6.星の堕ちる空
秩序神ナーファは卑怯だ。戦いの引き金を引いておきながら、自らは僕と戦わないなんて。
彼女の代わりに戦場の空で僕の前に現れたのは、最強の闘神だった。
「ふふふふふ、はははははっ、あっははははははははは!!」
僕は空中で腹を抱えて笑う。笑うことしかできなかった。さすがにこの展開は予想していなかったよ。考えてみれば当然か。僕は創造の女神を殺したことになっているんだもんな。
「やはりそうか! お前も僕の敵に回るんだな!」
それでも彼だけは僕の敵に回らないなんて、僕の愚かで子どもじみた願望に過ぎなかったわけか。
僕は魔術師の杖を構えなおしながら、目の前の破壊神を睨んだ。
「お前も所詮ただの神か。上から目線の正義を押し付けて、傲慢に人を見下すことしかしない!」
「……我は、創造神の子だ。母に与えられし我の役目は、この世界に仇なすものを破壊し、その命を次の運命に引き渡す流転」
「だから僕も殺すのか。総てを滅ぼす破壊者よ。素直に母神を倒された復讐だと言えばいいじゃないか。いいさ。僕は僕でお前たち傲慢なる神々に復讐する。お前たちはお前たちで僕に復讐すればいい。結局は憎しみの強い方が勝つんだから!!」
「辰砂!」
僕は容赦をしなかった。破壊神相手に手加減する余裕なんてない。目の前の彼が僕と対峙しながらやはり本気を出せないようなのをいいことに、あらゆる魔術をぶつける。
例え勝てないとしても、だからといって逃げるわけにはいかなかった。所詮僕は人間でしかないから、相手を殺すことか、僕自身が死ぬことか、そうやって命をかけることでしか僕のこの想いを証明できない。
戦いは長く続き、そしてついに決着する。
純粋な攻撃力だけで言えば人が神を超えることは可能だろう。けれどそれ以外の持久力や再生力は、とうてい人の身で神に敵うはずがない。
もう腕を上げる力もない僕の体に、破壊神の剣が刺さる。身体を二つに割るような衝撃。ああ、これが命が零れ落ちていく感覚というものか。
泣きそうな破壊神の顔を間近で見ながら、僕は最期の魔術を編む。
否、これはただの呪い。
「ふ、ふふふ。はは。ぁあ、――」
我ながら掠れて耳障りな声で、自分を殺す男に囁いた。
「憎むぞ、破壊神」
「辰砂……」
「あいつが死んだのに、なんで、お前は……」
「我は、ディソスにもう会えないことは哀しい。それにお前だって……」
素直すぎる破壊神の感情が伝わってくる。彼だって悲しんでいる。けれど僕はもう止まれない。止まる気はない。
人の輪から弾かれ続けたこの自分が、自ら人としての意志で神に反逆するなんて滑稽なものだ。
「会いに行ってやるさ、必ず」
僕は微笑んだ。
「何度死んでも、何度生まれ変わっても」
復讐は、憎しみはまだ終わらない。
螺旋を描き、流転する運命の果て。僕らはまた必ず出会うだろう。
その時は、また敵として。
「この憎しみと絶望を携えて――!!」
そこで叫んだのが限界だった。視界が急速に闇に染まる。体が妙に軽くなる。
貫かれた剣の先から滑り落ち、僕は遥か地上へと落下していく。でもどうやら激突の痛みは感じずに済みそうだ。この空を落ち切る前に僕の命が尽きるだろう。
目の前の闇に、この間の悪夢を思い返した。
まるでつい昨日のようなあの日、僕を悪夢から引き上げてくれたのはディソスの手だった。瞼の裏にその姿を思い描き、僕は反射的に手を伸ばした。
だけど、届かない。
もう二度と。
あの温かい手に触れることはできない。
僕を悪夢から連れ出してくれる手はもうどこにもないのだ。僕は真っ黒い夢を見ながら、白い光に溢れた世界に焦がれ続ける。
◆◆◆◆◆
「ようやく来たか。背徳と快楽の神、グラスヴェリア」
太陽神の言葉に、神々は伏せていた顔を上げた。天上の神殿の入り口に、黒衣を纏う黒髪の少年姿の神がいる。
彼の名はグラスヴェリア。背徳と快楽を司る邪神。
周囲の反応も意に介さず無言で長い広間の中央を歩き、その奥に坐して待つ太陽神の下へと近づいていく。太陽神フィドランの隣には月女神セーファがおり、二人のすぐ前には、秩序の女神ナーファが跪いていた。
神殿内に一気に緊張が走る。破壊神が人間への転生を望んだ時とはまた別の緊張。
結果的に堕天のような形でこの世界のために力を封印された破壊神とは違い、背徳神と秩序神。この二人はそもそも今回の騒動の発端となった神だ。
罪人を裁く。それも、同族であり、同胞であり、兄妹である神を。それは神々にとっても初めての経験であり、皆、緊張を隠せない。
そんな中でただ一人顔色を変えないのは、当の背徳神だった。他の者たちは大なり小なり何らかの感情に揺らされて複雑な瞳をする中、グラスヴェリアの黄昏と黎明の瞳だけが凪のように穏やかだ。
年長の神々の幾人かは薄々とその気配を察してはいた。だがそれだけで行動に移せるほど確信に至る者はいなかった。
もしもこの場に先程裁きを終えて辞した破壊神と魔術神がいれば、グラスヴェリアの様子の違いに気づいたかもしれない。
けれど過去を仮定するのは詮無いことだ。
「グラスヴェリア!」
「ナーファ!」
秩序の女神は、背徳と快楽の兄神が近づくに任せた。
容易く悪に染まる要素を司るグラスヴェリアには、神としての戦闘能力はほとんどない。だからこそ辰砂に神々の弱点を教えるくらいしかできなかったのだ。
彼に比べれば、実際に人間たちを自らの手で裁くこともある秩序の女神は桁違いに強い。
けれど彼女は、攻撃を加えられた瞬間反射的にその手に溜めた力を結局は握りつぶした。そのまま自分を刺した兄神の腕の中に倒れ込む。
人間たちの使う刃物とは違う、呪いを具現化した致死の刃。けれど神が死ぬはずはない。それでもそんなものを用意せずにはいられないほどに、背徳の神の怒りは留まるところを知らなかった。
もう誰も彼を止められない――。
「……何故だ。何故、彼女を殺した」
グラスヴェリアには直接他者に危害を加えるような力はほとんどない。
だが彼は器用だった。あらゆる魔の知識と技術が彼にはある。周囲の神たちが愕然としている間に発動した術が、彼自身とその腕の中の血濡れの女神を包み込む。
か細い息で、秩序の女神は囁いた。
「あなたなどに、わかるはずがない。どんな純粋な想いも穢れた悦楽を得るための添え物としか思わない、あなたなんかに――」
咄嗟に片割れに伸ばした規律神の手は、グラスヴェリアの術に阻まれる。
「ナーファ!!」
魔力が具現化した荊が二柱の神を呑み込んだ。あとにはもう何も聞こえない。周りの神々に見えたのは、グラスヴェリアがいっそうきつくナーファの身体をかき抱き闇に消える姿だけ。
二人を包むのは、永遠の微睡み。夜も朝もない閉じられた瞼に秘された幻だけ。
闇の中、グラスヴェリアは何度も問いを繰り返す。何故殺した。何度も何度も。ただ彼は、自分がそれを聞きたいと思うからそうするだけなのだ。
自由奔放な邪神。好奇心だけで動き、自らにとって楽しいことばかりを行い、人の道に外れたものばかりを愛でる異端の神。
けれど、だからこそ背徳神は他の神にはない魅力を持っていた。
「あなたにはわからないの? 決してわからないのね……?」
秩序神にはわかっていた。彼は迫れば、いとも簡単に唇を重ね、肌を合わせるだろう。誰がそうしても。自分がそうしても。
けれど決して、その心は手に入らない。快楽を求めるために誰とでも交わる背徳の神は、それ故に決して誰も、愛しはしない。
認められるはずがなかった。そんな歪んだ想いなど。爛れた関係も背徳的な欲望も異常な行動も――それを求める歪な愛情も。
そして彼がそれを捨ててただ一人を愛することなど、尚更認められようはずもなかった。
秩序を捨てようとする秩序の神は神ではない。そして背徳も快楽も捨てて、ただ一人だけに愛を誓う背徳神もやはり背徳神ではないのだ。
そしてそれでも彼らは神だった。同じ問いを繰り返す男神と、同じ言葉しか返さない女神。死ぬことも生まれ変わることのない彼らは、常闇の牢獄で永遠に煩悶を繰り返す。
――そして神々は地上を去る。
◆◆◆◆◆
創造の女神が封じられた後も、人々の生活は続いていく。
ある時は人々が各々の信ずる神こそが救いをもたらすと、宗教戦争を行った。
ある時は一つの大きな帝国が、この世の半分以上の大陸を支配した。
ある時は世に魔王が現れて混乱を引き起こし、勇者がそれを救った。
ある時は大洪水が起こり、すべてを押し流した。
ある時は……
神々が地上におらずとも、人々の生活は続いていく。だが人類の生活に直接姿を見せて寄与することのなくなった神々から、人々の心は次第に離れていく。
数々の災害が世に起きた際、人々は神に祈った。それまでの人生のどんな時よりも真摯に、この世界をお救いくださいと祈った。
けれど、神が世界を救うことは終ぞなかった。
宗教の中には神よりもその代行者であり人々の救済を行った聖者を信仰するものが増え始める。代表的なものが聖女フェニカを崇めるフェニカ教で、教えの苛烈さはあるがその説く言葉の多くは人間社会の理に敵ったもので、広く普及した。
そうして、やがて人々は神を必要としなくなっていく。
この世界にかつて神がいたという記憶から、火や水に宿る精霊の気配や数多の神々への素朴な信仰心は残っている。だがもはや、人々は神に縋らない。
人は創り、神は壊す。
創造の魔術師と破壊神の戦いを描いた神話は、そういう教訓を込めたものだと公には理解されている。
◆◆◆◆◆
「名」を奪われた女神は眠り続ける。
どうか、まどろんでいて。この世界が終わるまで。
◆◆◆◆◆
やがて破壊神は眠りから目覚める。
伝えられた神の血は、この世界に終わりをもたらすと言われた。
◆◆◆◆◆
何度でも繰り返す。何度死んでも、何度生まれ変わっても、永遠に。
創造の魔術師は輪廻の果てに再び生を得てこの世界に蘇る。
彼を光の中に連れ出す手を持たぬまま、闇の中を彷徨う。
◆◆◆◆◆
かつて創造の女神は、この白き世界を造り上げた。
数多の神々は地上を見守り、人々もまた神々を愛した。
けれどその蜜月も長くは続かず、一人の魔術師が神々に反旗を翻す。
神を殺した魔術師。地上を去る神々。そして人間たちの時代がやってくる。
それは今も続く記録。一人の魔術師の、終わらない運命の物語。