童子切安綱

どうじぎりやすつな

目次
  1. 概要
    1. 銘文、表記、呼び方等
    2. 略歴
    3. 酒呑童子という鬼を切ったと言われる刀、来歴の始まりの様々な説
    4. 来歴の始まりに関する様々な説
      1. 坂上田村麻呂の奉納という説
      2. 新田義貞の佩刀説(鬼切との混同)
      3. 一説によれば、室町幕府の評定衆・摂津家に古くから伝来
      4. 足利将軍から織田信長・豊臣秀吉を経て徳川家康にわたり、二代秀忠が継承したという説
      5. 秀忠の三女・勝姫が、慶長16年(1611)、松平忠直に嫁した時、秀忠から伝わった説
    5. 津山松平家の所伝
      1. 忠直の父・秀康が1590年(天正18)、結城晴朝の養子となったとき譲られた説
      2. 家康から秀康がもらい、子の忠直に譲った説
    6. 越後騒動の後、松平家の御道具類は伊予宇和島の伊達家が預かり、高松殿二宮へ
      1. 高田城に茶道具「初花」・「童子切安綱」などの御道具が保管されていた記録
    7. 童子切に関する津山松平家の所伝
      1. 狐憑きを治す
      2. 大村加卜(『剣刀秘宝』の著者である刀工)と童子切
      3. 多くの狐が神田の筋違い橋のほうから、上野谷中のほうへ移動
      4. 白狐と童子切
    8. 以後も津山松平家に伝来
      1. 焼き直し説とそれを否定する試し斬りの切れ味
    9. 1933年(昭和8)1月23日、国宝(旧国宝)指定
    10. 終戦後、津山松平家を出る
    11. 1951年(昭和26)6月9日、国宝(新国宝)指定
    12. 個人蔵から文部省が買い上げるまで
    13. 現在
    14. 作風
      1. 鬼の噛みついた痕
      2. 童子切安綱の評価に関する『日本刀大百科事典』の見解
    15. 外装
    16. 日本刀の東の横綱
      1. 石田正宗との比較
      2. 日本刀中の両横綱
    17. 余談 江戸城の紅葉山宝蔵所蔵の源頼光の刀
  2. 調査所感
  3. 参考サイト
  4. 参考文献
  5. 概説書

概要

銘文、表記、呼び方等

「童子切」
「童子切安綱」
「童子切り安綱」
「童子斬り安綱」
「童子切御太刀」
「太刀 伯耆安綱(名物童子切安綱)」
「太刀 銘安綱 附絲巻太刀拵」
「太刀 銘安綱(名物童子切安綱) 附糸巻太刀拵 梨子地葵紋散太刀箱」

 

略歴

『享保名物帳』所載、平安時代の伯耆の刀工・安綱作の太刀。天下五剣の一振り。

源頼光が丹波国大江山の酒顛童子(酒呑童子)という鬼を斬った、という伝説によって、“童子切り”の異名がついた。

しかし、この逸話は創作だろうと考えられている。

鬼ではなく山賊を退治したという解釈も『享保名物帳』の頃からすでに存在するが、それでもまず酒呑童子の物語自体がフィクションと目されている。

来歴の始まりが諸説ある。

・坂上田村麻呂の奉納という説(古剣書の説)
・新田義貞の佩刀説(鬼切との混同)
・室町幕府の評定衆・摂津家に古くから伝来(『白石先生紳書』)
・足利将軍から織田信長・豊臣秀吉を経て徳川家康にわたり、二代秀忠が継承したという説(『剣刀秘宝』など)
・秀忠の三女・勝姫が、慶長16年(1611)、松平忠直に嫁した時、秀忠から伝わった説(古剣書の説)

などに加えて津山松平家の所伝(「松平家御宝剣茎押形並御伝来推考抜抄」)では

・忠直の父・秀康が1590年(天正18)、結城晴朝の養子となったとき譲られた説
・家康から秀康がもらい、子の忠直に譲った説

の2説がある。

はっきりしているのは松平忠直とその夫人・勝姫(2代将軍・徳川秀忠の娘)の代にその所有となった頃からとなる。

松平忠直の息子・松平光長の代には勝姫の預かりとなったことが推測されている。

さらにその後、越後騒動の関係で伊予宇和島藩の伊達家が預かった後、高松殿二宮に進ぜられた。
貞享4年(1687)2月以降に、高松殿二宮から光長に返還されたらしい。

以後は津山松平家の重宝となったという。

童子切安綱には様々な伝説が伝わっている。

・松平光長がまだ幼少のころ、夜な夜なうなされて泣くので、医療はもとより、社寺の護符なども申し受けてみたが、一向に効験がなかった。
ある者の発案で、童子切を枕許に立てておいたところ、その晩から夜泣きは、ぴたりと止んだという。

・津山松平家が本阿弥家に童子切を預けたところ、本阿弥家の話では童子切が上野広小路の本阿弥家に来た朝、多くの狐が神田の筋違い橋のほうから、上野谷中のほうへ移動した。
それは童子切が来たからだろう、と噂になったという。

・本阿弥家に預けてあったころ、隣家に火事が起こった。
すると、本阿弥家の屋根のうえに白狐が一匹あらわれ、転んだり起きたり、苦悶の態だった。
本阿弥家のものがそれを見て、あっ、まだ童子切を持ち出していない。狐はそれを知らせているんだ、と思いついた。
童子切を急いで持ち出したところ、白狐は姿も影もなくなったという。

昭和まで津山松平家に伝来し、1933年(昭和8)1月23日、国宝(旧国宝)指定。

戦後は個人蔵となり、1951年(昭和26)6月9日、国宝(新国宝)指定。

愛刀家たちの間で童子切の所有に関して一時期裁判にもなったらしいが、最終的に文部省が買い上げる。

現在は「東京国立博物館」保管。

 

酒呑童子という鬼を切ったと言われる刀、来歴の始まりの様々な説

『享保名物帳』などによると、

源頼光が丹波国大江山の酒顛童子(酒呑童子)という鬼を斬った、という伝説によって、“童子切り”の異名がついた。

『日本刀大百科事典』の解説によると、

しかし、そういう怪談は通用しないので、山賊を退治した、とする解釈(『享保名物帳』『諸家名剣集』、『松亭漫筆』『本朝通記』)もあるが、源頼光にそういう史実のないことは、今日史学界の通説である。
最古の『酒顛童子絵巻』といわれる香取神宮大宮司家伝来のものでも、南北朝期ぐらいのもので、その筋書きは、中国の『説郛白猿伝』における主役・欧陽紇を源頼光に書き換えただけのものである。

と、いうことらしい。

『刀剣名物牒』(データ送信)
著者:中央刀剣会 編 発行年:1926年(大正15) 出版者:中央刀剣会 編
目次:第二 細說 (上) 名物牒 童子切安綱
ページ数:61 コマ数:33

松平越後守殿
童子切安綱 長さ貳尺六寸六分不知代

丹州大江山に住す通力自在之山賊を源頼光公此太刀にて討し故と申傳候秀吉公御物高田様越前に御入輿の刻三位宰相忠直卿へ被進御長男光長卿へ御傳なり極上々之出来常の安綱に似たる物にあらす石田と一所に一覧申格別に正宗をとりたり同苗一同に同意也廣小路三郎兵衛宅へ来る日朝よ筋違橋邊より狐多く出て上野谷中道に行と考に右童子切来りける故かと申也

『詳註刀剣名物帳 : 附・名物刀剣押形 増補』
著者:羽皐隠史 発行年:1919年(大正8) 出版者:嵩山堂
目次:青江、恒次、左文字、三原、安綱の部
ページ数:205、206 コマ数:117、118

松平越後守殿(作州津山松平家)
童子切安綱 長貳尺八寸六分 不知代

丹州大江山に住む通力自在の山賊を、源頼光公此太刀にて討れし故と申傳ひ候、秀忠公御物高田越前へ御入輿の刻み、三位宰相忠直卿へ進せらる、御長男故光長卿へ御傳へなり極上々の出来、常の安綱に似たる物にあらず、石田と一所に一覧申し格別に正宗をどりたり、同苗一同に同意なり、廣小路三郎兵衛宅へ来る日、朝より筋違橋邊より狐多く出て上野谷中道に行く、右は童子切来る故なりと申也。

 

来歴の始まりに関する様々な説

坂上田村麻呂の奉納という説

『日本刀大百科事典』によると、

古剣書(『能阿弥本』)では、初め坂上田村麻呂が伊勢神宮に奉納しておいたものを、源頼光が夢想によってもらい受け、酒天童子という鬼を切った、となっている。

『能阿弥本銘尽』という古剣書はよく話題に挙がるが国立国会図書館デジタルコレクションでは読めない。

 

新田義貞の佩刀説(鬼切との混同)

『日本刀大百科事典』によると、

その後、新田義貞の佩刀、という説(『剣刀秘宝』『参考太平記』)があるが、それは源氏の重宝“鬼切り”と混同したものである。

『日本刀講座 第3巻 (鍛錬篇・研磨篇)』(データ送信)
著者:雄山閣 編 発行年:1934年(昭和9) 出版者:雄山閣
目次:第七章 試驗方法 鍛錬篇(二) 鍛法に関する古記録(中篇) 剣刀秘宝
ページ数:249~253 コマ数:159~161

一、伯耆安綱 眞之十五枚甲伏造

桓武天皇御宇延暦ノ比貞享元年マデニ八百九十年餘。

此押形、頼光公ノ御陣刀酒天童子ヲ切リ給フ也、其後左中将新田義貞陣刀、其後東山殿十四代ノ陣刀、其後織田信長公ノ陣刀其後太閤秀吉公の陣刀、太閤様ヨリ家康様ニ進ゼラル。亦臺徳院様ヨリ高田様へ御
守刀ニ進ゼラル、依之今、越後中将光長公ニ有之也。

『参考太平記  第2 (国書刊行会本) 』
著者:今井弘済, 内藤貞顕 編 発行年:1914年(大正3) 出版者:国書刊行会
目次:卷之三十二
ページ数:416 コマ数:215

此太刀ハ、伯耆国会見郡ニ、大原五郎大夫安綱(世傳天座之子、天国孫也)、ト云鍛治、一心清浄ノ誠ヲ致シ、キタヒ出シタル剣ナリ、時ノ武将、田村将軍ニ是ヲ奉ル

(内容全体を取ろうとするとめちゃくちゃ長い上に色々な話が交じり合っていたので伯耆安綱の名が出ているここだけ引用で)

 

一説によれば、室町幕府の評定衆・摂津家に古くから伝来

『日本刀大百科事典』によると、

一説(『白石先生紳書』)によれば、室町幕府の評定衆・摂津家に古くから伝来していた。

摂津家は衰微すると、日野家に仕えていたが、さらに都落ちして、摂津与一の時代には、越前福井城主・松平忠直に仕えていた。

童子切が将軍家の有に帰した訳は不明という。

『日本随筆大成 第3期 第6巻』(データ送信)
著者:日本随筆大成編輯部 編 発行年:1930年(昭和5) 出版者:日本随筆大成編輯部
目次:白石先生紳書
ページ数:600 コマ数:309

その摂津が家、代々伯耆の安綱が童子切と云太刀を傳へ持たりしと也。□家の記傳に詳也。京都乱し後は、かの摂津が後、日野衆の家に所縁有て仕へしが、其後又北国へ下りて、終に與一が代に越後守殿に仕へし事也。扨かの童子切は、いかなる故に公方の御宝と成しにや、高田殿の御輿越前に入らせ給ひし時に、御聟引出物にはあらずして、御輿の内に入られて遣はされしと也。御守り刀との事にや。是より越後の家は傳へられたり。二尺七寸反り高く、目釘孔二ツ有き。横手の處に傷有。童子の首の喰付し跡など申也。

 

足利将軍から織田信長・豊臣秀吉を経て徳川家康にわたり、二代秀忠が継承したという説

『日本刀大百科事典』によると、

他の説(『刀剣録』『剣刀秘宝』)では、足利将軍・足利義輝から織田信長・豊臣秀吉を経て、秀吉より徳川家康に贈り、二代秀忠が継承したという。

『刀剣録』は国立国会図書館デジタルコレクションにはない。
『剣刀秘宝』は上記引用通り。

 

秀忠の三女・勝姫が、慶長16年(1611)、松平忠直に嫁した時、秀忠から伝わった説

古剣書の説では、秀忠の三女・勝姫が、慶長16年(1611)、松平忠直に嫁した時、秀忠が守り刀として、輿に入れてやったとも(『剣刀秘宝』『白石先生紳書』)、婿引き出として忠直に贈った(『享保名物帳』)ともいう。

 

津山松平家の所伝

童子切の来歴は、津山松平家の所伝は以上と全く異なり、しかも2説あるという。

『日本刀大百科事典』による出典は「刀剣と歴史」(460号)となっている。
『津山地方郷土誌 第2冊』にも収録されている「松平家御宝剣茎押形並御伝来推考抜抄」が津山松平の所伝と言われているものだろう。

忠直の父・秀康が1590年(天正18)、結城晴朝の養子となったとき譲られた説

忠直の父・秀康は徳川家康の次男で、天正18年(1590)、下総結城城主・結城晴朝の養子となったとき、結城家伝来の伯耆安綱を譲られた。
それが童子切であろうという。

『津山地方郷土誌 第2冊』(データ送信)
著者:矢吹金一郎 編 発行年:1977年(昭和52) 出版者:名著出版
目次:松平家御宝剣茎押形並御伝来推考抜抄
ページ数:35~40 コマ数:222~225

御傳来書


一 童子切太刀之儀

権現様越前中納言殿江
被下之候由則相続宰相
参河守所持に而御座候
高田殿江宰相方ゟ守
太刀として預け被置候
以上

 

家康から秀康がもらい、子の忠直に譲った説

他の説では、家康から秀康がもらい、子の忠直に譲った。

忠直はそれを夫人・勝姫の守り刀として預けておいたという。

鞘書に、表「童子切 弐尺六寸五分」、裏「鎺元にて壱寸 横手下にて六分半 重ネ厚さ弐分」とある。
これは勝姫の筆跡だろうという。

勝姫の守り刀というのも、実は、忠直が乱行の故をもって、元和9年(1623)、豊後に流罪になったとき、嗣子の光長はわずか9歳だったので、お家第一の宝刀は、母の勝姫の預かりになったのだろう、という推測もされている。

『津山地方郷土誌 第2冊』(データ送信)
著者:矢吹金一郎 編 発行年:1977年(昭和52) 出版者:名著出版
目次:松平家御宝剣茎押形並御伝来推考抜抄
ページ数:35~40 コマ数:222~225

御鞘書之事

童子切御鞘書ノ事前ニモ記スガ如ク表ニ童子切貳尺六寸五分裏ニ鎺元ニテ壹寸横手下ニテ六分半重子ノ厚サ貳分ト有之熟々遂拝見候処此御鞘書女筆ト見ヘテ男子ノ筆跡ニアラザル歟疑クハ高田様御筆ナルニヤ如何ト申スニ御傳來書ニ 高田殿に宰相方ゟ守太刀として預ケ被置候ト記サレタリ是ハ考フルニ 西岸院様豊後府内ノ地へ御事アリシ時 恵照院様(元和元己卯年十一月廿九日越前北庄ニ御誕生有リ同九癸亥年九歳ノ御時 西岸院様府内ノ地ヘ御移リアリシナリ)未ダ御幼稚ノ御事故 高田様ヘ彼童子切御太刀ハ第一ノ御宝器故御守太刀トシテ御預リ御座候様ニト申御事被 仰越候節 高田様御手自御鞘書被成御事ナルベシト推シ考ヘラレ候余ノ婦人ノ手ニ触レ申ベキ理ナシ

 

越後騒動の後、松平家の御道具類は伊予宇和島の伊達家が預かり、高松殿二宮へ

高田城に茶道具「初花」・「童子切安綱」などの御道具が保管されていた記録

越後騒動周りの津山松平家の御道具の扱いに関して、下記の本で説明されている。

津山松平家の御道具類は、越後騒動の後、幕府の命令で伊予宇和島の伊達家が預かり、更に高松殿二宮に進ぜられた。

(勝子の娘で光長の妹である亀子(寧子)が高松宮好仁親王の妃となり、その第二王女が「高松殿二宮様」と呼ばれている)

貞享4年(1687)12月に光長が赦されて伊代の松山から江戸に帰った後、高松殿二宮から光長に返還されたらしい。

『越後府中雑記』(データ送信)
著者:中沢肇 編著 発行年:1985年(昭和60) 出版者:耕文堂書店
目次:高田城にあった初花と童子切
ページ数:413~420 コマ数:209~213

 

童子切に関する津山松平家の所伝

狐憑きを治す

津山松平家の伝承によれば、松平光長がまだ幼少のころ、夜な夜なうなされて泣くので、医療はもとより、社寺の護符なども申し受けてみたが、一向に効験がなかった。

ある者の発案で、童子切を枕許に立てておいたところ、その晩から夜泣きは、ぴたりと止んだという。

『日本刀大百科事典』によると、

童子切は狐憑きを治す(『異説まちまち』)、という迷信は、これから発生したものであろう、という。

『津山地方郷土誌 第2冊』(データ送信)
著者:矢吹金一郎 編 発行年:1977年(昭和52) 出版者:名著出版
目次:松平家御宝剣茎押形並御伝来推考抜抄
ページ数:35~40 コマ数:222~225

童子切霊異之事

恵照院様御幼穉の御時物ニ魘レ給ヒ夜々啼カセ給フ御事アリ医術ハ申ニ及バズ神札仏霊符等ノ物御寝所ニ納メ給フトイエドモ曾テソノ御験ナク止ミ給ハズ或人承リ童子切ノ御剣御マクラニタタセ給フベキ御事トゾ申スサラバトテ童子切ノ御剣御枕ニタタセ給フソノ夜ヨリ御夜啼ハ倏忽止ミ給ヒシト也

『日本随筆大成 巻九』(データ送信)
著者:日本随筆大成編輯部 編 発行年:1927年(昭和2) 出版者:日本随筆大成刊行会
目次:異說まち[マチ]
ページ数:133 コマ数:74

山中氏云、親しく彌八郎談を聞り。童子切と云刀は、伯耆国安綱が作にて、源氏の重宝也。是も越後家に傳りて有り。虫干の時、正に拝見せり。狐付を落すといふ。

 

大村加卜(『剣刀秘宝』の著者である刀工)と童子切

『日本刀大百科事典』によると、

松平光長は、父が流罪になると、越後高田城主に移封となった。

刀工でもある大村加卜はその光長に仕えていたので、童子切をたびたび拝見できた。
それで、その鍛法まで詳しく『剣刀秘宝』に書き遺している。

 

多くの狐が神田の筋違い橋のほうから、上野谷中のほうへ移動

松平光長は“越後騒動”を引き起こし、天和元年(1681)、伊予の松山へ流された。

貞享四年(1687)赦免となり、江戸に帰ってきたが、童子切は手入れする者もいなかったので、胡麻銹を生じていた。それで研ぎのため、本阿弥家に預けておいた(『掃聚雑談』)

本阿弥家の話では童子切が上野広小路の本阿弥家に来た朝、多くの狐が神田の筋違い橋のほうから、上野谷中のほうへ移動した。
それは童子切が来たからだろう、と噂になったという(『享保名物帳』)

胡麻銹を生じていたという話の出典『掃聚雑談』は国立国会図書館デジタルコレクションにもないようである。
筋違橋から狐が移動した話は上記『享保名物帳』の引用通り。

 

白狐と童子切

『日本刀大百科事典』によると、

松平家の伝説では、本阿弥家に預けてあったころ、隣家に火事が起こった。

すると、本阿弥家の屋根のうえに白狐が一匹あらわれ、転んだり起きたり、苦悶の態だった。
本阿弥家のものがそれを見て、あっ、まだ童子切を持ち出していない。狐はそれを知らせているんだ、と思いついた。

童子切を急いで持ち出したところ、白狐は姿も影もなくなったという。

『津山地方郷土誌 第2冊』(データ送信)
著者:矢吹金一郎 編 発行年:1977年(昭和52) 出版者:名著出版
目次:松平家御宝剣茎押形並御伝来推考抜抄
ページ数:35~40 コマ数:222~225

貞享ノコロ 恵照院様御事未ダ柳原オン屋敷ニ御座アリシ時童子切ノミツルギ如何ナル故ニヤ本阿弥(名ヲ傳ヘズ按ズルニ光常ナルニヤ)何某方ヘ預ケ置給フ事アリ或ル時渠ガ宅近キ邊リニ火事ヲト騒ギシ折カラ本阿弥家ノ奥ノ間トモ覚シキ屋根ニ忽白狐壹疋現レ出デ起キテハ倒レ転ビシナド悶ヘ苦ムゴト
ク其鳴聲マタ悲ムゴトクナリ扨衆人火事ニハ左マデ驚ク事ナク彼狐ノ方ヲ指ザシ奇異ノ思ヒヲナシケルトゾ此時本阿弥急度心付理リヤ童子切ノ御剣イマダ出サズ故ニ其精霊假リニ気形ノモノト現レ人ヲシテ示シ知ラシムルモノナラント云モ終ラズ彼ミツルギヲ捧ゲ出シケレバ彼白狐ハ跡ガタモナク失セシナリサレバ世澆季ナリト雖モ劔ノ霊妙ムカシモ今モ同ジ例シ誠ニ絶世ノ霊剣カナト世挙リテ褒賞シケルトナリ
此二條ハ川口小兵衛武済飯塚了簡一尹等ノ古老ノ人々ヨリ承ル話ニテ御座候

 

以後も津山松平家に伝来

『日本刀大百科事典』によると、

光長の養子・長矩にお家再興を許され、元禄11年(1698)、作州津山城、十万石を賜った。
童子切は以来、同家の重宝になった。

 

焼き直し説とそれを否定する試し斬りの切れ味

そのころ、町田長太夫という試し斬りの名人に試させたところ、六つ胴・敷き腕にして、土壇まで切り込んだ。(『落穂集作者考』)

『落穂集作者考』は国立国会図書館デジタルコレクションにもないが、『秋霜雑纂 前編』などで多少内容に言及されている。

『秋霜雑纂 前編』
著者:秋霜松平頼平 編 発行年:1932年(昭和7) 出版者:中央刀剣会本部
目次:(四十二) 町田長太夫名刀童子切ヲ様シタル事
ページ数:25 コマ数:38

一 巖有公(〇家綱)以来御道具様し御用相勤候者町田長太夫と云浪人なり此者彼御代御重寶童子切と云御太刀を樣し候六胴敷腕土壇拂ひにて有りしと、(落穗集作者考)

 

『日本刀大百科事典』によると、

すばらしい切れ味である。

童子切は明暦三年(1657)の大火で焼けた、という説もあるが、焼き直しでは、そんな切れ味は出ないだろう。現在、拝見しても焼き直しとは見えない。

享保4年(1719)には、“名物”にも選ばれている。(『享保名物帳』)
さらに“天下五剣”の一にも数えられている。(『諸家名剣集』)

焼き直し説は単なる憶測にすぎないと見るべきである。

とのことである。

 

1933年(昭和8)1月23日、国宝(旧国宝)指定

昭和8年(1933)1月23日、国宝(旧国宝)指定。
松平康春子爵名義。

「太刀 銘安綱 附絲巻太刀拵」

『官報 1933年01月23日』
著者:大蔵省印刷局 [編] 発行年:1933年(昭和8) 出版者:日本マイクロ写真
目次:文部省告示第十五号 昭和八年一月二十三日
ページ数:460 コマ数:3

 

終戦後、津山松平家を出る

『日本刀大百科事典』によると

終戦後、童子切安綱は津山松平家を出た。

二、三人の手を経たのち、玉利三之助氏の所有となった。

 

1951年(昭和26)6月9日、国宝(新国宝)指定

昭和26年(1951)6月9日、国宝(新国宝)指定。
玉利三之助氏名義。

官報の年月日と指定の年月日がずれていますが、この年月日であっています。
昭和26年6月9日に重要文化財から国宝指定された工芸品は昭和27年1月12日に告示が出されたという話です。

官報の告示が第何号でどういう法律によるかは5コマ目に説明が載っています。

「太刀 銘安綱(名物童子切安綱) 附糸巻太刀拵 梨子地葵紋散太刀箱」

『官報 1952年01月12日』
著者:大蔵省印刷局 [編] 発行年:1952年(昭和27) 出版者:日本マイクロ写真
目次:文化財保護委員会告示第二号 昭和二十七年一月十二日
ページ数:140 コマ数:7

 

個人蔵から文部省が買い上げるまで

『日本刀大百科事典』によると、

玉利三之助氏は童子切安綱を抵当にして、渡辺三郎氏から五十万円とかを借りた。
返済がすまないうちに、玉利三之助氏が急死した。

遺族が、亡父が買い取ったもの、と主張したため、裁判となったが、十年ぐらいも争った末、昭和38年、示談が成立した。

それを文部省が二千六百万円で買い上げ、玉利氏が二千万円、渡辺氏が六百万、と両者で分けたという

出典は刀剣雑誌の「刀苑」ですが、この雑誌は国立国会図書館デジタルコレクションにもありません。
また、玉利三之助氏と渡辺三郎氏に関する話は下記『薫山刀話』も細部の少し違う話を読むことができます。

『薫山刀話』(データ送信)
著者:本間順治 発行年:1974年(昭和49) 出版者:東京出版
目次:津山松平家――童子切の怪異――
ページ数:107~115 コマ数:87~91

 

現在

現在の保管施設は「東京国立博物館」。
所有者名は「独立行政法人国立文化財機構 」。

参考:「国指定文化財等データベース」「東京国立博物館」

 

作風

刃長二尺六寸五分(約80.3センチ)、
地鉄は板目肌流れ、地沸えよくつき、映りも鮮明。
刃文は五の目と丁子乱れまじり、沸え出来。
鎺元は焼き落とし。
鋩子は乱れ込み、佩き表は尖り、裏は焼き詰める。

茎はうぶ、鑢目は切り。
「安綱」と二字銘。

『日本刀大百科事典』(紙本)
著者:福永酔剣 発行年:1993年(平成5) 出版者:雄山閣
目次:どうじぎりやすつな【童子切り安綱】
ページ数:3巻P322~324

 

鬼の噛みついた痕

『日本刀大百科事典』によると、

昔は物打ちに鬼のかみついた痕がある(『刀剣録』『白石先生紳書』『老談一言記』) といっていたが、現在は見当たらない。

『日本随筆大成 第3期 第6巻』(データ送信)
著者:日本随筆大成編輯部 編 発行年:1930年(昭和5) 出版者:日本随筆大成編輯部
目次:白石先生紳書
ページ数:600 コマ数:309

二尺七寸反り高く、目釘孔二ツ有き。横手の處に傷有。童子の首の喰付し跡など申也。

『老談一言記』は国立国会図書館デジタルコレクションにはない。
ただ『白石先生紳書』『老談一言記』共に新井白石関係の文献なので、話の出所は同じようである。

童子切安綱の評価に関する『日本刀大百科事典』の見解

貞享(1684)頃、同じ松平家の名物・石田正宗といっしょに、この童子切が本阿弥家にきた。
一同それを見て、童子切が石田正宗よりいい、と賞賛を惜しまなかったというが、やはり技術的には未完成の日本刀、という感じを拭いきれない。

『本阿弥光悦押形』に、「童子切」と明記してある安綱は、中心が雉股中心になっていて、現存の童子切とは全く異なる。不審というほかない。

と、福永酔剣氏は述べている。

 

外装

『日本刀大百科事典』によると、

童子切には糸巻き太刀拵がついている。その金具の紋が五七の桐になっているのは、松平家に入る前の製作だからである。
刀箱は二重になり、内外とも表に「童子切」と、金粉で書いてある。
内箱が葵紋散らしになっているのは松平家に入ってからの制作だからである。

詳細や原文を知りたい場合は「松平家御宝剣茎押形並御伝来推考抜抄」が詳しい。

『津山地方郷土誌 第2冊』(データ送信)
著者:矢吹金一郎 編 発行年:1977年(昭和52) 出版者:名著出版
目次:松平家御宝剣茎押形並御伝来推考抜抄
ページ数:35~40 コマ数:222~225

 

日本刀の東の横綱

石田正宗との比較

童子切安綱、稲葉江、石田正宗は津山松平家の重宝である。

『日本刀物語』や『詳註刀剣名物帳』によると、研ぎや鑑定の大家である本阿弥家にちょうど童子切安綱と石田正宗が来ていた時期があったらしく、本阿弥家で二振りを比較鑑賞したことがあるらしい。
その評価によると、童子切安綱に比べ石田正宗の方が格別劣ってみえたということらしい。

『詳註刀剣名物帳 : 附・名物刀剣押形 増補』
著者:羽皐隠史 発行年:1919年(大正8) 出版者:嵩山堂
目次:青江、恒次、左文字、三原、安綱の部
ページ数:205、206 コマ数:117、118

 

日本刀中の両横綱

本阿弥光遜氏によると、昔から「西に大包平あり、東に童子切あり」と、「東西の両横綱」にされていたらしい。

『刀談片々』(データ送信)
著者:本阿弥光遜 発行年:1936年(昭和11) 出版者:何光社
目次:名刀と妖刀の話
ページ数:187 コマ数:102

『刀剣鑑定秘話 2版』
著者:本阿弥光遜 発行年:1942年(昭和17) 出版者:金竜堂
目次:名刀と妖刀の話
ページ数:187 コマ数:99

昔から西に大包平あり、東に童子切ありと、東西の両横綱にされてる名刀がある。

『新・日本名刀100選』によると、佐藤寒山氏も大包平と童子切を両横綱として説明している。

『新・日本名刀100選』(紙本)
著者:佐藤寒山 発行年:1990年(平成2) 出版社:秋田書店
(中身はほぼ『日本名刀100選』 著者:佐藤寒山 発行年:1971年(昭和46) 出版社:秋田書店)
目次:8 大包平
ページ数:121

 

余談 江戸城の紅葉山宝蔵所蔵の源頼光の刀

『江戸拾葉』によると、

江戸城の紅葉山宝蔵所蔵に、童子切と同じく源頼光が大江山で酒顛童子退治のさいの刀と呼ばれるものがあったという。

刃長二尺六寸(約78.8センチ)、黄金造りの太刀拵付きだが、中身は藤原国政作という。

『日本刀大百科事典』によると、

国政に源頼光以前のものはいない。新刀堀川系の国政であろうが、時代無視の偽物である。

『未刊随筆百種 第2』(データ送信)
著者:三田村鳶魚 校訂, 随筆同好会 編 発行年:1927年(昭和2) 出版者:米山堂
目次:江戶拾葉
ページ数:101 コマ数:55

 

調査所感

・酒呑童子を斬ったという大江山伝説の逸話は創作

童子切の逸話、大江山の酒呑童子を斬ったという内容に関しては、もともとこの大江山伝説自体がフィクションだと目されているもので、童子切について書かれている刀剣書でも大体逸話の説明と「でもこれは創作」という説明がセットでなされている感じです。

・来歴の始まりがはっきりしない

『日本刀大百科事典』で紹介されているものだけでも7説か。
そして津山松平家の記録でも2説もあるんですか。

どうも松平忠直・勝姫の夫婦のどちらかが持っていたのは確定でも、それ以前のことがはっきりしていないようです。

・奇人・変人と言われる刀工・大村加卜の著書に出てくる

大村加卜という人は、刀剣の世界では変人だとか奇人だとか言われているちょっと変わった江戸時代の刀工ですね。
医者として働く傍ら刀剣を造っていたと聞きますが、私も詳しくは知りません。
ただこの大村加卜が松平光長に直接仕えていた関係で、刀剣書である『剣刀秘宝』に童子切のことも記録されているようです。

・越後騒動に関して

この辺は実は道誉一文字の時にも軽く調べましたが、津山松平家のこの時期の刀剣の扱いに関しては「越後騒動」について多少調べる必要があるようです。

越後国高田藩のお家騒動により、松平光長は領地没収で配流処分となります。
後に罪を赦され従兄弟・松平直矩の三男宣富を養子として迎え、この人が「津山松平家の祖」となります。

・童子切は祟るか

一般的な刀剣書だとそんな感じでもないんですが、本間薫山先生の『薫山刀話』で童子切に関しその伝説や来歴から当時の津山松平家の態度、戦後愛刀家たちの手にわたった話やらを語りながら「童子切は祟る」みたいな話をしています。ふむ……。

『薫山刀話』(データ送信)
著者:本間順治 発行年:1974年(昭和49) 出版者:東京出版
目次:津山松平家――童子切の怪異――
ページ数:107~115 コマ数:87~91

 

参考サイト

「国指定文化財等データベース」
「文化遺産オンライン」
「東京国立博物館」

参考文献

『諸家名剣集』(東京国立博物館デジタルライブラリー)
時代:文政11(1828年) 写本
コマ数:33

『刀剣談』
著者:高瀬真卿 発行年:1910年(明治43) 出版者:日報社
目次:第四門 武将の愛刀 頼光の童子切
ページ数:58、59 コマ数:54

『参考太平記  第2 (国書刊行会本) 』
著者:今井弘済, 内藤貞顕 編 発行年:1914年(大正3) 出版者:国書刊行会
目次:卷之三十二
ページ数:416 コマ数:215

『詳註刀剣名物帳 : 附・名物刀剣押形 増補』
著者:羽皐隠史 発行年:1919年(大正8) 出版者:嵩山堂
目次:青江、恒次、左文字、三原、安綱の部
ページ数:205、206 コマ数:117、118

『日本趣味十種 国学院大學叢書第壹篇』(データ送信)
著者:芳賀矢一 編 発行年:1924年(大正13) 出版者:文教書院
目次:八 刀剣の話 杉原祥造
ページ数:327 コマ数:183(2冊あるので1コマずれる可能性あり)

『刀剣名物牒』(データ送信)
著者:中央刀剣会 編 発行年:1926年(大正15) 出版者:中央刀剣会 編
目次:第二 細說 (上) 名物牒 童子切安綱
ページ数:61 コマ数:33

『刀剣談』(データ送信)
著者:羽皐隠史 著[他] 発行年:1927年(昭和2) 出版者:嵩山房
目次:第四、武将の愛刀
ページ数:120、121 コマ数:72

『日本随筆大成 巻九』(データ送信)
著者:日本随筆大成編輯部 編 発行年:1927年(昭和2) 出版者:日本随筆大成刊行会
目次:異說まち[マチ]
ページ数:133 コマ数:74

『日本随筆大成 第3期 第6巻』(データ送信)
著者:日本随筆大成編輯部 編 発行年:1930年(昭和5) 出版者:日本随筆大成編輯部
目次:白石先生紳書
ページ数:600 コマ数:309

『秋霜雑纂 前編』
著者:秋霜松平頼平 編 発行年:1932年(昭和7) 出版者:中央刀剣会本部
目次:(四十二) 町田長太夫名刀童子切ヲ様シタル事
ページ数:25 コマ数:38

『官報 1933年01月23日』
著者:大蔵省印刷局 [編] 発行年:1933年(昭和8) 出版者:日本マイクロ写真
目次:文部省告示第十五号 昭和八年一月二十三日
ページ数:460 コマ数:3

『日本刀講座 第3巻 (鍛錬篇・研磨篇)』(データ送信)
著者:雄山閣 編 発行年:1934年(昭和9) 出版者:雄山閣
目次:第七章 試驗方法 鍛錬篇(二) 鍛法に関する古記録(中篇) 剣刀秘宝
ページ数:249~253 コマ数:159~161

『刀談片々』(データ送信)
著者:本阿弥光遜 発行年:1936年(昭和11) 出版者:何光社
目次:名刀と妖刀の話
ページ数:187 コマ数:102

『紀元二千六百年奉祝名宝日本刀展覧会出陳刀図譜』
著者:遊就館編 発行年:1940年(昭和15) 出版者:遊就館
目次:古刀の部 五六 太刀 銘安綱(国宝・名物童子切) 東京 子爵松平康春
コマ数:118、119

『刀剣鑑定秘話 2版』
著者:本阿弥光遜 発行年:1942年(昭和17) 出版者:金竜堂
目次:名刀と妖刀の話
ページ数:187 コマ数:99

『日本刀と無敵魂』
著者:武富邦茂 発行年:1943年(昭和18) 出版者:彰文館
目次:童子切
ページ数:167 コマ数:98

『官報 1952年01月12日』
著者:大蔵省印刷局 [編] 発行年:1952年(昭和27) 出版者:日本マイクロ写真
目次:文化財保護委員会告示第二号 昭和二十七年一月十二日
ページ数:140 コマ数:7

『武将と名刀』(データ送信)
著者:佐藤寒山 発行年:1964年(昭和39) 出版者:人物往来社
目次:源頼光と童子切安綱
ページ数:16~20 コマ数:13~15

『日本刀物語』(データ送信)
著者:福永酔剣 発行年:1964年(昭和39) 出版者:雄山閣
目次:鬼切りと童子斬り
コマ数:21~34
(以前コマ数をメモったはずなんですが、現在はデジコレでも読めなくなってる?

『原色日本の美術 21』(データ送信)
著者:尾崎元春、佐藤寒山 発行年:1970年(昭和45) 出版者:小学館
目次:刀剣 ページ数:83 コマ数:89
目次:図版解説Ⅲ ページ数:103 コマ数:109
目次:一、日本刀概説 ページ数:224、225 コマ数:230、231
目次:二、 刀装概説 ページ数:241 コマ数247

『薫山刀話』(データ送信)
著者:本間順治 発行年:1974年(昭和49) 出版者:東京出版
目次:津山松平家――童子切の怪異――
ページ数:107~115 コマ数:87~91

『津山地方郷土誌 第2冊』(データ送信)
著者:矢吹金一郎 編 発行年:1977年(昭和52) 出版者:名著出版
目次:松平家御宝剣茎押形並御伝来推考抜抄
ページ数:35~40 コマ数:222~225

『越後府中雑記』(データ送信)
著者:中沢肇 編著 発行年:1985年(昭和60) 出版者:耕文堂書店
目次:高田城にあった初花と童子切
ページ数:413~420 コマ数:209~213

『新・日本名刀100選』(紙本)
著者:佐藤寒山 発行年:1990年(平成2) 出版社:秋田書店
(中身はほぼ『日本名刀100選』 著者:佐藤寒山 発行年:1971年(昭和46) 出版社:秋田書店)
目次:4 童子切安綱
ページ数:116

『日本刀大百科事典』(紙本)
著者:福永酔剣 発行年:1993年(平成5) 出版者:雄山閣
目次:どうじぎりやすつな【童子切り安綱】
ページ数:3巻P322~324

『日本刀おもしろ話』
著者:福永酔剣 発行年:1998年(平成10年) 出版者:雄山閣
目次:妖怪変化編 酒呑童子斬り安綱
ページ数:2~10

 

概説書

『剣技・剣術三 名刀伝』(紙本)
著者:牧秀彦 発行年:2002年(平成14) 出版者:新紀元社
目次:第一章 天下五剣・天下三槍 童子切安綱 源頼光
ページ数:22

『名刀伝説』(紙本)
著者:牧秀彦 発行年:2004年(平成16) 出版者:新紀元社
目次:第一章 童子切安綱・蜘蛛切――源頼光――
ページ数:31

『名刀 その由来と伝説』(紙本)
著者:牧秀彦 発行年:2005年(平成17) 出版者:光文社
目次:源平の名刀 童子切安綱
ページ数:43~48

『図解 武将・剣豪と日本刀 新装版』(紙本)
著者:日本武具研究界 発行年:2011年(平成23) 出版者:笠倉出版社
目次:第3章 武将・剣豪たちと名刀 源頼光と童子切安綱
ページ数:98~101

『日本刀図鑑: 世界に誇る日本の名刀270振り』(紙本)
発行年:2015年(平成27) 出版者:宝島社
目次:天下五剣 童子切安綱
ページ数:16

『図解日本刀 英姿颯爽日本刀の来歴』(紙本)
著者:東由士 編 発行年:2015年(平成27) 出版者:英和出版社(英和MOOK)
目次:古今東西天下の名刀 童子切安綱
ページ数:69

『刀剣目録』(紙本)
著者:小和田康経 発行年:2015年(平成27) 出版者:新紀元社
目次:≪第一章 平安時代≫ 伯耆国大原 安綱 童子切安綱
ページ数:26、27

『刀剣物語』(紙本)
著者:編集人・東由士 発行年:2015年(平成27) 出版者:英和出版社(英和MOOK)
目次:天下・神代・伝説の刀 童子切安綱
ページ数:44、45

『刀剣説話』(紙本)
著者:編集人・東由士 発行年:2020年(令和2) 出版者:英和出版社(英和MOOK)
(『刀剣物語』発行年:2015年を加筆修正して新たに発行しなおしたもの)
目次:鬼・妖を切った刀 童子切安綱
ページ数:26、27