9.死に至る恋を君と*
懐かしい夢を見た。昔々という出だしで始まってもいいくらい昔の、まるでお伽噺のような幸せな日々の夢だった。
友人とその姉と彼らの神と自分と、優しい村の人々と何の変哲もない日常を送っていた。
不老不死に限りなく近い身体と人間の分を超えた力を持ちながら、それでも辰砂は眠りを欲する。食事もするし、性欲だってある。なかなか捨てられないものだ。人間としての本能という奴は。
そしてそれは、辰砂だけではない。
真夜中に侵入者の気配がして、目が覚めた。
「――誰だ?」
天上で辰砂が住むのは、かつての海辺の村に似た、粗末な小屋だった。
別に冷遇されているわけではない。辰砂が望み、望み通りに製作した小屋だ。貴族や王族や、まして神のような御殿などいらない。小さな小屋一つあれば、それで十分。
扉に鍵すらかからない。窓はあっても窓硝子はない。四角い空洞から直に夜空と金色の月が見える。侵入は容易い。わかっているからこそ、辰砂はいつだって警戒を解かない。
だが、今日の非常識な時間帯の訪問者は、敵対する神の嫌がらせでも、自分の家に戻るのも面倒な弟子たちが勝手に潜り込んだわけでもなく、辰砂の予想を超えた相手だった。
「――辰砂」
聞き覚えのありすぎる声。囁く吐息交じりの声音に辰砂が驚き目を瞠るのと同時に、その影は身を起こそうとした辰砂を再び寝台に押し倒した。
「なっ! お前なんで……」
やけに切ない顔つきの破壊神が、薄青い夜の闇に白い頬を浮かび上がらせるようにして辰砂に覆いかぶさっているのだ。
「決まっている。男が好きな相手の寝台に夜半潜り込んでやろうとすることなど一つしかないだろう」
「いや僕も男なんだが。好きな相手って……え? ちょ、まさか、それ? 本気で?」
破壊神が昔から自分のことを好きだと多方面に宣言しているのは辰砂も知っている。
だがその想いが、こんな行動を起こさせるようなものだとは俄かに信じられない。
……冗談だろう?
もしくは自分が寝ぼけているのだ。そうだ。きっとそうに違いない。
こんなことが現実に起こり得るはずはない。さぁ、寝よう! とりあえず今すぐに寝るんだ!
「お、落ち着けよ破壊神。寝よう、寝るんだ、寝てるんだお前は今――」
「起きている。この上なくしっかり起きている。我はいたって冷静だ。動揺しているのはお前の方だろう、辰砂」
細い手が辰砂の腕を掴む。腕自体に込められる力はそう強くもないのに、無意識下で魔術を使っているらしい破壊神は辰砂の動きを完全に封じている。
ふいに、破壊神が目を瞑った。
そう認識した次の瞬間には、辰砂の唇に破壊神のそれが押し当てられていた。
「――!」
色違いのつぶらな瞳を零れ落ちそうなほどに見開いて、辰砂は何かを言おうとした。だが、唇を塞がれていてはもちろん声にならない。
「ふっ……んっ……んぅ……っ!」
反射的に開いた唇の隙間から舌が滑り込んでくる。温くやわらかい、軟体動物のようなそれが何度も角度を変えひたすらに辰砂の口内を蹂躙する。
舌と舌が絡み、飲み込みきれなかった唾液が口の端から伝い零れた。
「は……」
ようやく口付けが終わり、いつの間にか閉じてしまった目を開くと、飛び込んできたのは頬を上気させた破壊神の顔だった。
月が明るい。明るすぎて、小屋の景色も自分にのしかかる少年の顔もよく見える。見えすぎてしまう。その情欲に濡れた眼差しさえ。
「退けよ……!」
苛立ちにより震える腕で、辰砂は自らの腹の上に乗っている破壊神を押しのけようとした。しかしただでさえ似たような体格の相手に、その位置をとられては対抗できるような力も込められない。
「退けよ! 僕はお前とこんなことをする気はない!」
そうこうしているうちに破壊神が自分の襟元のクラヴァットを解いて、それで辰砂の両手をひとまとめにして頭上の寝台の柵に縛り付けた。
「ちょっ!」
「こうでもしなければ、貴様はすぐに逃げてしまうだろう」
そう言う破壊神の襟元は、クラヴァットを解いたために肌蹴ている。普段は禁欲的なまでに露出の少ない衣装を着ている少年の、日に晒されることのない白い首筋や鎖骨が目について、辰砂は頭がくらくらした。
カッと体に熱が走る。先程の濃厚な口付けや、肌で感じる相手の体の重みと香り、憂い顔と白い首筋がやけに目について、心とは裏腹に身体を燃え上がらせていく。
「辰砂……」
熱を帯びた声で破壊神が名を呼び、辰砂の夜着を乱して肌に直接触れた。
ほっそりとした白い指が、辰砂の薄い胸の真ん中からへその下までをツー……と撫でる。
「ん!」
ただ触れているだけ。それなのに、辰砂の体は破壊神の指が触れた先から火がつくようだ。
破壊神はうっとりと告げる。
「我は、ずっとこうしたかった。ずっと、触れたかった」
「や……めろって……」
言葉での抵抗すら辰砂は次第に弱々しくなっていく。腹をなぞった破壊神の指は下穿きに辿り着くと、そのまま生地を力任せに引き裂いた。
局部をさらけ出すことになり、辰砂の顔がサッと朱に染まる。破壊神の視線はそのまま見惚れるように辰砂のそれに釘付けになった。
「あんまじろじろ見ん……うぁ!」
台詞の途中で与えられた強烈な刺激に辰砂は耐え切れなくなり嬌声を上げた。
「あ、やん、ちょ……ッ! だ、だめ……だ、めだって……!」
破壊神は辰砂のものに顔を近づけると、桜色の唇から可憐な舌を伸ばしてそれを舐め上げたのだ。最初はおずおずとしたその行動も次第に大胆になり、先端をすっぽりと口の中に包み込んでしまう。
「は……ん……」
腕を寝台の柵に拘束された辰砂は、口淫の刺激に背筋を強張らせた。逃れようとした腰すら破壊神の腕にしっかりと抑え込まれてしまう。
「あ、ああっ」
不自然な体勢で逃げようとした体が、ぎしぎしと寝台ごと軋みを上げた。
それでも破壊神は辰砂のものをしゃぶるのをやめない。獣の仔が乳を吸うような熱心さで奉仕し続ける。
「……っ!」
耐え切れず吐きだした辰砂の精を、破壊神は当然のような顔で飲み込んだ。飲み込みきれなかった分は顔にかかったり顎を伝ったりと散々な様子を見せているのに、本人は瞳を潤ませて恍惚としている。
「ん……これが、辰砂の味」
「おい! ふざけんなこの馬鹿!!」
ようやく背筋をぞくぞくとさせる口淫の刺激から解放されて、辰砂は流石に怒鳴った。今が何時だとかここが防音性皆無の粗末な小屋だとか、そんなものはもうどうでもいい。
しかしその怒りも長くは続かなかった。結局、過去にどんな因縁があろうと命を奪い合った仲だろうと、破壊神は辰砂にとっても大事な相手なのだ。少しばかり性質の悪い悪戯をされたところで、完全に見放せるほど浅い縁でもない。
深く溜息をついて、退出を促そうとする。
「これで気が済んだだろう。ならさっさと――」
「何を言っている? 済むも何も、ここからが本番だろう」
しかしまさかの台詞と共に、破壊神の指先が辰砂自身の吐きだしたものの滑りを借りてその中に滑り込んだ。
「っ、くっ、ああッ――――!」
人形のように整った顔立ちの少年の、作り物のように綺麗な指がつぷん、と一本辰砂の中に沈む。初々しさなどという言葉はとっくに失ったはずだが、他人と肌を重ねるのも久方ぶりの場所は僅かな刺激にも過剰な程に反応してしまう
「ちょ、」
この一晩だけで何度目かの驚きに、辰砂は目を瞠った。――最後までやるつもりか?!
文字通りの手探り状態で良い部分を探す指が、奥まったある一点を突くと声を上げるのを抑えきれなかった。すぐに気づいた破壊神が、指の数を徐々に増やしていく。
辰砂はこれ以上みっともなく声を荒げないよう、自分の唇をきつく噛みしめた。ぐちゅぐちゅと濡れた穴をかき混ぜる卑猥な音だけが、夜の静寂に取り残されたような小屋の中に響く。
快感を凝縮して恍惚へと押し上げる指が、ふいにすっと引き抜かれた。
「辰砂……」
破壊神は熱い吐息を零す。
辰砂の体を弄るばかりで一度も触れていないはずの彼のものは、その痴態を見下ろすだけですっかりとそそり立ち先走りを零している。今更上着を脱いだところで遅く、彼の服にはすっかりと染みができていた。
「挿入るぞ」
「まっ――」
この期に及んでの制止など破壊神が聞くはずもなく、彼は充分に解れた穴を容赦なく貫いた。
「ッ……!!」
「ん……っ」
久方ぶりの体は挿入する方にも負担がかかるのか、破壊神が押し殺した声を漏らす。しかしすぐにその表情は苦痛から恍惚としたものへと変化し、余計な感想で辰砂を一層責め苛む。
「は……辰砂の中、すごい、気持ちいい……熱くて……きつくて……」
「だ……ああもう! 御託はいいから、さっさと動いて終わりにしろ……っ」
腹の中をかきまわす熱い塊に、辰砂はもういっそ好きにしろと告げた。
すぐに破壊神が応え、要望通りに動き出す。否、破壊神にはもはや辰砂の様子を気遣う余裕もない。ただ、長年の思いの丈をぶつけるかのように、何度も何度もひたすら辰砂の名を呼びながら腰を振るだけだ。
「あぁ、辰砂……辰砂……!!」
好き。大好き。――好き。ずっと、ずっと。
「あああああっ!」
嬌声を上げて達したのは、一体どちらだったのか。それとも両方か。
目的を果たしてようやく辰砂の中から自身を引き抜いた破壊神が息を整えながら微笑む。
けれどしばらくして、いつまでも黙りこくったままの辰砂の様子に、訝しむような、後ろめたさを感じるような視線を向けた。
「辰砂……?」
その時だった。
「え?!」
あっという間に形勢が逆転し、今度は破壊神が寝台に押し倒される。ただ倒されただけではなく、先程自分が辰砂にしたように逃げ出せないよう、まるで磔にされるかのように腕を敷布に縫いとめられていた。物理的な拘束ではなく魔術によるもので、簡単には抜け出せない。
「し、んしゃ?」
「生まれたてのおチビちゃんのくせに、よくもまぁこの僕に好き勝手やってくれたものだね」
破られた頼りない夜着を身に纏う辰砂は、破壊神の上で傲岸な笑みを浮かべた。
「御礼に、今度はこちらから天国を見せてあげるよ。まぁここがそもそも天界なんだけど」
「なっ――んぐっ」
何かを言いかけた破壊神のその口に、辰砂は先程彼自身を拘束していたクラヴァットを丸めて突っ込む。こんなもの冷静に魔術を使えばいつでも外せたのだが、かつてない積極性で今回仕掛けたきたその度胸に免じて捕まった振りをしてやっていたのだ。
だが、やられっぱなしは性に合わない。仕掛けるのを許してやることと反撃は別だ。
嗜虐的な笑みを浮かべた辰砂の手が破壊神の胸元に伸び、二つの紅い飾りを捻り潰すかのようにきつく抓んだ。玩具を乱暴に扱うかのように強く捏ねると、たまらず破壊神の体が揺れる。
「んっ!」
快感と紙一重の痛みが走るのに、破壊神はくぐもった悲鳴を上げた。その悲鳴を楽しむように薄暗い笑みを浮かべた辰砂が、更に破壊神の鎖骨の辺りに噛みつく。
「ん、んん――っ!!」
幾度も走る瞬間的な鋭い痛みに、破壊神が長い睫毛に涙を浮かべはじめる。辰砂は構わずに、その華奢な身体のあちこちに所有の痕を刻んだ。
鎖骨に、胸に、へその周りに、太腿の内側に、尻に、辰砂が吸いつくし所有の痕を残すたびに、破壊神の体がびくびくと跳ねる。
痛みを感じないわけではなく、痛いだけではなく、痛いのが気持ちいいのだ。
辰砂は破壊神の指と同じく作り物のようなほっそりとした足を折り曲げるようにして抱えると、これから挿入する予定の小さな穴をまじまじと見つめた。
そのまま舌を伸ばし、破壊神のそこを舐めはじめた。
「んん! ん――!!」
不浄の場所に舌を差し込まれて、破壊神がこれまでになく激しく抵抗する。しかし辰砂の魔術はそう簡単に解けるような素直な作りではない。身悶えるほどの余裕をわざと与えた拘束は決して外れず、破壊神はその場所からもたらされる背徳的な快感にただただ白い胸を震わせることしかできなかった。
ぷちゅ、じゅぷ、と粘性を帯びた液体の撹拌される音が静けさの中でいやらしく響く。
一通り舌でこれから使う場所を慣らし終わってから、辰砂はようやく破壊神の口を塞いでいたクラヴァットを外してやる。
「あ、ああ――」
「気持ち良かっただろ? これからもっと気持ち良くしてやる」
ぽろぽろと涙さえ零す破壊神の様子にも構わず、辰砂は自らが舌で解した場所に己のものをあてがい、一気に貫いた。
「ああ――!!」
破壊神は半分泣きながらも、辰砂のものを受け入れて歓喜の声と嬌声を上げる。辰砂が魔術の拘束を外すと自由になったその手で、自分にのしかかる背中に爪を立てるように抱きしめた。
「ああ、辰砂、辰砂ぁ……ッ!!」
きゅうと締め付けるその内壁に、辰砂は熱い息を吐いた。
「悦びすぎ、きっつ……」
地上で種々の過酷な体験をした破壊神の体は、快楽の神の使徒である辰砂よりもあるいは行為に慣れている。それでも穢れを知らぬかのように白く滑らかなその身体は、まるで初物のように無垢だ。
扇情的でありながら潔癖。矛盾したその印象が収束する先は、美しいものほどぐちゃぐちゃに汚して壊してしまいたいという刹那的で破壊的な欲望だ。
「きつすぎ、だよ。そんなに気持ちいい?」
辰砂はぺろりと舌なめずりしながら、触れてもいないのにぽたぽたと雫を滴らせる破壊神のものの先端を突いた。
「ここをこんなにして。やらしい子。夜這いに来た方が襲われてどうすんの」
「あ……ふぁ……」
物足りない刺激にびくびくと薄い腹を波打たせる破壊神が、涙目で辰砂を見上げる。
「辰砂……」
言葉にならない求めに応じて、辰砂は腰を進める。伊達に神々の末子より長生きしていない。良いところを容易く探り当てると、絶妙な焦らし加減と力具合で何度も少年を絶頂に追いやる。
「辰砂、ああっ……!」
肌に爪を立てるようにして、破壊神は辰砂に縋りつく。その涙に濡れた顔にまたぞくぞくと暗い欲望を刺激されて、開き直った辰砂も自らの快感を追い求めた。
「は……」
肌が薄らと汗ばみ、爪を立てられた部分が血を流している。
そうしてしたいだけ何度も体勢を入れ替えてお互いを求めあい、全てが終わる頃には夜明けが訪れようとしていた。
体力を使い果たして荒い息を吐く破壊神が辰砂を見上げる。何故か彼は、片手で目元を覆うようにしていた。
「辰砂……?」
「……どうして」
破壊神が身を起こす。気配だけで察せられたが、辰砂は静かに泣いている。
「どうして今更お前なんかとこんなこと。僕は……他の誰とも気軽に寝るけれど、お前とはこんなことするつもりじゃなかったのに」
「辰砂」
背徳の神、快楽の神、禁じられた愛を赦す神であるグラスヴェリアの信者である辰砂に、禁忌と感じる事柄はほとんどない。
もちろん面白半分に生き物を殺傷したり虐待することは認められていないが、そうでない場合普通の人間が眉を潜めるような背徳的な行為だって平然と行える。
その辰砂にとって唯一絶対に近い、他の誰でもない自らが定めた禁忌。それこそが、たった今まで夢中になっていたことそのものだ。
誰とだって寝れる。男でも女でも獣でも神でも魔族でも。けれどこの世界でただ一人、破壊神とだけは、肌を重ねる気はなかった。それは辰砂にとって世界の母神たる創造主を殺すよりも罪深い禁忌だ。それなのに。
先程までその背に容赦なく爪を立てていた破壊神は、おずおずと腕を伸ばして辰砂を抱きしめる。裸の胸が触れ合い、顔を埋めた肩口から僅かに汗の香りが漂った。下肢を中心に残る倦怠感や、きつく吸われた胸元に残された痛みさえ心地よい。
「お前がどう思っていようと……我はこうしたかった。本当はずっと、こうして触れたかった」
「……」
満たされていく。そして欠けていく。欠けていたものは満たされ、そしてまた欠けはじめるのだ。
一度知ってしまった蜜の味を忘れることはできないから――。
「好きだ」
その顔を見ずに肩口に埋めたまま、破壊神は告白する。
「好きだ、辰砂。好き。誰より、何より、我はずっと――」
好き。大好き。誰よりも、この世界のどんなものよりも。
破壊神は人として僅かな時の流れにさえ翻弄され喪われていく生の儚さを知らねば、こんな恥ずかしい言葉一生口にできなかったに違いない。
「愛している」
かつて永遠だと思われた幸福な日々は呆気なくこの手から滑り落ちて行った。今ここにいる辰砂の存在は、破壊神にとって喪うなどと思ってもいなかったその幸せの欠片だ。
「お前さえいれば、他に何もいらない。辰砂――我が“運命”」
――運命ってなんだと思う? お前にとっての“運命”って何?
肌に染みる涙の感触に、辰砂は破壊神も泣いていることに気づく。
かつて雛鳥のように彼の後をついて来るだけだった未熟な末子神は、人間として生まれ変わった。そして今はもう辰砂が守り教え導かなければいけなかった生まれたての神ではなく、自らの意志で辰砂と敵対し、それでも変わらずに辰砂を愛し続けている――愚かでつまらない、ただの男だ。
「――」
辰砂は今の破壊神も嫌いではない。けれど肌を重ねることなど考えたこともなかった。破壊神の激変に慣れぬ他の神々よりも誰よりも、その変化を認めたくないのは辰砂だ。
破壊神が自分に向ける感情の有様に変化が生じたこと、辰砂が昔、ただ幼子を可愛がるように想っていたのとは違う肉欲を伴う愛情を破壊神に抱くこと。
そのどちらも、あの村が、あの日々が失われたからこその変化だ。根底にある気持ちが同じでも、時間が流れればそれは変わる。
二人の関係の変化は、全てが死に絶えて終わってしまったあの日に止まった時計の針を動かすことに他ならない。
だから嫌だった。だから、人に生まれ変わった破壊神を目覚めさせたくなかった。止まった世界で全てを憎み続けていたかった。
だが、この世界にもはや辰砂の祈りを聞き届ける神はいない。
均衡は崩れた。幸福な日々は失われた。感情は動き出す。時計の針は進む。歪んだ歯車によって、世界はいずれ混沌に陥るだろう。
わかっている。――誰よりも、わかっているのに。それでも。
「僕も」
辰砂は顔を上げた。自らの肩口に顔を埋めていた破壊神を引きはがす。涙の残るその顔を、頤を指で持ち上げるようにして固定する。
二人の関係を変えてしまう、昔から変わらない想いは確かにここにある。
「僕も――お前を愛している」
辰砂は静かに瞳を閉じると、呆然とする破壊の神の唇に己のそれを重ねた。
小屋の窓から差し込むささやかな光。夜明けが訪れた。
世界が動き出していく。