epilogue 風の青き放浪者
混乱した王城内を隙を見て探索したエフィたちは、エクレシアの王冠に隠されていた羽根を見つけた。
ルルディの魔術で分離されたそれを、エフィは小さな手で受け取る。お歴々が事後処理で駆けずりまわっている城の謁見の間には、彼らしかいなかった。
三つ目の虹色の羽根が胸の中に溶けるように消えて、その瞬間辺り一面に様々な光景が幻として広がる。
クラヴィスがいる。ミラがいる。ランフォスがいる。レピがいる。曲者魔術師に変人学者。かつて出会ったたくさんの人々。
彼らと過ごした時はエフィ自身の鱗のように、きらきらと虹色に輝く。
幻の中、クラヴィスがエフィに向けて手を差し伸べた。本物のように鮮やかなその手を取れば、過去の時間の中に戻れるのではないかと思うくらい。
くるくると色を変えるシャボン玉の中に閉じ込めた記憶たち。その時は泣いたり怒ったりした記憶も、今では何もかもが幸せに思えてくる。
けれど手を差し伸べる幻に、エフィはただ静かに首を横に振った。懐かしい青い瞳にさよならを告げる。
袖で涙を拭い、顔をあげる。彼は歩き出した。――今、帰るべき場所へ。
◆◆◆◆◆
王弟殺し。
それがアディスの罪状だった。
「行くのですね、アディス殿」
「ええ。今まで随分お世話になりましたね、ミラ。まぁあなたにはいいように踊らされた面も少なからずあるのだから、これでお相子にしておいてほしいですけれど」
公衆の面前でスタヴロスの命を奪ったアディスに科せられた刑は、〝二度とこの国に立ち入らぬこと〟。
図らずも魔女ドロシアの呪いはその強力さを発揮したというわけか、アディスは正真正銘、今度こそ故郷を失った。
もっとも、これはまずアディスの命を守り、クレオの王位継承者としての立場を守り、そしてアディスの希望を十全に汲んだ形で与えられた、好意的とも言える罰である。
国王シグヌムが何を考えてこの罰を定めたのか、アディスは知らない。最後まで彼の心の内を知ることのないまま、二度と帰らない旅に出ようとしている。
二度目の旅立ちを見送るエクレシア側の人間は少なかった。クレオもニネミアも来たがったのだが、何せ王は病み上がりで有能だった王弟は死亡したため、国内の事後処理に追われていて忙しい。
もとよりアディスは彼らに余計な気を回させないためにと、今度の出発は二人が絶対に出てこられないような時間を選んでいた。すなわち、仕事が最も忙しい昼日中だ。
空は晴れやかに青く、風に雲が流れていく。
アディスを見送りにわざわざ足を運んだのは、意外なことに両目を布で隠した、大陸最古にして最強の預言者だった。
千里眼の魔女ミラは、口元だけで笑うとアディスに腕の中の包みを押し付ける。
「ついでですから、最後まで私に踊らされてくださいな」
「えー……って、これは」
渡された包みを解き、中から出てきたものを見てアディスは驚く。
「僕の……いえ、もしかしてドロシアの竪琴では?」
「正解です。あなたのものは彼女と一緒に埋葬してしまいましたから、その代わりにと」
ミラはアディスに竪琴を返すため、わざわざ国王から正式に許可をもらってきたらしい。
竜王エフィアルティスの爪と鬣から作られた、決して壊れることのない特別な竪琴だ。今ではもうこの世に一つしかない。
「アディス殿、あなたはあの時、エフィアルティス様の心を鎮めるために彼女が歌った曲の題を知っていますか?」
「いいえ」
あれはアディスが初めてドロシアと出会ったときに、城の中庭で彼女が奏でていた曲だった。アディスもその題を知りたいとは思っていたが、あの曲自体を知る者が少なかった。
「あの曲の題は『風の青き放浪者』。国内外に流布しているものとはかなり違いますが、あれもまた英雄王クラヴィスの旅路を謳った曲なのですよ」
アディスは青い瞳を瞠る。
一般に広く知られる英雄王の叙事詩は、どれもその冒険を勇壮に歌い上げたものだ。
だがあの時ドロシアが歌っていたのは、まるで子守唄のように優しい歌だった。痛む場所にそっと触れる温かい手のように、悩み迷う若者の心を慰撫する。
「生まれ落ちたその瞬間より、かつて先祖が殺した炎神に呪われていた運命の子、クラヴィス王子。彼は初めから英雄であったわけではありません。確かに存在するともしれぬ呪いの解呪法を探すその旅路は、なんという不安と波乱に満ちていたものだったでしょうか」
アディスを縛り続ける英雄王の名。だが後世の記録では栄光に彩られている彼の人生にも、やはり人並以上の苦難があったのだ。
布に隠されて見えないはずの目で、ミラは懐かしそうにアディスを眺める。
「あの方も、青い瞳をしていました。髪は今の王族と同じ燃えるような茜色をしていましたが、瞳はエクレシア人らしい青色でした」
すでに取り返せぬもの、失われてしまったものを思う声は愛情に満ち、どこか寂しい。
「預言者は未来を見ることができます。けれどその未来に、必要以上の干渉は許されない。それをしてしまった瞬間から、私は預言者ではなくなる。口にしたことの全てが変わってしまうなら、もうそれは預言者とは呼べないでしょう」
預言者が見た未来は決して変わらない。そして預言者とは、未来が一方通行だからこそ価値のある存在だ。
知りえた未来に手を加えることもできずに、ただその状況を知らされるだけなら、何のために未来を視るのだろう。
「私は英雄王と竜王の決別も知っていた。知っていて彼らに、何の手出しもできませんでした。だから待って、待って、待ち続けた。彼らの運命に干渉できる存在を――あなたを」
アディスを。国王の隠し子であり、本当はアディスという名前ではなく、歌と楽器しか取り柄がなくて、王子にかけられた呪いを引き受けて国を出ていくような愚かな少年を。
けれど彼だけが、誰も向き合うことのなかった竜王の心に真正面から向き合った。
「かつての英雄王は、放浪者でした。彼も彷徨い、悩み、傷ついてようやく彼の道と、いるべき場所を見つけました。あなたもこれからきっと、長く彷徨い続けるのでしょう」
たとえ呪いにかかっていてもいなくても。
アディスの胸には、まだ呪いの魔方陣が消えることなく残っている。術者のドロシアが死んで、もはや永遠に解けることはない。
けれどそれがなくとも、人は誰しも、見知らぬ故郷を探して彷徨うものなのだ。全てに満たされている時などなく、出会いと喪失を、希望と絶望を繰り返す。矛盾を抱き、愛憎を抱え、一枚の葉の表裏のように容易く翻る心と向き合いながら、その時その時、己が幸せだと思える手を掴みとるしかない。
「私はこの世界のすべてを知る代わりに、この国に縛られ続ける魔女。もう二度と会うこともないでしょう」
「ミラ……」
「さようなら、かつての英雄王の、名もなき子孫よ」
魔女は踵を返す。アディスにとって、ミラはこれまでの人生に当たり前のように存在していた女性だ。彼女はあるいはランフォス以上にこの国を守っていた。
「さよなら」
また一つ、別れを重ねる。
世界を放浪するということは、多くの人間と出会い、別れることでもあった。
国境へと至る街道の途中でエフィとルルディ、それにゾイの三人がアディスを待っていた。
「お待たせ。でも、本当にいいのか? 僕と一緒にいたから、君たちまでエクレシアでは犯罪者扱いされてしまったのに」
アディスに自惚れる気はないが、今回のあらゆる出来事は元をただせば彼の存在に端を発していた。王家の血のことも、聖獣のことも、呪いのことも。〝放浪〟の呪いを引き受けたのは、アディスにとってはクレオにもドロシアにも真実を言えないことに対する罪滅ぼしのつもりもあったのだが、結果的にそれがスタヴロスに神獣まで持ち出させ事態を大きくしてしまった気がする。
それでもまさか祖国を二度捨てることには。
一緒にいると約束し、人間的な危険とはほぼ無縁な竜王エフィはともかく、ルルディとゾイは生身の人間だけに苦労も絶えないだろう。しかしアディスの言葉に、ゾイは苛立ちも露わに彼の両頬を指でつねった。
「いひゃい!」
「あーのーなー! 今更、この期に及んで、何をまだぐだぐだと言ってるんだお前は!」
「ら、らっひぇ」
ようやくアディスの頬から手を離したゾイは、心底呆れましたという顔で、アディスに堂々と指を突きつける。
「お前が何と言ったって、俺はもうお前と行くって決めたんだよ」
「ありがとう、ゾイ。僕は君に会えて、本当に嬉しいよ」
「な、なんだよ。俺は別に……」
真正面から感謝を告げると、暗殺者は照れて頬を赤く染めた。暗殺者として、冒険者としての腕は一流でも感情表現が不器用なこの少年が成り行きでも自分と一緒にいてくれることは、アディスにとって間違いのない僥倖ぎょうこうだ。
「それに俺の場合、カタラのこともあるし……」
腕を組んだゾイは険しい顔をする。
彼がディカスティリオ地方で倒したはずの〝魔王〟。だが、ゾイによれば神獣となったカタラの姿はその魔王と同じだというのだ。あるいはゾイはこの事態と無関係ではなく、彼自身の因縁が彼とアディスを引き合わせたのかもしれない。カタラの存在が引き合わせたというよりは、まだ因縁という言葉を使いたい。
続いてアディスは赤い髪の若き魔女にも目を向ける。
「ルルディも、一緒に来てくれてありがとう」
「礼には及びませんわ。わたくしとしては、アディス様とエフィ様を独占できて嬉しいくらいなのですから」
「そ、そう」
独占ってなんだとアディスは思ったが、ルルディが嬉しそうなので軽く頷くにとどめておいた。地下墓所で何年も墓守として一人きりで生きてきたせいか、彼女の言動は時折彼には計り知れないものがある。
「ちょっと余計なのも一人おりますけど」
ゾイの方を見て忌々しそうに零した墓守魔女に、暗殺者少年は負けずに刺々しい眼差しを返した。
「あん? そもそもてめぇの力不足で事態がどうにもならないからって俺を呼びつけたのはお前だろうが」
「本当に、世間知らずなこの身が恨めしいですわ。アディス様、他の街についたらもっと性格のよい戦士でも剣士でも雇いましょうね。こいつをお払い箱にして」
「んだとぉ?」
「あー、はいはい。喧嘩はそれくらいにして」
この二人に争うなというのははじめから言うだけ無駄なので、せめて適度なところで切り上げなさいよと投げやりな仲裁をしてアディスはエフィに向き直った。
「まだまだ君の羽根を探さなきゃいけないのに、ずいぶん回り道をさせちゃったね」
「ううん、いいの」
虹色の瞳が彼を見上げる。
「だって守るべき国がなくても、アディス自身が私の帰る場所だもん。一緒にいるって、そういうことでしょ?」
無邪気とも見えるエフィの言葉に、アディスは目を瞠った。
彼はこの世界を彷徨い続ける放浪者。帰る家を持たず、戻るべき国もない。定住者には決してなれない。
けれど宿無しの鳥にも、翼を休める枝となってくれる存在がいるのだと。
「――そうだね」
地を彷徨い続ける旅人は、飛べない竜の手を取った。風の属を持ちながらも翼を持たぬ者として、これからも歩き続ける。
青い空を渡る爽やかな風が、旅立ちを誘うように少年たちの頬を撫でていった。
「――さぁ、行こう」
彼らの旅はここから始まる。
了.