7.間章 罅割れ恋の歌
この世界フローミア・フェーディアーダは、創造の女神と呼ばれる者の手によって生み出された。
彼女の真の名は滅多に呼ばれることはない。人間たちは畏怖を持ってその名を気安く呼ぶことを避け、我ら神々にとっては、母と呼びかけることが当然だからだ。
彼女は全てを生み出した。この世界を生み出し、数多の神々を生み出した。否、この世界を生み出すために、数多の神々を生み出したのだったか。詳しいことはわからない。
何故なら我は神々の末子。創造の女神の末の子にして他の神々の一番下の弟であるからして、自分が生まれるより前のことはわからない。
これが兄たる知識神あたりであれば自分が生まれる前にも何があったか知りたがるのかもしれないが、生憎と我にはそのような欲求は存在していなかった。
我は破壊神。
全ての形あるものが最後に辿り着く消滅という事象を司る。そして破壊したものがまた輪廻の螺旋に戻るよう、運命の流転を司る神でもある。
我は現世において役目を終えたものを定めに従って破壊し、次なる役目を与える兄姉神のもとへと引き渡す仲介役だ。
けれど我が神々の中でも一番最後に生まれたということは、つまりその役目は他の神々ほど重要ではないということなのだろう。神々はそもそも、自らの分を越えない程度のものなら自らの意志で壊すことも殺すこともできる。その力を持つから神と呼ばれるのだ。だからこれまでは破壊や死を与えるという仕事は、それぞれの神々が自らの管轄内のものに対し、自ら与えていた。
特に人間という生命に対しては死の神が存在し、その魂を刈り取って、兄神である冥神ゲッセルクに引き渡している。これは破壊神が生まれたあとも変わらない習慣だ。人々を死に誘うのは死神だが、その運命を決め、その死後を扱うのは冥神。だから人々は死後の安寧を冥神に祈る。
破壊神である我も時折兄神たちの手におえない仕事を手伝うことはあるが、そんな事態は本当に稀だ。そもそも生まれたばかりの神である我よりも、現世で多くの経験を積んだ兄姉神の方がどんな事象に対してもよほどうまく対応できる。
我が兄姉の神々に勝る唯一のものと言えば、それは単純な攻撃力や武力といったものである。我は神々の中で最大の力を持つ闘神でもある。これは下界の生き物の戦いを司る戦神や武神と同じ意味ではなく、自身が闘う神であるということだ。
神々の誰よりも直接攻撃力に勝る我には、だからこそ複雑な感情を付け加えなかったと母は言った。
我が悪心を持てば、この世界に致命的な破滅をもたらすこともできるそうだ。やってみたことはないし、やってみたいとも思わないのだが。だから母は我が兄姉に対する嫉妬や傲慢、下界に対しての行き過ぎた使命感など持つことのないように、我を真っ白な赤子のような状態で作り上げたのだそうだ。
そしてそれでも数々の事象を経験して自我というものを造り上げた我が思い上がって世界に破滅をもたらすようならば、それこそが彼女自身の限界なのだと。
我らが母たる創造神は万物の数多、全てのものを生み出したる神。しかし彼女も万能ではない。
彼女が生み出した子である神々の力が彼女を超えるようならば、その事象は彼女の手には負えない。そしてもしも万が一そのような事態に彼女自身が害されるようなことがあれば、それは彼女自身の限界だ。
これは人間という種に例えて見ればわかりやすいだろう。子どもは必ず親の言うことを聞くか? 親はいつまでも子どもに対して万能の存在足りえるか? 親が善人だったとして、子どもは必ず善人として育つか? それらの問いは神々にも当てはまり、だからこそ創造神は創造神だが、全知全能ではあっても万能の神ではありえない。
とはいえもし本当に我が道を誤り世界の破滅など目論んだところで、どうせ兄姉である神々が力を合わせて止めにかかれば世界の終焉には至らぬであろう。その点に関しては我は安心していた。
人や生き物はやがて死に、形あるものはいつか滅びる。その滅びの後にまた新たな運命を得て生まれ変わる。我はその流転を司る。
日々はそのように過ぎ、この世界はいつまでもこのようにあると我は信じ切っていた。
まさか母たる創造神への反抗、神殺し、そのような惨劇を引き起こすのが、我々神ではなく、その被造物である人間だとは思いもしなかった。
◆◆◆◆◆
他の兄姉の神たちと比べて、末子の我は新しい神である。
どれくらい新しいかと言われれば、それは現世、地上と呼ばれる場所に人間という生命を生み出してからしばらくして生み出されたほどの新しさだ。神々の「しばらく」が人間にとってのどれくらいの長さなどは、考えるだけ無駄であろう。
だから我が生まれた時には、すでに地上には人間という存在が繁栄していた。
彼らは神々を信仰し、その信仰によって神々は力を得るので、我ら神々と人間たちは地上においてうまく共存していた。
とはいえ破壊神であり、新しい神でもある我はそのような信仰とは特に関係がない。破壊神を信仰するものなど稀であるし、我の力自体も性質上そのような信仰とは無縁に維持されているものだったからだ。
ただし人間という種族が地上に増えると、それに伴って弊害も出てきた。彼らを生み出す過程で造られた様々な副産物や、人間自身の邪心や瘴気などが結びついて生まれる魔物だ。
破壊神の主な仕事は、兄姉たちがすでに物事の生死や停止、消滅といった事柄を分担して扱っていたところに横やりを入れるよりも、こうして世界に害を与える魔物が人間たちの生活を圧迫しないよう人知れず抹殺することだった。もっとも、魔物を殺し過ぎて人々がその脅威に立ち向かう精神まで忘れ去ってはいけないので、あくまでもほどほどだ。
我が彼と出会ったのも、その戦いの後、珍しくも失敗をして怪我を負ったところだった。
◆◆◆◆◆
「あれ? また来たのか?」
海辺の村に住む少年。色違いの瞳を持つ魔術師。彼の名は辰砂。辰砂というのは本名ではなく、界律名だ。
彼は魔物退治の際、傷を負って川辺に倒れていた我を拾い、介抱してくれた。神々は怪我も滅多にしないが、一時的に神力が弱まると、負傷したりその傷を治すのが遅れたりする。少しだけ休んで力の回復を待とうとした我を見つけ、怪我の手当てをしてくれたのが辰砂だった。
彼が現在住んでいるのは海辺のグラスヴェリア信仰の村で、そこ以外に彼が生きることができる場所はなかったそうだ。
グラスヴェリアとは、我の兄にあたる神の一人、背徳と快楽の神である。故に彼の神と彼を信仰する村人たちは地上の異端にも心が広く、色違いの瞳を持つ辰砂を快く受け入れたそうだ。
地上では異端などといわれるが、辰砂の瞳はとても美しいと我は思う。
深い青と紅。極上の紅玉と青玉。あまりの美しさに、初めて会った時怪我のせいで川に半ば浸かりながら倒れていた我は、近寄り声をかけてきた辰砂の美しさに見惚れたほど。
「僕はこれから魔導書を読むんだ。お前に構ってる暇は……っておい」
今日も今日とて辰砂に会いに来た我は、森の木陰に木の幹を背にして座り込む彼の隣で身体を丸めた。もとより辰砂の邪魔をする気はなく、我はその隣で彼の声が聞ければ十分に満足だった。
呪文を紡ぐその唇より放たれる音、言葉は、まるで子守唄のよう。
彼は我を懐いてくる犬か猫のように思っているようで、我が彼の傍にいようともまったく頓着しない。初めはもう少し気にしてくれていたような気がするが、今では慣れたものだった。
我は身体を丸めながらも、真剣な眼差しで魔導書を熱心に読む辰砂の横顔を眺める。
白銀髪に白い肌と色違いの瞳。二色の瞳の印象も強いが、我にとって辰砂の印象は真っ白だ。この世で最も清廉で輝かしいその色。
けれど綺麗な綺麗なこの白は、自然界では最弱の色だという。
白。やはり白。
金や銀といった貴金属よりも、純白の絹を髣髴とさせる白。汚れても洗えるほど頑丈ではなく、ただ一点の染み、それだけで価値をも失くしてしまうような繊細故に優しく味わい深い白。
彼を見ていると胸が疼く。言葉にならない感情が喉元までせりあげてきて、身体が勝手に動きそうになる。その華奢な身を後ろから抱きしめたくなる。
けれどそんなことをすれば、辰砂はたぶん驚いて逃げてしまうだろう。二度と会ってくれなくなる。それは何より辛いことだ。だから我は慌てて目を瞑り、唇を閉じる。
寝たふりをする我の耳に届く辰砂の低い歌声。
――ああ、世界はこんなにも美しい。
◆◆◆◆◆
我は初めて会った際、辰砂の瞳の美しさに見惚れた。海辺の村に近い森の中、木漏れ日が射す中でこちらの様子を窺ってきた彼はそれこそまるで神のように美しかった。
一目で惹かれた。話をして随分印象も変わったが、それでも好意自体が減ったり衰えたりしたわけではない。
そうか、これが、人間たちの言う――恋か。
「いや、違うだろ」
我がこの話をすると兄姉神たちは誰も彼もがそう否定を返す。
「いいか破壊神。冷静になれ。正気に戻れ。相手は男、お前も紛うことなき男性型。その恋という発想はどっから来た」
「モノの本に……」
「人間文化から逆輸入するな。そこ! そろそろ大爆笑やめろ!」
「何言ってるんだ、自由の象徴、風神のくせに不自由な奴だな。俺はかまわないぜ。破壊神が俺の村の奴にどんな想いを抱いたって、なぁ? セイラーナ」
「ええ、そうね。恋ってとっても素敵なことよ」
「この、バカ邪神コンビがぁあああああ! いいか破壊神! いくら母上が放任主義だからって、こいつらみたいな性質の悪い神にだけはなるなよ!」
今怒り狂っているのは、風の神。そして我の話を聞いても笑うばかりで否定しないのは、背徳と快楽の神グラスヴェリアと、恋の女神セイラーナ。
セイラーナ姉上は普段は陽気で人気者の女性なのだが、恋の神だけあって恋と名のつく話題にはそれがどんな間柄のものであってさえ寛容だ。むしろこの姉は恋と名がつけば例え敵同士の家に生まれた男女の駆け落ちだろうと応援してしまうので、よく秩序の神に叱られている。
そしてグラスヴェリア兄上こそ辰砂やリュシアたちがいる村の民が信仰する神だ。背徳と快楽を司るというその役割から邪神と名高い、神々の外れ者。兄弟の中の問題児にして異端児だ。
とはいえ、我としてはグラスヴェリア神は嫌いではない。彼はその性質上、どんな悪事にも異端にも寛容で、彼の愛する民を害そうとしない限り、基本的にどんなことでも許してくれる。司るものの性質だけに戦闘力とは無縁だが、それでいて神々の中で最高の攻撃力を持つ我にここまで気さくに話しかけてくるのは彼をおいて他にはいるまい。
今はグラスヴェリアとセイラーナを邪神といっしょくたにして叱る風神も、我と話すらしてくれぬ一部の神々に比べ段違いに優しい兄神様だ。奇しくもグラスヴェリアの言うとおり、自由の神だからであろう。
逆に我がほとんど話もしてもらえぬ神は、秩序神の妹の方である。いつも厳しい眼差しで睥睨するように世界を見下ろす断罪の女神。
この世界の律を司る律神は規律の神ナージュストと秩序の女神ナーファの双子神で一対となる神、ナージュスト=ナーファ。兄神ナージュストが法を定め、妹神ナーファがそれを守らせる。彼らは神々の中でも最も厳格な性格をしており、特にナーファ女神の苛烈さは神々の中ですら畏敬を持って語られるほどだ。
兄神ナージュストは思慮深い性格で軽はずみなことは言わないが、ナーファはそれこそ彼の決めた法に従わぬ者は人も神も魔族も問わず、断罪してまわっているという。彼女をやりすぎだと眉を潜める者もあれば、誘惑に負けることの多い人類を導くにはこれくらい厳格でなくてはと擁護する者も多い。
我々神々は、それぞれの属性としての力に優れてはいるが、それ以外の感情や思考回路に関しては人間とほとんど変わることもない種だ。
母たる創造の女神は、あえて我々をそのように造ったのだという。もちろん超越者として人類とはまったく異なるものの見方をする場面もあるが、それが全てではない。
律神の双子にしても、最初は規律と秩序というただの事象に過ぎなかったのだという。けれど人間界たる地上で社会的秩序である法を決めるのは結局のところ人間自身だ。そして秩序を定める者が人格者でないなどという例はよくあることだ。そんな場合に自らを幸せにしない秩序を破ったものを一方的に罰するのではなく、倫理や慈悲や情を踏まえて、必要に応じて人々に慈悲を与えるために、我ら神々はあえて人に似た人格というものを持ち続けているのだ。
人々が神々の箱庭の存在ならば、我ら神々もまた、この世界という名の箱庭の中にいる。
けれど我ら神々は、この世界という名の箱庭を窮屈だと思うこともなければ、箱庭を壊そうという意思もない。
我らは箱庭の作成者たる母神を愛し、被造物たる人間を愛しているからだ。
◆◆◆◆◆
けれど、その日はやってきた。
「今……なんと」
「戦えと言ったのです。破壊神。我らが母なる創造神を弑しその力を奪ったあの忌まわしき魔術師、辰砂と!」
秩序神ナーファはそう告げた。
天界は激震していた。揺らぐなんていうものではない。よもや人間の魔術師が全知全能の創造主を打ち破るなど、誰に予想できようか。
始まりは、この秩序神ナーファの行動からだった。彼女は背徳と快楽の神グラスヴェリアを信仰する村の人々を殺し、道を外れていく人間たちを諌めようとしたのだ。
その行動に反発し、天界への反逆者として立ち上がったのが人間の界律師・辰砂。彼は神々への復讐の手始めに、全知全能の創造神を倒し、その「名」を奪った。
自らの巫覡と民を殺されたグラスヴェリアも、辰砂を手助けした。グラスヴェリア自身は戦闘力を持たない神だが、それ故辰砂を全面的に補助し、神々の弱味を彼に教えたのだという。
辰砂はグラスヴェリアの協力を得て、彼を討伐するために向かった神々の多くをすでにその手にかけているという。神にとっての死の概念は人間と違うが、辰砂が神を人間的に言うならば「殺せる」程の実力を持った魔術師という事実は変わりない。
「数多の神々を殺すあの邪悪な魔術師に立ち向かえるのは、破壊神、あなただけです」
断罪の女神はそう告げた。
神々のほとんどは、辰砂を悪として裁く方へと回った。中には巫女を殺された背徳神への同情を見せる者やナーファ女神の行動をやり過ぎだと批判する者もないではなかったが、それを差し引いても神々にとって母にして主神たる創造神殺しは最大の禁忌であった。
完全な中立と沈黙を保ったのは、死神と冥神、そして魔術の神だけ。彼らが動けば、あくまでも人間である辰砂をすぐに冥界送りにすることができる。けれどそれは公平ではないと、死に関わる神々は沈黙を選んだ。魔術神も、自分が辰砂から魔力を奪えばその羽をもぐのも同然だと、秩序神の要請を拒む。
もとより魔術神は人間の持つ魔術を把握、管理する神であり、辰砂が振るうその純粋な力そのものは魔術神が何かしたわけではなく、辰砂が彼自身で手に入れたものである。いかな魔術神と言えど、それを奪う資格はないと、彼は秩序神に告げた。
ナーファにいくら責められようと、他の神々にいくら懇願されようと、彼らの意志は変わらなかった。
そして、破壊神は。
◆◆◆◆◆
「ふふふふふ、はははははっ、あっははははははははは!!」
ローブの裾を靡かせて宙に浮いた白銀髪の少年が腹を抱えて笑う。何がそんなにおかしいのか。声を上げて笑っていた。
「やはりそうか! お前も僕の敵に回るんだな!」
再び顔を上げた時の辰砂は、その二色の瞳できつくこちらを睨んできた。
「お前も所詮ただの神か。上から目線の正義を押し付けて、傲慢に人を見下すことしかしない!」
「……我は、創造神の子だ。母に与えられし我の役目は、この世界に仇なすものを破壊し、その命を次の運命に引き渡す流転」
「だから僕も殺すのか。総てを滅ぼす破壊者よ。素直に母神を倒された復讐だと言えばいいじゃないか。いいさ。僕は僕でお前たち傲慢なる神々に復讐する。お前たちはお前たちで僕に復讐すればいい。結局は憎しみの強い方が勝つんだから!!」
「辰砂!」
振るわれた魔力の刃は容赦のない威力だった。辰砂は本気で、目の前に立ち塞がる神々全てを殺す気でいる。それはこの自分も例外ではない。
戦いは長く続き、そしてついに決着する。
純粋な攻撃力だけで言えば人が神を超えることは可能だろう。けれどそれ以外の持久力や再生力は、とうてい人の身で神に敵うはずがない。
その原則をも捻じ曲げて幾人かの神を屠るほどに強大な辰砂の力だったが、神々の中でも最大の戦闘力を誇る破壊神相手にはやはり荷が重すぎたのだ。きっと。
突き出した大剣が少年の華奢な体に食い込むのを誰よりも間近で見ながら、そう考える。
辰砂は人だった。非常識なほどの力を手にしても。神殺しをなし得ても、それでも彼は、人間だった。
「ふ、ふふふ。はは。ぁあ、――」
小さな笑いが囁くような吐息に変わり、辰砂は最後の命の輝きを言葉に変えて吐き出す。
「憎むぞ、破壊神」
「辰砂……」
「あいつが死んだのに、なんで、お前は……」
「我は、ディソスにもう会えないことは哀しい。それにお前だって……」
グラスヴェリアの巫覡の片割れ、ディソスのことは知っている。自分も彼のことは好きだった。こんな戦いさえなければ、その死をただ悼むこともできたはずだ。けれどその死が、この先も未来永劫、この世界を戒める楔となってしまった。
そして辰砂は、まだ嘆いているのだ。彼は――。
「会いに行ってやるさ、必ず」
そうして彼は微笑んだ。
「何度死んでも、何度生まれ変わっても」
流転する運命に希望と絶望を同時に抱く。輪廻は彼を奪い去り、また引き合わせるだろう。
その時は、また敵として。
「この憎しみと絶望を携えて――!!」
引きつった笑みが急に力を失い、二色の瞳からすぅっと光が消えていく。
力尽きて自然と閉じられる瞼。ずるりと血が滑り、剣の切っ先からその身体が抜け落ち、遥か地上へと落下していく。
反射的に手を伸ばした。
だけど、届かない。
何物にも染まらぬ白き翼で宙に留まり続ける限り、この手は堕ちていく魔術師にどうしても、届かない。だから――。
「我は待ち続ける、いつまでも」
頬を滑り落ちる透明な滴だけが、彼の後を追って行った。
◆◆◆◆◆
創造神に「死」という概念はない。彼女は「創る」という概念そのものの具現であり、それは同時に自ら「生まれる」ことも可能とする。
しかし神として再び世に実体を伴って顕現するためには、「名」を得ることが重要だった。
魔術的な意味において、名前は重要なものだ。それがあるから個は個として定義され、認識される。名前のない神は存在しないも同然だった。
そして最高神の不在は、そのまま彼女に創られたこの世界そのものに影響する。
時に世界に手を加え、人間を含めたあらゆる生命の活動を見守り続けた創造の女神。彼女はその創造の力で、世界を守護し続けてきた。
けれどこれから、女神が保っていた世界の均衡は崩れるだろう。神の不在が長く続けば、滅びる種も出てくるだろう。
「名」を奪われた女神は、眠り続ける。
神を必要としない。それが人間である辰砂の答。ならばと彼女は、もはや世界に手を加えることを自らに禁じた。
神をも打ち倒す魔術師が現れたということは、もう人間が神々の庇護を必要とする時代は終わったのだと。だから女神は眠り続ける。
◆◆◆◆◆
そして最高神が眠り続けることは、他の神々にも影響を与えずにはいられなかった。
まず真っ先に神々がその処遇に頭を悩ませたのは、主神殺しの魔術師・辰砂を打ち破った功労者、破壊神の存在だった。
創造と破壊。対となるその事象のうち創造を司る女神が消えた今となっては、末子でありながら彼女に比肩する力を持って生まれた破壊を司る神を野放しにしておくことは、この世界にとってあまりにも危険なことだ。
創造の女神が不在の間この世界の均衡を保つためには破壊神もまた封印を受けるのが魔術的には確実な方法だった。
しかし破壊神は、辰砂に対抗できる唯一の闘神でもある。
神々は悩んだ末、破壊神自身にその行く末を決めさせた。
そうして彼が申し出たのは、意外な決断だった。
「――人間として転生したい? それは本気か、破壊神よ」
「本気です。太陽神フィドラン兄上」
神々を取りまとめる役目として選ばれた太陽神の言葉に、破壊神は頷く。
彼は兄の名を呼んだが、兄神が彼の名を呼ぶことはもはやない。創造の女神が辰砂に「名」を封じられた際に、破壊神の名もまた封じられ、彼は「破壊神」という名のただの記号と化した。
それでいてまだなお、破壊神の力は強大だ。だが彼は、その力を封印し、残った人格を人間として転生させたいと願った。
「理由を聞いてもいいかしら」
「セーファ姉上」
フィドランと対になる月の女神が穏やかに尋ねた。生まれたばかりで情緒的に未発達とされる破壊神は、それでも自分にできる限りの言葉を駆使して、その感情を伝えようとする。
「……我は辰砂と戦う際、“所詮神”だと言われました。我も所詮神であるから、彼の心がわからないと」
破壊神にとって、「名」を封じられることはそれほど辛くなかった。
たとえ創造の女神が健在だったとしても、辰砂の前に敵として現れ、辰砂にとって敵でありただの「神」という記号でしかないと認識された時に、どうせ自分は名を失ったも同然だったからだ。
そのことがもっと深い意味を持ち始めたのは、この手で彼を倒した時から。
生まれたばかりだった破壊の神に数多の感情を教えてくれた辰砂。きっと何度生まれ変わっても、最高にして永遠の魔術師。彼が自分に喜びを与え、彼が自分に悲しみを与えた。
けれどまだ、わからない。まだ彼に届かない。
「我は神です。生まれながらに最強の闘神として生まれ、この力を得るために何の努力もしたことがありません。死ぬこともなく、老いることもなく、自らの見目や在り様にも何の不満も持つことはありませんでした」
破壊神にとって、母たる創造の女神が作り上げた箱庭は完璧だった。
けれどたった一つだけ、破壊神を不幸にするものがあった。
それが辰砂という存在。自身に悲しみという感情を与えた魔術師。
彼を愛して、彼を殺して、破壊神は初めてままならぬ心の深さを知った。
そして思い出す。
いつも木陰で熱心に魔導書を読んでいた辰砂の姿を。
破壊神が辰砂に惹かれたきっかけは、その美しい横顔だ。
どんなに想ってもけっしてこちらを振り返ることのない、あの横顔が大好きだった。
人間である彼らは、それがたとえ誰に何と言われようと、自分の信じるもののために努力し続けていた。辰砂に界律師としての光を与えた魔術神はきっとそれを知っていたから、最後まで彼からその魔力も魔術の才能も奪うことはしなかったのだろう。
「……我は、辰砂を慕っておりました。けれど、彼よりも神としての使命を……彼を討つことを選びました。その時に言われました」
――お前も所詮ただの神か。
「我らは神です。死ぬことも滅びることもない神。だから決して、人の子がどれほどの想いで母神を裏切り、仇なしたかを理解することはできません。それが世界を揺るがす可能性を持つ悪の芽ならば摘むのが我の役目。しかし、本当にそれだけで良いのでしょうか」
場は静まり返り、誰もが破壊神の言葉に注目する。
「結果として、我らは母神を失いました。もう、この世界を創るものはいない。生み出すものはいない。間違えたからと言って簡単にやりなおしはできません。我は――」
あんなにも近くいたのに、最後の最後ですれ違ってしまった。相手が理解できなかった。自分を理解してもらえなかった。だから彼にとって、自分は神という名の記号となった。
限りある命だからこそ、人の子はあれほどの想いで自らの生を、信仰を、意志を貫く。その想いの深さを甘く見たから、神々は辰砂に負けたのだ。
ならば自分も再び彼と巡り合う日のために、己が神であるという傲慢を捨てよう。
「我はこの力を封印し、人として生きていきます。人でありながら神を超えた魔術師を、次こそは人として止めてみせます」
破壊神は辰砂という人間の界律師を殺すことはできる。だが、それだけだ。神である彼が何を言ったところで、辰砂の心には響かない。
「辰砂は死んだ。お前が殺した。なのにお前は、まだあの者がこの世界に仇なすと申すのか」
「彼が彼である限り、必ずや創造の魔術師・辰砂は復活するでしょう」
だから辰砂は必ず復活するだろう。
そして。
「だから、我は、人として生きることを望みます」
この世界の均衡を保つこと、辰砂を止めること。人間への転生は、破壊神にとってそのどちらの望みも叶えるために一番いい方法だった。
神々は顔を見合わせ、判断を仰ぐ相手を探そうと視線を巡らせた。
やがて一人の男神が進み出た。裾を引きずる長いローブに身を包み、長い杖を持った青年姿の神。
「お前の存在そのものを作り替えることはできない。だがお前の力をいくつかに分け、人間たちの血に潜ませるという形でなら、お前をいつか人間にしてやることもできよう」
「魔術神」
創造神が眠りについた今、破壊神の転生の望みを叶えることができるのは、この魔術の神くらいのものだった。
「すぐに人間になれるわけではないのですね」
「何の力もない無力な存在に生まれ変わるには、お前という神に宿る力は大きすぎる。だからこそお前という存在を一度分裂させ、人間たちが代を重ねることによって再び収束し一個の存在として蘇るような仕掛けを施す」
破壊神という存在は、そうしてある一族の人間の血に潜む。それはまるで夢を見るようなものだという。人の血の中で人の命を感じながら、神ではなく人としての魂をゆっくり作りあげていくのだと。
「……ありがとうございます。兄上」
愛を知り、悲しみを知り、そして今、神に祈る。
破壊神は思った。力の上ではともかく、自分はもはや神などではないのだろう。人の祈りを叶えるような力はなく、自らが他の神に願うくらいなのだから。けれどまだ、人でもなかった。辰砂――彼の想いが理解できるようになるまでは。
頭を垂れて神々の前を辞す。誰も引き留めはしなかった。
◆◆◆◆◆
「会いに行ってやるさ、必ず」
そうして彼は微笑んだ。
「何度死んでも、何度生まれ変わっても」
歪んだ形で命は呪われ、終わるはずだった物語は続いていく。
「この憎しみと絶望を携えて――!!」
◆◆◆◆◆
「我は待ち続ける、いつまでも」
そうして彼は涙を零した。
「幾度別れを繰り返そうと、必ずまた出会うように」
全てを破壊し浄化する流転の運命の神の、ただ一つ洗いきれない穢れ――想い。
「この悲しみと希望を抱いて」
◆◆◆◆◆
何度でも繰り返す。何度死んでも、何度生まれ変わっても、永遠に。
◆◆◆◆◆
それは遠い記憶。
「辰砂」
「んー?」
「我は辰砂が好きだ」
「はいはい、僕も僕も」
辰砂は破壊神の告白を、いつも通り木陰で魔導書を読みながら話半分に聞いていた。適当な相槌を打ちながら頭を撫でてくる手は優しいが、どう考えてもこの言葉の意味が通じているとは思えない。彼の視線は魔導書の小難しい文言に固定されたままだ。
「我は本当にお前が好きなのだ」
破壊神が拗ねるようにその肩口に頭をすり寄せたところで、ようやく想い人は振り返った。ぱたりと本を閉じ、視線をこちらに向ける。
「僕もちゃんとお前が好きだって」
苦笑しながら告げる言葉は、兄が弟妹に向けるようなもの。破壊神の言いたいそれとは違う。頭を撫でる手は、まるで幼子の扱い。
伝わるようで伝わっていない、もどかしい想い。生まれたばかりの神である破壊神は、それを助けたこともある辰砂にとっては弟のような存在でしかない。
それでも二人が共にいられる時間はあり、少しずつ心を通わせた。捧げた好意や愛情に鏡のように同じ想いが還ることはなくても、確かに愛していた。
今では、それを覚えている者は誰もいない。
◆◆◆◆◆
私は眠る。眠り続ける。
訪れる闇に、あなたという星が再び昇るまで。
◆◆◆◆◆
遥か昔、この地上には神々と人々が共に暮らしていた。
神は人を愛し、人は神を愛した。
けれど今は、そのどちらでもない。
人は神に反旗を翻し、神は地上を去った。
そしてただ、真っ白な世界だけが残っている。
第1章 了.