White World 01

2.海辺の村のおかしな人々

 彼と出会ったのは、海辺の村の夜空の下だった。
 運命というものがあるのならば、きっとそれ。
 砂浜に倒れていた僕を、彼が助けた。
 それが――全てのはじまり。

 ◆◆◆◆◆

 波音を肌で感じながらどこからか届く歌を聴いていた。
 竪琴の音を伴奏に、伸びやかな少女の声が連なる。綺麗な音、綺麗な声だ。
 いつからか聞こえていたそれは、不意に途切れた。
 やめないで。もっと続けてと願う僕の虚ろな意識に、これもまた心地よい少年の声が滑り込む。
「姉さーん、浜辺になんか落ちてるー」
「あらあら、落し物は持ち主に……返せないわね。それは」
 呑気なやりとりに、僕はほんの少しだけ目を覚ました。目線が揺らめき、安定しない。
 海水に濡れたはずの体はべったりとして気持ち悪かったけれど、不思議と温かい。少ししてそれが、自分が誰かに背負われているためだと気づいた。
 頭が酷く痛む。
 歪む視界で捉えたのは、自分を背負う誰かの頬にかかる黒い髪だけ。
 それ以上は意識を保っていられず、僕はまた目を閉じる。
 ほんの一瞬を、僕を背負う人の目の前にいた人、姉さんと呼ばれた少女が見ていたようだ。
「綺麗な紅と青ね」
 力尽きた僕の瞼は滑り落ち、また闇が包む。

 ◆◆◆◆◆

「はっ!」
 二度目に目覚めた時、僕はようやく現状を理解した。すぐ横でガチャンと陶器を取り落したような音がしたが、構わずに自分の両掌を見つめる。
「生きてる……」
「そりゃ生きてるよ。俺が拾ったんだもん」
 かけられた声に反応して横を向くと、寝台の傍に椅子を引いて一人の少年が座っていた。
 ありふれた黒髪に黒い瞳、整った顔立ちの少年だ。その声にはどこか聞き覚えがある。
 たぶん、僕を背負ってここまで運んできてくれた人物だ。誰かに背負われている際、その背中で聞いた声と見た黒髪。
「具合は大丈夫そうだな。でも念のためにもう二、三日寝てれば。起きてそんなすぐ動けないだろ?」
「いいや」
 僕は言って、指の一振りで身支度を整えた。寝ている間に少し回復した魔力で、体調もさっさと整えてしまう。
 僕は誰も信用できない環境で育ったから、魔術を覚える際にまず学んだのは自力で生きていくありとあらゆる方法だった。体調を整える魔術もその一つ。治療の術は肉体を持つ生物の内外に作用するから難しいと言われているけれど、僕は自分に治癒の術をかける分にはほぼ完璧にそれを使いこなすことができる。
「ふーん、魔術師か。便利なもんだな。でもこれ、せっかく作ったんだから呑めよな」
 少年は僕に、薬湯の器を押し付けてくる。器の口にちょっとすでに緑色の液体が零れているのはご愛嬌だ。先程取り落しかけた影響だろう。
「……いただきます」
 体が水分を欲しているためもあり、僕はそれを僕にしては素直に受け取り、一気に飲み干した。助けた人間に毒を呑ませる意味もなければ、これが毒であったとしてもすぐに魔術で解毒すればいい。
 そこまで人を疑わなければ生きていけない自分を嫌な奴だと思いはするけど、これはもう変えられない性分だ。幸いにも味以外は体に良い成分でできていたそれを呑み終える。
「うえ」
「ははっ。良薬口に苦しってな」
 酷い味に舌を出して呻く僕の姿を見て、少年が楽しげに笑った。
 人心地ついたところで、僕はようやく周囲の状況を確認する余裕ができる。
 ここは誰かの家。恐らくは目の前の彼の。そして目覚める前の記憶が正しければ、もう一人は女性が住んでいるはずだ。
 素朴と言えば聞こえがいいが、言ってしまえば粗末な木の小屋。広さはそれなりにあるが、調度は少ない。大きな窓の向こうには碧い海が見えている。慣れてしまった潮風の匂いがそこから吹きつけていた。
「さて、気分が良くなったならそろそろ話をしようか、魔術師様」
 黒一色なのに不思議と華やかな光を思わせる瞳で彼は言った。
「まずは名前だな。俺はディソス。ディソス=アルナグム=アルシャマーリ」
「僕は――」
 僕が簡単に名乗りを終えると、ディソスという少年は更に踏み込んだ話をはじめてきた。
「ここは俺と姉さんが住んでいる家だよ。海沿いの小さな村の中だ。村人全員が、ある神を信仰している」
 広大にして深淵なる世界フローミア・フェーディアーダには、創造の女神をはじめとして、無数の神々が存在する。誰もが知っている太陽神のような存在もいれば、人々が名を聞く機会もないような神様も存在する。だから僕はその「ある神」とやらも、そういった小さく地味な名もなき神の一柱なのだと思った。
「で、俺は二日前に、砂浜で半分海に浸かっているような状態のお前を拾った。俺の説明はこんなところだけど、お前はどうしてあんな漂流者みたいなことになってたんだ?」
 単に事情を尋ねるだけのそれに、僕はどう答えたものか少しだけ迷う。
「船が嵐で難破したとかそういうわけじゃなさそうだな。それにしては同じ船の欠片、他の積み荷や人間が流れてくる様子はない。だからといって、理由もなく一人で遭難するほどの間抜けには、お前さんは見えないな」
 僕が迷っているうちに、ディソスは鋭い洞察力で一つずつこちらの逃げ道を封じていく。
 彼に悪意はなさそうだし、いざとなればどうにでもできる相手でもある。小さな村だと言っていた。実際僕の感知できる範囲にいる人の気配には、それほど強大な魔力を感じない。
 だから僕は、本当のことを言うことにした。
「海に落とされたんだよ」
「海に?」
「そ。出会ったのは嵐じゃなく凪だ。何日も船が停滞して動かなくなるような恐ろしい凪。それで乗客たちが半狂乱に陥って、魔女狩りを始めたんだよ」
 人は己が不幸な閉塞した状況に置かれると、自らの精神を守るために誰かを槍玉にあげて犠牲にする。
「僕も消耗してた。人知れず魔術を使って食べ物を腐らせるのを遅らせたり、病人の治療をしたりで。でもそれで隠してた秘密がバレちゃって。海神の怒りを鎮めるためだと言われて、縄で縛られて海に突き落とされたんだ」
 疲労が油断を招き、その隙をついて人々は僕を多勢に無勢で抑え込んだ。海神への贄と呼ばれ、荒縄で縛られて海に落とされた。
 だが真に神と呼ばれるような存在は、生贄など欲するはずもない。
 生贄を捧げることで安定を得られるのは、荒ぶる神ではなく自らの理解の外にあるものを恐れる人間のほう。
「……お前よくそれで生きてたな」
「こんなことは初めてじゃないからね。いつも最低限、逃げ出すための魔力は残しておく。凶作の村で大地神の贄とか言われて生き埋めにされた時もそうだし、不幸続きのとある領主に魔物と呼ばれて狩られた時もそう」
 いつだってその土地で不幸が続くと、それは僕のせいにされる。僕が人と違うことが、人々が僕を迫害する理由になる。
「それはまた壮絶な半生だな。それなのに、秘密がバレるかもしれないのに、船上では自分の魔力を削って人助けしてたわけか。あんたは底抜けのお人好しだね。というか、単にバカ?」
 酷い言いぐさだ。
 ディソスは僕の説明を聞いても、まだからからと笑っている。この手の手合いに隠し事をすると後々変に事情がこじれることがあるから、僕は怪しまれるくらい正直になるくらいがちょうどいいと考えた。
 幸いにももうここは陸の上だ。海中に沈められた時のように手も足も出せず逃げられないなんてことはない。
 助けてくれたことに感謝はするが、恩着せがましくされるのも、勝手な邪推で見当違いの同情をかけられることもまっぴらだ。
 ――僕は、僕だ。僕が僕である限り異端として排除されるが、僕であるが故にそれでも生き残ることができる。
「海に落ちて縄から脱出する途中で力尽きたけど、その時に海神を見た気がするよ」
 海神への贄と呼ばれて海に落とされた僕だけど、どうやらその僕を助けてくれたのは海神のようだった。
「アドーラ様もデュカ様も優しい神様だ。生贄なんかもともと必要としないよ。うちの神様と違ってね」
 普通は神の名を直接口に出すことは滅多にないのだが、この村の風習なのかそれとも彼個人の人柄なのか、ディソスは海神と大地神を名前で呼んだ。
 しかし僕は彼の言葉の中途に挟まれた不穏な言葉が気になった。「うちの神様と違って」だと? つまり彼の信仰する神とやらは、生贄を必要とするのか?
 無数の神々の民間信仰の詳細を全て知るわけではないが、基本的に穏やかな気性の神が多い中、小さな村に生贄を要求しそうな神などいただろうか。有名なのは戦神くらいだが、あれは一つの国が代表して信仰と儀式を行っているはずだ。
 不意にディソスは表情を改めると、真正面から僕の顔を見え尋ねた。
「お前の秘密っていうのは、その色違いの瞳のことか?」
 僕は真っ向から彼を見返した。
 彼のようにありふれた黒髪黒瞳の容姿が僕は羨ましい。僕の容姿は、銀髪に青と紅の色違いの瞳だ。いつもは魔術で瞳の色を紫に変えているけれど、あまりに消耗すると術を維持できなくなる。
「そうだよ。残念ながらここでは取り繕う暇もなかったから、すでに秘密でもなんでもないけどね」
 睨むように彼を見つめると、ディソスの真面目な表情が不意に崩れた。彼は口の端をゆっくり吊り上げて、挑戦的に笑う。
「そう。どうやらお前も、来るべくしてこの村にやってきたみたいだな」
「?」
 僕はここに留まるつもりはない。ここまで平然とした顔で話を聞いてくれたディソスがどれだけ変人かは知らないが、こんな一目で異端者とわかる容姿の者は一つの土地に長居できるはずもないからだ。
「僕はここにはいられないよ。助けてくれたことには感謝するけど、それでいずれまた同じような目に遭うのは御免だね」
 けれどディソスは僕の言葉に軽く首を振る。
「そんな奴はこの村にはいないよ。いるはずがないんだ」
 どうしてだろう。僕もこれまで異相の魔術師として酷く恐れられ、忌み嫌われてきたけれど、そんな自分よりも目の前のありふれた容姿の少年の方が今は畏れるべきもののように感じる。
「この村ではどんな犯罪者も魔物も拒絶されることはない。この村にはどんな法も規則も存在しない。何をしても罪とも禁忌とも呼ばれることはない。犯したくば犯せ、殺したくば殺せ。この村での約束はただ一つ。我らが神を崇め、その使徒であることを悦ぶこと」
 彼は僕の色違いの瞳を、まっすぐに見つめて告げた。

「ようこそ、背徳と快楽の神、グラスヴェリア信仰の村へ」