回想177~180について軽く確認する

2025年9月9日、倶利伽羅江関連の回想が四つ追加

回想全文載せてしまっていますので、時期的にまだ入手していない方はネタバレにお気を付けください。
メディアミックスの話バンバン出ます。

 

1.回想177

其の177『星の索(さく)を編んで』(篭手切江、倶利伽羅江)

倶利伽羅江「江は歌って踊れる付喪神……って、言い出したの、あんたって聞いたんだけど」
篭手切江「ああ、私は篭手切江。新しい江の仲間、倶利伽羅江だね。君も一緒に」
倶利伽羅江「ははっ、それは趣味が悪すぎる」
篭手切江「倶利伽羅江……」
倶利伽羅江「歌ったり、踊ったり、俺が? するはずがないでしょ」
倶利伽羅江「……俺はこれ以上、目を付けられたくないんだ」
篭手切江「確かに君が背負うものは重く、根も深い……」
篭手切江「……でも、だからこそ、君が欲しい」
倶利伽羅江「話、聞いてる?」
篭手切江「聞いてるとも」
倶利伽羅江「俺のためとか、恩着せがましい話がしたいの?」
篭手切江「……違うよ。君のためじゃない」
篭手切江「私と君は、江であるという以外にも、稲葉と細川と明智の縁がある。だからといって、いや……、そうであっても、私は君の救いになることはない」
倶利伽羅江「……」
篭手切江「だから、これはまったくの私利……」
篭手切江「……私が見てみたくなってしまったんだ。新たな江の時代を」
倶利伽羅江「せんぱい……。それは、本当に、悪趣味がすぎる」
篭手切江「君のように地に足を付けるための、重石が必要なんだと思う」
倶利伽羅江「灰混じりの腐った井戸の底から、足を掴んでろって?」
篭手切江「だから、一緒に……やろう」
倶利伽羅江「……目立つことはしたくない」

今気づいたけど、篭手切江と豊前江の回想って「ふたつの山姥切」の次で、しかも「すていじあくと」シリーズはここからなのか。

長義くん登場は特命調査開始で第一節の真ん中の物語だと思います。
そして私は第二節も「童子切安綱 剥落」登場が真ん中の物語ではないかと思います。

その童子切の次に実装された倶利伽羅江は、すていじあくとシリーズとはまた別の回想を持ってきたと。

江の回想は篭手切と歌仙、平野の回想49、50から篭手切江がアイドルを目指していることが示唆され、豊前江との回想58から「すていじあくと」シリーズが始まり、江の刀たちをどんどん仲間に加えていきます。

そして富田江の顕現をもって篭手切江の意図が語られる回想146『ばっくすていじ』でとりあえず一区切りってことですかね?

篭手切江が歌い踊る付喪神を目指したのは、「江とお化けは見たことがない」と語られる基本無銘の江の刀を「もっと確かで強い存在に……」という思惑からだったそうです(回想146)。

篭手切江は星を目指し、そして富田江から「星を掴んでしまった」のだと言われている。
そして今回篭手切江と倶利伽羅江の回想タイトルは『星の索(さく)を編んで』

「索」は縄や綱のことで、他に「もとめる。さがす。」(索引や思索)、「ちる。はなれる。ものさびしい」という意味があるそうです。

篭手切江にとって掴んだ星の光を、今度は誰かを繋ぎとめる縄へと。
倶利伽羅江は江の刀が地に足を付けるための重石の役目だそうですが、篭手切としては倶利伽羅江にもアイドルをやってほしいようですね。

この回想では一応お断りの姿勢を見せた倶利伽羅江が最終的にどうするのかはひとまず置いておいて、と。

縁があっても救いにはならないという話をしながら、星の索の話をする。

全体として何の話をしているのかはいまいち不透明なところが多いですが、印象としては縁は利他、人を救うものに近い、けれど篭手切江と倶利伽羅江の関係性では救いはならないという大前提の話をして。

その上で篭手切江の私利、新たな江の時代を見たいので一緒にアイドルをやってくれと倶利伽羅江に持ちかけている話かと思います。

文脈とニュアンス的には

「江の刀が地に足を付けるための重石」=倶利伽羅江

に見えます。

「星の索」は篭手切江が倶利伽羅江を引き込む意志のことなのか、
=重石で倶利伽羅江自身なのか、
あるいはアイドルチーム江に倶利伽羅江がinした姿が星の索なのか

篭手切江の論調的に「私利」こそが「星の索」かなあって気はしますが。
だからまずその「星」がなんだと。

まだちょっと回想読んだばかりでこっちの考えも整理されていませんね。

(というか最近の考察の結論的に、回想の大体の真意が判明するのは別の刀の実装で情報が補足されたときな気がする)

倶利伽羅江が何故地に足を付けるための重石なのかは、研究史からすると「在銘」だからではないかと思います。

今回のキャラクター説明にはその辺の記述がないんですが、『日本刀大百科事典』によると倶利伽羅江は在銘らしいので。

郷義弘の刀が「江とお化けは見たことがない」と言われるのは、現存するものが全て無銘で、在銘の刀が一切ないから。
しかし古剣書の記述によれば倶利伽羅江と呼ばれていた在銘の短刀があると。

篭手切江が回想146で明かした歌って踊る理由に、「江とお化けは見たことがない」と呼ばれることがあります。
無銘だからこそお化け、地に足の付いていない存在扱いだとされるなら、現存こそしないものの在銘だという倶利伽羅江だけは、地に足が付いている存在だと言われるのもおかしくはないような気がします。

その倶利伽羅江が、自分をアイドルチームに加える発想を「悪趣味」だと言っているのが気にかかりますね。

いの一番に一緒にと誘われた時と、最後に新しい時代を見たくなったと言われてそれぞれ「趣味が悪い「悪趣味」と返しています。

ここを考えると、「星の索を編む」ことはアイドルチーム江に倶利伽羅江を率いれることそのもののような気がします。

今考えられるのはとりあえずここまでで。

 

2.回想178

其の178『蠍火(さそりのひ)』(松井江、倶利伽羅江、3-3織豊の記憶・越前)

松井江「信長公の戦いは実に鮮やかだと思わないかい?」
倶利伽羅江「それ、俺に言う話じゃなくない? それとも、試されてる?」
松井江「ただの雑談だよ。戦は事前にどれだけ準備をしてきたかがものをいう。信長公は敏感で小心者、故に用意周到だ。石を積み上げられるだけ積み上げて、最後に突き倒す」
倶利伽羅江「局地的に見れば負け戦ばかりなのに、最後に笑ってるのは信長公だ」
松井江「ああ、魔王とはよく喩えたものだ」
松井江「どれ程の血を浴びれば……」
倶利伽羅江「……覚悟なんてないんじゃない? 松井くんが言ったよ、信長公は敏感で小心者だって」
倶利伽羅江「俺らは、戦を止められない理由を行動から求めるには、そこに至る人間を知りすぎてる。そして、その末路も」
松井江「……山が燃える」
倶利伽羅江「うん。実に鮮やかだ」
倶利伽羅江「この光景を表する言葉を、俺も他に持ち合わせてない」

 

内容的には松井江と倶利伽羅江が織田信長という人物について話しているだけです。
……だけなんですが、これが何故『蠍火(さそりのひ)』なのか。

寡聞にして「さそりの火」といわれると宮沢賢治の『銀河鉄道の夜』しか思い浮かばないんですけども、関係あるかなあと一応それらしき部分をチェック。

宮沢賢治 『銀河鉄道の夜』
青空文庫にすでに全文載っているのでリンク貼らせてもらいます。

「そうよ。だけどいい虫だわ、お父さん斯う云ったのよ。むかしのバルドラの野原に一ぴきの蝎がいて小さな虫やなんか殺してたべて生きていたんですって。するとある日いたちに見附かって食べられそうになったんですって。さそりは一生けん命遁げて遁げたけどとうとういたちに押えられそうになったわ、そのときいきなり前に井戸があってその中に落ちてしまったわ、もうどうしてもあがられないでさそりは溺れはじめたのよ。そのときさそりは斯う云ってお祈りしたというの、
ああ、わたしはいままでいくつのものの命をとったかわからない、そしてその私がこんどいたちにとられようとしたときはあんなに一生けん命にげた。それでもとうとうこんなになってしまった。ああなんにもあてにならない。どうしてわたしはわたしのからだをだまっていたちに呉れてやらなかったろう。そしたらいたちも一日生きのびたろうに。どうか神さま。私の心をごらん下さい。こんなにむなしく命をすてずどうかこの次にはまことのみんなの幸のために私のからだをおつかい下さい。って云ったというの。そしたらいつか蝎はじぶんのからだがまっ赤なうつくしい火になって燃えてよるのやみを照らしているのを見たって。いまでも燃えてるってお父さん仰ったわ。ほんとうにあの火それだわ。」

うううううん。なーんかそこはかとなく関係ありそうだよねぇ。

『銀河鉄道の夜』に登場する蠍というのは、自分が小さな虫たちを「食べる側」だった時は何も考えていなかったわけですよ。
けれどイタチの登場で、自分が「食べられる側」になってしまったので必死に逃げた。
自分の命を惜しんだ蠍はそのせいで、井戸に落ちて溺れてしまう。
その時に、後悔した。どうして黙ってイタチに食われてやらなかったのか。この体を与えればイタチも一日生き延びただろうに、と。
そして神に、どうかこの次にはこんなに虚しく命を捨てず、まことのみんなの幸いのためにこの体を使ってほしいと祈る。

そうしたら蠍はいつか自分の体が、真赤な美しい火になって燃えて夜の闇を照らしているのを見たと……。

信長が蠍……蠍? というのがどこかしっくり来ない感じがしますが、ここで松井と倶利伽羅江は信長を「小心者」と評しているので蠍なのかもしれない。

織田信長は自分が勝っている時は良かったが、明智光秀に裏切られて本能寺で腹を切った(死体を光秀には渡さなかった)ことを重ねて考えるとか?

この回想の舞台は織豊の記憶の越前ですから、内容としては越前の一向一揆に関するものなのでしょうかね?

松井江の元の主はこれも一つの一揆である島原の乱に絡めて語られますし、二振りは越前の一向一揆と織田信長の戦いを眺めながらこの会話をしているのかもしれません。

山が燃えているという発言を考えると、追い詰められた一揆衆が焼かれているのか。

研究史的な話で言えば、倶利伽羅江は『川角太閤記』的には朝倉氏の所有らしいです。
越前の国が破られ朝倉氏が滅びた際に明智光秀の手に渡ったと。

越前は倶利伽羅江に関しては因縁深い土地と言えます。

松井江の所持者として最初に名の上がる松井康之は、織田信長に仕えていた時代があるそうです。
後には細川藤孝・忠興親子の家臣になります。

松井康之の息子、松井興長が島原の乱の鎮圧に参加しています。

両方にそこはかとなく関係ある土地での回想になります。

 

3.回想179

其の179『本丸からの百韻』(古今伝授の太刀、倶利伽羅江)
……其の90を回収済、先の刀剣男士を編成し出陣

回想90は歌仙兼定と古今伝授の太刀の『本丸という歌集』

古今伝授の太刀「ひとりでいると、鬼に惹かれてしまいますよ」
倶利伽羅江「望むところだよ」
古今伝授の太刀「縁(よすが)は縒りてこそ」
倶利伽羅江「俺の寄る辺なんて、どこにもない」
古今伝授の太刀「おやまあ……」
古今伝授の太刀「逢うと見て かさぬる袖の 移り香の 残らぬにこそ 夢と知りぬる」
倶利伽羅江「……、俺に、会いたかったってこと?」
古今伝授の太刀「ああ、やはり。あなたも歌心がある」
古今伝授の太刀「これは、あなたが失われた後、苦難の中におられた、ガラシャ……玉子様がお詠みになった歌」
倶利伽羅江「姫様の、歌」
古今伝授の太刀「ええ。とても平穏とはいえない人生せあったけれど。だからこそ、豊かな歌を詠まれた」
倶利伽羅江「そうか、あの後、姫様は」
古今伝授の太刀「少し安堵しました」
倶利伽羅江「え?」
古今伝授の太刀「明智の刀が苛まれる心の内は、わたくしもよく知るところ。されど、それでも。己の足で進まねばならない」
古今伝授の太刀「それが生きるということだと、玉子様のお姿を思い出します」
倶利伽羅江「……」
古今伝授の太刀「……歌を詠みなさい、倶利伽羅江」
古今伝授の太刀「歌は光です。光が届かぬ暗闇の中にあっても、その心を照らす。心を見つけ、届けてくれます」
倶利伽羅江「古今……」
古今伝授の太刀「はあっ」
倶利伽羅江「!? え、な、な、古今! 古今!?」
古今伝授の太刀「あらら……、うっかり。足が滑ってしまいました」
古今伝授の太刀「山を我が たのしむ身には あらねども ただ静けさを たよりにぞ住む」
倶利伽羅江「こういうときに詠む歌が、それなの?」
(倶利伽羅江が古今伝授の太刀を引き上げる)
古今伝授の太刀「ふふ。こういうときだからこそ。……だって、ほら。あなたには届いた」

玉子様こと細川ガラシャ様の歌
「逢うと見て かさぬる袖の 移り香の 残らぬにこそ 夢と知りぬる」

ぐぐったところこれは味土野に幽閉されていたころの歌だそうですね。

夢で夫の忠興に会ったけれど、袖に移り香すら残っていなかったから、やはり夢だったのですね。
ぐらいの意味だそうで。

ただここでは倶利伽羅江の解釈を古今が褒めているのでそのままそれで採用してよさそうです。
シンプルにただ一言。

あなたに会いたかった。

そこからは怒濤の古今伝授の太刀のターン。
倶利伽羅江は苦悩しているけれど、それでも己の足で歩まねばならない。それが生きるということだと。
そして暗闇の中で迷う心を見つけ、心を照らすためには、光となる歌を詠めと。

最後の歌は古今伝授の太刀自身の元主・細川幽斎の歌だそうです。

「山を我が たのしむ身には あらねども ただ静けさを たよりにぞ済む」

私は山を楽しむような身の上ではないけれど、ただ静けさを頼りに山に住むのである。

足が滑ってずっこけたらしき古今さんを倶利伽羅江が助けていますが……。

「自分の足で進まねばならない」って会話の直後の「足滑らせちゃった」はどうなんでしょうねこれ。
そしてその時に詠む歌がこれか……。うーん。

倶利伽羅江の回想に山が出てくるのはこれで二つ目です。
松井江との回想178でも、山が燃えるという会話している。

もともと倶利伽羅江の逸話、『川角太閤記』にはこういう文言が出てきます。

「光秀命もろともと內々秘藏被仕候間我等腰に指日向守にしでの山にて相渡可申ためたり」

(主たる光秀が秘蔵するほど大切にしていた刀なので、私が腰に差して、死出の山にてお渡しします)

この回想179の山がどういうものかはともかく、倶利伽羅江に関してはこの坂本城陥落の際の秀満(明智左馬之助)の自害の台詞によって、死出の山と強く結びついています。

この刀は秀満から光秀へ、死出の山で渡されるべき刀だと。

「山」が何かわからないとここの部分にまだピンと来ないと思います。

とりあえず今は見える範囲の台詞通りに考えましょうか。

自分の足で進まねばならないのは倶利伽羅江で、古今自身はちょっと違う立ち位置っぽい感じがします。

それが歌の意味の前半「山を我が たのしむ身には あらねども」にかかっているような。
一方で、この歌は山を楽しむ身分ではないと言いながら、それでも山に住む者の歌である。

ただ静けさを頼りに、それでも山に住んでいる。

タイトル『本丸からの百韻』の「百韻」とは、「連歌や俳諧連句で、一巻が百句で成り立っているもの」だそうです。

古今と歌仙の回想が『本丸という歌集』であることを考えると、この回想はストレートにその続きと考えた方がいいのかも。

歌は光、そして本丸は歌集。
だから本丸は、その道を照らす様々な歌=光で溢れている。
古今伝授の太刀はそれを今、まだ生きることに迷っている倶利伽羅江に心を照らす光として与えたかった……ということではないのか。

倶利伽羅江は「死出の山」を始めとして「山」という言葉に縁のある刀。
一方、古今は山を楽しむような身ではない、それでも山に住むものだと。

両者の立場が違うことを示し、それでも「歌を詠みなさい(光は心を照らしてくれる、心を届けてくれるから)」という形で手を差し伸べたかったという内容かと。

こうしてまとめると、全体的な大筋としては、篭手切江との回想177と同じ意味のように思えます。

篭手切江も「私と君は、江であるという以外にも、稲葉と細川と明智の縁がある。だからといって、いや……、そうであっても、私は君の救いになることはない」

縁は即救いにはならない。けれど縁は縒りてこそ。
踊ることで示せばいい、それが自分の存在を示すから。倶利伽羅江のためというわけでもなく、篭手切江は自分のために、そういう江の新しい時代を見てみたい。
歌という光を繋げて心を照らせばいい。それが生きる上での頼りとなるからと。
古今は倶利伽羅江にそうしなさいと示す一方で、自分もまた倶利伽羅江に歌(光)を届けたいと思っている。
何故なら古今伝授の太刀は、倶利伽羅江に会いたいと思っていたのだから。

この二本は大雑把にまとめるとこういうニュアンスの回想かなと。

 

回想179の冒頭の「鬼」関連についてはもう少し考えたことがあってそれを含めるとこの回想179の全体としてのテーマがもうちょっとはっきりすると思いますが、ここで書くと長くなりすぎるので次回以降に回します。

 

4.回想180

其の180『孝行刀の話』(不動行光、倶利伽羅江)
……其の124を回収済、先の刀剣男士を編成し出陣

回想124は不動行光と人間無骨の『森家の話』

不動行光「あ……」
倶利伽羅江「……あ」
不動行光「……ま、待てよ」
倶利伽羅江「……、……なに?」
不動行光「……」
倶利伽羅江「……」
不動行光「……、なんか、言うこと、あるだろ、ほら」
倶利伽羅江「……俺が? なんで」
不動行光「そうじゃ、なく、て、はあ、はあ……」
倶利伽羅江「あの人が驚くと悪いから、殴るんだったら、見えないところがいいよ」
不動行光「……そう、じゃ、なく、て!」
倶利伽羅江「……」
不動行光「はあ……はあ……、……」
倶利伽羅江「……大丈夫? 顔色が随分と悪い」
不動行光「触るなっ!」
倶利伽羅江「……あっ」
不動行光「なんで、俺に、優しくするん、だよ…………」

今回の四つの回想の中で一番わけがわからん話。
ただ回想124の『森家の話』を読んでくると、一つ前の回想179との関連性は結構感じますね。

回想124に関しては最後のこの部分が重要だと思います。

人間無骨「此レは、相棒の荒々しい戦いと共に語らレル槍。だが今ひと時は、相棒の心を届けル十字の穂先となロウ」
人間無骨「お前に、会いたかった」
不動行光「…………、…………」
不動行光「……俺は、ダメ刀……。……だけど、これを受け取らなかったらきっと、もっとダメに……なっちまうよな、蘭丸」

心を届ける。
お前に会いたかった。

つまり、上でまとめたばかりの回想179『本丸からの百韻』と同じ内容なんだと思います。
回想124『森家の話』は。

そこを考えると、不動くんが何か言いたげなのは、先に人間無骨と話してそれに気づいているから、か?
そしてそれを上手く言えない理由があるので苦し気だけど、多分彼の中では倶利伽羅江に求めるものははっきりしている。

う~~~ん、推測するに、「明智家の刀として突っかかって来いよ!!」方向かこれ。

倶利伽羅江の一つ前に実装された童子切が、どうやら自分の名をうまく名乗れないようだ。
それは気分というより刀剣男士の性質に根付いたものだと思われますが、そこを考えると他の刀も同じように考えられるわけで。

不動くんに関しては、言えないものはこれなのではないか。
だから最後が(明智光秀の刀なのに)「なんで俺に優しくするんだよ」になるのだと思われます。

孝行とは親孝行に代表されるように、ある人を大切にし、尽くすという意味の言葉。
だからタイトルは誰かを大切にしている刀という意味になりますが……。

どっちがどう……なんだ、これ。

悩ましいところですが、最後の不動くんの台詞と合わせて考えて、倶利伽羅江(明智光秀の刀)が不動行光(織田信長の刀)に孝行する方向でしょうかね。

ただそれは、明智光秀が織田信長を裏切った謀反人だと考えると不自然なことなのかもしれない。
童子切が自分の名を言えないように、物語を落としてきたからこそ言えないこととか、物語を背負ってきたからこそ言えないことがある、という話ではないかと思います。

この辺は倶利伽羅江がどういう性質を背負ってきている刀か、というのをメディアミックスの方の前提と一緒にちょっと考えたいと思います。

 

5.メディアミックスからの情報

以下は今までの考察を読んでる方向けです。

 「俺の名は倶利伽羅江。 約束があるんだ。 あの人に巡り合うために君に協力する。 それでいいかな?」(顕現台詞)

悲伝味!!!

「約束」だの「巡り合う」だのさぁ……というメタファー繋がりの舞台との関連性は今回いつになく強く感じますが、舞台関係は今回ちょっと置いといて。

倶利伽羅江の初出である映画『継承』の方の話をしたいと思います。

先に逆輸入として実装された面影の方は割と無双の面影と違う部分の方が目立つかなという感じで別物感が強かったような気がしますが、倶利伽羅江に関しては『継承』の設定をそのまま引き継いでる部分が多いように感じます。

回想177の「……俺はこれ以上、目を付けられたくないんだ」とか「……目立つことはしたくない」とかも、実際『継承』の方で敵陣営に一時取り込まれていたことを考えると、その辺かなと。

何があれって、『継承』の倶利伽羅江は最初は時間遡行軍の「無銘」として、本能寺の変で織田信長を生かそうとする敵として登場するんですよね。

そして「無銘」が「倶利伽羅江」としての自分を取り戻すのは、織田信長が作中で死んだ後。

倶利伽羅江という刀自体には織田信長の刀であったという来歴はありませんが、刀剣男士としての倶利伽羅江は「無銘」時代を通じて信長に仕えている。

映画は第1弾の『継承』も第2弾の『黎明』も基本的に「葬られた歴史」の話だと思います。

そして第1弾『継承』は魔王信長と、第2弾『黎明』は鬼と強く結びついた話であり、同時にどちらも「審神者の代替わり」と「仮の主」といった、審神者にまつわる要素の強い物語でもあります。

映画と、舞台の方でも三日月宗近は何故か織田信長とセット要素があるようです。
来歴からすると関係ないはずなのですが、それはそれとして刀剣男士としての三日月宗近と織田信長には何か関係がある。
一作品どころか二つ以上のメディアミックスでそういう扱いであることは留意したほうがいいでしょう。

今回回想178『蠍火』と回想180『孝行刀の話』で、倶利伽羅江は織田信長に関する話をしています。
明智光秀の刀だからというよりも、単純に織田信長の話をしているように見えます。
それが逆に不自然だというのが回想180最後の不動くんの台詞に集約されるんじゃないでしょうか。

光秀の刀だという自負があるのであれば、信長の刀には敵意があって当然。
けれど倶利伽羅江はむしろ自らが謀反人の刀であることに、引け目を感じている。

そのせいかどうか、織田信長に対してある意味複雑な感情を抱いているようにも見えます。

映画『継承』の情報を踏まえて考えると、「無銘」時代に織田信長と接する立場だったことが何か関係があるような気がします。

『継承』は実際信長と来歴上は関係がない三日月との関係を主軸に描かれているので、謀反人・明智光秀の刀で在り織田信長の刀ではなかった倶利伽羅江と織田信長との関係にも着目すべきかなと思います。

と言うか、私は映画の情報を集め始めたのが割と最近なので今までスルーしてきたのですが、映画は第1弾も第2弾も使われてるメタファーが原作ゲームの第二節と同じなので、映画2作と原作ゲームの構造の比較をもうちょい深めるべきかと思いました。

 

6.「鬼」は「死」か

次回以降の考察でこの辺本格的にやろうと思っているんですが、軽く結論から行きますと「鬼」は「死」にまつわる要素じゃないでしょうかね。

回想179で最初に古今さんが鬼の話題を出し、生きるということの話をしたのもそういうことかと。

「鬼(死)」に惹かれないように、「歌(光)」を詠めと。
ひとりではないように、この本丸という歌集からの百韻たる「心」を届けるから、と。

顕現台詞からすると、倶利伽羅江は誰かと再会したいようです。

「約束があるんだ。 あの人に巡り合うために君に協力する」

「あの人」は誰か。

来歴からすると、それこそ上でとりあげた明智左馬之助の言から明智光秀かと思われますが……。

「光秀命もろともと內々秘藏被仕候間我等腰に指日向守にしでの山にて相渡可申ためたり」
(主たる光秀が秘蔵するほど大切にしていた刀なので私が腰に差して死出の山にてお渡しします)

 

倶利伽羅江を最後に抱えていたのは明智秀満(左馬之助)、彼は死出の山にて、この刀を明智光秀に返さなければならない。

これが約束ではないか?

人が死後最初に赴くという「死出の山」をまだ歩いているだろう明智光秀に会いたいと願っているのならば、倶利伽羅江はやはり死に近い刀と言えるのではないか。

ただ、この約束相手が光秀かどうかはちょっと保留したい。
映画で「無銘」やってた時代の謎の信長との縁もありますからね。別に信長に会いたがっているようにも見えませんが。
とうらぶは刀剣男士も人と説明する時があるので、同じ明智家の刀とか誰か別の刀剣男士の可能性もあります。
対百鬼夜行迎撃作戦2で実装された童子切は剥落した欠片で、その次に実装された倶利伽羅江はメディアミックスの方とは言えかつて敵に取り込まれていたことが明白な男士で死に近い刀。

一癖ある男士の実装が続くな……と思いましたが、それを言うなら対大侵寇防人作戦の七星剣も同じような属性だったなと。

「星」「死」「かつての敵」

ついでに七星剣の次の稲葉江もミュージカルの方で姿までは出ていないものの存在がすでに示されていた刀剣男士ですね。

逆輸入に関しては私(2021年開始プレイヤー)が知る限りだと確かこの稲葉江の時も一度話題になっていたような。

ミュージカルでは敵に近い位置にいた稲葉江(らしき存在)が、今度原作ゲームの方で正式に「稲葉江」として実装される。これはミュージカルからの逆輸入ではないのか? と。

この点について私は今までの考察でも個人的に稲葉江くらいまでの男士、つまり最初の100振りくらいはゲーム開始前からおそらくざっくりと作り上げられていたと思う、と言ってきました。

つまり、稲葉江は「逆輸入」ではなくミュージカル側の原作設定の「先出し」だと思います。

これに関して、参考となりそうな芝村裕吏氏へのインタビュー記事があったのでちょっとリンク貼らせてもらいます。

「刀剣乱舞」シナリオ担当・芝村裕吏が語るキャラクター設定とは

芝村裕吏氏のシナリオ・キャラクター理論だと最初にやはり100人以上のキャラクターを作っているようなので、おそらく稲葉江は最初からその100人の中に含まれていると考えた方がいいと思います。第一節の〆を飾る七星剣の次ですから。

ただし、今回の倶利伽羅江に関しては今年の大本丸博の紹介から確実に「逆輸入」であることが明確です。
私は直接出典を知りませんが、倶利伽羅江に関してはかなり前々からメディアミックスオリジナルキャラで、原作ゲームへの登場はないと言われていたという古参の発言をよく見かけます。

倶利伽羅江に関しては確実に映画『継承』以後に作られた、原作ゲーム用の調整が入っているキャラであることは念頭に置いておきたいと思います。

考察本筋に戻りますと、対大侵寇の次の実装である稲葉江と、対百鬼夜行の次の倶利伽羅江の持つ設定が似ていることは、やはり大規模レイドイベントにまつわるシナリオの構造上の一致を示すと思います。

篭手切江がそれぞれ稲葉江と倶利伽羅江と一対一の回想があるのもそれと同じかもしれません。
(そうなると稲葉に対して富田が来た時のように倶利伽羅江もいつかアイドルに……!?)

対大侵寇では「混」という敵であった七星剣が「死」を示すように、対百鬼夜行の敵である「鬼」も「死」にまつわる要素だと思います。

倶利伽羅江はその「鬼」や「死」の要素に結びつく、一つ前に実装された「童子切安綱 剥落」と表裏関係にある刀剣男士だと思います。

今回やっぱりよくわからなかった部分としてはやはり「山」、それから「鮮やか」か。

回想179は松井江が言う信長の戦が「鮮やか」という話から始まって、終わりは松井の「山が燃える」という言葉から倶利伽羅江の「鮮やか」を引き出していますので、「鮮やか」とは何か? という問いが重要な気がします。

んー、軽く仮説は立てましたがこれも次回の作品全体考察の方にぶち込もうと思います。

倶利伽羅江の回想単体の考察はそういうわけでこの辺で終わります。