十口伝を踏まえつつ長義くんの極修行に関してもっぺん考える
1.愛の否定と愛の証明
十口伝の考察の方ですでに考えたことですが、舞台は国広を中心としている話である以上、本歌であり研究史を一部共有している、つまり名と逸話に関して混乱がある長義くんも無関係ではいられない。
十口伝の内容はものすごく細かく見れば長義くんの極修行と理屈が一緒の可能性はあるが、初見でぱっと同じだなと気づけるほど一緒でもない。
一方で、慈伝はすでに割と「実質山姥切国広の極修行」的内容ではないだろうか。
本歌と写しの間でどちらが山姥切なのかという問題に向き合い、最終的に国広は「俺は俺だ」という結論を得てくる。
元々原作ゲームの国広の極修行は、己の評価だけで独り立ちできる強さを求めて旅立ったというもの。
その修行内容があれだということは、国広自身も自覚していなかった名と逸話への拘りを捨てて己を認められるようになることこそが、山姥切国広の極修行、本当の強さを得てくる旅路だったのではないだろうか。
慈伝の国広に関しては、直接本歌である長義と名を巡る手合せを繰り広げた末に、最終的に自分の強さを否定することこそが、国広自身の何物にも惑わされぬ本当の強さの話として描かれていると思う。
これらを踏まえて長義くん側の物語を今ひとたび考えてみよう。
長義くんの極修行と対大侵寇が互換の関係にあるのだとしたら(もしかしたらここに単独行も同じ構造として加わるかもしれないが)、第一節の締めである対大侵寇のタイミングでやる話こそが「実質山姥切長義の極修行」になる可能性が出て来たなと。
……どういう話になるんだろう。を考えるためには、そもそも「山姥切長義の極修行」への解像度を上げて置く必要があるのではないだろうか。
修行手紙の文章量が少なく正直何もわからねー! と言いたくなる長義くんの極修行。
国広の極修行は、国広自身の話なのに話題の中心がほぼ本歌の長義にある。本歌の存在を食いたくなくて、どちらにも逸話があるという結論を選んできた。
国広の修行手紙三通目の冒頭はその結論であり、手紙の中盤では自らの逸話への執着を捨ててくる。
では、長義くんの方はどうかと言うと。
ほぼ国広のことに触れていないからわかりにくいが、三通目冒頭で僅かに写しのことに言及している。
ここはやはり大きなポイントではないだろうか。
どの刀剣男士も修行手紙三通目の冒頭は、己が今まで執着していたものを捨てるための、そこに至った事情の一つの確認のようなものだと思われる。
山姥切長義の修行手紙三通目の冒頭は
長義が打った唯一無二の傑作、それが俺だ。
まず傑作の刀があり、それに心を寄せた人間がいて、その傑作を写した。
それだけのこと。
これであり、ここがやはり、それぞれの刀剣男士の現状認識の結論、その結論こそが己の執着を離れた目で見た物語として重要なのではないか。
一通目は己の願望を反映した現状認識、だから国広や南泉なども同じく、一通目は己の願いや本音を映したものになる。
二通目はその状態で改めて見てきた人の歴史の話。そしてそれに対する己の感想。
三通目である程度己の意志を固めた答。
舞台鑑賞ついでに大典太さんや小烏丸パパ上の手紙もちょっと読み返したけれど、やはりこのフォーマットに関する考えはそうそう外れてはいない気がする。その子特有の物語としての細部を掴むのが難しいだけで、大筋は皆同じ。
長義くんの物語、長義くんの本心……
慈伝で国広が己の執着を超えて成長できたというのなら、その対極にある長義くんの物語とはなんだ?
今までここ、修行手紙を何度読み返してもピンと来なかったんですが……
十口伝を見るとやはり長義くんは「山姥切の逸話」に固執していることは確か。
それは国広との関係性に執着しているということではないだろうか。
日光と同じ後北条家の刀であることに目もくれず、日光の方からちょっと拗ねたことを言われるくらいに。
そんでもって、長義くんはやっぱり自分の物語に関しては「本歌」という要素に執着しているんですよね。
比較として国広が慈伝のラストにあの心境に至った道筋を考える時に、それまではどうだったのかを一度整理する必要があります。
鶯丸の代弁ではありますが、「山姥切国広の方が先に本丸にいたから」という要素を挙げています。
国広は最終的に「偽物と呼ばれようと俺は俺だ」という結論に至る前に、名前の問題を「先に本丸にいたから」で解決したかった感がある。
しかし、先に本丸にいたというのは、正直理由にはならない。名前の問題というのはそんな理由で諦めたりするような問題ではないでしょう。
ところでこの考え方、長義くんの方はどうなんだろう。
本歌であることを「似ている似ていない以前の問題」とし、国広が山姥切の名で顔を売っていることを自分がそこにいなかったから仕方ないとする長義くんは……。
言い分からすると、むしろ原作ゲームでは長義くんの方が「先にいた」、つまり本歌であることを優位に持っていきたいように見えるんですよね。
じゃあ長義くんってその言い分を本気で信じているのかというと、それはそれでまた違うような。
自分がそこにいなかったから仕方ないという言い分は、自分が最初からそこにいればなんとかできたと言いたげです。
そしてこの考えは慈伝の長義くんも同じではないだろうか。
慈伝の長義くんの物語は、悲伝の三日月の物語と表裏に感じる。
国広の傍にいられなかった長義、足利義輝の傍にいられなかった三日月。
だから苦しい。相手のために何もできない。
けれど過去を変えられない以上、今できることをするしかない。だから長義くんは国広に働きかけるが……。
……修行手紙三通目の「それだけのこと」。
そして「先にいた」もの、「本歌」としての物語。
成長が意味するものは、執着を捨てること。
……と、いうことは、山姥切長義は……。
山姥切長義が極修行で捨てた執着は、やはり写しの国広関連のものじゃないだろうか。
「先にいた」「本歌だから」
ただ――「それだけのこと」。
先にその場所にいたということは、本当は何の証明にもならない。それだけのことだ。だから。
本当は、それを認めたくなかったのではないか。
「本歌」とは「先にいた」だけのものではなく、写しにとっていつまでも「特別」な絆を持つ存在なのだと。そうありたいと。あってほしいと。
だから原作ゲームの回想56、57だろうが、慈伝だろうが、自分がその場にいられなかったことを悲しみ、そこにいたら何とかできたかもしれないと思っている。
でもそれこそが、本当は山姥切長義の高慢――思い上がりなのではないか?
あなたがそこにいても――きっと、何も変わらない。
本丸に山姥切長義一振り増えたところで、悲伝の結末は変わらない。
それでもそこにいたかったと思うことこそが、長義くんの執着。
――写しの国広への、愛情なのではないか。
長義くんの「我欲」はやはり、そこなのではないだろうか。
自分が相手を特別に想っているから、相手にも自分を特別に想ってほしい。誰よりも、一番に。
だから慈伝で国広が自分に会いたくない、周囲が会わせないようにしていると察した途端に機嫌が悪くなる。
自分が国広にとっての特別でないことを認められない。そして。
……だからこそ、山姥切長義の極修行が、あれなのではないか?
長義と国広、個々の刀の境界を弱くしているのは、二振りの本歌と写しの縁。
それを特別なものと考え過ぎれば過ぎるほど、そこばかり着目してしまって一振り一振りの特徴に目が行かなくなる。
その絆を――誰よりも特別視してしまっているのは、山姥切長義自身なのではないか?
だから長義くんの修行先はそういう世界。
国広との絆を何よりも特別視し、山姥切の名で長義を見る。それ以外の物語には目もくれない。
そういうことなのではないか?
長義くん自身がそこに囚われているからこそ、そういう世界にしか赴けないのでは?
それで正当な評価など得られるわけがない。
だけど、それ自体が、山姥切長義の執着なのではないか?
悲伝の永禄の変を繰り返すのが、三日月宗近自身に原因があると考えられるように。
これに関してはミュージカル側の「好きで似せているわけじゃない」という情報と、「送り出された」の文言があるので保留すべき部分もありますが……。
刀剣男士は矛盾する。それは心を得た故だというのは最近ミュージカルの戯曲本の読み返しを始めて、「阿津賀志山異聞」を読んだら書いてあったと思うんですが。
山姥切国広は矛盾する。
写しは自分だけの物語を得るために旅に出たはずなのに、結局本歌を食えなくて自分と本歌の両方に逸話があるという答を掴んできた。
でも、それこそが国広が欲しかった本当の強さなのではないか。
己の望みの反対側を行く、矛盾した心の答。
だとしたら山姥切長義は。
旅に出た世界がそういう世界であること自体が、山姥切長義の執着。
写しである国広との縁が何より特別。そう思っていたい。
でもそう考えている限り、長義の傑作である彼自身を見るものはいない。
正統な評価を得たいというのが本当の願いであるならば、国広との縁を自ら否定しなければならない。
堀川国広にしろ、長尾顕長にしろ、誰かはともかく赴いた先でそれを見て考える。
自分の物語は国広との縁こそが特別なのではない。
本歌である長義は、長義の傑作としてまずそこに在った。
先にいた。ただ、それだけ。
それだけのことに、本当は深い意味などない。
――本歌と写しの縁は、本当は、何一つ特別なものなどでは、ない。
写しまでもが新刀の祖の傑作として高い評価を得たのは確かに素晴らしい歴史だ。でもそれは、何にも変わらぬ運命ではなく、少し状況が違えば何かと何かが互換してしまう程度の内容ではないか。
ほんの少し歯車がずれるだけで写しは打たれなかったかもしれないし、本歌が折れたかもしれない。
それでも、きっと物語は続いていく。
自分が何よりも大切に想っているものは、この世界にとって本当はそんなに重要なものではない。
それを認め、執着を捨てること。それが強さなのではないか。
……長義くんはやはり、最初から国広に執着しているのがスタンダードな造形解釈なのではないか。
けれどそこには高慢を核とする矛盾が宿っている。
愛しているはずなのに、それを正しく伝えられない。
国広一振りではまだ何もできないと思っていた、自分がいれば何かできると思っている。自分に自信がありすぎる。そのせいで国広と正しく距離をとることができない。
……写しの実力を認め、もう相手は一人前だと、一振りでどこへでも行けると……その手を放してやることが、本当の愛情なのではないか。
愛を認めず、言葉にせず。行動は確かに痛いほどに国広への愛情に溢れていると思うけれど、それが国広に正しく伝わっているとは思えない。長義くんに独りよがりなところがあるのも事実だろう。そのせいで舞台のように、国広を傷つけているところがある。
その状態の解消に必要なのは、執着そのものを捨てること。
山姥切長義の執着は、その名を生み出した、写しの国広との縁。
国広との間にある物語を何より特別だと思うこと。
だからそれを否定する。
長義が打った唯一無二の傑作、それが俺だ。
まず傑作の刀があり、それに心を寄せた人間がいて、その傑作を写した。
それだけのこと。
それだけのこと、そう、「それだけ」だ。
何も特別などではない。
写しが打たれた歴史を特別視する執着を捨ててようやく、己が長義の傑作であるというもともとの評価が返ってくる。
でもその答えを受け入れるのに、どれほどの覚悟が必要だったのだろう。
国広関係に関する長義くんの感情的な決着はこの辺かなあと。
ただここに「好きで似せているわけじゃない」を始めとした世界観によるギミックが絡んで来そうなことは否めないし、国広側からは物語の食い合いの可能性が常に提示されている。
更に主、人間との関わりも原作ゲームの極修行と十口伝の両方で強調されたなと……。
長義くんの求める価値が武器としてのものであることを考えると、十口伝が「守り刀」としての役割に徹し、武器として振るわれることはない大典太・ソハヤの物語から始まっているのはやはり関連が深い事柄だと思うんですよね。
七星剣・小烏丸の物語は最後であることも、彼らの結論がそのまま対大侵寇の結論と通じるからではないだろうか。
死を告げる刀、死を刻む刀。
それでも生を望み、人を救えと人を導く。防人――人を、防れと。
お前は最も大事な厩戸皇子の物語を守れなかったと突き付けられながら……。
十口伝はやはり根幹としては長義くんの極修行と同じ理屈でできた、対大侵寇の裏側の物語ではないだろうか。
そして舞台で「実質長義の極修行」としての話が来るなら、
その時こそ、山姥切長義は、写しの国広への執着を捨てる。
「でもそれは、仕方がないか。だって、ここには俺が居なかったんだから」
それは思い上がりなんだろう。
国広はもう……もしかしたら最初から、一振りでも大丈夫。
この世に誕生したその瞬間から、評価が下されていなくても名刀が名刀である本質は変わらない。
本歌の存在など、なくとも。
本歌が誕生に寄与したことは事実でも、生まれた後はその刀そのものの実力。
それを何よりも、長義くん自身が認められていなかった。
でもいつまでもそうはいられないだろう。
国広に対する執着を手放さねば、山姥切長義自身も強くはなれない。
……執着を捨てなければ、相手への己の執着で閉ざされた世界を巡るだけ。
悲伝の三日月の状態はこれではないか。
つまり、山姥切長義の極修行は、悲伝の三日月への答そのもの。
そう考えると確かに第一節の締めに相応しいエピソードなのではないか。
とはいえ、じゃあ長義と国広の物語がそれぞれの極で本当に完結しているかというといやそれはなんか違うなと。
己の執着を一度手放すのはいいことだとしても、そこにある愛情さえ否定するのはなんか違うし。
強さとは、己の強さを否定できること。それが真の強さだというのであれば。
愛も、それが愛であることを否定する。それこそが真の愛なのではないか。
この理屈でどんどん考えを進めていくとなんかこう、胸が痛い結論に辿り着きそうなんですが……。
十口伝自体の考察に組み込むにはまだふわふわしているんですが、長義くんの態度への小さな納得と小さな違和感を無数に積み上げて出てきたものがようやく答として収束しそうな感じ。
やはり最初から写しの国広への執着自体はあるんでしょう。だから綺伝でも国広がいない間は本丸を守ってやると言う。
山姥切長義の行動、特に舞台のそれは写しへの愛情でできている。
けれどそれを否定できなければ、本物の愛ではないということなのではないか。
本丸を守るのは写しへの愛情でいいのか。刀剣男士として自らの意思でなくていいのか?
長義くんの極関係はまだまだ不明点が多いなと思いつつ、国広との関係周りは結構まとまって来たかなと。
世界設定にまつわるギミックは考えてもわかるわけないですしね。
今回は長義くん側の国広への執着について考えてみましたが、舞台見ると国広側も十分長義くんに執着してるように見える。
長義くんだけ国広への愛情捨ててもそれはそれで大変なことになるフラグにしかならないじゃないですか。
とりあえず今後もちまちまヒントが増えるたびに地道な考察で感情を整理していくしかないですかね。
目下の注目は「朧」のメタファーの動向を示す原作ゲームの「朧(三日月)」が、童子切実装でどう動くか辺りか。
それまでにせめて、単独行見ておきたいっす。
2.出会いの喜びと破滅(追記)
話が発展しちゃったので追記分!
ここ最近、慈伝は実質「聚楽第+山姥切国広の極修行」じゃね? って自分で言ってて思ったんですが、いや本当にそうなんじゃないの? って。メタファー的に。
もしかして、国広と長義を「出会わせない」ようにしていた長谷部たちの判断や行動が「友」なんじゃないの?
我々は聚楽第で氏政様に「出会えなかった」。
「友」の行動は「助ける」ことだというのは火車切の発言やミュージカルの三日月の言動から判断されますけど、それと同時にゾーリンゲン友邦団の行動結果、誰かと誰かを「出会わせない」ように妨害するのも「友」の行動なんじゃないか?
だからミュージカル側でたびたび「出会い」について強調されるのでは?
ミュージカルだと「結びの響き、始まりの音」で名もなき遡行軍が土方さんという物語に出会って死ぬ。
それを巴形薙刀が見ながら「物語に出会えて良かった」と判断している。
「江水散花雪」においては、史実で出会わない井伊直弼と吉田松陰が出会ってしまったことにより、放棄された世界が生まれる。
それを山姥切国広は「二人を出会わせた敵の会心の一手」と判断している。
描かれているものは、「出会い」の喜び、そして破滅。
絵面としては面白いけど今まで意味としては謎だった慈伝の長谷部たちの行動の根幹にあるものが、ようやくしっくりしてきた。
出会うと破滅に至る関係の妨害、それが「友」の役割の性質の一つ。
原作ゲームだと我々は氏政様に出会えなかった。ミュージカルだと名もなき刀たちは土方歳三に出会えた。
そして慈伝は……。
「江水散花雪」で山姥切国広がそう判断しているように、出会ってしまったら、もう止めることはできないのだ。
だから出会い自体を妨害しなければならない。相手を本当に救いたいと思っている「友」はそうする。けれど。
前田「僕たちが五虎退の探し物を手伝っている頃、本丸では山姥切長義さんが、写しである山姥切国広さんを探していました 山姥切国広さんも、それが自分の本歌であることをまだ知らずに、彼を探していたんです」
けれど、それでも――出会いたい。
ちょっとずつ舞台とミュージカルの対照からの分析を始めているんですが、片方を見てここが重要と感じたポイントはもう片方にもさりげなく組み込まれていることが多くてですね……。
慈伝と「結びの響き、始まりの音」が両方とも「友」や「北(逃げる)」にまつわる「出会い」の物語だという可能性はちょっと追求していきたいところです。
「江水散花雪」と同じタイミングの話は綺伝だと思うのですが、あれはあれで地蔵くんがガラシャ様を連れて逃げ、忠興と「出会った」時に決定的な出来事が起きる。
妻であるガラシャを殺そうとした忠興を、「友」である高山右近が殺害してしまう。そこから物語は一転する。
逃げていたはずのガラシャ様は、放棄された世界という物語を終わらせるための行動を取り始める。
ガラシャ様はガラシャ様で、最後に正史での自分が生きていれば歌仙や地蔵との縁も深くなったかもと言っている。それはかなわぬ願いだったとも。
ミュージカルの「東京心覚」の山吹もそうだけど、綺伝に関しても「実を結ばぬ徒花」なんですよねぇ。
このタイミングで描かれる話の結末は、実を結ばない。残さないのがメタファーによる構造から読み取れる。
「出会い」は破滅、放棄された世界に繋がるもの、そして仇花。実を結ばず散り逝くもの。
と、いうわけで今まで以上に「友」のメタファーがどこにあってどういう行動をし、どういう状況の変化をもたらしているかが重要だなと。
3.歴史を変えるもの、我々と刀たちとの出会い(追記)
「出会い」に関して思うのは、原作ゲームで我々が聚楽第の「北条氏政」と出会えなかったのもやはり意味があるんだろうなと。
氏政様とは出会えなかった。
けれど我々も、ある意味出会っている。
自分の本丸で、自分の刀剣男士たちと。
それを考える時、ここまでの「我々自身も歴史を変えてしまっているのではないか?」という状況をもたらした理由の方に思い至らざるを得ない。
結局さ、我々も出会いたいのだ。新しい刀と。
出会った末にはお互いにお互いの歴史に影響して破滅をもたらすと実感しても、それでも知りたくて前に進まざるを得ない。
「結びの響き、始まりの音」で土方歳三の物語に出会って死ぬことを望んだ遡行軍や、「江水散花雪」の井伊直弼・吉田松陰と何も変わらない。
出会ってしまったらそこで終わり。後は転がり落ちていくだけ。
でもそこが本当の始まり。歴史を守ると言いながら、ある意味自分たちが一番歴史を変えてしまっている戦いの。
動機云々以前に「出会い」そのものが始まりの合図なら、まあ簡単に逃れられんよな、これは。
舞台は刀剣男士側の出会いや分裂をおもに描いていますけど、ミュージカル側は二人の天草四郎のように、人間側のそれを描いている。
メタファー「人」は「主」である原作ゲームプレイヤー、すなわち「審神者」である我々を含みながら、最初から配置されている要素なんでしょうね。
4.生き延びる鬼(追記)
慶応甲府を舞台でやった「心伝」の辺りで、うちの考察的にメタファー「鬼」の所在を気にしていて、あれ? ないな? と一度はからぶった気がしたんですが、これはもしかして「鬼の副長」、土方さんのことでいいのかなと。
ついでに最近化け物斬りである長義くんの極が一文字である道誉叔父の実装の次に来ると言う出来事があったわけですが、「一と鬼(化け物)」の組み合わせで考えると心伝は孫六兼元の元主・斎藤一の存在に注目したほうがいいかなと思い始めました。
メタファー「鬼」とメタファー「一」の組み合わせというと、天伝で真田信繁が「鬼」に例えられているのと、花である秀頼の傍にいた一期一振の存在を思い返します。
一期は「花影ゆれる砥水」にも登場していますが、これもやはり「花」の話であり、「一」である一期一振の話であり、醜い心は何を生む? の問いかけにある通り「鬼」のメタファーを持つ話です。
そうなってくると、「鬼」の立ち位置が天伝から心伝までで随分と変化・移動したことが考えられます。
天伝では、「鬼」である真田信繁は絶望の果てに歴史改変を望み自殺する役割だった。
綺伝では、「鬼」である細川忠興は「蛇」である妻ガラシャを殺そうとして殺せず、逆に「友」である高山右近に殺される立場だった。その後、「鬼」の役割は彼の刀である歌仙が引き継いだ。
心伝では、「鬼」である土方歳三は、斎藤一や永倉新八と共に生き延びている。
自殺したり殺される立場から、ここではまだ死なないと生き延びる立場への変化は、このメタファーの移動を感じさせます。
慈伝の長谷部たちが「友」の立場なら、「友」も最初は二人を出会わせない立場から、綺伝の頃には逆に「鬼」を殺してしまう立場へと代わり、今度の士伝は天保江戸なわけですから当然水心子と清麿の友情、相手を明確に助ける立場へと、回転状の移動をしていると思います。
ここをちょっと今後の考察のとっかかりにして行こうかと。
5.「鬼」と「一」(追記)
童子切が今年の夏実装なので、10周年と大体半分ですね。
原作ゲームの第二節の半分にあたる時期はどこかとずっと考えていましたが、さすがにここじゃないかなあと。
10周年半って微妙に中途半端に見えますが、第一節が約7年と考えるとそこから7の半分の3年半ぐらいになります。
完全に一致ではありませんし、制作側が時期をあまりがっつり決めると融通が利かなくなるので本当にそういう構成なのかはともかく、プレイヤー目線で仮説を立てるならやはりこの辺りを本格的に候補の一つにしたいかなと。
ここに関しては実際に童子切が実装される際に「朧」である三日月がどう動くかを見たいと思います。
原作ゲームだと、去年8月に対百鬼夜行迎撃作戦があり九鬼正宗が実装。
9月に豊前江極(化け物メタファー)。
10月に鵜飼派(雲類)の雲生実装。
となっております。そして。
12月に一文字である道誉一文字が実装。
1月に山姥切長義極(化け物・化け物斬りメタファー)
2月に鵜飼派(雲類)の雲次実装。
去年9月の極予告の際には長義くんと豊前のどっちが来てもおかしくはないなと思いましたが、ここにきて両方とも極の後に雲類の実装が続いたことにより、本当に極実装時の状況にほとんど差がなくなってきました。
どちらも「化け物」に関するメタファーを強く打ち出した豊前江、山姥切長義。
どちらも後ろは雲類の実装。
しかし、その前は「鬼(九鬼正宗)」と「一(道誉一文字)」で分かれている。
上でちょっと触れましたが「鬼」と「一」もメタファーとして何か対応が見られます。
天伝では「鬼」の真田信繁や、その信繁が救うはずだった「花」である秀頼の傍に「一」である一期一振がいる。
「花影ゆれる砥水」でも、「花」「一」「鬼」のメタファーが共通している。
「鬼と花」
「鬼と蛇」
「鬼と一」
そして、原作ゲームに三日月と鬼丸さんの回想があることや、これまでも特に三日月と国広の関係についてメタファーの観点から考えてきた結論として、
「鬼と月」
の組み合わせがあり、これらは相互に組み合わせを変えて移動する互換関係があると思われます。
と、いうことは。もしかして対大侵寇防人作戦の初期刀と三日月の合体技って「月」と「一」の統合だったのでは?
始まりの一振りはメタファー「一」かこれ。
豊前江極の頃の流れは鬼、化物、雲(鵜飼)という流れ。
長義極の頃の流れは一、化物、雲(鵜飼)という流れ。
ついでに次の極が鬼丸さんなのでまた鬼に戻る上に高確率で次の実装になるだろう面影は「朧」ですがまだちょっと不確定要が多めなので置いといて。
メタファー「化け物」である長義・豊前の前後の流れがほぼ一致することが気になります。
この場合、「鬼」と「一」はやはり互換関係にあるのではないか。
「一」のメタファーを持つであろう道誉一文字はバランサーの性質を持つ。
これも対比するとなると、鬼の発生はバランスの維持と何らかの関係があるということになり、悲伝の結いの目絡みで「鵺」が発生したことや、天伝と対になる无伝でもやはり「鬼」が発生したことと無関係ではなさそうです。
舞台と原作ゲームは、今のところ「朧」の存在という共通性があります。
舞台の「朧」出現は第一節の後半で、原作ゲームは第二節。
仮説として「童子切安綱 剥落」という明確にこれまでと違った存在の実装となる今年の夏をちょうど半分と見越すなら現在はまだ第二節の前半途中のどこか。
もしも舞台と原作ゲームの構造をそのまま対比させるなら、原作ゲームの第二節は舞台の第一節後半の構造をそのまま持って来て考えるのが一番早いんじゃないでしょうか。
つまり原作ゲームの我々は今、舞台で言う天伝・无伝の辺りでは?
童子切実装辺りで綺伝に突入か? それとも綺伝の終了か?
花丸が十二か月を2回繰り返してから聚楽第開始・山姥切長義実装の展開になっているように、第一節の前半・後半自体も少なくとも二部以上に分かれる構成だろうとこれまで考えてきました。
とはいえその円環構造自体も踏襲と反転を繰り返すため、一つの円環の中に同じ円をいくつも重ねる入れ子式構造だと目されます。
舞台とミュージカルのメタファーは一見それぞれ別のメタファーにフォーカスしているようでいて、実際にはよくよく見ると扱いが小さかったりさりげなかったりするだけで、同じ時期(話数)の話はやはり本質的には同じイベントを描いている用に見えます。慈伝も「結びの響き、始まりの音」も実は同じ「出会い」にまつわる物語であるように。
メタファーの割り振りを変え、表層上の結末をそれぞれのメディアミックスで変えて別のドラマを生み出してはいますが、根幹の論理構造は基本的に同じものを使用しているのではないかなと。
これに関しての検証は、やはり一度全ての物語でどんなメタファーが使用されているか真剣に書き出さないとダメかなーと(死にそう)。
まだ検証が完成していない仮説と、実際に今年の夏のイベントを見るまで判断が下せない前提の仮説だらけにはなりますが、方向性としてはいよいよ明確になってきたなーと。
これまでは舞台とミュージカルで論理構造が完全共通か、部分的に補完する関係かとか色々保留事項が多かったんですが、対照表作りながらちょくちょく気になる部分を追っていくと最終的には同じものになりそうなんですよね。
豊前・長義の極周辺でよく似た流れが二回続き、こんのすけによる鬼退治フラグから、おそらく今年の童子切実装イベントも対百鬼夜行迎撃作戦に似たものが実装されると予想されます。
同じような流れが二連続する。これも特徴的な構造だと思います。
「朧」という存在の共通性、そこに関わる「友」の性質と、最近の原作ゲームの展開がメディアミックスの要素と明確に相関を表し収束し始めています。
今年は考えるというよりも、どうやらひたすらデータを集めて分析する、検証の一年になりそうな感じです。