殺すって言葉は簡単に使っちゃいけないって、みんな教えられるだろう? 途中で心変わりするような依頼人を、ディミオスは認めない」
 ゾイはアディスの静止を振り切ると、目にも止まらぬ速さで会場を抜け、カタラを追う。続いて我に返ったようにソヴァロが同じくカタラを追えと兵士たちに指示を出した。
 だが、距離がありすぎる。それなのに何故か彼の声だけははっきりと通り、その哄笑が彼らの心を波打たせた。
「まったく、これだから人間ってのは見てて退屈しない。なぁ、竜王?」
 嗤うカタラの姿が霧のように揺らめき、その中から真っ黒で巨大な鴉が表れた。
「まさか……神獣なのか?!」
「ディカスの魔王?!」
 ゾイの言葉に周囲の者たちがざわめいた。他でもない魔王殺しの暗殺者によって殺されたはずの魔王が生きていた。
「せいぜい足掻けよ、人間!」
 カタラはドロシアに使役されていたのではなく、操られたふりをしていただけだったのだ。
 神獣はランフォスのように、国の守護につけば聖獣と呼ばれるようになる。だが強大な力を持つ存在の全てが、人間に好意的であるわけではない。
「待て! カタラ!」
 黒い羽根をまき散らしながら、暗殺者を名乗っていた神獣の姿は空の彼方へと消えていった。

 ◆◆◆◆◆

 この数か月、エクレシアの王位に混乱をもたらした事件の発端となった女の命が、今にも尽きようとしていた。
「ドロシア! ドロシア、しっかり!」
「ごめんなさい。スタヴロス……私のわがままを聞いてくれて嬉しかったわ……」
 クレオに呪いをかけ、彼の王位継承権を奪おうとしたドロシア。スタヴロスの奮闘も、そのほとんどは彼女のためだった。共犯者である男に、魔女は弱弱しい笑みを返す。
「ルルディ! 治せないのか!」
「無理です。殿下。矢に毒が使われています。魔術と毒の両方に詳しい者でなければ……力足らずで申し訳ありません」
 ドロシアの白い胸元の皮膚が傷口の周りから黒ずんでいくのを見て、ルルディが沈痛な顔で首を振る。毒と魔術の両方に詳しい者と言われて、クレオやニネミアも悲痛の色を浮かべた。魔術での治療に長けて解毒治療もできる高位の魔術師。それはこの国では、ドロシア本人のみだ。
「シグヌム」
 死に向かう女の目が国王に留まり、その名を呼ぶ。
「何故……私の子は愛してはくれなかったの……同じ父親を持つのに、一人は王子で、一人は永遠に冷たい土の中……」
 青い瞳に涙が盛り上がり、頬を滑る。最後の最後まで恨み言を口にすることを選んだかつての愛人を前に、シグヌム王は耐え切れずに口を開こうとした。
 だがその言葉は、彼よりも早く彼女の傍らに跪いたアディスの行動によって阻まれた。
「アディス」
 誰かが呼びかけるのも構わずに、アディスは血の気の失せた魔女の顔を覗き込む。
 我が子をその父親である国王自身に奪われ、その時から己の心の時間まで止めてしまった哀れな女を。それから十六年も経つというのに、ドロシアの中では彼女の子どもは赤ん坊の時の姿のままだ。
 アディスは魔女の白い手を自らの両手で包み込む。
 彼らの背後で、ルルディが思い出したように、彼にかけていた髪と瞳の色を変える魔術を解いた。顔立ちこそ変わっていないが、ルルディ自身やゾイ、エフィ以外の者たちには、これまでアディスの姿は茶髪に茶色の瞳に見えていたのだ。
 柔らかく吹く風に、ふわりとした青い――青銀に紫を帯びたような髪が揺れる。空の青さに近いその色が、まるで彼の背後の蒼天に溶けていきそうだ。
「あなたの息子は土の中ではなく、永遠に風の友だ。彼は優しい家族を得て、無二の友人を得て、竪琴を奏でる楽しみを知り、数多の人々を愛し、またその助けも得られた――幸せだ。幸せだった。今も昔も、これからも、ずっと」
 青銀に少しだけ紫がかった彼の髪色はドロシアによく似ている。そして瞳の色は同じだった。まったく同じ青さ。
 魔女は動揺に、息子と同じ色の目を瞠った。
 彼女の息子は幸せだったのだ。ずっと。ドロシアが失った我が子を想い嘆き悲しんでいる間も。だからドロシアには、息子のことがわからなかった。殺したというシグヌムの言葉を信じていただけではなく、生きていてもその子が幸せに生きているなどと考えもしなかったから。
(私は自分が悲しいから、あの子も悲しいはずだとずっと思っていた。認めたくなかったの? 私と引き離されたのに、息子が幸せでいるはずはないと……いいえ、私と離れているからこそ、あの子が不幸なのだと思いたがっていたの……?)
 宰相家の息子が王の隠し子だという噂が流れた際も、だからドロシアはその少年が自分の産んだ子だとは考えもしなかった。見た目や年齢で考えればすぐに気づきそうなものを、母親としての思い込みが目を曇らせていた。
「だからどうか。悲しまないで」
 やっと真実に気づいたのに、霞む視界ではもうその顔もろくに見えない。ドロシアの瞳は焦点が合わなくなり、瞼の重さに耐えきれず涙は滑り落ちる。
「ああ……」
 神よ。
 信仰から最もかけ離れた魔女の口から、思わずその言葉が滑り落ちる。彼女は最後の力を振り絞って、自分の手を握る少年に囁いた。
「あなたは、生きて……」
 本来彼につけるはずだった名前はもう呼べない。けれどせめて、この祈りだけは――。

 ◆◆◆◆◆

 温度を失っていく指先をアディスはずっと握りしめていた。
 逝く人の小さな呟きは、安堵か、納得か、歓喜か、それともそれ以外の何かだったのか。
 知ることはできない。もう永遠に聞けはしない。
 ただ彼女の最後の言葉だけを、胸に抱いていく。
 彼女に伝えそびれた言葉は多く、伝えられない、伝えてはいけなかった想いも多くある。
 アディスは真実に気づいてからも、母としてのドロシアを慕っていたわけではない。
 ただ、その昔王宮の庭園で、彼のためだけに竪琴を奏で、歌を歌ってくれた美しい人の姿を、ずっと忘れることができなかっただけだ。
 彼女は美しき風の魔女。最後の最後まで、アディスに呪いをかけた。決して解けない呪いを。
「そんな……」
 悲痛な声を上げたのは、アディスとは逆側からドロシアに呼びかけていたスタヴロスだった。
「お前が、十六年前の、だからその顔で……ああ、だが、もう……もう遅い!」
「王弟殿下! 何を?!」
 彼は彼で必死だったのだろう王弟は、突如立ち上がると叫んだ。その懐から鋭い刃が抜かれる。
 傷ついて我を失った獣のような眼差しで、スタヴロスはアディスの背後のクレオを睨んだ。その行動に、彼らは瞬間的に王弟が何をする気なのかを悟った。
 アディスがドロシアの息子である以上、スタヴロスにはもはや彼を害する選択肢はない。それよりもクレオを殺せば、アディスにも王位継承権は与えられる。
 ここまで異常事態が重なった後で本当にそんなにも都合よく事が進むかどうかはともかく、王弟は自らが王子殺しの罪を着てでも、ドロシアの息子に王位を与えたかったようだ。
 彼も、彼らは、所詮皆親戚なのだ。考え方がよく似ている。
 一番大事なものを守るためには、他の何をも切り捨てられる残酷さも。
「アディス……」
 剣を手にしたまま目を瞠るクレオの白い頬にも、目の前の人物から噴出した血が降りかかる。手の中の矢の鋼の鏃が肉を抉った嫌な感触を味わいながら、それでもアディスは後悔していなかった。
 クレオを殺させるわけにはいかない。殺気に反応して咄嗟に剣を抜いたクレオ自身に、反逆者とはいえまだ刑の確定していない王弟を殺させるわけにもいかない。
 兵士やゾイは、皆カタラを追って出払っていた。その場でアディスが一番スタヴロスの近くにいた。
「何故……」
 ドロシアの胸に刺さっていた矢には毒が塗られていたのだ。同じ矢で脇腹を裂かれて倒れ伏したスタヴロスももう助からない。
「ごめんなさい」
 アディスの口から、思わず掠れた謝罪の言葉が血縁上の叔父に向けて発される。スタヴロスは最初の驚愕が去ると、怒りよりもむしろ憐れみを湛えた眼差しでアディスを最期に一度だけ見た。
 魔女が死んだ時とは打って変わり、一度は静まり返った会場が再び喧騒に包まれた。悲鳴や怒声が入り乱れ、王に指示を仰ぐ声が飛び交う。だが病み上がりの王自身はかつて愛した女と弟が次々に亡くなった事実に呆然としていて、彼に代わり王太子のクレオが戻ってきた兵士やその場にいた高官たちに指示を出す。
「アディス」
「エフィ……」
 死者の体から矢を引き抜いたアディス自身は、自分が何をしたのか無我夢中でほとんど覚えていない。ただより深く傷を与えようと、矢の柄をぎりぎりまで短く持ってスタヴロスの脇腹を裂いた彼は、返り血に濡れている。
 先程とは逆に、エフィが小さな両手を伸ばして、膝立ちのアディスの頭を包み込む。アディスはただ、その細い体に縋った。
 クレオの指示を受けた兵たちが魔女と王弟の遺体を運び出す。ランフォスは消沈する王の肩を支えて城の中に戻る。人々は仕事に追われ、様々な感情の整理に追われていた。
 エクレシアの中で停滞していたあらゆるものが、再び動き出そうとしていた。吹き込む風が血の匂いを洗い流していく。
 事件は、ようやく幕を閉じたのだった。