13.我が神よ 我が祈りよ
「シファ、君は言ったな。『規模さえ小さければ僕たち人間の手でもなんとかな』ると」
「はい」
「アリオス、『背徳神様』を『二百等分』するとは面白い案だ」
「まぁできるとは思っていないからこその言葉というか」
「シェイ、ラウズフィール……そうだね、ラウズフィールは“魔王”だったんだな。砂漠地域限定の血砂の覇王という、人間の手で討伐された魔王」
「ええ、それが?」
「ラウルフィカ、君は素敵なくらい卑怯だ。惚れ惚れする」
「お褒め戴いてどうも」
「そしてザッハール」
「な、なんすか?」
それぞれの反応を返す同胞たちの脇で、かつて一国の宮廷魔術師であったこともある青年は若干引け腰になりながら師の言葉の続きを待つ。
「慧眼だ。そうだ、相手の力が僕らの手におえないほどに強大ならば、あちらが弱くなるように呪いをかければいいんだ」
それがこの上なく有用な問題解決法として語る辰砂に対し、その発案者であり呪いと言う言葉を持ち出したザッハールの方はその効果に半信半疑だった。
「いや、でも……そんなことできますかね。だって媒体がないでしょう? あったとしても、髪の一本だの爪のひとかけらだのという媒体で、あの規模の背徳神様を呪うことなんてできますか?」
「できる。その媒体は」
辰砂は己の薄い胸に手を当てる。
「僕自身だ」
一同がぴたりと動きを止めて沈黙する。
魔術師であっても、辰砂の言葉の意味がわからない。否、辰砂の弟子と呼ばれるほどの高位魔術師たちは、薄々師の言葉の先にある未来を察したからこそ、その考えを無意識に振り払った。
「――どういう、ことですか? 神を呪うなんて大それたこと、まともな魔術ではとても実現できるとは思えない」
「根拠はあるんだよ、ルゥ。確かにまともな魔術とは言えないけれど。呪術と言っても丑三つ時に藁人形を打ち付けるとかそういう効果があるようなないような胡散臭い悪意のぶつけ方を言うのではなく、魔術で言えば禁術に分類されるようなえげつない呪法を使う」
「禁術?」
「これもシファが指摘していたことだけれど、今の暴走状態を造り上げている背徳神様の力の一部は僕の『複写』だ。僕は彼に体の一部を喰われたことで彼に取り込まれた。つまり今、背徳神様の中には僕が“在る”。神様本人に呪いをかけることはできなくても、ここにいる僕を通してグラスヴェリアの中の僕に影響を与えることはできる」
「それって……っ!!」
「そう、呪いをかけるのは、正確には“僕自身”だ」
ザッハールが、シファが、アリオスが、ラウルフィカが、シェイが、ラウズフィールが、ルゥが、ティーグが、神々が、息を呑む。
「だって、辰砂。そんなことをしたら――」
「ま、僕は死ぬよね」
あっけらかんと辰砂は頷く。
「もともとそういう呪術だし。男に裏切られた女が自分の身を引き裂いた数だけ男の身を引き裂くという復讐のための呪いだ。別に裏切ったのが女だろうと男女間じゃなくて同性の間だろうと使えるけどね。重要なのは、その二人の間に肉体関係があること。相手に混ざった自分を介して、相手を直接呪わずとも術をかけることができる。自爆技というか心中技だ」
男がいた。女がいた。二人は恋人同士だった。
だが、ある時男は女を裏切り、別の女と恋仲になる。
嫉妬に身を焦がす女は、自分もろとも男を殺すために呪いをかけた。
混ざり合った体液から自分を通して相手を支配する呪い。
女は狂気のままに自らの体を滅多刺しにして死ぬ。
すると、呪われた男も全身を刺されたかのような傷を負って死んでいた。
「魔術ってのはある意味正統派な方法と力。純粋に強い方がかつようにできている。多少の属性の不利はあっても、結局は力の量がものを言う。雨は炎を消すけれど、少ない水は大量の炎には蒸発させられてしまう」
だが、呪いは違う。
「呪術ってのは、弱い者が強い相手に勝つために編み出してきた手段だ。その代償は高くつくけれど、だからこそ時に自分より何倍も強い相手の運命を左右できる」
その言葉を口にして、辰砂はふいにかつて背徳神に尋ねられたことを思い出した。
――辰砂、お前は、運命ってなんだと思う? お前にとっての“運命”って何?
それは生まれながらに決まっている未来とも、人が生きて死ぬまでの全てとも、神によって定められた宿命とも、人に与えられる幸不幸の全てとも呼ばれる。
例外なく“それ”は、初めから決まっていて変わることのない道だ。
あらゆる道のなかのたった一つ。そこを必ず通らねばならない人生。
それは人にとって幸であるのか、不幸であるのか。
――俺はやはり悪神なんだろう。俺のせいで、幾多の人間の運命が歪められた。いや、初めから俺という神の存在が人を不幸にするようにできているのなら……俺はもう、この世界にいるべきではないんだろう。
人の命が神によって奪われるように、強いものが弱いものの行先を左右するのが運命だというのなら。
――教えてくれ、辰砂。お前にとって、“運命”とは何?
この命にも人生にも、人が生きてきた時間もその中で下した選択も、何も意味がないとでもいうのだろうか……?
否、と叫ぶためにも、辰砂は今ここにいるのだ。
人は、弱者でも強者に抗い、自らの手で道を切り開いていけるはずだ。かつてただの人間でしかなかった自分が、神々に挑んだように。
辰砂は今でも、そう信じている。
「僕が自らの体を媒体に呪いをかけ、その上で自分を無数の欠片として散らばるように粉々に砕く。そうすれば連動したグラスヴェリアも無数に分割される。かなり粉々にして人の手でも殺せるくらいの力になれば、きっと誰かが、魔王を倒す勇者として立ち上がるだろう」
「辰砂」
「もちろん粉々にしたらそれはそれで弊害はあるよ。地上に降り注いだ無数の神の欠片は地や花やあるいは人に染み込み、無数の“魔王”――世界を滅ぼすものとして生まれ変わるだろう。いくら弱くなってもそれだけ数が増えちゃ地上は大忙しだね。別の意味でこの世界が滅びるかもしれない。でも人間は、自分の手でなんとかできることは自分の手で解決しようとするだろ?」
辰砂は信じている。
人は神に頼るのではなく、人の手でその未来を創ることができるということ。
だから、この世界の未来も地上で暮らす無数の人間たちに託す。
人知れず世界を滅ぼす悪神を倒した英雄になど辰砂はなる気はない。それどころか、規模こそ小さくなっても滅びをもたらす魔王を世界中に拡散させるという人でなしの所業を行う。
魔王なんて、正義感溢れる勇者たちが頑張って倒せばいいのだ。
ただ自分は、嫉妬に狂って男を呪った女のように個人的な小さな恨みで神さえも呪い殺すだけだと。
「それでいいだろう」
慈悲深さとは縁遠く、いつものように悪戯っ子の笑みを浮かべて、あとのことなど知らないと無責任に。
これが辰砂だ。創造の魔術師だ。かつて人間の中の外れ者でありながら、人として神々に反逆した魔術師だと。
彼はそれが当然のように、最も重い役目を背負っていく。
「言いたいことは、いろいろあるんですが」
「私たちじゃお師様を止められる気がしません」
「というか辰砂、何生き生きしてるんだよう……」
三人の弟子たちが溜息をつく。
所詮創造の魔術師はお伽噺の悪役だ。世界を救えと言われるより神を呪えと言われた方がやる気も出るというもの。
「世界が救われるなら、俺たちはそれでかまいません」
「ですが創造の魔術師よ、あなたは本当にそれいいのですか?」
ルゥとティーグの所謂「良識派」が今更の問いかけをする。
「ま、だって他にやる人もできる人もいないでしょ。背徳神様の中に在るのは僕の欠片だしね。というか、誰かが他にできると言っても、僕はこの役目を譲る気はないんだ」
その時、建物の扉が開いて、一人の女が彼らの集う中庭に出てきた。その遠目にも鮮やかな青い髪と瞳を見つめながら、辰砂ははっきりと言った。
「僕だけがこの世界で最後に残された、背徳の神グラスヴェリアの民なんだから」
誰にも譲る気はない。
どんな人にも、神にも。
「秩序神ナーファ、意識が戻ったのか?!」
中庭に出てきた青い髪の女に、周囲の神々が声をかける。だが、彼女はまっすぐに、常闇の牢獄から自分を連れ出して命を救ったことになる人間の魔術師を睨んでいた。
二人の視線は触れれば斬れるような緊張感をもって交錯する。しかし一瞬の後、辰砂が再び話しかけられたことによってその睨み合いは終わった。
「何故、あなたはそこまでできるのです? 例え神の眷属となっても、僕はあなたのように全てを擲ってまで尽くすことはできない」
月の民のシェイが辰砂に尋ねる。彼が仕える月神もここにいるというのに、良い度胸というのか真正直というか。
実際、過酷な砂漠に住まう民であるシェイの信仰心は他の地域の人間よりは強いのだが、それでも辰砂のようにとはいかなかった。
「――そもそも、神への信仰ってなんだと思う?」
辰砂は苦笑を浮かべながら、シェイにというよりは他の面々に向かって逆に尋ね返した。いつもならここである程度の言葉を返すはずの弟子たちが、一様に困った顔をする。
「信仰……」
「信仰心ねぇ」
「俺たち、そもそも神々の影響力が強くない地域の生まれだからなぁ」
シファとアリオスは魔術師の里と呼ばれる辰砂の故郷に近い地方、世界で最も神々の勢力が弱い地域の生まれだ。かつての辰砂の所業もあり魔術師と神々は相容れない存在とされていて、どちらかの勢力が強い地域はその反対勢力は弱い。だから魔術師の力が強い地域出身の二人はそもそも神々を信仰するという考え自体が希薄だった。
ザッハールは砂漠の国ベラルーダの出身だ。シェイが住んでいた地域とも近いが、仮にも国家として体裁が整っているベラルーダではシャルカント帝国の支配下という事情もあり、教会勢力は強くない。
「なんだかよくわかりませんね」
「そうだな。こんな神様だらけの空間で言うのもなんだけど、別に俺たち、神様がいてもいなくても特に困ったことってないからな。別に神様が世界にいないならいないで別に構わないし」
さすがに人間の間でも外れ者とされた辰砂の弟子たちは、人間の数より神々の数が多い天上界で発言するにはあまりにも大胆で無礼な言葉を平然と口にする。
「おい……」
神々の眷属である方の人々がそんな彼らに呆れ、一部の神々が若干この無礼な人間たちに殺意を抱き始めた頃、一人の少年が口を開く。
辰砂の問いに答えたのは、神々の勢力地であり特に大地神の加護を受けていると言われる王国で巫覡をしていたルゥだった。
「信仰とは、神への感謝です。今俺たちがここに生きている全てに関しての――深い、感謝」
辰砂はゆっくりと頷いた。
◆◆◆◆◆
確か初めて出会ったのは、あの海辺の村でディソスに連れられて近所の家庭に夕飯を食べに行ったときだったか。普通に食卓について家の主人と酒を酌み交わす少年姿の神は、もはや気さくとか人間臭いとかそういう問題ですらなかった。
ディソスもディソスで自分の敬い崇め奉るはずの神に対し「やっほー、背徳神様」と気軽に声をかける。いくら神話時代は神と人が近く寄り添って暮らしていた時代とはいえ、これは寄り添いすぎだろとあとから彼も思ったものだ。
赤と青の色違いの瞳という異相によってこれまで迫害されてきたまだ辰砂と言う名をもたない少年は、紫と橙の色違いの瞳を持つ神を前にしてぽかんと口を開けた。
そんな彼に、背徳の神グラスヴェリアはやわらかな笑みを浮かべて告げる。
「その瞳、俺とおそろいだな。ようこそ、少年。俺は背徳と快楽を司る神、グラスヴェリアだ。よろしく」
◆◆◆◆◆
「感謝?」
「そう、感謝。父なる神、母なる神と言うだろう。人間が自分をこの世に生み出してくれた両親に対するような、自然な感謝」
この世の大多数の人間は不幸があった時にそれは自分をこの世に生み出した両親のせいだとはまず考えない。けれどもしも良いことがあった時に今この瞬間に自分が生きていてよかったと、自分を生み出した両親に感謝することはあるだろう。
そのような感謝を神に抱き、敬愛と祈りを捧げていくこと。――それが、ルゥのいう信仰であり、辰砂の考える信仰である。
「で、それが何。辰砂、まさかあんたが信仰心を持っているなんて馬鹿げたことは言わないだろ」
「持ってるよ」
辰砂の弟子たちは酢を飲んだような顔をした。
「何その顔」
「いや、あんた冗談も大概に」
「僕がかつて神々に刃向かった創造の魔術師っていうとみんな僕を神への信仰心の欠片もない人間だと勝手に思ってるんだよねぇ。――言っただろう。僕は、邪神グラスヴェリアの民なんだよ」
最後の方は囁きに近かった。穏やかな表情に、周囲の人々は辰砂の心情をようやく理解する。
「あなたは、感謝しているのか。背徳の神グラスヴェリアに。今も愛しているのか。邪神となってしまったその人を」
ティーグが形容しがたい感情をその顔に乗せて問う。辰砂は小さく笑うばかりで答えない。
「あの人は昔、この世界のどこにも居場所のなかった僕に居場所を与えてくれた。人々に迫害される邪神の民だけが僕を受け入れてくれた。今僕がここにいるのも、みんなグラスヴェリアのおかげだよ」
過ぎ去った遠い日の短い記憶を思い返す。
たぶん神々が地上を去った後に生まれた彼らにはわからないのだろう。はじめからこの世界に拒絶されているということが。神が地上にいなければ恩恵を受けぬかわりに迫害を受けることもない。
ザッハールたちが神などいてもいなくても同じだというのはもっともだ。けれど辰砂にとっては、背徳の神や破壊神、そして創造の女神がこの世界にいたことが、運命を分けたのだ。
「ああ、そうそう。これも言っておかなければいけなかったね。僕が自分に呪いをかけて自分ごと背徳神様を砕いたら、僕はもう二度と僕として転生することはないよ」
「え?!」
「魂や力の欠片はグラスヴェリアをそうするように地上に無数に降り注ぐけれど、その後に僕が僕として生まれ変わってくることはもう二度とない。要素の一つ一つを持っている存在は生まれて来るだろうけどね」
単純に魂を砕かれたら元の人格を保つのが難しいとか辰砂の魂の一部を持つ者も分裂してしまうとか、そういうことでもないらしい。
「僕は背徳神グラスヴェリアの民。神が消える時に僕も消える」
「辰砂……」
みながしみじみとしたところで、その情感を打ち破るようにラウルフィカが何かに納得した声をあげる。
「なるほど、そういうことか」
「陛下?」
「辰砂が何度転生しても元の記憶と人格を取り戻す仕組みだ。不思議に思っていたんだ。いくら恨みが強いとは言っても、そこまで怨念が持続するものかと。鍵は背徳神にあったんだな。つまり辰砂は背徳神の眷属としての扱いを受けているから何度でもその人格と記憶で蘇るのか」
「うわー、ラウルフィカ。君は本当に嫌になるくらい合理的な性格だね。界律師の資格を持つ魔術師たちでさえうっかり抒情的な話に落涙しそうになったっていうのに、あっさり魔術的構成を看破しないでよ」
ぺろっと舌を出して笑う辰砂に、人々は一斉に突っ込んだ。
「「「オイ!!」」」
「あはははは」
こんな最後の瞬間でも快楽を司る邪神の民らしく悪ふざけを忘れない辰砂は、そのまま魔術の翅を広げて宙に跳び上がった。
「あ、ちょっと!」
「ちょうどいいから、僕はそろそろ行くよ。呪いの準備をするのに、広い場所が必要だからね」
これが正真正銘の最期。これから自ら死ににいくとも思えぬ明るい笑い顔で、辰砂は既知の人々に無邪気に手を振る。
「じゃーね、みんな。もしも縁があったらまた会おう」
「待った辰砂! 俺たちも一緒に――」
「駄目だ!」
咄嗟に手を伸ばしかけたザッハールを、その背から抱きしめるようにしてラウルフィカが引き留める。
いくら男とはいえ、ラウルフィカにはそれほど力はない。なのにザッハールは、まるで雷に撃たれたかのようにその場所を動けなかった。隣では同じくシファがアリオスに羽交い絞めにされて止められていた。
その様を一瞬だけ目を瞠って見つめた辰砂は、やがてふんわりと笑うとこう言った。
「いいんだよ。ザッハール、シファ。言っただろう、これは誰にも譲る気のない僕の役目だと。創造の女神の真意さえ理解した君たちはもう誰の弟子でもない一人前の界律師。――君たち自身の人生を生きろ」
微笑んで空を蹴る。蝶が軽やかに舞うように、その姿が遠ざかる。
追えないわけではなかった。だが誰も彼を追うことができなかった。
自分の背中に縋る人の体温を振り払うことができない。これが人の業だと、今ほど実感する時もない。
界律師は真名を名乗らない。言霊と言って、名前には力が宿るからだ。とはいえ界律師になる前の名前を知っている者にはもちろん通用しないし、自分の名を自分で明かしたいならそうすればいい。
ザッハールは銀月、シファには紅焔という専用の界律名がある。それは辰砂が与えたもので、けれど彼は今日その名で弟子たちを呼ばなかった。界律名は言霊を防ぎ、その呪縛を受けないようにする力だからだ。もしもラウルフィカがザッハールを止めなければ、辰砂は言霊で彼を止める気だったのだろう。
そしてザッハールたち辰砂の弟子たちには、ただの界律名であって言霊としては何の強制力もない“辰砂”以外の名で彼を呼ぶことはできない。
誰も彼の本当の名前を知らないのだ。
世界に名だたる創造の魔術師・辰砂。しかしこの世に知らぬ者のいない魔術師の、その本当の名前をもう誰も知らない。覚えている者は皆、常闇の彼方だ。
いや――。
「背徳神グラスヴェリアだけは、辰砂の本当の名前も知っているんだろうな」
その彼ももう消える。他でもない辰砂が殺す。自らの命を懸けて。
辰砂が無数の欠片として砕かれてもとに戻らないというなら、恐らく背徳神もそうだろう。その力を多少なりとも削げば世界にとっての脅威ではなくなるだろうが、彼が今の彼でなくなることには変わりない。
――僕は背徳神グラスヴェリアの民。神が消える時に僕も消える。
だから……そういうことなのだ。
この世界が劇的な名作ではなく、陳腐で盛り上がりに欠けても、この世にたった一つしかない物語として残るために。
勇者でも魔王でもない、名前すら記されることのない脇役の、知られざる戦いが始まる。