11.主役なき物語
硝子の棺の中に白い花が入れられ、その中に薄紅の髪の少年が埋もれている。まるで眠るようなその姿は美しく、声をかければ今にも動き出しそうなほど。
「――」
けれど辰砂は、結局その名を呼ぶことができなかった。微かな囁きは、音にならずに唇の内側で雪のように溶けて行く。静寂が澱のように降り積もった。
いつもどこか不機嫌そうな顔をしていた瞼は静かに閉じられ、憎まれ口ばかり叩く唇は行儀よく引き結ばれている。
花に埋もれたその姿は、美しいからこそあまりに非現実的なほどに死者としての体裁が整っていた。もしも彼が生きていれば、こんな格好許すはずがないのだ。彼は花が嫌いだった。特に白い花は嫌いだと。
むせ返る甘い香りが、血が足りずにまだくらくらする辰砂の頭をいっそう揺らす。かつての記憶が目まぐるしく蘇っては通り過ぎていく。
死に装束はいつもの格好。組んだ指の先まで血は拭われて、清められている。あらゆる汚濁に埋もれ憎悪を飼い馴らす生を送りながらようやく神としての宿命に目覚めた少年の短い命は、一体この世のどこに消えていくのだろう。
破壊神として覚醒した彼と辰砂が再会したのは、この一年ほどのこと。
一年。たった一年。
永い永い年月をかけてようやく人として生まれ変わった破壊神の人生は、結局、十七年と少ししか続かなかった。
顔を合わせていない時間の方が遥かに長いのに、辰砂の中であまりにも大きな存在である破壊の神。
転生して随分と人格が変わったなと思いながら、それでも消すことのできない愛おしさをついに認めて、ようやく心を通わせた矢先にこれだ。
終わりは唐突で、あまりにも呆気ない。
死地に赴くその背中を、見送ることすらできなかった。
「……馬鹿だ」
辰砂の独り言に小さく反応したのは、同じ空間内にいる豊穣の巫覡たる少年と、月の民の少年だった。死者の肉体を清めると言う発想もまた、神々とは無縁の人間的な考えだからだ。破壊神の遺体はこの二人が清めてくれたらしい。
聖堂にも似た荘厳な雰囲気を持つ東屋で白い花に埋められた棺に手を伸ばし、辰砂は返される言葉のない悪態を独り言つ。
「お前は馬鹿だ。どうして一人で行った」
かつて自分が神々に刃向かったその時にも、破壊神は他の神々に請われて戦の矢面に立った。他にいくらでも憎まれるべき相手はいるというのに、辰砂と一番親しかった破壊神だけが彼と真正面から向かってきた。
「お前に僕を殺させたあの日の、これが意趣返しだっていうのか」
眠っているかのような少年の頬に触れる。爪先立ちで体を伸ばし、そっとその冷たい唇に口付けた。
――……ああ、あの時だって、僕は結局、お前に殺されることでお前の死に顔を見ずに済んだっていうのに!
どちらかを滅ぼすまで終わらない宿命的なあの決闘の時でさえ見なかったその静かな死に顔を、こんな風に見下ろす羽目になるなんて。
思ってもみなかった。今だって信じられない。
けれどこれが現実だ。
辰砂の膝から力が抜け、棺に縋りつくように崩れ落ちる。嗚咽が零れることはない。唇を噛みしめ、ただきつく目を閉じた。硝子の冷たさだけが揺れる世界の中でただ一つ確かな感触を返してくる。
これは報いだ。背徳の神が狂っていくのを間近で見ながらその狂気を止めることのできなかった辰砂自身の甘さに対する報い。それを、破壊神が支払った。
どうしてこの世界はいつも、贖罪をまるで無関係な者に求めるのか。
けれどこれでようやく決意が固まった。今の背徳神は完全に正気を失っている。
彼を止めるのは――自分の役目だ。
「辰砂様……」
辰砂は立ち上がり、棺に背を向けた。彼が泣いたところで死者は蘇らない。もう何千年も前から知っている真実だ。
乾いた目元で瞬きながら、二人の少年を振り返る。
「ごめん。待たせたね」
「いえ、そんなことありません。その……大丈夫、ですか?」
もとはタルティアンの豊穣の巫覡、今は大地神シャニディオールの眷属であるルゥが、まだ体調も戻りきらない辰砂を案じる声をかける。
秩序神を庇って膨張を続ける背徳神のもとから逃げ出した辰砂は、彼自身が死んでもおかしくないような重傷を負っていた。神々とその眷属や優れた魔術師が住まう天界では治療の出来る者を探すのに困ることはなかったが、しばらく体を休めた方がいいことには変わりない。人間の体はあまりにも重傷を負うと完全に治療されてもしばらくはその精神的な衝撃が抜けきらないのだ。
辰砂に助けられた形となる秩序神は、いまだ目を覚ましていない。人間のように肉の器を持つ生物と違って、神力がそのまま形を成すのが神である。秩序神はグラスヴェリアに肉体を喰われるのとともに彼女自身の力をごっそり奪われたため、個としての存在を維持するので精一杯らしい。
辰砂が彼女を救い出すのがもっと遅ければ恐らく完全に背徳神に取り込まれていただろうと、彼女を治療した魔術神は告げた。そして辰砂に感謝すると。
天界は揺れている。背徳神の暴走だけでなく、辰砂や秩序神の行為に関してもだ。
背徳神より強い力を持ちながらみすみす彼に喰らわれるという「失態」を犯した秩序神に対しての叱責もあれば、仇敵であるはずの彼女を助けた辰砂の思惑を邪推する声もある。
辰砂は自分の意志ぐらい自分でわかっている。そして秩序神が何故グラスヴェリアに食い殺されても構わないと抵抗をしなかったのかも――推測は、できる。
元はと言えば辰砂が神々に反旗を翻した数千年前のあの戦いも、きっかけを作ったのは秩序神の行動だった。邪神を崇める民の巫女を殺した秩序神。辰砂が誰よりも憎むべき存在である女神は、けれどその動機があまりにも矮小であるが故に、憎みきれない。
「やれやれ、難儀なものだね。人間ってのは」
これが神々であれば、秩序神の行為は決して赦されないものとして糾弾されることだろう。彼女は名目上人間を堕落させる背徳神の民の中で最も邪悪な巫女を殺して人間たちに自戒を求めたとされているが、真実は恐らく違う。
「それでもだからこそ、僕は人間が好きだよ。そう思わせてくれたのはディソスであり、アディスであり、背徳神様だ。だから僕は人間として、彼を止める」
月の民のシェイが扉を開ける。目覚めたばかりで今も相当の無理をして棺の中の破壊神に会いに来た辰砂だが、十分に体が動くようならすぐに背徳神を抑える対策会議に顔を出さねばならない。
◆◆◆◆◆
そして意気込んだ世界最強の人間、創造の魔術師こと辰砂はこの数日間で拡大成長を続けた背徳神の姿を遠視の魔法で観察する。
彼が昏睡状態に陥り破壊神が討伐に行って返り討ちにされたという背徳神。もとは最弱な部類の非戦闘神だったグラスヴェリアは、秩序神ナーファと創造の魔術師辰砂の力を取り込んで急激な成長を続けていた。
もはや人の似姿も失った完全なる異形、闇色の靄に部分部分が血と肉の塊を思わせる奇怪な化け物と化した背徳神は、遥かな空を埋め尽くすほどに大きくなっている。見かけ倒しではなく、その暗雲に似た闇色の靄の中では荒れ狂う魔力が雷状に帯電と放出を繰り返しているという。
もともとの神としての個が抱えられる力の大きさには限りがあるとはいえ、グラスヴェリアは無限の計算によりその魔力の容量や蓄積構造を分析・変化させて己の力を強化しているらしい。
遠視の術を解いた辰砂は集まった神々や自分の弟子であるザッハールやシファやアリオス、ラウルフィカやルゥやシェイ、ティーグにラウズフィールといった神々の眷属と化した人間たちの方を振り返りおもむろにこう言った。
「あ、これは無理だわ。僕でも倒すことはできないよ。というか人間の能力の範疇越えてるだろこれ」
「「「えええええーっ!!」」」
世界は、今まさに滅亡の危機に瀕していた。
◆◆◆◆◆
「ちょ! お師匠様!」
辰砂の弟子の一人、銀月という界律名を持つ魔術師ザッハールが皆の心情を代表して突っ込む。
「あれだけ熱意と決意に満ちた宣言出しといてそれですか?!」
「とは言っても、無理なもんは無理。僕にはどっかの馬鹿と違って自殺願望はない」
どっかの馬鹿と呼ばれた破壊神本人が聞いたらそれだけで憤死しそうな台詞をあっけらかんと口にして、辰砂は顎に手を当てる。
完全に狂気に陥った背徳神の暴走は、今や世界を滅亡に向かわせるほどに強大な力となっている。神々としては手をこまねいているわけにもいかず、天上界に棲む全ての生き物が聖堂の中庭のようなこの場所に集まっていた。
「いや参ったな。これはちょっと予想以上だ。常闇で見た時よりも更に大きくなってる」
「強いってことですか?」
「そう言い換えることもできるけどね。なんというか……大きくなってるんだよ」
辰砂の大雑把な表現に、人間たちは彼の弟子もそうでない者たちも首を傾げた。神々ならばまだしも、彼ら現代の人間は辰砂のように背徳神のもとの姿や実力を知っているわけではないので、異形化に対しても実感がわかないのだ。
「もともと背徳神は司るものの性質から強すぎる力をもたないようにと制限されていた。しかし今の背徳神は、その制限を自ら破っている」
魔術神ソルシェイドの解説に、人間たちは再びわかるようなわからないような顔をした。今度はちゃんと彼らにもわかりやすい言葉で、辰砂が補足する。
「グラスヴェリアは力がない代わりに悪知恵が働くというか、賢い神様なんだ。今まではその悪知恵を活かすほどの力がなかったけれど、秩序神と僕から取り込んだ力を使って、今では創造の女神にかけられた制限を自ら外してもっと強い力を扱えるよう自分を自分で改造していってる」
「そんなことができるのか?」
不思議そうな顔をするザッハールには、彼と同じく辰砂の弟子である紅焔の魔術師シファが答えた。
「理論上はわかるような気がする。魔術というのは魔力の強さや波形といった複合的な構成によって発動する現象及び存在への干渉だから、もしも術者がそれを解析して魔術として自分にどんどんかけていったら――。人間には無理でも、魔力そのものみたいな神々にとっては魔術の構成を見抜くことも不可能ではないだろうし」
「そんなことをしたらいずれは増殖に耐えられなくなって自滅……って、ああ、そうか。神様には質量保存の法則なんて適用されないもんな」
理性が狂気に陥りながらもその一方で一人歩きした力だけが無限の計算を続け、彼自身を増殖させていく。それが現在のグラスヴェリアの暴走状態だ。
「とはいっても、魔力にも溶解度というか……この世界という空間が抱えられる魔力の密度に限界はありますよね。背徳神が成長を続けたとして、それはいずれ止まるのでは?」
同じく辰砂の弟子でありシファの恋人であるアリオスが尋ねる。
「まーね。で、現状でも勝てそうにないのに飽和状態まで達するほどにでっかくなった背徳神に、誰が勝てるっていうんだい?」
「……」
アリオスは押し黙った。彼だけではない。この場にいる全ての存在が言葉を失う。
問題はそこなのだ。ここまで強大な力を得るに至った背徳神を、誰も倒すことができない。
「数人がかりで行けばどうですか? 師よ、あなたを私たちが支えるならば――」
「紅焔、君は賢いから、その答はもうわかっているはずだろう?」
辰砂に諭すように静かに問い返され、シファは項垂れる。師である辰砂とその弟子たちの実力は違いすぎる。彼らの力をかき集めても、辰砂の半分ほどの戦闘力もない。
「破壊神がいればまだ手を組んでなんとかする方法もあったかもしれないけど……死んだしねぇ」
人間連中から揃って「あー……」というような溜息が漏れる。ここにいる面々は大なり小なり神から人間として生まれ変わった覚醒前の破壊神と面識があるので、かの少年の矜持ばかり高くて無鉄砲な性格に思い至ると死を悼むというよりつい阿呆だと責めたい気持ちが浮かんでしまうのだ。
とはいえそれだけ無責任な溜息をつけるのは、彼が神でありまた生まれ変わるだろうことを彼らも知っているからだ。
その転生は、あくまでもこの世界が続いていれば、の話ではあるが。
「――もう、終わりよ」
誰かが呟いた。女の声だった。
この天上界にいる人間は男ばかりだ。声をあげたのは神の一人、何の神かは大部分の人間が忘れているが、とにかく女神の一人だった。
「グラスヴェリアお兄様は、神としての本分を忘れて魔王となってしまった。あの人に対抗できる者ももういない。この世界は終わるのよ」
絶望的な呻き。
だがこの場にいる人間は、女神の嘆きにまったく動じもしなかった。もともと女の涙に心を動かされるような男どもではないということとはまた別に。
「だってよ、辰砂。神様が人間より先に現状に絶望しちゃってるけど」
「あっそう。話はまだまだこれからだってのにね」
ザッハールの言葉に、辰砂は冷めた目を向ける。全てを嘲るその眼は、泣き言を言う女神個人に向けたものなのか、それとも神という存在全てに向けたものか。
「お前たちは」
夜の静寂を思わせる静かな声音で尋ねたのは、死者の魂を管理すると言われる冥神だった。
「死が恐ろしくはないのか?」
辰砂の弟子も神々の眷属も、天上界に居を持つ人間たちは一様に顔を見合わせた。
冥神が言う「死」が人間であった頃と同じ死を指すのではないことはわかっている。もしもこのまま背徳神が世界を滅ぼしてしまうのであれば、その先にあるのは輪廻すらもありえない真の消滅だ。自分自身はおろか愛する者たちも人類の刻んだ歴史も、全てが虚空に灰燼と帰す。
その恐怖は、生命としての活動が終わることとはまた別種の恐怖をもたらす。
だが。
「別に、そもそもここにいる時点で、現世とは全て縁を切ってきたしね」
「私もシャルカントでリューシャの炎に呑まれた時はさすがに死を覚悟した」
「私は実際にタルティアンで一度死んだところを、こうして神獣として拾っていただきました」
「俺に至っては陛下に二回も刺されたし」
「それは完全な自業自得だろう……」
この場所に集った面々は、自らが死ぬということに関してあまりにも執着がなかった。
「前世で人間に殺された記憶があれば、もう死ぬの怖いとか言ってらんないよ」
「人類の歩み! とか歴史的価値! とか言っても、結局僕の世界は僕から見たものが全てだからね。自分が死んで世界が滅びるならそれもまぁいいかって」
「僕たち辰砂の弟子は、そもそも界律師として生きること自体が綱渡りですから」
「死ぬのは確かに怖いですけど、俺自身の命より価値があると思えるものがいっぱいあるので、命を懸けることが無駄だとは思いません」
「というか、死ぬのってよくわからないな。わからないから別に怖くもない。痛いのは嫌だけど」
豪胆と言えば豪胆、無責任と言えば無責任なその答に、冥神のみならず神々が呆気にとられる。
てんでばらばらに好き勝手なことを述べる人々の意見を、仮にもまとまった意見としてその要旨の統一を試みたのはラウルフィカの一言だった。
「――私たちは脆い生き物だ。肉体も精神も、簡単なことで喪われる。死はいつだってすぐ隣にあって、恐れはしても忌避するようなものではない。理不尽に命を奪われることを許容するわけではないが、いくら努力したところで死ぬときは死ぬものだ。私たちはそれを知っていて――それでも、自分が望む未来を掴むためには命をかける。命とは人間に限らずこの世の生き物の人生にとっての全てだからだ。愛することも憎むことも恐れることも望むことも、命なくしては実現できない。私たちの存在が私たちの命そのもの」
命は人間の人生そのもの。私たちは何事にも、命と言う全身全霊で向かい合っていく。
「けれど私たちは、命を浪費することを人生の目的とするわけではない。生を望めば望むほどに、私たちは命を懸けて、命を磨いていく。――死は、恐れるべきものではない。向かい合うものだ」
退屈な平穏に魂を濁らせるのも、それはそれで良いだろう。けれど自分たちはその先を求めるのだと。
この台詞を口にするラウルフィカが、かつて自らの命を絶とうとしたことを知る者は少ない。
その少ない人間のうちの一人であるザッハールは、今この瞬間にも、生きていることの幸福を感じている。
あの日、全てに絶望して命を投げ出そうとした少年が生を拾ったことを後悔していない。それだけでザッハールはもうどんなものも恐れずにいられる。
彼らにとって、それこそが生きるということだった。
「……そうか」
言葉少なに頷いた冥神は、もう彼らの話に口出しして来なかった。
「それで」
代わりに背の高いラウルフィカにもたれしなだれかかるようにしながら輪に入り、人間たちの非人間的な会話を面白がるように首を伸ばしたのは月神セーファだった。
「そんな努力家なあなたたち人間は、この世界の危機にどうやって対抗する気? ねぇ、辰砂」
この世界の原初に程近き頃から存在する神々の長姉である月の女神セーファは、古い馴染みでもある辰砂に尋ねた。神々の中でも太陽神と並んで高位の神であるはずの彼女だが、その性格は気まぐれで人懐こい。ある事件で破壊神や辰砂と関わりを持ったラウルフィカに興味を持ち、自分の眷属に加えたのも彼女特有の気まぐれだ。
この世の終わりを嘆いた女神とは違い、セーファの表情には余裕がある。彼女はまだこの程度の――破滅をもたらす魔王の登場くらいで、世界が壊れてしまわないことを確信しているようだ。
「あー、まぁ最悪でも世界が滅びることはないと思うよ?」
「根拠は?」
「どうしてもの場合、御大に御登場願う」
「御大?」
辰砂が普段は使わない言葉を口にする。聞きなれないその響きが誰を示すのかわからず、弟子たちも神々も首を傾げた。
「まさか……」
「そう、やはり、そういうことなの」
一方、神々の長兄である太陽神フィドランと、月神セーファはその言葉が指し示す存在に思い当たるらしく、顔色を変えた。フィドランはまだしも、セーファは半ば辰砂のその言葉を予想していたようでもある。
「そう、この世界という箱庭で神や人間がどれほどの力をつけようとそれを支配する律――界律を一瞬で壊すことも創ることもできる全知全能の支配者にして造物主……創造の女神だよ」