ごけちょぎ考察――山姥切長義極から振り返る回想141――

山姥切長義極からもう一度回想141を考える

ごけちょぎ派としてやっておかないと(決意)

ネタバレどころか長義くんの極実装からここ数日で出した感想を大前提にしています。
修行手紙はもちろん考察もなにも全部読み終わってまだ色々追求したい方向け。

内容はまぁそんなわけでいつもの考察です。

おまけでもないですが、関連してちょっと舞台とミュージカルの役者さんの演技の違いの話とかもくっついています。

1.無頼の桜梅、山姥切長義の真意

回想141はなんか尻切れトンボ感があると言うか、ごっちんの「……え?」からの長義くんの「すまない。俺も一言多かったようだ」ってこのやりとりの意味は何なんだろうなとずっと考えていました。

ごっちん実装から約一年経っているので本当にその間ずっと考えていましたね!(そして小説も書いた)

一応全文確認しますか。

 

回想其の141 『無頼の桜梅』

長義「備前の刀が来たと思えば、なるほど、兼光の刀か」
兼光「キミは……、長義(ながよし)の。さすが、華やかで……うん、強き良き刀だ」
長義「長船の主流派であるあなたに、そのように面と向かって言われてしまうとね」
兼光「急にごめんね。備前長船の中で同じく相州伝の流行りを取り込んだ刀に声を掛けられたから、ついはしゃいでしまった。おつうにも、一言多いってよく言われるけど」
長義「いや、こちらの言い方も悪かったね」
兼光「そんなことないよ。兼光が相伝備前の始まりのように扱われることも、刀工の系譜も、それに正宗十哲の括りだって、後世の人による憶測や分類の結果でしかない、とも言える」
兼光「ただ、ボクが今感じたことは、それそのまま本当だなって」
長義「刀工として後に出てきた長義(ながよし)も、相州伝に美を見出した先達にそのように言われたら喜ぶだろう」
兼光「よかった。ボクは後家兼光。どうぞよろしく」
長義「山姥切長義だ。そうか、上杉……いや、直江兼続の刀か。それはまた難儀だな」
兼光「……え?」
長義「すまない。俺も一言多かったようだ」

この終わり方マジなんなん? 長義くんは何を考えていて、ごっちんはこの後どう反応するんだろ?

と、いうのはここ一年の一番の謎でした。

この回想追加時、長義くんはなんとなく底が知れなくて怖いなあと漠然と感じたことを覚えております。

その理由がようやく判明したのが長義くんの極でそこに関する考察はすでにやりましたが、今回はさらに丁寧にこの回想141について考察し直したいと思います。

……要するに長義くんは、色々な場面で様々な発言で相手の真意を試しているんだなって。

前回の考察の結論は、長義くんは本当は何もかも否定したいのだろう、というものでした。

号も逸話も、刀工の傑作という評価も、それらに付随する数多の世間的な価値全てを。

だから初対面の後家兼光から、長義の刀として良きものであることを褒めたたえられても、素直に喜んだというような態度ではない。

あくまでも冷静に、そしてどこか他人行儀に。
備前伝と言う身内から声をかけられたことに、はしゃぐ後家兼光とは対照的に。

「刀工として後に出てきた長義(ながよし)も、相州伝に美を見出した先達にそのように言われたら喜ぶだろう」との言葉は、社交辞令だと感じます。

長義くん自身の喜びでも、長義くんが常に刀工のことを考えて発言しているというわけでもない。

ただ、それが社交辞令であっても、「作品を褒められたら、その生みの親は喜ぶ」「後に来たものが、先に在ったものに認められたら喜ぶ」という論旨をごく自然に持ち出してきたところに思うところはあるのですが……。

どちらにせよ長義くんはそういう常識的な思い遣りに満ちた言葉を知っていながら、自分自身は本当の意味ではそれらに価値を感じていないんだろうな、というのが前回の結論です。

だから後家兼光に褒められても、山姥切長義にはそれほど響いていない。

むしろそれらの憶測に満ちた評価を振り払いたい方であるから、同じような感覚で後家兼光の特性に繋がる、元主・直江兼続のことも「難儀」の一言で切って捨ててしまう。

ごっちんの最後の「……え?」が示すものは、二振りの価値観の乖離。

長義くん的には、どういう理屈かはともかくごっちんの「一言多い」が直江の刀故の特性だということに気づいたのではないかと思います。

なんで直江の刀だと「一言多い」のかは相変わらずよくわかりませんが(直江兼続は皮肉屋とかを端的にした言い方? どちらにしろ付会だろう)

逸話をある意味否定したい長義くんの感覚的には、直江兼続の刀における「一言多い」特性はただ「難儀」なものなんでしょう。

この時、もしもごっちんが、長義くんと同じような考え方の持ち主だったならば、回想の終わり方も違ったと思います。

ここで長義くんの「難儀だな」を肯定し、「そうだね本当に面倒だよ」とか「ボクも困ってるんだよね」とか、少しでも己の物語の特性に関する忌避、例えば南泉が猫の呪いを表する時のようなうんざり感を出して行けば、あるいはごっちんも長義くんにとって南泉と同じぐらいの立ち位置になったかもしれない。

しかし、そうはならなかった。

後家兼光は彼の元主・直江兼続を、純粋に愛しているから。

口ではいつも姫鶴に窘められる「一言多い」性質を己の欠点かのように語りながら、本当の意味で忌避してはいない。
むしろ、それも彼が愛する元主との縁によるものだと、肯定的に受け止めている。

だからこそ、回想141のごっちんの最後の台詞は「……え?」なんでしょう。

憶測も愛だと肯定的に受け止める後家兼光にとっては、刀が元主の性質に影響されることを、「難儀」と切り捨てられる状況は想定していないだろうから。

ごっちんが予想できなかったのは、長義くんによる否定。けれど逆に、山姥切長義にとってはその反応は想定範囲内。

あなたもそうなんだな、逸話を喜んで背負うタイプ……逸話を否定したい、自分とは違うのだなと瞬時に理解して謝罪する。

「すまない。俺も一言多かったようだ」

祝いか、呪いか、一言多いか。

後家兼光が、山姥切長義を見て刀工・長義の刀として褒めたことも。
山姥切長義が、後家兼光の名を聞いてその元主の逸話を否定したことも。

どちらも刀を縛る愛、呪いに左右されている。だからどちらも一言多い。

長義くんとごっちんは、価値観が正反対なのだろうなと思います。
ごっちんが褒めたたえる長義くん自身の華やかな強さ、刀工の傑作であるという事実も、ごっちんの愛する元主のことも、長義くんにとってはどうでもいいのだろうなと。

後家兼光にとっての「祝い」は、山姥切長義にとっては「呪い」でしかない。
だからどちらも「一言多い」。

この理屈、よく考えてみるとミュージカルの「花影ゆれる砥水」の鬼丸さんとの会話と同じだなと。

長義くんは鬼丸さんに対し、「鬼なんて伝説上の生き物だろう」と言い放つ。そして鬼丸さんから「ならば俺は何を斬ったんだろうな」と問われ、「すまない 今のは忘れてくれ」と謝罪する。

原作ゲームの回想141、ミュージカルの鬼丸国綱との会話、どちらも山姥切長義の主張は元主の特性を含む、目の前の刀の「逸話の否定」です。

多分長義くん自身が、本当は自分を戒める様々な、世間的な価値というものを否定したいのだろう。
だから、他者に対してもそのように接する。けれど本丸に集う多くの刀にとって、逸話は肯定するものであり、一部ならまだしもその刀の中核になりそうな話まで、堂々と否定してしまうものは珍しい。

――だから、誰も、山姥切長義を理解できない。

どこに行っても正当な評価を得ることができる気がしない。

修行手紙二通目のこの文言は、そういうことでしょう。

相手に正当な評価を下すには、相手を理解する必要がある。その実力、その働き。
多くの場合、評価を下す側にも相応の実力と公平性を求められる。

けれど人も、そして刀剣男士でさえも、自分のバイアスのかかった目で相手の事を見る。
上辺の言動やその華やかな姿に惑わされずに本質を掴める存在も、そうそういないのでしょう。

さて、長義くんの心当たりのある一人とやらは誰か、一体どこへ行ったのか。
号でも逸話でもないただ武器としての価値を求めに行ったのでしょうが、三通目最初の三行からすると、結局そこでも事実を再確認してきただけで、己の諦観を覆せるような心強い物語を見つけてきたわけではなさそう。

……まぁ、修行手紙の考察は以前の記事に任せて、今回はごけちょぎの話に戻りましょうか。

そんなわけで、回想141はまぁ以前から薄々そんな気はしていましたが、やはり山姥切長義と後家兼光の価値観の乖離の物語だと思います。

ごっちん側は「……え?」と困惑で終わっていますが、長義くん側からすると、やはりこの刀も俺と考えが違うんだな、とそれを確かめて終わったというところでしょう。

以前も確認しましたが、「無頼」は「頼みにするところがないこと」。

極で長義くんの基本的な考えを知った後でこの言葉を聞くと、なんとも言えぬ寂寞が漂います。

 

2.実装順と回想のなんとなくの関連

今回は刀剣男士の実装順、極順の関係で言えば、12月連隊戦で実装された「道誉一文字」と、2月のちよこ大作戦でほぼ確実に雲類が来ると予想される間の山姥切長義・極です。

つまり道誉一文字絡みの四つの回想の後に続く物語が、山姥切長義・極にまつわる諸々。

そこで考察でさんざん注目したのが、道誉一文字と亀甲貞宗の回想165です。

更に、亀甲くんだけではなく、姫鶴一文字、小竜景光も、これまでの考察でなんとなく長義くんと性格似てるよね、とある程度取り上げてきた男士たちだと思います。

姫鶴はおもに同じように後家兼光と回想がある関係、後家兼光と正反対の意見を持つ対称性から。
小竜景光は、本当に大切に想っているものの話を口にしない部分から、またメディアミックスでの関係性から。
亀甲貞宗もメディアミックスの方で山姥切長義とコンビを組んで行動したことがある。そして今回の長義極の内容は、回想165の亀甲のスタンスと同じと考えられることから。

道誉叔父絡みの回想4つ中その相手三振りと間接的な縁があるんですよね。

しかし、京極正宗とだけは何もない。

まあそりゃ刀の話をすれば刀工長義は正宗十哲ですが、そんな広い話をしたら正宗全員と正宗十哲全員呼んでこなきゃ……となるのでさすがにそこはとらないことにします。

むしろ、ここまで関係があるのならば、京極正宗とは別の視点での共通性があるのかもしれない。

小竜くんや亀甲くんはとっくの昔に極めているけれど、二振りとも回想は少なく、特に亀甲くんは今回が初めての回想追加のようです。

極めてからも情報は出る時は出るということで、しかも長義くんは道誉と言うよりその相手方の立場ですから、長義くんが京極くんの立場に立つ回想がそのうち追加されるのかもしれません。

会いたかった身内に、ここで会えるとは思わなかったと喜ぶ立場ですね。

……やっぱり六股長義かなぁ?

修行手紙で長義くんが自分を唯一無二の傑作と名乗ったの、六股が大戦で焼失したのを受けて会えると思っていないことが理由だとしたら納得行きますしね。

これまでも実装順とその時追加される回想、合間合間に追加される極との関連はなんとなくある前提で見てきましたが、やはり今後はこの点をもうちょっと追求していきたいです。

 

3.退くか踏み込むか、まだ誰も知らざる後家兼光の物語

回想141は、長義くん側から見ればごっちんも長義くんのことを理解できないといういつもの結果を確認して終わったようなものだと思います。

今の我々には基本的に、この物語の先を見ることはできません。何を考えても妄想です。

それでもあえて希望のある妄想をするのなら、ごっちんとの出会いとその結果は長義くんからすればいつもと同じ落胆を辿るだけのものだったとしても、ごっちんにとっては違う可能性があることです。

後家兼光にとって己の存在の大前提である直江兼続。彼との日々が良き物語であることをごっちんは疑うことがない。

けれど本当にそれが至高の物語なのかと言えばこちらにとっては疑問です。

この物語が一番愛しいなんて言うのは、比較対象あっての言葉であり、比較の前にはまず最初に手に入れたものの価値を疑う必要があります。

ごっちんにとって、直江兼続との縁を長義くんによって一度否定されたことが、どちらに転ぶかわかりません。

冗談交じりにとはいえ「愛の戦士」を自称するごっちんならば、一度元主への愛を否定されても捨てることなく、けれど自分が一度本能的に惹かれた相手、「強き良き刀」と評した長義側の想いも拒絶することなく、自分が最初に信じたものを、元主・直江兼続との絆も、山姥切長義の強さも、そのまま総て肯定することができるのかもしれません。

「ボクが今感じたことは、それそのまま本当だなって」

その結論を、できれば希望と共に持ち続けて欲しいものです。

 

……長義くんとごっちんを推す、ごけちょぎ推しの私の感想としては。

ごっちんは元主も上杉の刀たちも、自分の愛するものにただまっすぐ好意を寄せられるところが愛しくて。

長義くんは名前も傑作としての評価もぶん投げて来れるくらいの本質主義。それ故の公平さが時に辛辣な部分も含めて何より美しいと思います。

刀としての来歴や評価を知っていると長義くんの手紙二通目はオメーあれだけ人に評価されてる名刀なのに「どこに行っても正当な評価を得ることができる気がしない」とか言うんかこの贅沢物めーとか思いますが。

一方で、何処に行っても誰に会っても、この人は自分を理解してくれないんだな……という諦念を持ち続けるのはとても寂しいことだと思います。

まぁ公式は我々が各男士をどのように推しているかなんぞ考慮はまったくしていないでしょうが。

刀剣男士の極修行は、結論は以前と逆転していてもその子の価値観やスタンスは意外ともとから変わっていないことが多いと思います。

だから今回極めた長義くんはもちろん、これから様々な顔を見せてくれるはずのごっちんも、それぞれの良いところを変わらずに持ち続け、己と価値観の違う他者との衝突を繰り返しながらも、各々の信じる道を強く、そしてできれば楽しみながら歩み続けて行ってくれたらなと思います。
我々人間が自分の人生に対してそうであるように。

願わくばどんな刀剣男士も、彼らの歩むその先に光がありますように。

回想141で長義くんが、ごっちんの主に対してある意味否定的な見解を零したことは見逃せない。

けれどその否定が、山姥切長義にとってどんな意味があるのか、どんな想いが込められているのかを無視してはいけない。どういう真意だったのか、こちらも真剣に考えなくてはならない。

後家兼光の「一言多い」はただの欠点ではなく、そこにこそ彼と元主・直江兼続の歴史と絆があるのだから。
山姥切長義の「一言多い」はただの失言ではなく、そこにこそ彼の本当の想い、声高に訴えはせずとも確かに考え、願っていることがあるのだろうから。

念願の山姥切長義・極が実装されたことによって、やっとこの回想141にもこれまでの山姥切長義像から一貫してとれるその真意らしきものが見えて、正直今めっちゃ満足しております。

やはりごけちょぎは最高だろ……!! ごけちょぎ万歳!!

 

4.役者さんたちの演技の話とか

と言っても長義くんに関わる部分だけ軽く。

今回の結果からすると、回想141とミュージカル「花影ゆれる砥水」の鬼丸さんとの会話はもうちょっと関連付けて突っ込んで考えるべきだったかなと。そういえば会話の形式前半同じじゃねえかこれ……と今更気付いた。

あの部分(DMMの1年配信だと大体34分頃から)と原作ゲームの関連性が本当に強いなら長義くんが二通目で行った一人は銘を刻んだ堀川国広で確定してよさそうなもんだから気になる所ですが、今回の極の情報だとメディアミックスの方と連動性を感じるものの、断定はできない。
なのでそこは一度置いといて。

私の場合ごっちんが来てからミュージカルの方を見たはずなのでこれ気づいても良かったはずなんだけどな……と理由について考えたところ、役者さんたちの演技の違いかなあと。

回想141は初見でなんだろう……なんか長義くんが怖いな……この子は一体何を考えてこの発言をしたんだろうな……とこの一年間ずっと首を捻りながら考えていたんですが、一方で花影の方はそう考えたことないんですよね。

単純に長義くんは逸話とかあんまり気にしないタイプで、本刃が言った通り「化け物切りは強い刀の代名詞だ」が本音なのだろうなと。

今回の極修行の結論はまさにこれなので、脚本から抜き出した論旨は完全に原作ゲームと一致する場面だと見ていいと思います。

一方で解釈が分かれた部分は、原作ゲームの高梨さんの演技とミュージカルの水江さんの演技の違いが大きいかなと。

脚本の違いももちろん大きいですが、原作ゲームと舞台、ミュージカルの脚本に関してはむしろこれまで同一性の方を重視してきたので、差異に関しては当然あるものと受け止めはしたものの、同一性を示してくれたことの方が大きいです。

描かれていないものを理解する能力、出されていない要素を断片的な情報から推察して組み立てる作業には、対象への理解力をかなり要求されます。

花影のパンフレット読んだ限り、水江さんは長義くんみたいなタイプの性格をあんまり理解できないタイプのようなので、その辺が演技の違いに現れてるのかなーと。

高梨さんと梅津さんは言動を聞いたり性格的な評判を聞く限り、相手の発言の裏、本当に言いたいこと、相手と自分の関係性などを自分から物凄く考える方々のようです。

「山姥切長義」を演じるにあたって、表に出されることのない本心を意識した演技になっているのではないかと思います。

私は客観的に同一性を証明可能なシナリオの方を常に重視するので、役者さんたちの演技にはあまり言及しませんが、意外なところで差異を実感することになりました。

長義くんの性格を理屈として抜き出すには「花影ゆれる砥水」が一番なのですが、山姥切長義らしい山姥切長義を演じているのは梅津さんと水江さんのどちらかと言われれば、梅津さんの方だと感じます。

花影の鬼丸さんとの会話部分、水江さんの演技だと本当に口が滑っていらないこと言っちゃったな、みたいなただの失言と、それに対する真摯な反省っぽく感じられるのですが、今回の極修行を含む原作ゲームの情報を踏まえたら、むしろ長義くんは自分の言葉に相手がどう反応するかを注意深く観察しながら付き合い方を決めている節があります。

彼は審神者だけでなく、自分に接するもの総ての力量や真意を常に測っているのでしょう。
後家兼光だろうが鬼丸国綱だろうが、写しの山姥切国広だろうが同じことです。
あくまで測っているだけであり、傷つけるつもりはないので相手が動揺したらすぐ撤回しますが(対国広を除く)、相手の意見に迎合して自分を曲げるつもりもない。だからこそ孤独なのでしょう。

シナリオ的には花影のあの場面はただの失言じゃなく、もっと含みを感じさせる方が正解のような気はしますが……ただ、その辺の含みがなく、ただの失言を真摯に反省するシーンとなっているために、ミュージカルの山姥切長義は深みはないが嫌味もなく、万人に好かれやすい刃物像になっていると感じます。

これは全世界に推したい山姥切長義……。

回想141では長義くんはこの部分、ごっちんの反応もしっかりチェックしているんだろうなと感じますが、花影の長義くんが鬼丸さんにかけた「化け物切りは強い刀の代名詞だ だからあなたは強い刀なのだろうな」の台詞は、その裏の含みがないからこそ、相手への純粋な賞賛となっている。

逆に山姥切長義の底知れない部分をも魅力として味わいたいならば、梅津さんがメディアミックスという明確なシナリオを持つ一番わかりやすい形で見せてくれた慈伝の山姥切長義を推します。

勝てないのはわかっているのに何故、いつまでも一対一で国広に向かっていったのか。語られない本心にどんなものがあるのか。
南泉に「心を化物にするんじゃねえ」と否定されたのはどういう部分なのか、その難しさも含めて考えるなら断然慈伝です。
綺伝はあくまで慈伝を見てからその延長線上で考えるべき話かと。舞台は明確に大河ドラマのような続き物であることを宣言されているので(戯曲本の後書)。

今回の件でやっぱり梅津長義の方が水江長義よりは原作に近い山姥切長義なんだよなーと思いつつ、つまり長義くんの態度のどんな部分が見る者にどんな感情を与えるのかという、面白い分析を得られた気がします。

個人的にはやはりわかりやすさは正義なので、まだ一作もメディアミックスを見たことのない長義くんファンには水江さん出演の「花影ゆれる砥水」を見てから舞台に行く方を推します。

 

5.測られるもの

長義くんを嫌いだと言う人の中には、今回の極修行でも監査官としてこっちをずっと測ってたのがイヤ! というような意見を見かけることがあります。

それは確かに山姥切長義そのものの一端を理解した鋭い指摘ですね。

審神者でも誰でも相手の事を測っているのは確かだと思うので、他者を測るその態度自体がイヤだというタイプの人は当然、長義くんのことは嫌いでしょう。

山姥切問題絡みで、国広に優しくないからと理不尽に折られたり、逆に国広に優しい解釈をするために発言を都合よく受け取られるよりはずっといいと思います。

相手の事をまっすぐ見据えた正確な理解なしに、彼の求める正当な評価などありえない。

山姥切長義は、他の誰の為の物でもなく、山姥切長義なのですから。

まあ……これまでの態度に原作ゲーム内で一言で説明できるようなわかりやすい回答が与えられなかったことで、山姥切長義界隈がますます混沌としてきたのは事実ですが……。

これはもう、どうにもならない。

考察は比較による類似と相違の整理を繰り返して構造上の同一性を明らかにはしても、結局、その男士の物語の本当の答は、その男士自身の口から聞くしかない。

とはいえ、この先々も刀剣男士は実装されていくし、例えば回想56、57の山姥切国広の感情が初と極でいくらか変わったように、刀剣男士たちはこの先も成長し続けていくでしょう。

いつか山姥切長義がその諦念を揺るがし、心震わせるような相手と巡り合えるかもしれない。
ここで一度否定された後家兼光が、それでも否定と向き合って先に進むことを選ぶかもしれない。

エンドロールはまだはるか遠く。

我々もまた、見守りましょうか。