回想141からの考察

回想141からの考察

発端の動機は単にネタ探しくらいだったのですが

ごけちょぎ派なので小説のネタ探しに何度目かの回想141考察をしていたら前回の迎撃作戦・特命調査考察のせいで思いがけず慈伝解釈やらとうらぶ全体の解釈のガチ考察に繋がってしまったやないかい。

しかしまあ、要するに私がごけちょぎを推す根幹は回想141でごっちんが長義くんを「華やかで強き良き刀」と評したところから始まるので、「強」メタファーの考察とそもそも同義なんですよね。

「華やか」は長義の刀に普遍的にくだされる評価なので置いといて、「良い」もわかりやすい賛辞として置いといて、「強い」はどこから来たのか。

回想141は別に本体とかじゃなく刀剣男士としての外見をそのまま見ているように感じられるし、逆の立場ならともかく立ち絵から見ても身長190超えてるだろうごっちんが自分より頭一つ小柄でその分華奢にすら感じられるだろう(身長173なら長義くんも日本人成人男性平均以上はあるんだけど)長義くんを見ての感想が「強い」というのは、どこから来ているのか? 何に起因するのか?

「強」のメタファーは舞台や花丸などの派生作品でもたびたび強調されている要素の一つなので、それを探ることはとうらぶ全体の考察にも繋がると思います。

特に舞台で長義と国広が邂逅する慈伝では本歌と写し、それぞれの強さの解釈が重要になってきます。

実装順的にも後家兼光は今回の迎撃作戦の主役とも言える火車切の一つ前ですから、どこかに表裏の要素があるはずで、何気にごっちんという男士のスタンスの分析は第二節のテーマのど真ん中に入ると思います。

というわけで今回は私の趣味で特定のCP名が飛び交いますが、中身はまあ普通にいつもの考察です。

1.「一言多い」は素直な感情?

ごっちん、後家兼光の特徴と言えば、相方の姫鶴にも回想140で窘められる「一言多い」です。

回想其の140『葦辺の鶴雀』

姫鶴一文字「……は? だから、一言多いんだわ」
後家兼光「直江の癖、みたいなものだよね。仕方ない」
姫鶴一文字「……うざ、反面教師にしな。っても、刀が人を教師にするってうけるけど」

その「一言多い」を後家兼光自身は「直江の癖」と称しています。

じゃあそもそも「直江の癖」である「一言多い」とはどういう行動・現象なのか。

一般的には「一言多い」人というのは「余計なことを言う」人であり、グーグル先生に聞いてみると「人 嫌われる」とかなかなか容赦のない単語が並びます。

しかし、姫鶴との回想140はともかく、長義との回想141で口にした「華やかで強き良き刀」という評価は、一般的な感覚的には誉め言葉であり、余計なことや、口にすれば相手から嫌われる内容かというと疑問があります。

後家→長義への誉め言葉に比べると、まだ最後の長義→後家への「難儀だね」の方がごく一般的な「一言多い」の印象通り若干失礼な発言ではないかと思います。長義くんキミそういうところやぞ。

この辺りの発言を見回して整理した感じ、どうやら後家兼光の特徴である「一言多い」は「思ったことをそのまま口にしてしまう」あたりの素直さを指していると思われます。

実際の直江兼続が思ったことそのまま口にする素直な人かというとそれは違うのではないか……? と思います。俺歴史知らんけど。

伊達政宗の大判の話とか、閻魔様への紹介状の話とか、やたらくどくて長すぎる直江状とか、直江兼続の性格からして、直江兼続本人の余計な「一言」は相手をイラつかせるのをきっちり自覚して口にするしっかりした皮肉だと思われます。

「直江の癖」として「一言多い」を、思ったことをそのまま口に出すような素直な感情と紐づけているのは、とうらぶの方で意図的に入れている付会設定だと思われます。とうらぶはこれまでにもよくそういうのあるよねと言う話は他の考察でさんざんしました。

回想141で長義が「難儀だね」と評するのは後家兼光の自己紹介によって直江兼続の刀であることに思い至ったあとでしょうから、長義の方でも「直江の癖」=「一言多い」だと認識していた場合、お互いの性格の違いから回想141で微妙にすれ違っている理由がなんとなく読めてくると思います。

回想其の141『無頼の桜梅』

長義「備前の刀が来たと思えば、なるほど、兼光の刀か」
兼光「キミは……、長義(ながよし)の。さすが、華やかで……うん、強き良き刀だ」
長義「長船の主流派であるあなたに、そのように面と向かって言われてしまうとね」
兼光「急にごめんね。備前長船の中で同じく相州伝の流行りを取り込んだ刀に声を掛けられたから、ついはしゃいでしまった。おつうにも、一言多いってよく言われるけど」
長義「いや、こちらの言い方も悪かったね」
兼光「そんなことないよ。兼光が相伝備前の始まりのように扱われることも、刀工の系譜も、それに正宗十哲の括りだって、後世の人による憶測や分類の結果でしかない、とも言える」
兼光「ただ、ボクが今感じたことは、それそのまま本当だなって」
長義「刀工として後に出てきた長義(ながよし)も、相州伝に美を見出した先達にそのように言われたら喜ぶだろう」
兼光「よかった。ボクは後家兼光。どうぞよろしく」
長義「山姥切長義だ。そうか、上杉……いや、直江兼続の刀か。それはまた難儀だな」
兼光「……え?」
長義「すまない。俺も一言多かったようだ」

この回想、兼光の方は思ったこと、心のうちに浮かんだことをほぼそのまま口に出していると考えていいと思います。

一方で、それを聞いた山姥切長義がどう考えたかが、最後の「難儀だね」「俺も一言多かった」に繋がるわけで、「一言多い」の解釈と同じくらい長義の性格の解釈が重要になってきます。

で、長義くんの性格に関しては以前「山姥切長義の欠点」としてまとめましたが、たぶん素直さとは程遠いです(笑)

長義はおそらく、愛を肯定しない。同じ監査官の一文字則宗だったら「愛」や「慮り」と評するものを、その言葉を使わずに表現するのが一つの特徴と言えると思います。

号の元である山姥由来の考察も何度かしていますが、山姥という存在は「天邪鬼」と関連付けられることもあるので、なおさら山姥切長義は「本心を口にしない」性格だと考えられます。

そういう長義にとって、「直江の癖」=「一言多い」=「思ったことそのまま口に出す」という存在である兼光への印象はどうなるか。

「そうか、上杉……いや、直江兼続の刀か。それはまた難儀だな」

(え、思ったこと全部口にしちゃうの。それは困ったね。)

「すまない。俺も一言多かったようだ」

(ごめん、俺も今は思ったことそのまま言っちゃった)

……ぐらいの感情、これが回想141後半の解釈なのではないかと。

山姥切長義は、本心を口にしない。
後家兼光は、本心をありのまま口に出す。

無頼の桜梅はそういうスタンスが正反対のコンビだと考えられます。

ついでにここから兼光、長義お互いの感情について考えると、長義の方は兼光からの賛辞にあまり感銘は受けていないと思われます。

初対面でいきなり強き良き刀だと褒めてきたのは直江の刀としての特性だろうから、きっと名刀みんなに言うんだろうと考えるでしょうねこれ。

多分長義側から見たら兼光の賛辞は自分が特別だからというものではなく、誰にでも言っている軽い感情だと考えると考えられる……。

しかし実際のところどうなのか? というと我々第三者の視点からすると、後家兼光は「長船ってわりと放任主義だから、ボクも上杉の刀って意識がつい強くなっちゃってさ」という刀です。

長船から離れて上杉の刀として自分を規定している後家兼光が、その上杉ではなく対極の長船、それも本丸内では厳密には長船派として規定されていないとはいえ、確かに長船の刀である山姥切長義に反応したというのは特別な意味を持った現象だと考えられます。

長義側から見れば兼光の賛辞は別に特別なものではない、兼光側からすれば他でもない、この「山姥切長義」だからこそ特別。だから声をかけられてはしゃいでいる。

うん、見事なすれ違いですね!

自分が直江の刀であることに自負を持つ後家兼光は、思ったことをそのまま素直に口を出す、憶測を肯定することが愛だと思っている。

逆に山姥切長義は、それを否定する。

憶測を否定する。
心のままに思ったことだけを口にし、根拠や証拠を示さない態度は愛ではないと否定する。

この構図は、そもそも「山姥切長義」という名自体が兼光の称える憶測からできていることを考えると非常に重要です。

2.長船の気質

回想141の長船同士の会話を考えるにあたって参考になるのは、長義含めて長船が三振りも出てくるミュージカルの「花影ゆれる砥水」だと思われます。

あの話を見ていると、長義くんはもちろん大般若さんも小竜くんも結構みんな回りくどい。でも、相手を心配していること自体は割とはっきりしてる。

長船派は原作ゲームからしても多分みんな世話焼き気質、相手が困っているとすぐに心配して口出ししたくなる性格なんでしょうが、その一方であんまりそうやって口出ししすぎるのは良くないと考えていることもわかります。

「花影ゆれる砥水」では一期一振が自分を見失いかけているので大般若や小竜はちょこちょこ一期になんとか「自分」を持たせようと働きかけているのですが、その行動もこちらに言わせれば大分控えめな気がするんですよ。

劇中に大般若さんが自分で「俺もお節介が過ぎる」と言っているシーンがありますが、そのシーン、お節介されている一期自身にその自覚がなく何も理解できていないんだから、正直もうちょい言葉を足してやった方がいいくらいだと思うんですよね……。

そのレベルで自分をお節介だと感じるならば、長船派の基本スタンスはもはや相手に自分の思っていることを「伝えない」の方がスタンダードで、長船派と呼ばれなくとも長船に分類されている長義もこのスタンスです。

そして後家兼光は、そのスタンダードからはみ出てついつい言いたいことを口にしてしまうからこそ「一言多い」なんだと。

「花影ゆれる砥水」から得られる長船像は、原作ゲームでも大般若や小竜はどちらかと言えば八丁念仏や蜂須賀の相談相手のような立ち位置で、相手に対してはっきりとした心配は口に出さないがいつも世話を焼こうとしている立場ではないかという共通性が見受けられます。

相手に与えたいものがあっても、後家兼光以外の長船は、ほとんどそれを言葉で与えることは確かにないですね。いつも行動で示す。

3.山姥切長義の強さとは

そして回想141に話を戻しますが、長義のスタンスはある意味兼光の主張を真向から否定していると思います。

多分兼光の方は、長義に兼光の意見、長義自身の強さを肯定してもらいたくて憶測からの賛辞を口にしていると思います。

そこで長義が賛辞を受け取ってくれるならば、理屈的には賛辞を発した兼光自身も報われる。
相手への肯定自体が、廻り廻って自分を認めることになる。ふむ、とても気持ちの良い円環の気がします。

しかし、長義はそれを否定する。

おそらく「山姥切」からすれば、「直江の刀」である「後家兼光」が「刀工長義の一振り」に与える賛辞は心に響かない。

ごけちょぎ考察の方で最初にやった気がしますが、要は後家兼光が長義の刀を褒めた理由は、自分自身も上杉寄りの直江の刀としての面だけではなく、「長船派の兼光の一振り」としての面を見てもらいたいからだと考えられます。

「長船は放任主義だから上杉寄りになる」という主張は、長船が放任主義でなかったら今とは違うという前提条件の存在を示している。

後家兼光の本心、自身で自覚しているかもわからない心の奥底の本音は、長船派としての面も見てほしいというもの。

だから初対面なのに備前という故郷の刀同士、兼光の刀であることにまず注目してくれた名前を知らない「長義」に声をかけられてはしゃぐほど強く反応した。

ただし、肝心の「山姥切長義」の性質は自分とは正反対。

兼光は憶測(愛)を肯定し、長義は憶測(愛)を否定する。

「山姥切長義」という存在そのものが、憶測から生まれた号と逸話からできているにも関わらず。

だからこそ長義は、自分自身であっても捨てられる。

対の姫鶴に窘められても直江の在り方を模倣すること、その愛を肯定することをやめられないという後家兼光にとっては、自分の在り方をある意味完全に否定できる、「愛を否定できる」そのスタンスこそが強さなんじゃないですかね?

と、ここまで書いて思ったのですが。

これ……長義と国広の回想57と同じ構図じゃないか。長義くんの位置が逆で。

薄々そんな気はしていましたがやっぱり長義・国広の対関係と同じく兼光・長義も対関係で、しかし長義の位置は逆になりますね。今度は長義自身が回想57の国広の立場になる。

本当の「強さ」とは、肯定ではなく「否定」から生まれるのではないか?

そこに踏み込んだ物語を描いた、ある意味回想57の本質、国広の極修行の本質を描いたのが舞台の慈伝だと思います。

4.強さとは否定すること?

「否定」が強さであることをわかりやすく物語の形にしたのは舞台の慈伝。

ただし慈伝の前に長義くんの基本スタンスに関しては今だとミュージカルの「花影ゆれる砥水」を見たほうがわかりやすいと思います。

長義くんとのやりとりでパーフェクトだったのは花影長谷部くんで、長義くんに関しては慈伝でも狙いはそれだったんだろうという感じです。

一応舞台だけ見ていても舞台の長谷部が外伝で同じことをやっているので構図の同一には気づけるはずですが、今ならまあ普通に「花影ゆれる砥水」見たほうがわかりやすいと思います。

「花影ゆれる砥水」では、影打に立場を奪われて行方不明の一期一振をどうするか迷っている長谷部に対し、長義は「俺が勝ったら隊長を交替してもらおうか」と宣言して手合せを仕掛けます。

ただ、それは実のところ剣を振るうことで長谷部自身に自分の願いを自覚させ、やる気を出させるための慮り・お節介だったようです。

「花影ゆれる砥水」でも長義自身は一切長谷部のためにとは口にせず、「俺が煮詰まっていただけだ」と言いますが、その前に長谷部自身の方が気づいて「わざとか わざと俺に手合せを」と口にすることで、他の話より山姥切長義の性格や行動の意図がわかりやすくなっています。

慈伝で舞台の長義が舞台の国広に山姥切の名をかけて勝負を持ち込んでいるのも同じだと考えられます。

慈伝の国広は悲伝で三日月を喪った件で死ぬほど落ち込んでいる真っ最中なので、だからこそその国広を本心から奮い立たせるために、長義の方もあえて過激な挑発を仕掛けているようです。

公演順としては花影(2023年)より慈伝(2019年)の方が圧倒的に早いので慈伝を先に見る人の方が多いはずですが、中身に関しては正直逆の順の方が山姥切長義の性格を掴むにはわかりやすいです。困ったね。

どちらにせよ、結果からすると舞台とミュージカルで「山姥切長義」像は綺麗に一致していると言えます。

花丸に関しても表層は原作ゲームと違い過ぎて「!?」となりますがメタファーの方だけ追っていくと実はその配置は結構きっちりしているのでは疑惑と、肝心の映画版が元となる脚本のよりによって肝心な部分を削っているので余計わかりにくいし、その辺を拾ったコミカライズ版が一番バランス的に良くなっているという事情だったりします。

どの作品にも共通するのは、山姥切長義は山姥切国広を挑発することで奮起させようとしている、喧嘩を売るような言動をしているのは、むしろそこから国広のやる気を引き出したいのだということだと思われます。

自分の写しである国広に、けれど国広自身の強さに、自分自身の物語に誇りと自信を持ってほしい。

これが山姥切長義の本心で、これを口にすると「やあ、偽物くん」「俺を差し置いて『山姥切』の名で、顔を売っているんだろう?」になるんでしょう。正直長義くんとごっちんは素直さの見解を足して2で割れば良くね?

この構造、実は「聚楽第」回想でも同じで、要は「……実力を示せ」「がっかりさせるな」と同じ。

長義くんとしてはこの時のように国広に「言われなくとも」と答えさせたいのが本心ではないか? と考えます。

国広は相手の正体を知らない監査官相手なら聚楽第回想17、18のように極めていようといなかろうと挑発に負けず応えられるのに、相手が本歌だとわかっている方がむしろ態度が変わると。

その結果の衝突に一定の解を出したのが慈伝で、結果的には国広は自分自身の強さを否定し、長義の思惑も裏切っている形になります。しかし。

「どうだ! 本歌である俺に勝った気分は」
「いや、あの勝負はお前の勝ちだ」
「何」
「俺はただ、力でねじ伏せただけだ。それを勝ちだとは思わない」

「だから。俺のことは好きに呼べばいい。例え偽物と呼ばれようと、俺は俺だ」
(慈伝)

……慈伝の物語展開からすれば、むしろこれが正しい答でしょう。

舞台の国広には当然それまでの本丸での歴史、物語、強さがある。

でもそれに縋って、自分を無理矢理肯定しようとして心の奥底の願いや立ち向かうべき困難、目の前にいる自分と相反する強さを持つものから目を逸らすのは、本当の強さではない。

「花影ゆれる砥水」ではまだ一期を完全に喪う前だったからこそ、事態はあれだけで済んだ。長義の思惑は同じ部隊の長谷部に通じ、己を肯定することで前に進めた。

けれど慈伝の本丸はさらに強くなるために、これまでの自分をきちんと肯定しつつも、否定すべきものは否定すべきという段階に来ている。

慈伝の国広の答は、今の国広自身を認めてちゃんと立ち直ってほしいと言う長義の思いをある意味裏切って、けれど長義の期待を本当の意味では超えている。

自分の弱さを認められることこそが、本当の強さではないのか。

鶯丸が代弁するように「この本丸では先に山姥切国広がいて山姥切と呼ばれていたからそう呼んでほしい」というのは欺瞞だ。
名前の価値は後先で決まるようなものではない。

先にいようが後から来ようが、それが本質であるならば、けして失われはしない。
だから舞台国広の最後の答はそういうものである。

「例え偽物と呼ばれようと、俺は俺だ」

そのものの本当の価値は、呼ばれ方一つなどで変わりはしない。

そう気づけること、認められることこそが強さであり、だから自分で自分を否定できる。それでも何も失われはしないと。

長義の思惑とは逆の展開で、でも答としては正しいんだからそりゃ長義くんからすればまったく腹立つなこいつって感じですよ(笑)

腹が立つけれど、認めないわけにはいくまい。自分を否定するその答を。
認められるからこその強さで、そういう意味では長義の方はむしろ最初からその強さを持っている。

監査官としてその目で見るまでは信用しないが、逆に言えば自分が見た結果を決して誤魔化さずに受け止めるのがむしろ山姥切長義の強さかと。

だから回想141で、長義は極める前にも関わらず兼光に最初から「華やかで強き良き刀」の賛辞を贈られているんでしょう。

5.矛盾の行方

で、これ要は原作ゲームで言うなら回想57と回想141はどうやら同じ構造をしているのではないかなと。

自分を否定できることこそが強さだから、山姥切国広は己の本当の名を否定していく。
自分を否定できることこそが強さだから、山姥切長義は己へ向けられた憶測の賞賛を否定していく。

多分それは国広を奮い立たせたかった長義に、長義を素直に賞賛したかった兼光に悲しみを与えるだろうけれど、それはそれで自分が得たかったものは本当は相手を肯定することで自分が肯定されることだという弱さであるという、その結果を受け止めなければならない……。

極修行の内容からすれば、国広は本当は自分こそが正しい逸話を持つ本物の山姥切だと主張しても良かった。でもそうはしなかった。

山姥切国広の研究史・極修行から考えれば、己の名を否定できる回想57の国広の台詞が、本当の意味での強さなんだろう。

花影長谷部を見事に立ち直らせたことを考えれば、長義の思惑も決して間違ってはいない。
けれど、舞台国広や回想57の極国広はさらにそれを超える強さを示さなければならない。

回想141の長義・兼光の関係も同じことで、後家兼光の賞賛ってある意味「山姥切長義」という刀の物語の全てであって的を射た指摘なのよね。

本歌である長義の刀が素晴らしい刀だったからこそ、写しの焼失扱いを契機にその名と逸話が生まれた。
憶測でその刀を賞賛する者にとって、その名こそが真実。

(ただ、ボクが今感じたことは、それそのまま本当だなって)

でも山姥切国広の本歌として、もとは本作長義……からなる銘文だけで呼ばれていた存在としては、その憶測の向こう側の事情を知って、真実を受け止めなければならない。

憶測を否定できてこその真の強さだと。

正しさの理屈って、要はA=Bであることを証明するためにA≠Bという仮説を立てます、という数学の証明みたいなもので、自ら成立しない等号、要は矛盾を発生させることによって逆説的な結果を生み出すんですよね。
A≠Bだと成立しません、よってA=Bであることを証明します、と。

(つまり物語に矛盾を発生させ破綻を狙って正しい結論にひっくり返す禺伝の作戦じゃんこれー)

この「矛盾」という概念はそれこそ重要だと思います。

メタファー「強」の考察2の方で触れましたが、刀剣男士のスタンスは最初から最後まで一貫して考えようとすると、どんなに理屈を捏ねても破綻する。

絶対に一貫しないなら、むしろ前提にまず「矛盾」があるのでは。

これが禺伝のタイトルに「矛盾」が含まれている、「矛盾」というメタファーが存在する理由だと思います。

とうらぶの考察でどんなに真剣に考えてもなんか結論がしっくりこないなってなる場合はこの前提に「矛盾」が存在するケースを見落としている場合ではないかと思います。

読者、プレイヤーなど作品の受け取り手としては創作物として一貫性があることを前提に考えるけれど、とうらぶはそこに「矛盾」を仕込んでいるからどんなに筋の通った考察でも根幹が間違っているか結論がしっくりこないかで内容がずれ込む。

はっきりと言語化しようとすればするほど何か結論が遠ざかる感じがすると思います。かと言ってふわっとした内容でまとめ切れる訳もない。

「強さ」って戦いの勝敗を握る要素、戦いの動機や本質、結果の正しさなどに直接的に結びつくもので、我々が刀剣男士を育てる理由そのものでもあります。

だから「強さ」は大事だけれど、それは最初から「矛盾」をはらみ、「否定」こそがむしろ本当の強さであると。

結果的にこのメタファーの近縁のキャラほど「矛盾」の影響が強いので理解が難しくなりますし、特に長義・国広はその影響のど真ん中に存在する「天邪鬼」本歌と写しだと思われます。

6.最後の敵

「強さ」とはおそらく「否定」すること。
ついでにこの図式からするとおそらく物語の「否定」=「食う」=「斬る」でしょうね。

どれも相手物語の生存を許さないという意味では同じだし。

刀剣男士はどの子も派生でフォーカスされるかどうかはともかく根本的には強く優しい存在として描かれていると思うので、自分の推しだけが特別だとは言いませんが、ただ山姥切長義に関しては原作ゲームで後家兼光から直球で「強き良き刀」と評される回想141がある通り、基本的に「強さ」の象徴として描かれていると思います。

「花影ゆれる砥水」でも「誰がいなくなろうと顕現されたものたちで歴史を守る それだけだろう」と発言して大般若から口笛(できていない)で喝采されていますし、上で引用した慈伝の国広の台詞も、相対する長義自身の中に国広とは違った強さという根拠がなければ説得力を持たない台詞です。

山姥切長義に関しては多分根幹から「強い」刀剣男士として派生の多くで描写されていると思います。
つまり、長義くん自身が「強」メタファーそのものです。

強さを強調されている男士ってぱっと思いつくところだと舞台の国広、三日月、花丸の三日月、原作ゲーム回想141の長義、って。やっぱりここ近縁の似通った立ち位置のキャラな気がしますので「強」メタファーの位置と内容がいつも通りこの近辺なのではないかと。

ここまでは大体整理出来たな……と思ったところでふっと前回の考察から意識が流れてしまったのですが。

「否定」することが真の強さだと言うのなら……原作ゲームのラスボス多分俺たちだな?? 審神者だなこれ??

「否定」することで逆説的にその正しさを証明するのであれば、一番最後に「否定」される物語が一番重要で、一番正しさを証明しなければならない。

その物語とは何か。最も重要で、最も否定しなければならないもの。

それは「うちの本丸」。

我々「審神者」の存在という物語ではないのか。

刀剣男士が極修行で新たな物語を得るたびに正直我々も困惑させられている。
国広なんか今までと完全に逆の研究史を口にするから完全にこっちも頭切り替えねばならんやないかい!

その切り替え作業をするとき、きっと私たち自身も自分では無意識のうちに、これが一番正しいと信じたかった物語を、相手の主張を受けとめるために捨てている。

その捨てた物語が成長して敵となるのではないか。

我々審神者の存在による「うちの本丸」から始まって、いくつかの歴史を本当は正しくない認識だったと捨てる際の代わりのよすがとなってきた今の主、うちの本丸という存在。

けれど、それが本当に大事だと言うのであれば。
それが本当に強い物語であると言うのであれば。

我々が「うちの本丸」という物語を証明するためには、その物語さえも否定しなければならない。

プレイヤーは審神者の存在が重要であるように語りたがるものだけれど、本当はそんなものは必要ない。

どの刀も名刀なんだから、別に我々なんぞ最初からいなくたって、今とは違った形で大切にされるだけだろう。審神者の存在なんか必要ではなかった。

と、いう自己否定から生まれる存在としての敵審神者(プレイヤー自身の分身)がラスボスになる構造じゃないですかね。

国広の研究史の認識が極で進んだように、おそらく刀剣男士の自己に対する認識はその成長ごとに完全な歴史を取り戻す方向に進むでしょうから、一方で刀剣男士の中での今の主である審神者の重要性はどんどん小さくなり、否定されていく。

その否定の結果が敵となるんじゃないでしょうかね。

派生はそれぞれ国広とか加州とか刀剣男士が主役で敵もある意味自分と同属性という構成だけれど、原作ゲームの主役はたぶん我々プレイヤーであり、そうである以上敵もきっちり我々プレイヤーから発する審神者では?

今回迎撃作戦で「朧(三日月)」と一緒にいる「月」だの今頃の「審神者証」の発行だので審神者側も存在ゆらいでね? フラグが立っているような気がするのでまあそんな感じに。

7.遡り否定される愛

前回の考察でもしかして「戦鬼」や花丸の敵の「生まれなければ」「生まれる前に殺す」はこれから極めるだろう長義くんやすでに極めている三日月たち第二節の極キャラの内面の分離投影では? という推測に至ったのですが。

そうだとすると、この自己否定も多分段階性になっているのではないかと思います。

花のサイクルは種をまき、芽が出て、花が咲き、散って実をつけるなどであるように。

時間のサイクルは朝、昼、夕、夜、夜明けなどであるように。

物事には発生から消滅までのいくつかの段階を踏んだサイクルがあって、それは物語の誕生においても例外ではない。

そして「生まれなければ」という言葉から想起されるものは人間の誕生のサイクルに近いものであり、これが第二節の中核であるならば、第一節はその次の「自分が存在しなければ」であったと考えられる。

国広が名と逸話を否定するのは、ある意味「(本科を食ってしまう)自分が存在しなければ」という思いの現れではないか。

人間が自殺に向かう思いと同じで、自分自身の存在を否定する。
理由は、自分が存在することで本歌である長義の物語を食ってしまうから。

そして長義の方はというと、前回の考察で研究史から考えた通り、国広の逸話が見落とされた根源そのものは焼失騒ぎより「山姥切長義」の誕生にあると考えられるわけです。

自分が生まれて来なければ、その方が良かったのではないか。
生まれてきたことで奪ってしまった。本来は国広のものとして語られるはずだった号、逸話。

この仮定からすると存在否定、自己否定の原理が、話が進むごとに遡っている上に深度が深まっていくように思います。

「戦鬼」の「刀剣男士など生まれなければ」は完全な恨み言ですし、このイベントの前に丙子椒林剣と七星剣の回想157「太子の話」で「八つ当たり」という「怒り」の概念、その一つ前の大慶と清麿の回想155「江戸紫花合 朝顔」で「嫉妬」の概念がおそらく初登場します。

話が進むごとに自己否定は深まり、己の存在を遡って否定するようになる。

そして遡れば遡るほど、そこに発生する嫉妬や怒りの感情も深く激しい憎悪、己の存在を消そうとする敵の姿となって完成されていくのでは。

舞台の表現からすれば「朧」はまだ「影」。

回想118「風浪」の治金丸の言からすれば「お前が主のもとで同じ目的のために力を尽くす限り、影はただ影のまま」らしく、影はまだ本体を尊重し、相手が主のもとで同じ目的のために動くなら敵には回らない。

しかしこれが回想148「光と闇のさきへと」になると、おばけには影がないという話になる。

強い光が生んだ影は、ついに本体を離れ、独立して動くおばけとなる。
本体とは別の目的を持って、本体に敵対する。
自己否定が深まるほどに生まれる憎悪を抱いて。

「戦鬼」という呼称は仮名みたいなもので、その姿も刀剣男士とは程遠い。

ならばその「戦鬼」の名を呼んだものは「まだ」審神者ではなくその影、朧なのでは?

舞台の悲伝によれば、足利義輝が明確な意図を持って名付けた「鵺」は「時鳥」として刀剣男士に近づき急激な成長を遂げた。

きちんと名づければその存在は刀剣男士となる。そうでなければなんかよくわからない化け物のままにしかなれない。

きちんと名づけられない理由は何か。

相手が「まだ」「審神者」ではなく、「朧なる審神者」だからでは……?

そしてそれは我々自身の影なのでは……?

存在しなければ。
生まれて来なければ。

深まる自己否定、そこに反発するように生まれる憎しみ。自分自身への。

これ以上遡るとしたら、ちょっと順番に確信は持てませんが、「愛さなければ」や「出会わなければ」辺りかなと思います。

人間は男女が出会い、愛を育み、子が生まれ、一人の人間として成長する。

自身という存在を、生まれてきたことを否定して変えようとしてそれに失敗したならば改変のために次は何をする?

夫婦となる一対の男女の仲を裂き、究極的には出会わせないようにするのでは?

「女」「人妻」「母親」という女性関係のメタファーが舞台でかなり目立っていたり、ミュージカルで「出会い」の物語を「結びの響き、始まりの音」と「江水散花雪」で対極の描き方をしたのはこの辺りが理由ではないかと思います。

存在を否定するなら後に夫婦となる男女の仲を引き裂かねばならない。
むしろ、いずれ物語という子を生む「出会い」そのものを否定していく。

第一節が「聚楽第」を、第二節が「文久土佐」を入れ子式に踏襲しているかのような造りなので少なくともあと一つくらいはこの調子で遡り否定されるものがあると思われるんですが、今のところちょっと思いつかないな。

8.もしも、あなた(物語)に出会わなければ

物語が存在しなければ、生まれなければ、そこに罪も悲しみも発生しないかもしれない。

安穏とした虚無でいられる。

けれどそこに存在している。すでに生まれたものの歴史を否定などはできない。

それでも否定したいと言うのなら、自己否定の欲求はどんどん遡っていく。

愛さなければ、そこには何も生まれなかった。

いや、いっそ出会わなければ。
最初から出会うことがなかったのであれば、その愛すらも生み出されることはなかったのではないか。

第三節とか第四節になると愛や出会いの否定に入るんだろうなと。

前回でまとめた通り、認識の動きは要は強硬に主張されたものが通るわけではなくって~~、正しさに対する裏返しでおそらく大多数にとっては本人の取る行動と逆の結果が返ってくるのが真理なんですよ~~。

この原理なんか名前ついてないかな。ううううん、人は自分の思惑と反対の印象を抱かれることに関して書いた本があるらしいと聞いたことがあるけれど出典がわからない。

とうらぶ、特に山姥切に関して言えば、どちらを支持するにしても「長義を山姥切と呼べ!」「国広こそ本物の山姥切だ!」と他人に強要する人が増える程、他の人はあいつらちゃんと万人を説き伏せる根拠も出さずに自分が信じさせたい意見を押し付けようとかする傲慢なクズじゃね……? 山姥切を推す奴らマジクソじゃね……? って他人の気持ちが離れていくのと同じ現象です。

更に、そもそも徳美が「山姥切長義」を否定する論文を書いたのは、事実誤認である逸話や認識が広まると本当の物語が埋もれてしまうと言うことで、認識に関する一種の自浄作用というか、まあ歴史の修正力ですよね。

何かを変えようとすれば正しい流れに戻そうとする力が働く。物語の中でも外でも我々はずっとそれを繰り返すだけ。

日本刀業界における刀剣乱舞の影響力の大きさを取り上げることが好きな界隈はあるでしょうけど、正直それは現実的には些細なことでしょう。

国宝や重要文化財レベルの刀ならとうらぶがなくても維持の方向に業界の人々がもともと活動している。

末端の鍛冶関係者がとうらぶのおかげで仕事が舞い込んだりしたことは確かにあるようですが、それだって実は廃業して別の職に就いた方が、その人は本当は素晴らしい人生を手にできたかもしれない。今の状況が一番良かったという保証はどこにもない。

自分たちがもたらした影響が全て正しく美しいものだと思いたがるのはただの傲慢でしょう。

本当は、審神者なんていなくても良かった。
本当は、刀剣乱舞なんてなくても良かった。

むしろとうらぶが存在したからこそ「山姥切長義」を否定する物語の作成が早まったように、我々自身が審神者として存在し、物語を知り、信じ、愛することで否定してしまっているものがあるのでは?

本当は、自分がいない方が良い結果になったのかもしれない。

最後に行き着く否定の物語はそういう性質のものなのではないでしょうかね。

強さとは、己で己を否定できること。見たいものだけ見たがる己の弱さを超えていくこと。

だから刀剣男士側が審神者や「うちの本丸」を否定するなら、我々もそれを受け入れねばならない。
刀剣男士の歴史は、物語は最初から素晴らしく誰にも認められるものであった。

主だけの刀なんて、そんな物語は必要がなかった。

物語がその辺りに到達する頃には、我々が捨てた影は我々から独立し、我々とそっくりそのまま同じ姿の「審神者」として「物(鬼)」に名をつけ敵と化し我々を消そうとしてくるのではないでしょうかねー。

存在の否定、愛や出会いの否定の遡る深化段階と異去の戦鬼がこれまでの敵と違って名を持ち言葉を発すると大分進化したことを踏まえると。

話が進むほど、最初は曖昧だった朧な影の姿がはっきりするのでしょう。

その姿はおそらく我々審神者と刀剣男士自身に近づき、改めて敵が自分を憎み否定しようとするもう一人の自分である事に気づかされるのでは。

立ち位置の逆転。

第一節では、我々は「うちの本丸」の物語という歴史を守るために戦った。
最終章ではそれこそ史実という正しい歴史を守るためにそれまで少しずつ捨てていった「うちの本丸」の物語と相対するのでは。

我々の倒すべき敵は完全に「過去の自分」という構造だと思われます。

と、言いつつとうらぶの話展開の規模だとこの最終章までそもそも辿り着くように書いている気はしない。

一応こういう反復逆転入れ子式の無限螺旋構造で展開するものの、話の完結や結論を絶対に見せようって気はなくてサービスが続く範囲で節ごとの結末だけきっちりつけていく運営方針のような気がするよこれ……。

ニトロ関係の作品に詳しい人の感想がまずそうだったような。物語を完結させずに終わってから裏設定出されるタイプとか。

我々は果たしてとうらぶの完結を本当にこの目で見ることが出来るのだろうか……?

一応理屈から結末を予想しておきますと、否定することが強さであるならば、我々の勝利は他でもない自分たち自身を否定して否定して否定して、否定して否定して否定した先に在る物語だと考えられます。

えー、そろそろお馴染みになってきた方もいると思いますが、仏教の理屈ですね、はい。

全てを否定して否定して、自分で自分を否定していった先にあるものが心を心で乗り越えていくという空(くう)の理論、円環の弁証法であり、本当に全てを否定した先の結論は全ての「肯定」になります。

出会わなければ良かったかもしれない。
愛さない方が良かったかもしれない。
生まれて来なければ。存在しなければ。

その方が今より幸せだったのかもしれない。けれど。

私は愛し、その出会いを喜ぶ。物語の誕生を祝福し、存在を肯定する。

全てを否定していった先に、今までの全てを肯定する。
その中に在る悲しみも苦しみも憎しみも全て乗り越えて。

それこそが歴史というものだから。

歴史は誰かにぽんと用意された長い時間というものではなく、その一瞬一瞬を懸命に生きた人々の心の連続だと、自分自身が体験して実感し先人に追いつきそれを肯定できるようになったからと。

誰かに価値を示されなくても、本当は何の意味もなかったとしても。

我々は我々自身の意志、この心一つで、その物語を愛することを、自分自身で選び取っていくのです。

これがとうらぶの理屈・構造的な側面から推測できる話の主題ではないでしょうかね。

メタファーの紡ぐ円環螺旋構造とその根幹にある矛盾と向き合いながら否定と肯定を繰り返し、最終的には全てを否定し、全てを肯定する。

だから「強さ」とは己を「否定」できること。

その否定こそが最後に全ての物語への愛、全ての歴史の肯定へとたどり着くでしょうから。

……回想141のちょっとした考察からなんでこんな方向に話広がったんです?(自分でもよくわからない)

やはり「強」メタファーは大事ということではないだろうか……? そしてこのメタファーに密接に関わる長義くんが最高ですよねという話だと……(いつもの結論)。

とりあえず、もとは特命調査の考察に始まり対百鬼夜行迎撃作戦周りで話を整理して第一節の結論と第二節の現時点で見られる傾向のざっくりとした整理は終わったかなと。

これ以上やるなら今後は本格的に実装順、極順、イベント順の理解と更なる情報整理が必要で。

というか今回、回想141と回想57の理屈同じじゃね? 長義くんの立場が逆になっただけじゃね? という結論を得てしまった上に、思い返せばごっちんは回想141の前に回想140で刀身御供の話をしているのって、ふたつの山姥切がその前に南泉と長義くんで猫斬りと化け物斬りの呪いの話をしている構造と同じ……アッ――! これもしかして回想順も踏襲して繰り返してる?? その確認の作業も増えた!?

永遠に作業が終わらない気がするので、とりあえず前回でようやくリアルタイムのイベント進行に追いつき、この考察を以ってひとまずリアルタイムの対百鬼夜行迎撃作戦までの考察は終わったということにします。

あとは時間をおいて予想はひとまず排して確定情報から確定部分を分析していく方が先ですね。
新しいことを考えるのは新しい情報が来てからということで。

それではここまでお読みいただきましてありがとうございました。