White World 02

14.永遠の魔術師

 ――辰砂、お前は、運命ってなんだと思う? お前にとっての“運命”って何?
「僕にとっての運命は……」
 ――お前さえいれば、他に何もいらない。辰砂――我が“運命”。
 彼が最期の場所に選んだのは、何もない海辺だった。
 その昔小さな村があり若干余所とは平和の定義が違うけれどそれでも村人たちが穏やかに暮らしていた。けれどその村は、もうない。誰もいない。
 白い砂浜に辰砂は巨大な魔方陣を描いた。
 浜辺にそれを描くことを決めたのは、一気に勝負を決めたかったからだ。禍々しい紋様は潮が満ちて波が寄せればあっという間に消えてしまう。それでいい。
 準備が整って魔力を流し始めると、彼の体ごと魔法陣が薄青く輝いた。

「僕にとって運命とは――何度生まれ変わっても、何度同じ場面を繰り返しても、幾億幾千万の可能性の中から選ぶ、ただ一つのこの道のこと」

 滅亡を意味する薄青い睡蓮の模様を織り込んだ構成が、彼の体から可視化の光となって波打つ蝶の翅のように空中に広がっていく。
 発動した魔法は自ら静かに歌いだす。この世のどこかで紡ぎ続けられているという天空の子守唄が、世界の律に通ずる魔法を通して彼の耳に届く。
 彼は軽く地を蹴ると、魔力で宙に浮かび上がった。
 かなり離れた上空に、黒い靄のような怪物が滞空している。血と臓物を思わせる赤黒い部分と、実体化していない霧のような部分が集まり、その中では無数の青い雷が走っていた。
 一刻ごとに巨大化していくようなその黒い靄に向けて、彼は禁じられた呪術を発動する。
 遠く離れた他者の体に取り込まれた、もとは自分の一部だった力。それらに呼びかけ、支配する。
 彼の体中に紋様が走るのと同様に、黒い靄の化け物――背徳神グラスヴェリアの体も薄らと青白く輝き始めた。術は確かに効果を発揮している。相手の中に取り込まれた力は元の主の呼び声に応え、遠い二つの命を連動させる。
 突如として何もない空中から、この世の業を煮詰めたような血の色の鎖が幾本も彼と黒い靄にそれぞれ伸びた。
「くっ……さすが、女の情念が産み出した心中技……っ!」
 実際に鎖が締め付けてくるわけではないが、術を発動した瞬間、尋常でない負荷がかかった。この場面を誰かが間近で見守っていたら、一瞬ごとに顔色が悪くなる彼を一体どうしたことかと心配したことだろう。
「神よ。背徳の神グラスヴェリアよ。あなたは今でもただひとりの、僕の神様。だから――」
 脳裏には無音の詠唱が響き、天上の歌が聴覚を埋め尽くす。青白い光は、睡蓮の花の香りがした。
 深く息を吸い、気合と共にいよいよ最後の魔術を行う。深い傷跡が流す血のように、体中の魔力がごっそりとその術にもっていかれるのがわかった。
「あなたの狂気は僕が止める」
 青白い炎のような光の中で、体中に巻きついた鎖が四方八方から引かれる。
 暴走している背徳神にもちゃんと効いているらしく、黒い靄の中で激しい雷が散った。
 その時、彼の耳に背徳神の呆然とした囁きが届いた。
「――」
 強い魔力の影響で、一瞬だけ正気を取り戻したのだろう。自らを包む魔力に、彼のことを思い出したのだろうか。
 辰砂は今にも消えそうな儚い笑みを仄かに浮かべる。

「――やっと僕を呼んでくれたね」

 次の瞬間、辰砂の魂は背徳神諸共、無数の破片となって砕け散った。

 ◆◆◆◆◆

 流れ星が地上に降り注ぐ。赤と青の無数のその光は、命の欠片だ。
 彼らは天上界から、遠い光景を見守っていた。
 硝子細工が粉々になるように、辰砂と背徳神は無数の欠片となって砕け散る。そうして地上に降り注ぐ。
 堕ちた無数の欠片からは、やがて幾人もの魔王が生まれるだろう。
 けれどこの世界そのものを滅してしまうような脅威からは、ついに人々は守られた。一人の魔術師の犠牲によって。
「でもきっと、辰砂はまーた神々に逆らった不遜な魔術師としての悪名を高めるんだろうなぁ」
 ザッハールが言うと、アリオスも頷いた。
「結果的に彼は地上に無数の魔王を作り出したわけだからね。世界を支配しようとして魔物の軍団を創造したとか言われちゃうんじゃない?」
 シファは何も言わない。
 しゃくりあげる嗚咽を堪えることで精一杯だからだ。
「……そろそろ泣きやめよ、シファ」
「う、うるさい! 僕は泣いてなんかない!!」
 ぼろぼろと大粒の涙を手で拭いながら言っても説得力はないのだが、シファは強がった。生意気な少年といった見かけに寄らず、ここにる人間の中で最も素直で純真なのはシファだろう。
「泣いたところで奴が戻ってくるわけでもあるまい。いい加減に腹を決めろ、お子様」
「僕はお前より年上なんだよ! ベラルーダ王!」
「嘘をつけ!」
「いや、本当です、陛下。シファは辰砂に拾われたのが早くて少年姿で成長を止めてますけど、俺の学院時代の同級生ですから。さすがに俺よりは年下ですけど、今二十代後半」
「なんだと?!」
 予想外の事実に一瞬呆気にとられた顔をしたラウルフィカは、すぐに動揺を取り繕うようにして続けた。
「ふん。まぁいい。どいつもこいつも辛気臭い顔をして。あの男が死んで生まれ変わるなんていつものことだろう」
「でもベラルーダ王陛下、お師様はもう二度と、彼自身として生まれ変わることはないって」
「だが辰砂の欠片自体は地上に全て存在するのだろう。一欠けら足りずとも辰砂でないと言うのならば、一欠けらも零さず集めればいい」
 さらりとこともなげに、けれどその口調よりはよほど真剣な眼差しでラウルフィカは言う。
 全員が彼の方を注目した。
「嘆いている暇はない。これからだぞ、貴様ら」
「ラウルフィカ陛下?」
「だいたい、この地上に無数に散らばった魔王たちを、貴様らはどうやって倒すつもりだ? 地上の人間が自然と勇者として立ち上がるのを悠長に待つつもりなのか?」
 さすがに以前は一国の王だったラウルフィカは人よりも先のことを見ている。辰砂がいなくなった後の世界をどうするか。そういえばそれも考えなければいけないのだった。
「魔王を量産させたのだから、その責任くらいはあやつにとらせろ。全てを倒せとは言わないが、そもそも辰砂基準の“人間に倒せる強さの魔王”など当てになるものか」
 だがそれには、無数の欠片となった魔王を倒せるだけの強さを持てるくらいには、辰砂の欠片を集めることが必要になる。
「それが滅びを回避するためでも、ただの私的な理由でもいい。無数の魔王に対抗するために、私たちはこの世界に無数に散らばった辰砂を集める」
「陛下……!」
「と、いうか」
 感極まった声をあげるザッハールの顔をラウルフィカは手で押しやる。
「私たちがそれをやらないでも、生まれ変わって辰砂にもう会えないとなったら背徳神並みに発狂して無茶をしそうな馬鹿がすでにいるだろう、一人」
「……あ、やべ。破壊神様のこと完全に忘れてたよ」
 ザッハールは聖堂の方を振り返る。棺の中で眠る破壊神はまた人間として生まれ変わり神としていずれ覚醒するだろう。そしてその破壊神が、辰砂のいない世界に納得するはずもないのだ。
「どちらにしろ辰砂様の欠片を集めるのは決定事項のようだね」
「ま、大なり小なり辰砂には恩があるし、地上界が滅びの危機に瀕しているのに俺たちだけ天上界でだらっと過ごすのもなんだしな」
 シェイとラウズフィール、ルゥとティーグも顔を見合わせて頷いた。辰砂の弟子ではない彼らも、協力するのに吝かではない。
 皆を代表するようにザッハールが立ち上がり、天上から地上を見下ろす崖の上で口を開いた。無数の流れ星のように降り注いだ辰砂と背徳神の命の欠片に誓う。
「彼がこの広い世界の中から俺たちを見つけてくれたように、今度はこの世界の中から、無数の欠片となって散らばった彼を俺たちが見つけよう」
 見つけ出す。必ずあなたを探し出して見せる。どれほどの時間がかかろうと、きっと――。
 太陽神や月神、魔術神はそのやりとりを更に遠くで見守っていた。
 青い髪の女が、光が尾を引いて流れる空にほんの少し手を差し伸べる。
「何をしたの? 秩序神」
「呪いの構成は壊さないまま、散らばる力に少しだけ秩序を与えました。彼らが見つけやすいように」
 無秩序なものを探すのと、秩序だったものを探すのだったら後者の方が易く前者は難しい。――それは彼女なりの贖罪なのだろう。
 もうこれ以上神々が、恐らく今この場にいない破壊神以外の神が人間たちの問題に首を突っ込むことはない。
 人々はどんな困難も、その手で越えていくことを選んだのだから。
 魂を自ら千々に引き裂いたために己のもとにやってくることもなくなった辰砂のことを想い、冥神は呟いた。
「――これが、人間という存在の答なんだな」
 世界のために己の命と力の全てを懸ける彼らは愚かだと考えながらも、その愚かさ故に愛おしさが溢れてくる。この世界を離れたというかつての母神も、あるいはこんな気持ちを抱えていたのか。

 そして永い、永い戦いの物語が始まりを告げる。