10.運命は硝子のように砕け散る
闇の中に蝶の翅音が響く。微かな微かな光をそっと拾い集めたようなその音は、永い、永い時間この暗闇に封印されていた者たちの意識を刺激する。
「やぁ」
黒髪の少年が振り返り、駆け寄ってきた。一方、青い髪の女の方は見向きもしない。
ここは世界のどこでもない空間だ。界と界の狭間に存在する名もなき虚空。天も地もない光射すこともない暗闇の中で、生きていける生物はいない。
常夜の闇。罪人を閉じ込める、永遠の牢獄だ。
「久しぶり、背徳神様」
魔力の光で形作られた蝶の翅を畳みながら、辰砂は背徳神に声をかけた。
かつて創造神に反旗を翻した神々の中の大罪人。背徳と快楽の神グラスヴェリア。
彼の手足となり実際に神々に牙を剥いた形となる人間の魔術師である辰砂は、創造の女神から奪った名と強大な力を用いて、この牢獄に自ら閉じこもる形となっているグラスヴェリアに時々会いに来ていた。
神々の母たる創造の女神が眠り続けていることによって、この世界ではもう新しい神が生まれることはない。だからこそ謀反を起こした背徳神の処遇に神々は困り果て、背徳神自らの希望でこの暗闇に同じく騒乱の火種となった存在である秩序神を連れて閉じこもることを罰とした。
人界と違って法の束縛がない神々の世界では、罪人に会いに来るという意識がないらしい。
神には人間と違い言葉の上で謝罪を述べ、充分に反省をしたという態度を見せれば赦されるという考えがないからだろう。当人が心の底から自分の行いを悔やむまで罪は贖われないと考え、しかも彼らには時間の概念もない。
人間であればもう何度も何度も繰り返し生まれ変わるほどの歳月を背徳神グラスヴェリアと秩序神ナーファはこの暗闇で過ごしていた。赦されることも赦すこともなく。
神々に刃を向けた直接の罪人である辰砂の方は、彼自身が破壊神と戦いその命を奪われたことで贖罪はなされたと遺された神々は判断した。人間としての人生で言えばたった十五年。辰砂という界律名を与えられた少年魔術師は、その短い命を破壊神の手によって散らされた。
けれどその辰砂自身も、魂ではまだ納得ができていないのだろう。何度生まれ変わっても、どんな人生を送っても、彼はいつか必ず自分が“辰砂”であったことを思い出してしまう。幸せな少女も大成した老人も夢に燃える青年も世界を呪う乞食も淫蕩な娼婦も、いずれは「神々に反旗を翻した傲慢なる創造の魔術師」の人格がその人生を切り取っていく。
この残酷で虚しい輪廻に果てはないのかと、辰砂は時折、終焉を夢想する。
だが、答は今も出ていない。
どんな人生を送れば、どんな結末を迎えれば自分は納得できるのか。
異相により差別され続けた自分を迎え入れてくれた邪神の民。背徳神を奉ずる故に秩序神に惨殺された邪神の巫女。
その恨み、悲しみ、怒り。何度転生しても消えぬ負の感情を、どうしたら昇華することができるのだろう。
本当はわかっている。
こんなことは全て無駄なのだ。
辰砂や背徳神が過去に囚われ続けている間にも、秩序神に殺された本人の魂はとっくに転生して新しい人生を送っている。しかも大層お気楽に。背徳と快楽の神を奉じる邪神の民の性質もまた快楽主義だ。前世で神に殺されたと教えても、彼本人は笑ってそれを赦すことだろう。
なのに辰砂が赦せない。背徳神が納得できない。殺された本人の想いすら置き去りに、彼らは過去へと留まり続ける。記憶の中に焼き付いて進めることのできない時計の針をなんとか巻き戻せないかと、詮無い努力を繰り返す。
巡る時の中で顔見知りは全て死に絶え、もはやあの時のことをこのような形で悔やむのは自分たちだけだと、そういう想いで辰砂は今でも、こうして背徳神が自らを閉じ込めた牢獄を訪れる。
しかし――。
「久しぶり。待っていたよ。“アディス”」
「え――……ッ?!」
背徳神は何の躊躇いもなく、辰砂のことをかつて秩序神に殺された巫覡の名前で呼んだ。辰砂が愛したディソスではなく、その姉である歌姫と呼ばれた少女の名だ。
「違うよ、グラスヴェリア様。違う、僕は――」
「どうしたんだい? アディス。怖い顔をして。いつもにこにこにやにやしてるお前らしくもない」
辰砂はこれまで一言も発していなかった秩序神へと目を向ける。青い髪の女神は、酷く苦しそうな顔をしていた。
「背徳神様……!!」
硝子の罅割れる音が、すぐ傍で聞こえた気がした。
◆◆◆◆◆
「背徳神の様子がおかしい? それは、どういうことだ?」
天上界と呼ばれる神々の居住地。そこは文字通り天の上にある楽園だ。
人の身でありながら過ぎたる神の力を手に入れた辰砂は、地上においては混乱をもたらすということで、この天上界に住まうことを許されていた。許すとはいうものの、その実態は監視と制御だ。辰砂ほどの力ある魔術師に地上で好き勝手をされるくらいなら、自分たちの目の届く範囲でその行動を見張ろうと言う神々の思惑を辰砂があまんじて受けているのである。
その日、常闇の牢獄から戻った辰砂は休息もとらずに帰ってすぐ二柱の神のもとを訪れた。
魔術神ソルシェイドと冥神ゲッセルクは神々の中でも比較的辰砂に対して好意的と言っていい立場である。辰砂が秩序神派の神々と大戦争を起こした時も、この二神が辰砂を庇う立場に立ったため、辰砂は神々に刃向かうことができた。二神は特に何をしたわけでもないが、その代わりに辰砂から無条件に魔術師としての才や命そのものを奪うことはなかった。この二神が中立ではなく好戦派の神々と同じように辰砂を敵視していれば、辰砂は冥神の手ですでに死の常闇へと送られていたことだろう。
「彼はすでに狂いかけている」
辰砂の言葉に、魔術神も冥神も意図が掴めないと言った様子で瞳を瞬かせた。
無理もない。もともと神と言う存在には、「狂う」という概念がないのだろう。
辰砂は眉を曇らせて、今日見てきたものを告げる。
「背徳神は牢獄で声をかけた僕のことを“アディス”と呼んだよ」
「それは……」
「これが人間ならとうとうボケたかとでも思うところだけれどね。あなたたちはそうじゃないだろう」
神々は人間のように時の流れと共に老化することはない。決して劣化しない不滅の魂として生きる永遠の存在だ。
しかし、だからこそ神々には「時間が全てを解決する」というようなこともない。背徳神が歌姫の死を忘れられずに嘆き続けるのも結局はそれなのだ。
時の流れに癒されぬ神は、その傷を自ら広げて狂っていく。
このままでは背徳神は壊れてしまう。――彼がそれを望んだから。
巫覡たちの殺された世界に絶望して闇に閉じこもって、ついに彼は自らの在り方を歪めていく。辰砂にアディスを重ねて喪失の苦しみから逃れようとする。その有様はもはや神というよりは人間に近い。
それでも、彼は神。
「……背徳神グラスヴェリアはあらゆる神々の中で最も無力な存在だ。司るものが背徳であるだけに、彼に強大な力を与えることは母神も望みはしなかった」
「だが、彼はその分賢い。……思いつめた挙句に何をするかはわからない」
どちらも冷静で理知的と形容される二柱の神は、背徳神の今後について一瞬で予測を巡らせる。
辰砂はよく知らないのだが、どうやら背徳神というのはそれこそ神々の長兄太陽神に匹敵するほど古い神でありながら、その姿を同胞である他の神々の前に現したのは最近のことらしい。最近と言っても人であった辰砂が何度も死んで生まれ変わっているので人間の感覚で言えば何千年も前という古い話なのだが、神々はそれこそその何倍という時間を生きている。
「秩序神の様子はどうだった?」
魔術神の言葉に、辰砂は常闇の中で陰気に佇む青い髪の女を思い出しながら答えた。
「背徳神の変化の兆候を感じて不安がっているようではあった。けど、背徳神は完全に理性を失っているわけではないらしい。彼は秩序神には決してアディスと呼びかけることはせず、そんな風に呼びかけたのは僕が来た今日が初めてだと言っていた」
「……そうか」
かつて、グラスヴェリアの愛する背徳の民を殺害した秩序神ナーファ。彼女が彼を愛するが故に、彼は決して彼女を愛さない。
グラスヴェリアは他の誰をアディスと重ねても、ナーファにだけはそのように呼びかけないだろうと彼女自身がそう言った。
地上からも天上からも離れ隔絶された二人きりの常闇の世界で、彼らは一体どのような時を過ごしていたのだろう。
「辰砂、今少しの間彼らを見守っていてはくれまいか」
「我らは他の神々に掛け合い、背徳神を獄より解放し、なんとか正気に戻す手立てを模索することにする」
「……わかったよ」
言うなり慌ただしく、二柱の神は大罪人の扱いを決めるべく他の神々のもとへと飛んでいく。
一人残された辰砂もまた自らのねぐらへと帰ろうと魔力の翅を開きながら、闇の中の白い笑みを思い返して小さく吐息する。
「グラスヴェリア……」
それでもこの時の彼らはまだ、最悪の事態になるまえになんとかできると信じていた。
◆◆◆◆◆
事情が一変したのは、次に辰砂が常闇の牢獄を訪れた時だった。
「グラスヴェリア?」
いつものように漣のごとく揺れた空間からは、彼が声をかけても何の反応も返ってこなかった。けれどここが牢獄である以上、背徳神も秩序神もどこかに出かけているはずなどない。いないということはありえない。
それなのに。
「背徳神様! 秩序神ナーファ! おい、いるんだろ?!」
叫んでも闇は静かにその場に佇むばかり。
魔術で声だけが響く虚空で、辰砂は言いようのない不安に駆られる。
おかしい。命の気配がしない。
そして――花の匂いがする。
「これは……」
辰砂は闇の中を歩いた。どうせこの空間の中では距離など関係ない。歩いても飛んでも距離は同じだ。大事なのは近づこうと意志の方であり、それは辰砂にとってはこの上下もない空間で足を動かすことだった。
睡蓮が鮮やかに香る。
燐光を放つように、暗闇の中にその花は咲いていた。睡蓮は水辺の花だ。水のないところには咲かない。いや、水はある。
池がある。
この何もない暗闇の空間に、いつの間にか池ができていたのだ。
滅亡という花言葉を持つ睡蓮は、背徳神グラスヴェリアの花だ。今ではそんな事情もほとんどの者は知らないが、一角の知識人はそれを知るために睡蓮を忌避する。
歩き続けた辰砂は、ようやく求める人影らしきものを見つけた。三つ編みにした長い黒髪は、グラスヴェリアの後ろ姿だ。背徳神は睡蓮の池に屈みこむようにして蹲っている。
闇の中だというのに、水も花も仄かに光り輝くように浮かび上がっていた。その中で、ぴちゃぴちゃと何かを啜るような音がした。
青い水の中に青い睡蓮が咲いて、青い髪がその流れに浮かぶ。
「背徳神様、どうし……」
神の血は人間のように鉄錆の臭いはしないのだと辰砂は知った。秩序神ナーファの体から零れた血が池に流れだし、睡蓮を揺らす。
グラスヴェリアがナーファの傍らに屈みこんで、その肉体を喰らっている。
辰砂は色違いの瞳を大きく見開いた。
「グラスヴェリア――ッ?!」
思わずあげた悲鳴じみた叫びに反応し、グラスヴェリアが振り返る。彼は辰砂を見てにっこりと子どものように無邪気に笑うと、次の瞬間恐るべき速度で辰砂に襲い掛かってきた!
「とりこんだのか?! 秩序神を!」
グラスヴェリアは数多の神々の中でも戦闘面では最弱の部類だ。しかし彼は戦神としても名高い秩序神ナーファを喰らうことによって、これまでとは比べ物にならない力を手に入れた。
グラスヴェリアに大部分を削られ、とりこまれたナーファの方は虫の息だった。魔力によってかろうじて生きていることはわかるが、その肉体は人間ならすでに死して当然というほどに欠損している。
そして一度ナーファの力を取り込んだグラスヴェリアは、今度は自らの中でその力を解析して無限に複製し増殖させる。人間でよく言う癌細胞のように増殖した力が膨れ上がり、ただでさえ脆く崩れそうだった理性を破壊した。
今の彼の強さは戦うことが本業である闘神たちにも匹敵する。
繰り出された腕を杖で弾き返した辰砂は、グラスヴェリアが再び攻勢に移る前に素早く防御の魔方陣を展開させる。簡易の術式ではいつまでももつはずがない。それでも一瞬の隙に攻撃と防御力を上げる詠唱を重ねた。
牽制のために放った一撃が、グラスヴェリアの魔力で霧散する。
「っ!」
舌打ちする暇も惜しい。避ける先にすらグラスヴェリアの腕が迫る。
逃げるべきだと理性は告げるが、視界に肉体と魔力の大部分を失って瀕死の秩序神の姿が映る。
それが油断となった。背後から獣じみた牙が迫る。
「あ……ぁあああああ!!」
次の瞬間、肩口の肉を骨ごと噛み千切られた。
◆◆◆◆◆
それは、まるで硝子の砕けるような音として天界中に響き渡った。
魔力のある者にしか聞こえない音だが、もともと天界に住まうのは神々やその眷属や配下といった生き物だ。魔力のない存在の方が珍しい。
「な、なんだ?!」
天界の宮殿内の一角、周囲の人々がばたばたと倒れるのに驚き、月神セーファの配下、ラウルフィカは顔を上げた。
彼の耳にも微かに何かが壊れるような音が響いたが、もともと人間であり、地上にいた頃は魔術師でさえなかったラウルフィカは魔力的干渉に対して鈍い。
月神の気まぐれによって拾われた元人間の青年は、素質を見初められて神の眷属となった同胞たちと違い最低限の力しか与えられていないのが功を奏した。中途半端な力を持つ者たちが魔力の悲鳴にこぞって意識を失う中、ラウルフィカはほとんど影響を受けずに建物の外に出る。
そこに、重く鈍い音と血の臭いをさせた何かが降り立った。
「ああ……君か、ラウルフィカ」
「辰砂! その姿は、その女は一体どうした?!」
もはや生きているのが不思議なほど血に塗れた二人の姿に、ラウルフィカは驚愕する。
紅い、どこもかしこも紅い。衣服の全てが血を吸ったようにどす黒く染まり、辰砂が抱えた女にいたっては手足や腹、内臓の一部が欠損している。降り立った大地にまで浸食するような速さで血だまりが広がり、非現実めいた光景を作りあげる。
瀕死のナーファを抱えてここまで逃げてきた辰砂自身もまた虫の息だった。グラスヴェリアは辰砂に与えた傷口から彼の力も大量に奪い取り、常闇の牢獄を増殖させた魔力で引き裂いて抜け出したのだ。
残った力でなんとかここまで逃げ切った辰砂だったが、ナーファどころか自分自身の傷すら癒す魔力がもうない。
「頼む、ザッハールたちを……」
「呼ぶ! すぐに呼んでやるからそれまで死ぬな!!」
弟子の名を口に出した辰砂にラウルフィカは強く頷いた。途切れそうな辰砂の意識を叱咤するためか、鋭い声音で吐き捨てて踵を返す。
応急手当どころの話ではない。一刻を争うを通り越して常人であれば即死級の傷を前に、ラウルフィカはとにかく治癒に長けた神や魔術師を探すため駆け出した。
◆◆◆◆◆
夢現に声が聞こえる。
「我が行ってくる」
人の枕元で煩い。とは思うのだが、その声は聴いているだけで辰砂の心を安らげる力がある。だから不快感で目覚めるようなこともなく、辰砂はただぼんやりと、半分以上眠った意識の中でそのやりとりを聞くともなしに聞いていた。
「他に対抗できる……」
「いや……だから早く処分……」
「駄目だ。そんなことをしたら……」
「……の? 悲しむよ」
「それが役目なのだろう」
「辰砂が、悲しむよ」
眠っていても魔力の気配を感じる。慣れ親しんだ背徳神の気配を遠くに感じる。
嵐の日の夜のよう。閉ざされた窓の内側は安全だと根拠もなく信じ、暴風に翻弄される木々の嘆きに背を向けて眠りを貪る。
腕が重い。脚が重い。胸が軋む。全身が痛んで、起きようにも起きられない。
「……行って来るぞ」
起きなければ。起きて彼を見送らなければ。そうでないと一生後悔する。
けれどあまりにも深い傷を負った体は微かな囁きに反応を返せなかった。目覚めることのない意識の底で、夜明け前の夢のように何もかもが茫洋と通り過ぎていく。
君が帰ってきたら一番に「おかえり」って言うよ。だから今は、少しだけ眠らせて。
そして生死の境を彷徨う三日間の昏睡状態からようやく目覚めた辰砂が聞いたものは、最悪の報せだった。
「落ち着いて聞いてほしい、辰砂。……破壊神が、死んだ。背徳神に殺されたんだ」
「――――え?」