White World 01

4.運命と双子の巫覡

「君はいつも、笑っているのにどこか悲しそうだ」
 そう口にした少年に好意を告げられて、肌を重ねたことにそう深い意味があるわけではない。
 誰でも良かったとも言えるし、彼だったからとも言える。
 ここは背徳と快楽の邪神の村だ。今更男同士で体を繋げたところで誰も驚かないし咎めない。
 むしろ少年少女たちは年頃になれば率先してそういういけない遊びを覚えていく。外でも上流社会では同性愛が嗜みとして教えられる地域もあるらしいが、僕にはその考えは、未知の領域だった。
 と言っても、僕自身がその手の経験に疎いというわけでもない。
「……意外と慣れてるね」
 褐色の髪と瞳。漁で生計を立てるためによく日に焼けた肌。海の匂いのする少年だった。
「当然だろ? 僕みたいにまっとうな街人には気持ち悪いって蔑まれるような人間が、これまでどうやって金を稼いできたと思ってるの」
「……ごめん」
 少年はすぐに謝る。気の弱いのとは少し違う、穏やかな男だった。
 彼は僕がいつも悲しそうだという。けれど僕は、彼の方こそいつもどこか悲しそうだと思っていた。
 いや、それを言うならこの村の人たちはみんな、どこかしらに拭えない翳りを抱えている。
「でも辰砂、俺にとって、君は誰よりも綺麗だよ」
 僕は彼の首に抱きつくように腕を回す。
 唇を重ねる寸前に、彼が囁くように問いかけた。
「俺は実の父と娘の間に生まれた子どもだ」
 彼がこの異端の神の村で生きている理由だった。
「気持ち悪く、ないの?」
 ここでやめるならやめてもいいというふうに彼はそう告げ、僕は構わず彼の唇に自分のそれを重ねた。手のひらを合わせて指を絡ませ、深く相手の呼吸を貪る。
「それがどうしたっていうんだよ」
 少年は泣きそうに笑う。
 僕はこの頃からディソスが好きだった。でも彼のことも愛していた。
 本当に愛していた。
 僕は気の多い男だ。彼に限らず、村のみんなが好きだった。誰と寝ても結婚してもかまわないくらい。彼らみんな、一緒に生きていきたいと思える人たちだったから。

 ◆◆◆◆◆

「追え! あれが魔物だ! おぞましい異形め! 死でもってその罪を償え!」
 償うような罪はない。僕はお前らに恨まれるようなことは何もしていない。
 この頃領主様は不幸続きだと誰かが言っていた。イライラして人に八つ当たりする回数も増えたと。けれど色違いの瞳を見られたことで、まさか魔物として自分が追われることになるなんて思ってもいなかった。
 暗い森をひた走る。魔術を使えば夜目が効いて松明もいらないけれど、それは追手である領主の手下たちに、余計僕を魔物だと確信させるようだった。
「殺せ! 殺せ! 殺してしまえ! あの魔物さえ殺せば、全てがよくなるのだ!」

 暗転。

「お前には大地神への生贄となってもらう」
 そこも小さな村だった。村人全員が食べていくだけでやっとの、小さくて貧しい村。
 その年は五十年に一度の大凶作だと言われていた。
「お前が何もしていないことなど、本当はみなわかっている。だがそれでも、どうしようもなく不安なのだ。誰かを犠牲にするならば、村人以外を選ぶ。例えお前がそのような瞳をしておらずとも、生贄にはお前が選ばれたに違いない」
 僕が本当にただの子どもだったら、殺すのは簡単だったろうね。余所者の孤児なんて、確かに生贄にはうってつけだ。あのまま不作が続いたら、みんな死んでしまう。
 だからって僕を殺していい理由にもならないけど。
「恨むならば、この決断をした村長である私を恨め」
 荒縄で縛り上げられる。後頭部を硬い石のようなもので殴られ、目隠しされた目の裏で火花が散った。震える手が僕を深く掘られた穴の底に突き落とし、追い打ちのように上から土を被せていく。
 それでも恨んだことはないよ。ただ悲しかっただけだよ。

 暗転。

 昨日まで和やかに談笑していた乗客たちは、今は一人も笑わない。
 僕は医務室で船医の手伝いをしていた。魔術で病や怪我を癒していく。けれどいかな魔術師だろうと、この閉塞した空気を打ち破ることはできない。人々を飢餓感から救うこともできない。
 大洋のど真ん中、凪で船が動かなくなってからもう何日経ったのだろう。十日を過ぎたあたりで、船員以外の者たちは日数を数えるのをやめてしまったようだ。
 どこにも逃げ出せない船の上は、やがて暴君に支配された王国のようになっていく。こうした極限の状況で頭角を現すものが全てを握り、他を支配するのはよくあることらしい。
 こうなることは凶作の村の件ですでにわかっていた。
 僕が数日つきっきりで容態を見ていた子どもが、ついに峠を越えることなく息を引き取った。それが引き金だった。
 人々の苛立ちの原因に、一つには気圧の変化も関係があったのだろう。凪の海でようやく船を動かす嵐の気配だったが、まだそれに気づくものは少なかった。そして懸命な彼らが止める間もなく、僕は数人の男たちに簀巻きにされて海に放り込まれた。
 魔術で縄を切ろうと足掻きながら、遠ざかる青い水面を睨みながら僕は海に沈んでいく。
 あの後、結局あの船の人たちは、無事にどこかの岸へと辿り着けたのだろうか。

 暗転。

「――!」
 闇の中でもがくように咄嗟に伸ばした腕が、誰かに捕まれた。界律名ではない僕の本当の名前を誰かが強く呼ぶ。界律名をも呼ぶ。
「辰砂!」
「ディ、ソス?」
「ああ、よかった。目が覚めたか。お前、酷く魘されてたんだぞ」
 身を起こそうとした僕を再び寝台に押し倒すようにして、ディソスが上から倒れ込んだ。
「悪い夢でも見てたのか?」
「……ああ、うん。そんなとこ」
 あれは悪い夢だ。でもそれは全て、僕の身に本当に起きたこと。
 何故今頃になってこんな夢を見たのかはわかっている。僕はこの村以外に行き場がないのだ。それが失われるのではないかと、僕はいつも心の底では恐れを抱いている。
 ぼーっとしていた僕の隣に、毛布を一度払いのけたディソスが潜り込んできた。狭い寝台に、僕と並んで体を横たえる。そして毛布を、僕の首元まできちんとかけなおした。
「ディソス?」
「悪夢なんか見たときに一人で寝るもんじゃないよ。相手が俺で悪いけど、一緒にいてやるよ」
 彼は姉のアディスとそっくりな美しい顔で、悪ガキのように明るく笑う。
「お前がどんなに無様な泣き顔晒したって、俺がずっと一緒にいてやるよ」
「誰が無様だ」
 言いつつも僕は、添えられたディソスの手をきゅっときつく握りしめた。
 温かいこの手。僕を冷たい海の自ら引き上げたのは、海神の温情よりも、ディソスのこの手の方だった。
 僕は何があっても、この手だけは失いたくない。

 ◆◆◆◆◆

 差し込んでくる光に目が覚めた。小屋の外から歌声が聴こえてくる。アディスの声だ。
 朝も夜も関係ない。彼女はいつだって自分が歌いたいときに歌う。不思議なことにこの村の者たちは誰もがそんな気まぐれなアディスの歌声を受け入れていて、苦情を言う者は誰一人としていない。
 今の僕の恋人である漁師の少年から聞いた話によれば、そもそも背徳神信仰を掲げてここに村を作ったのはアディスとディソス自身らしい。だから僕よりは年上とはいえ、まだ十代の少年少女である二人が最も神に近い巫覡を努めているのだ。
 歌声に導かれるようにして身を起こす。ふと気づくと、隣で眠っていたディソスがいない。
 小屋の外に出る。
 朝焼けの空を背景に、三つの影。竪琴を奏でながら歌うアディスと、踊るディソス。それを眺めている背徳神。
 姉のアディスを歌姫と呼ぶならば、弟のディソスは舞手だ。
 踊るディソスの姿は、誰よりも綺麗だ。風になびくような長さもない黒髪がふわりと一瞬だけ舞い、すらりとした手足の滑らかな動きは人々の視線を縫いつけるかのような力がある。
 差し伸べられるように伸ばされたその手を取れば、どこまでも行けるような。そんな気にさせる天上の舞。
 アディスの歌とディソスの舞、それを奉じられるというほど堅苦しくもなく、淡く微笑んで見つめるグラスヴェリア。それは三人だけで完成された一つの美しい世界だった。
 くるりと回転したディソスが僕の姿に気づいたことにより、残念ながらディソスの踊りは終わってしまう。
「辰砂」
 アディスも演奏を止めたが、それに対して誰も文句は言わなかった。
 そして、一度下ろされたディソスの手が持ち上がり、今度は改めてこちらへ――僕へと差し伸べられる。
 いつになっても忘れない、永遠に愛しい日々。

 ◆◆◆◆◆

 想い人は他にいる。それでも肉の欲望は僕を捕らえて離さず、僕はその虚ろを埋めるかのように恋人である漁師と肌を合わせる。
「最近暗い表情が多いな」
「君なんていつも辛気臭い顔してるだろ」
「ふふ。そうだな」
 彼は一人暮らしだった。僕は彼に用があるとき、彼の家に直接向かうようにしていた。
「ディソスとは寝ないのか?」
 彼にそう聞かれた時、心臓が止まるかと思った。
「どうして?」
「ディソスが好きなんだろう?」
 彼は全てを知っていた。知っていて、僕と付き合っている。
「それ、君が僕を抱きながら言うこと?」
「……そうだな。ディソスを寂しくさせると知っていても、俺は辰砂が好きだ。この気持ちを止められはしない」
「……僕だって君が好きだよ」
 それにディソスは僕がいなくても平気だ。彼には双子の姉であるアディスも、彼の神でいるグラスヴェリアもいるのだから。
「一応、だろう? わかってる。それでもいいんだ。そんなこと、この村ではありがちなことだ」
 優しい口付けが降りてくる。
 僕は彼のことも本当に好きだ。でもたぶん、彼とディソスを並べられたら、きっとディソスを選んでしまう自分を自覚してもいた。
 彼もそれを知っていた。知っていて僕を好きだと言った。
 優しくて残酷な時間は過ぎ行く。
 あとから振り返れば、あの頃が一番穏やかで幸せだったと言える時間であっても。
 時は止まらない。そして僕たちを、取り返しのつかないその瞬間へと押し流していく。