3.神様を拾う日
とはいえ、やはり魔術師から界律師になったところで生活のほとんどは変わらない。
一つだけ大きく変わったのは、名前。僕はこれまで名乗っていた名を捨て「辰砂」と名乗るようになった。村人たちも僕を祝ってくれ、辰砂の名を使うようになった。
だがやはり、それぐらいで人々の態度は変わりはしない。
相変わらずこの海辺の村は平和で、人々は呑気だった。時々外の世界で異端者と呼ばれた人々が駆け込み寺よろしくやってくるぐらいで、あとはいつも通りの日常だ。
それでも生きて時を重ねる以上、人の心には、暮らしには、それに応じた変化が訪れる。
◆◆◆◆◆
ある日、僕はディソスと共に小屋を出て、海岸を歩いた。
この地方は温暖な地域で、海辺の砂は白かった。死んだ珊瑚の亡骸と珊瑚に住む生き物の亡骸が作り上げる白い砂浜。死を足元に踏みしめるからこそ、この海はこんなにも綺麗。
夜だった。銀色の月が明るく、その周囲にはこの海辺の白砂を零したかのような星々が鏤められている。
「そうそう、界律師になったんだってな。おめでと」
前を歩いていたディソスが振り返り祝いの言葉を述べてくる。
ディソスの方から散歩に誘い、二人で夜の海辺を歩いた。
僕はほとんど記憶がないけれど、僕と彼が出会ったのは、この海辺だからだ。砂浜で半ば海水に浸かり、ようやく上体だけを水面から出した状態で倒れていた僕を、彼が助けてくれたのが二人のはじまり。
「界律名はもう決まったのか?」
「ああ、“辰砂”だってさ」
名というのは個人を特定し魂を縛る特別なものだから、一定以上の力を持つ存在が真の名を秘匿するのは珍しいことではない。どれほど強力な魔術師であろうとただの人間であるうちはいいが、界律師はその名の通り世界の律を操る者だ。だからこそ真名が隠され、界律名を名乗るようにさせられる。
「もうお前のことをあの名前で呼ぶことはないんだな。でも、辰砂って良い名前じゃないか」
僕はディソスの声に僕の本当の名を呼ばれるのが好きだった。でももう、彼があの名で僕を呼ぶことはない。それだけが僕のあの名に対する未練で、心残りだった。
「そうか? 赤い塗料に使われる有毒な水銀の硫化鉱物の何が良い名前なんだ?」
そんな僕の気も知らず、ディソスは砂浜に屈みこむと、ちょいちょいとこちらを手招きした。白い砂に指で「辰砂」と文字を綴る。
「もとの意味は置いておくにしても、字面がいいじゃないか。辰は星の意味だろ? 砂は大地。そして星の砂と言えば?」
白い砂の中から器用に小さな小さな星を拾い上げ、ディソスは言った。
「海、かな」
有孔虫が死んで残された殻が星のような形に見えることから、それを星の砂という。有孔虫自体はともかく、星の砂の元となる種は珊瑚の生えるような温暖な海域にしか棲まない。ここの海岸では、星の砂がよく採れる。星であり砂というが、それは海を象徴するものなのだ。
「そう。辰砂っていうと、空と大地と海、全ての意味が揃うんだ」
「どうせこじつけだろ」
「こじつけでもいいじゃないか。お前の新しい名前の中に、それらが隠れてるってことがいいんじゃないか。空と大地と海を廻る、この世界を象徴するような名前。お前は星、お前は砂、お前は海、お前はこの世界」
「名前が世界を表すから、だからなんだってんだ?」
「わかってないなぁ」
ディソスはからかうようにくすくすと笑う。けれどその微笑みはやわらかく、声はまるで羽根のようだ。
「この世界の多くの人間が、この世界を愛しているんだよ。多くの者に愛されているものの名前なんだよ。俺も世界を愛してる。そして、辰砂、お前のことも愛してるよ」
「ばっ……」
僕が顔を赤らめ言葉を失った隙に、ディソスは膝についた白砂の欠片を払って立ち上がった。
僕も立ち上がり、その後を追う。二人、時折とりとめもない言葉を交わしながら、月を眺めつつ砂浜を歩く。
「ディソス」
「ん? なんだ?」
穏やかな顔で振り返る黒髪の少年に、僕はついぞ想いを伝えられなかった。
「いや……なんでもない」
◆◆◆◆◆
彼と出会ったのは、森の中の木漏れ日の下だった。
運命というものがあるのならば、きっとそれ。
川岸で倒れていた彼を、僕が助けた。
それは――終わりのはじまり。
◆◆◆◆◆
いつものように魔導書を読む居心地のよい場所を求めて山裾の森に分け入る。
海辺で竪琴を奏でながら歌うアディスの声が遠く風に乗って聞こえて来ていた。だから村からそう離れてはいない場所だ。
はじめは、怪我をした鳥でも落ちているのかと思った。足元に血の付いた白い羽根が落ちているのを見て、僕はその血の痕を辿った。
せせらぎの聞こえる川岸でそれを見つけて、呆然とする。
人ならぬ者の証である白い翼を惜しげもなく晒したまま、彼は水の中に半身浸かった状態で倒れていた。僕は彼を岸に引き上げて、すぐに魔術で治療を始めた。
はじめは天使かと思った。神々の眷属でありしもべでもある彼らは、時折命を受けて地上へも降りてくる。グラスヴェリアのように自分で地上の人間の下に降りてくる奔放な神の方が珍しく、たいていの神はこうして地上での用事を済ませる際に天使を遣わすものだから。
けれど治療を始めてすぐに間違いに気づいた。
天使の力量は個体によって差もあるが、せいぜいが人間の優れた魔術師程度だ。ちょっと出来の悪い天使だと力比べで人間に負ける例もよくある。天使という名こそ大層だが、その実は見た目以外は妖精と大差ない。
川岸で倒れていたその少年は、優れた魔術師程度なんて力の持ち主ではなかった。魔術神に意味ありげな評価を下された僕が力のほとんどを費やして、ようやくその傷を補えるほどの実力者。
神々の肉体は魔力そのものでできている。だから滅多に傷つかないし、魔力のないものに傷つけることはできない。そしてその傷を癒すのもまた、本人の魔力か他者の魔術による治療しかない。
僕の必死の介抱で気が付いたのか、その神は目を開けた。
青い瞳だった。高く自由な空の青さ。天空の色。なんという青さだろうと僕はしばし見惚れる。
淡い紅色の髪に白い肌と翼の神。水辺に倒れていた姿もまるで一幅の絵のようだったけれど、やっぱりこうして生きて目を開けているのが一番だ。
「気が付いた?」
「ここは……」
さすがに神というべきか、その少年は急に体を起こしても立ち眩みする様子すらなく、きょろきょろとあたりを見回した。
「我は魔物を追って、倒して、それで……」
「ああ。それで傷を負って力尽きて倒れて川に落ちたの? ここは人間の地名で言うと――」
神々と人の名づけた土地の名が同じなのかどうか知らないが、僕はその神に現在地と状況を話した。
神と言えば海神に邪神、魔術神。最近はよく神様に会う。けれど実際に言葉を交わしたのは邪神と魔術神のみで、グラスヴェリアはともかく魔術神の方は性格もよくわからなかった。
目の前の少年は魔術神よりは性格がわかりやすそうだが、表情に乏しい。それにこう、あからさまに人間界に不慣れな様子が見て取れる。言葉は悪いが、世間知らずという雰囲気だった。
「そうか、貴殿が我を救ってくれたのか。礼を言う」
「礼なんていいから、あなたのことを聞かせてよ。神様」
「我は――」
そして事情を聞きだして吃驚、なんと相手は神々の中でも最強の存在である破壊神だという。
なんでも破壊神は神々の末子であり、つい最近創造の女神の手によって創り出されたばかりなのだとか。けれど一番最後に生み出されたのでほとんど役割もなく、瘴気によって自然と発生する魔物たちの退治を一手に引き受けているという。
彼は強いので、本来弱い魔物程度屠るのは一撃だ。しかし今回は油断をして大怪我を追って、空を飛んでいる途中に落っこちたらしい。神々の翼はそれだけで飛ぶのではなく、魔力で操っているのだ。だから力の源である魔力が尽きれば当然落ちる。
事情を聞きだした僕は、なんだかいろいろなことに関心するばかりだ。破壊神はその力の強大さとは裏腹に純粋無垢、まさしく生まれたばかりの赤子のような性格で、そんな彼をからかうのが僕にはとても楽しかった。
破壊神の方でも初めて会話をしたという人間に興味を持ったのか、帰り際には随分と僕に気を許しているようだった。
「また、ここに来てもいいか?」
「僕に会いに?」
「そうだ」
「いいよ。大抵はこの森で本を読んでるから、いつでもおいで。でももう落っこちたら駄目だぞ」
「ああ」
◆◆◆◆◆
とはいえ神様にとって人間の生きる時間なんて瞬きの間だ。約束が果たされることはないんだろうなー……などと思っていたら、本当に彼は来た。しかも即行翌日に。
「あー、もしかしてお前、暇なの?」
「暇だ。今発見した魔物は狩りつくしてしまった」
人間の生活知り尽くしているグラスヴェリアとはまた違った意味で彼も確かに神様だ。こっちの都合などお構いなしの上、神々の肉体には睡眠という概念もないので時間が余っているらしい。なのに昼寝が趣味だというのだから矛盾している。
神様をその辺に待たせて魔導書を読むくらい僕は当たり前にできるけれど、いつもこの調子で突然来られたら敵わない。僕はまず、この生まれたての神こと破壊神に、人間界の常識を叩き込むことにした。
破壊神はさすがに神だけあって、感覚的に納得はしないものの、知識としてこちらの言葉をするりと呑み込んでいく。僕は彼に、人間の生活を邪魔しないよう懇々と言い聞かせた。
「――と、言うわけ。わかった?」
「わかった、辰砂。善処しよう」
「本当にわかったのかな……」
一抹の不安は残るものの、基本的に彼はこちらの言うことを聞くし大人しい。僕が魔導書を夢中で読んでいる時は、何も言わずじっと傍にいる。大概はそのまま丸くなって寝てしまう。
変な子。いや、変な神様だ。魔術の勉強だからとついぶつぶつと独り言を口にしてしまう僕の傍なんかにいないで、海辺で背徳神様と一緒にアディスの歌でも聞いて来ればいいのだ。その方が余程子守唄に相応しいだろうに。それでも破壊神は僕の傍を離れない。
日々は穏やかだった。凪の海のように。