まだ「十口伝」と長義くん極について考えている
ようやく単独行見終わったのでその辺でちょっと発展しました。
時期的に「坂龍飛騰」関係の話が軽く入っていますが、そっちの考察を目当てにすると肩透かしくらうくらいに「坂龍飛騰」そのものの話は出ないです。
0.Twitterの方に流した長義極再考
前回のまとめなので前回記事を読まれてる方には不要だと思いますが、一応収録。
山姥切長義の修行手紙は、三通目の冒頭3行が全てではないだろうか。
「長義の傑作」であるという結論に、人が心を寄せて写しを打ったことが「それだけのこと」という認識が付随している。
逆に言えば「長義の傑作」という結論のために顕現当初の認識を「それだけのこと」に変化させる必要があった
この文章構成からすると、長義が顕現当初に持っていた認識や願望というのは、その逆と考えられる。
人が己に心を寄せ写しを打ったことを、特別なことだと思っていたかった、その物語、「本歌であること(写しがいること)」に執着していた。
これこそ2通目の手紙の理由ではないのか。
長義を正当に評価できないのはどんな人か? と言うと、研究史の観点からは「本歌・写し関係しか見ない人」ですね。
実際には本歌・写し関係に触れず単体で評価しているものはある。
2通目の内容はそういうものを見ていないだけと考えられる。
一番そこに執着しているのは長義くん自身なんだろう
本歌・写し関係の物語「本歌であること」にこだわるならそのままでいい。
けれど、本歌・写し関係にとらわれず「長義の傑作として見てほしい」なら執着を捨てる必要がある。
2通目で心当たりの一人の許へ行ったことで、執着を捨てることができたからこそ3通目の結論が「それだけのこと」になった
研究史とか他の刀の極修行とか全体のバランスを鑑みるとこの考えが一番しっくり来ると思います。
長義くんは本心明かさないだけで、大筋では他の男士と別のことをしているわけではなく、修行でやっていることは同じでは。
他の刀剣男士の修行を見ても、皆ある意味己の願いに沿った世界に赴いている
そして己の願いに沿った世界であっても、そこに本当の答はないというのが真理なのでは? 来歴に基づく表面上の主張を再現した、己の望み通りの世界が教えるものは、そこに本当の幸福はないという現実。
メディアミックスで度々言及され、慶長熊本のガラシャ様辺りが顕著な「心は矛盾する」というテーマ
長義の最初から矛盾する部分は「本歌であること(写しとの縁)」に執着すればするほど、「自分自身の本質は見てもらえない」ということでは?
だからそういう世界にしか赴けなくて、そこを脱するには、執着を自ら否定しなければならない。
そのために己を形作る執着が成す歴史を見てくる必要がある
極修行の原理がわかってきた感じがするんですよね。
いまつるちゃんが自分のいない正史を見てきたように、歴史を守ることを「放棄」する理由足る世界。
それこそが己の願望通りの世界(れきしをかえてはなぜいけないの?)。
それを否定して歴史を守る選択をした結果がそれぞれの極修行の答なんだなと。
1.修行手紙の構造、物語の構造
長義くんの修行手紙の考察をいろんな角度からやってみて思ったのですが、これ、舞台とかシナリオのあるメディアミックスと同じ構造なのではないだろうか。
どこでどういう動きをしているのか確定できそうな単語がほぼ出てこないので極修行の詳細自体はやはり「不明」としておいた方がいいと思うのですが、結論の動き、その結論を出すために己の感情に対してどういう処理をしたのかという思考の変遷を追うと、「慈伝」や「花影ゆれる砥水」の構造に近いと思います。
そしてこれまでの考察でやった通り、「慈伝」で国広がやった強さの否定、己で己の執着を否定するという作業は、他の刀剣男士の極も全て共通ではないかと考えます。
一通目で山姥でも斬りに行こうかと戯言っぽく言った後に、「君はどう思う?」と我々主に対して問いかけてくる。
二通目で自分を評価してくれると考えた誰かのもとへ向かう。
三通目でその行動の結果として、写しが打たれたことを「それだけのことだ」と結論してから、主に対する評定に入る。
一通目と三通目は明確に「主」に対する内容ですが、二通目の主眼がどこにあるかが隠されているのが長義くんの修行手紙の解釈を難解にしている理由だと思います。
三通とも共通する話題と考えれば二通目も主関係の話になりますし、別の話だとすればその理由を考える必要があります。
極直後の考察だと後者の「理由」に思い当らなかったので三通共通話題として主である審神者の二通目が指す「一人」に挙げてみましたが、内容的には別の人物、刀工堀川国広や長尾顕長の方で考えた方が文脈的には自然であることも確かです。
と、いうわけでその二通目だけ別の人物の話になる「理由」なのですが、舞台やミュージカルなどのメディアミックスのシナリオで描かれる、己の最初の願いに対する執着を否定する動きと同じだから、と考えます。
ここまでは一応、上のまとめと同じ内容ですね。
「慈伝」の国広の感情の動きに着目すると、「悲伝」での三日月とのやりとりに未練を残し、その一件から立ち直れていないせいで、目の前の長義とのやりとりにも身が入っていない状態です。
そして長義の働きかけにより、本歌と写しの間の名を巡る問題と、己の「強さ」に関する懊悩に答を出したからこそ、それまでずっと知りたかった三日月の心の一端、どんぐりに込められた「帰りたい」という気持ちを知ることができた、という構造になっています。
目の前の本歌・長義との問題から逃げずに向き合ったから、国広にとってずっと心を締めていた悩み、三日月に関する悩みが晴れた形です。
これをわかりやすく整理すると、「小目標の達成により大目標の答が出る」構造だと考えられます。
長義・国広の名を巡る手合せは、三日月の問題を解決することとは無関係に見えますが、国広の内面を考えると必ずしもそうでない。
「悲伝」の一件から修行に行きたいけど本丸が心配で離れられないという国広が立ち直るには、長義との名を巡る手合せの果てに、「俺はただ、力でねじ伏せただけだ。それを勝ちだとは思わない」という結論を出すことが必要だったからです。
お前は強いと言ってくれた長谷部や皆が肯定する自分の強さ、それを、他でもない自分自身で否定することでようやく前に進むことができる。そういう構造です。
小目標(本歌との名を巡る手合せ、強さへの執着を断ち切る)を達成して、
大目標(二度と仲間を喪わないという願いの為に修行に行く)を達成した。
上でまとめた結論からすると、長義くんの修行手紙もこの構造と一致すると見ていいと思います。
登場当初から「本歌」であることに拘っていた山姥切長義は、だからこそ写しの国広との絆を、自らの写しが打たれたことを特別だと思いたがっている。
けれどそのことに執着すればするほど、本歌ではない一振りの長義の傑作として評価されることはない。そういう矛盾、ジレンマを最初から抱えている。
だからこそ己の執着する出来事、写しの国広が打たれた時のどこかに行ってきて、その出来事に対する己の感情を昇華して執着を断ち切ってきた。
長義が打った唯一無二の傑作、それが俺だ。
まず傑作の刀があり、それに心を寄せた人間がいて、その傑作を写した。
それだけのこと。
自分の執着を自分で否定して、それに執着していたは達成できない真の目的、歴史を守る役目を果たす刀として在り続けるために主の刀になる、という極修行の目的を達成したように見えます。
小目標(本歌である事への執着を断ち切る)を達成して、
大目標(主の刀となる)を達成した。
長義くんの極修行はこうした物語だと考えて、我々に見えていない部分でもしっかり答を出すためのプロセスや行動を起こしその結果を見てきた(正当な評価をできそうな心当たりの一人の元へ行った)と考えていいと思います。
つまり国広はもちろん、長義くん、そして他にも同じように自分の中の執着を断ち切って帰還してきた男士たちの修行手紙の構造は、メディアミックスのシナリオと同じ構造だと考えていいと思います。
2.対大侵寇の「友」
極修行の構造がメディアミックスの構造と同じだというのはどういうことなのか。
……単純に考えて、もう全部同じなのでは?
原作ゲームはシナリオがないとされつつ(ここ最近のファミ通やパッシュのインタビュー見るとこれはおもに特命調査開始前までの説明っぽいですが)、しかし極修行における心理の変遷や刀剣男士の持つメタファー、特命調査それぞれのテーマなどからすると、やはりわかりやすい台本形式になっていないだけで根幹として設定されている筋があることは感じます。
その部分が原作ゲームからメディアミックスまで共通している。
要は原作ゲームの更に原作設定を作っているニトロの方ではちゃんと物語(と言うこともできる論理構造や基本思想)があるってことなんでしょうが。
その真の意味での「原作」を考えたとき、その構造は原作ゲームから舞台やミュージカル、花丸と活撃というアニメ、無双や映画や各種コミカライズなど、全ての派生で共通する根幹としてきちんと存在しているのではないかと思います。
今一度、最も難しい原作ゲームのシナリオについて考えましょう。
去年の対百鬼夜行迎撃作戦により、「友」というメタファーの重要性が明確になってきた。
「友」とは相手を助けるものであり、これはミュージカルの三日月の設定とも一致します。
だからまず原作ゲームの「友」要素を持つ敵、聚楽第の「ゾーリンゲン友邦団」はそのような存在なのではないかと考えられます。
相手を助ける。そのために自ら足止めのための犠牲となった存在が「ゾーリンゲン友邦団」という「友」だと考えられます。
原作ゲームのシナリオイベントは5つの特命調査と最後の対大侵寇で第一節という一区切りになっています。
舞台やミュージカルや花丸が一定間隔で話に区切りをつけている構造であることから考えても、原作ゲームで一番わかりやすい円環となっているのはまずこの6つのシナリオイベントで作る第一節後半の円環だと考えます。
では、その最初の物語である「特命調査 聚楽第」と、最後の物語である「対大侵寇防人作戦」は果たして同じなのか、別なのか。この二つをどのように重ねて円環状の物語構造にしているのか。
それを考えるヒントが「三日月」と「友」、そして男士の修行手紙に見られる「小目標の達成が大目標に繋がる」構成だと思います。
「聚楽第」は敵の視点からみると、本丸が送り出してきた強力な部隊に侵攻されて多くの遡行軍仲間が死に、あの世界の核だろう北条氏政を「友」である「ゾーリンゲン友邦団」がぎりぎり逃がした物語だと考えられます。
「対大侵寇」は我々本丸側が敵の侵攻を受け、三日月という「友」が本丸を生き残らせるために自分を犠牲にしようとします。
しかし、そこで初期刀が三日月を迎えに行って合流し、最終的に両者の協力で「混」を倒す物語になっています。
ここから考えて、「聚楽第」と「対大侵寇」の関係は
・敵と我々本丸側の逆転
・「小目標」と「大目標」が逆転
二つの要素が逆転した同じ話、だと考えられます。
そしてこのあれとこれとそれやこれが「逆転しながら踏襲する」構造というのは、特に舞台がわかりやすく割と最初から(「虚伝」~「慈伝」)こういう構造の話になっております。
同じ物語を繰り返す、しかし当然そっくりそのまま繰り返すわけはなく、誰かと誰かの立場・立ち位置や、その時重要なものが逆転しながら繰り返す踏襲構造です。
舞台はずっとこういう構造に見えるんですけど、原作ゲームじゃどこからどこまでどういう風に踏襲しているとはっきり言うのは難しいと思っていました。
けれど、「聚楽第」で最も重要なラスボス、「ゾーリンゲン友邦団」と対大侵寇の三日月が同じ「友」のメタファーだとすると、上の2点が特に重要だと思います。
「聚楽第」の「ゾーリンゲン友邦団」は我々に倒される。
一方、うちの三日月は生き残った。
この結果の反転も気になるところですが、これに関しては○○だからこうなった、と確実に言い切れるものでもないのでちょい保留。
3.修行、対大侵寇、特命調査
「小目標」と「大目標」の「逆転」が極修行手紙でも特命調査でも、そしてメディアミックスでも共通する構造なら、舞台についてちょっと考えたいことがあります。
「慈伝」が長義との関係を「小目標」、三日月に関する問題を「大目標」において山姥切国広の物語を展開したら、舞台の対大侵寇相当の物語、第一節の締めはこの逆になるのではないか。
舞台の対大侵寇は、「小目標」が三日月関係、「大目標」が長義関係になると予想される。
便宜上、大小という仮名をつけていますが、「慈伝」の「小目標」である長義と国広の手合わせは、むしろその物語のメインストーリーのことを指します。
そう考えると長義くんの極修行手紙でほとんど名を出されていなくても、やはり国広との関係に関わる内容が一番重いと言える。
また、舞台は国広が修行に出てまだ帰ってこないという現状や、「慈伝」で長義と名を巡る争いに一度決着をつけた内容が実質山姥切国広の修行内容そのものだと言える。
と、いうことで以前から、舞台の第一節の締めは5つの特命調査終了後、対大侵寇のタイミングで国広が帰還して、対大侵寇と極修行の相関性を描く物語、「山姥切国広の極修行の答」を物語の結論に持ってくると推測されます。
この予想と今回の「聚楽第」と「対大侵寇」における「敵味方の立場の逆転」と「小目標と大目標の逆転」構造を加味すると、
舞台の第一節は、極国広の帰還と物語の「小目標(メインストーリー)」として朧国広(三日月に執着する心)との決着を描き、「大目標(国広修行の答)」として長義関係を描く内容だと考えられます。
これだけなら予想としてはそうおかしなことでもないと思います。
まさか舞台の内容で第一節の締めに朧国広関係を無視する予想はあるまいて。
むしろ「小目標(メインストーリー)」としてがっつりやる部分がそれだというのは自然な予想だと思われます。
ただ、最近ようやく「単独行」を見たので、そっちも考えると他にもまだ気になることがあります。
「単独行」の内容、あれ原作ゲームの「対大侵寇」の骨格じゃね?
国広の身代わりとなるふくのすけ、喪った三日月を追うという執着を捨てることを決めた国広。
「友」が犠牲になる要素が強調されるのは「聚楽第」と「対大侵寇」。
「聚楽第」と「対大侵寇」が逆転踏襲なのでちょっとずれるだけで見分けのつかない構造なのですが、それでも「単独行」の物語は、国広が一度三日月への執着を捨ててさっぱり答を出して一つの物語として割と美しく終わっているので、「対大侵寇」のような気がするんですよね……。
と、言うことは。
もしかして、舞台の「対大侵寇」相当の話の骨格こそ、「聚楽第」なんじゃ……。
本来「聚楽第」を描くタイミング、本歌である長義の登場回「慈伝」は実質国広の極修行のような話である。
そして修行にいった「単独行」がまるで「対大侵寇」の骨格のような話であるのなら、
舞台本丸の物語のクライマックスとなる「対大侵寇」の骨格に、原作ゲームから山姥切国広の特命調査として最も重要な物語、「聚楽第」を持ってくるのでは?
舞台は「聚楽第」をとばしたのでもダイジェストとして軽く扱ったのでもなく、むしろ「山姥切国広の物語」の中核として、他のどんな物語よりも重要な位置に「聚楽第」を持ってきたのでは? そこで国広の帰還、すなわち「山姥切国広の答」という物語を完成させるつもりなのでは?
山姥切国広を描くにあたって、最もドラマティックな構成を選択した、ということだと思います。
構成の話に関しては細かく気になるところは尽きませんが、とりあえず今は「対大侵寇」相当の話の論理構造の骨格が「聚楽第」である可能性が出てきたことを気に留めたいと思います。
Twitterでちょろっとぼやいたんですけど、舞台って2023年に7周年やってるってことは今年9周年、そこで特命調査が全て終わるので来年10周年に「対大侵寇」をやれるので、10周年に合わせてる可能性があるんですよね。
4.映(写)すもの、放つもの
「坂龍飛騰」で一番気になった部分です。
ごっちんこと後家兼光が、三日月が「月」であることについて、「月ってさ 自分から光ることはできないでしょ できるのは映すことだけ」と言っていました。
それに対しむっちゃんこと陸奥守吉行は「生きたい人がおったら手を差し伸べてしまうが三日月じゃ 鶴丸は言いおった その人の気持ちを反射してしまう」というように返しているんですよね。あ、この部分むっちゃんの方言の聞き取り自信ないっす(オイ)。
・月は映すもの
・だからその人の気持ちを反射する
三日月と国広がセットで、特に「写し」である国広が重要な理由ってこれじゃないの?
月は光をただ反射するだけのもの、すなわち「写し」。
月の反射は漢字としては「映す」でしょうが、ミュージカルは歌の歌詞でも同じ発音の言葉を容赦なく掛詞にしているので、「映す」は「写す」と同じと考えていいと思います。
「映す(写す)」、すなわち「人の想いを反射する」。
三日月もそうですが、特に国広の普段の態度から考えるとめっちゃ納得できる話なんですよね。
これまでもさんざんやってきましたが、国広は長義くんの望みを叶えようとして絶対に退くんですよ。
名前問題くらいならまだ好きに殴り合えと言えるけど、「江水散花雪」みたいに長義が嫌がるだろうから協力を求めない(そのせいで自分が死にかける)のは本当やめれお前……。
あの対応は、基本的に相手の希望に沿うためのスタイルで、それがとうらぶ的な「写し」ってことなんじゃないですか。
他人(刃)の気持ちばかり考えて、それに応えようとしてしまう姿勢。それは月。自ら輝くのではなく、光を反射するもの。
それに対すると太陽の方は、自ら光を放つものと言える。
キャラソン辺りで長義・国広だと長義くん側が「光を放つもの」として明確に描写され、国広は本歌と顔を合わせると影に行ってしまう。
つまりこの二振りの関係が「長義=太陽」「国広=月」の構図になる理由がようやく腑に落ちたというか。
長義くんは相手の意思をはっきりさせるために喧嘩を売る性格であることから考えても、誰にとっても自分の意志こそ大事っていう信念の持ち主でこれが太陽、自ら光を放つものということなんでしょうね。
山姥切長義は基本的に他人(刃)の想いは反射しない。自ら光を放つように努める。
それを考えると修行手紙一通目でポーズとはいえこちらの気持ちを聞いてきた(君はどう思う?)のは意義深いな。
月は映すもの、人の想いを反射するもの。
でもそれだけじゃ解決できない事態があるってのは、ミュージカルの三日月を見ると明らか。だからこそ舞台では三日月自身が国広に太陽になれと言っているのだろう。
自ら光を放つもの、自分の意志で行動するものになれと。
とりあえず「坂龍飛騰」のこの部分は最重要テーマとして覚えておきたいところです。
5.月は見ている
「単独行」が「対大侵寇」の骨格っぽく、一つの物語として綺麗に完成されていたので、逆に言えば舞台の対大侵寇の方は何やんのさ状態。
国広は三日月への執着を綺麗な形で解消したので、おそらくここは実際に対大侵寇相当の話が来たらそのままの結論ではなくもう一歩発展した答になると思うんですよね。
発展か。それとも構造的に逆転か。その両方か。
舞台の対大侵寇は、上の考察からすると原作ゲームの「聚楽第」の構造を骨格に持ってくると思われる。
あくまで話の骨格を使うだけであって、当然あの本丸にとっての聚楽第そのものではない。
そして逆転踏襲構造による配置の変更がどう働くかを考えると。
……もしかしてそこで三日月が監査官ポジで来たりするんだろうか。
「聚楽第」と言えばまず重要なのは「監査官」、最終ボスは「ゾーリンゲン友邦団」、それ以外は「遡行軍なんちゃら部隊」ばかりで、意味はあるんだろうけれど個を感じないため謎に包まれている。
原作ゲームでずっと不思議だった部分がある。
国広の極修行は本歌の存在感を食いたくないから逸話の両立を探すという形で、原作ゲームで国広が「諸説に逃がす」手段で助けたかった相手は「長義」だと思うんですよね。
けど、実際の実装順「国広極」→「聚楽第」じゃなく当初の予定では「聚楽第」→「国広極」だったことを考えると、国広が修行に行ったから長義くんが本丸に顕現したというわけでもない。
この辺はゲームシステムによる前提を考えれば当然でもありますが……。
何度かここでも突っ込んでいますが、そもそも国広が修行で救いたかった本科・山姥切長義と、本丸に顕現した長義は同一の存在なのか。
山姥切長義と呼ばれている物語という意味で同じではありますが、どの物語を主軸とするかという観点では、両者は違う存在なのではないか?
国広にとって、自分の本科はあくまで「霊剣山姥切」。
しかし本丸の山姥切長義は、意識の主体としてはもともと「長義の傑作・本歌山姥切」のようである。
どちらも同じ刀に対する想いが込められた逸話ではあるけれど、刀剣男士の存在の仕方を考えると、この両者は別物かもしれない。
だとすれば舞台の構成が示すように実質山姥切国広の極修行と同じ意味を持つ「聚楽第」というイベントは、長義を救おうとした国広の行動の結果を、別の山姥切長義が監査官として見ているというものなのではないか?
舞台で国広が救いたかったのは三日月宗近、朧となった国広の一部はまだ三日月を求めて物語を廻り続けているからこそ。
もしかして「対大侵寇」と「聚楽第」の位置が逆転するならば、舞台の最後の物語はかつて本丸にいた三日月宗近を救おうとした心・朧国広との決着をつける国広を監査する存在として、「別の三日月」が現れる……のでは?
う~~~ん。
ここまでも結構予想外しているからそんなに当たるとは思ってないんですがね。
もともと「慈伝」を見た頃にざっくり立ててた予想と今でも一部メタファーを共有してるところはあるんですよね。重要ポイントで酒要素、童子切要素が関わるところとか。
三日月が戻ってくる。ただし、鈴木さんが演じる最初の三日月ではなく、別の二振り目。
そういう構造だと感じるのは、やはり原作ゲームの刀剣男士自体がもともとあの刀とこの刀は本当に同じか? という問いを含んだ存在だからですかね……。
ただ序盤の「悲伝」で三日月刀解! とかいうロックな展開をする舞台がどの辺を落としどころとするのか読めないんですよね……。
6.メタファー「疾(病)」、あるいは豊前江極の考察
「単独行」が「対大侵寇」の骨格っぽく、一つの物語として綺麗に完成されていたので、逆に言えば舞台の対大侵寇の方は何やんのさ状態(2度目)。
国広編、第一節の締めとしての答が「執着を捨てる」ことだとするのは、いや「単独行」ですでに達成されてない? とあれを見た今は思うんですよね。
信長様の役目こそ原作ゲームでは七星剣が担っている部分っぽいなと。
「慈伝」の国広の結論は、本心ではあるんだろうけど、国広の性格上やっぱり目の前の長義くんに遠慮した物言いだと思うのよね。長義くんがあの態度でなければ、国広は本当にあの答を出しただろうかと。
一方で、信長と旅した「単独行」の物語で出した答えは、本心からのものに見えます。
信長様の性格・人徳というか、お互いにお互いの生き様の困難をそれなりに知った上で、それでもお互いの生き様に思いを馳せようと素直に言い合える関係。
ものすごく美しくまとまっていますが、じゃあこの話の最後の締めは何やんのさと。
……舞台、いやもはや「刀剣乱舞」という物語の構造自体が「逆転」と「踏襲」を繰り返している。
「慈伝」の物語が強さ・名への執着を捨てることで道が開けるものだったとするならば……次の答はそれをひっくり返すことではないだろうか。
誰かのために執着を捨てる。
その反対。
自分のために執着を追う。
執着を捨てることだけが正しいと限らない。時にはそれを追うことも必要。
えーと、どちらかと言えばこの意見は認識上の実体験からの推測が大きいです。
こちとら最初は山姥切問題を解決したいという思いがありましたから、やはり歴史の中に自分の望む意見を追い過ぎて周りが見えなくなってしまう間違った「執着」は捨てた方がいいという話の比重が高いんですが、
歴史を蔑ろにするものには、逆ベクトルのもう一つの感情があると思うんです。
それが怠惰、「めんどくさい」。
面倒なんだ、面倒くさいんだ、歴史を追うなんてことは。
調べたって調べたって正解なんて決してわかりやしない、だって史料が足りないんだから。
正しい知識をもとにしようとしても、歴史に興味のない人が気軽に間違えた誤伝・誤説ばかり流布している。
だったらもう、正しいことを調べるなんて無駄じゃないのか?
やめてしまおうよ、みっともないよ、一つのことに執着して自分をすり減らすなんて。
煩悩は悪だ。自分の願望のためだけにやり続けるのはやめよう。
もう――全部投げ出してしまおう?
っていう、調べ続ける自分側の挫折や妥協を甘やかす怠惰ですね。
なお私はよくこの考えに囚われております(笑)
「歴史は所詮物語だ」という台詞は己の考えに固執し続ける人を戒める、冷静にさせるためには必要だと思うんですが、
人間は弱いもので、この台詞を「だから真実なんて見つからなくても仕方がない」と。努力を諦めるための言い訳、妥協として使うことがあります。
そうした自分への甘さはやはり間違っているのでしょう。
その辺は実際に歴史研究の本の研究者の先生なんかのスタンスを見るとよくわかりますね。
真実はわからない。この資料は100%正確なものではない。
そう注釈しながら、何故歴史の研究者はそれでもその「物語」を追って「歴史」を掴もうとするのか。
例え絶対的な真実が解明される日は永遠に来ないとしても、それでも歴史に近づく努力を諦めてしまえば、本当に大事なものが失われてしまうからでしょう。
と、言うことは。
自分の欲しい答に執着して周囲を顧みられなくなる状態に気づき、執着を捨てることの次に来る考えは。
物語の世界が広すぎることに気づき、どうあっても答など得られないのではないか、努力するのを諦めてしまった方が良いのではないか、という怠惰や臆病さと戦うことなのではないか。
それ以外何も見えず正しいことを言う周囲を顧みられないような頑迷な執着は確かに捨てるべきかもしれない。
しかし、駆け抜けなければならない道のりの長さに挫けそうになりそうな心を叱咤して、他の誰でもない、それが自分の為だと進み続けるための執着はやはり必要だろう。
と、言うわけで。
舞台の第一節の締めは、国広がこの境地に辿り着く事じゃないですかね。
上の「月」は「映す(人の想いを反射する)」ということも合わせて考えると、結局国広は「単独行」でもまだ相手のことを考えてしまう、相手の想いを反射するだけの「月」ではないかと思うんですよ。
円環を廻り続ける理由が本丸の、主のためでしかないから。
でも多分、三日月に望まれたように「太陽になる」、「自ら光を放つ」ものになるには、もっと強い意思、自分がこうしたいからだ、という姿勢が必要なんじゃないでしょうかね。
ここで、原作ゲームで比較的最近の話なのに他の要素と違ってまったく考察が進んでいなかった豊前江の極の話になります。
豊前の極修行手紙の内容は「疾さへの拘り」「限界への挑戦」という方向性でした。
ある意味長義くん以上に訳がわからなかったのでしばらく保留状態でしたし、長義くんから鬼丸さんへの流れは根底に同じような思考があるのと比べてりいだあの修行はどういう意味なのかずっとわからなかったのですが。
タイミング的には「対百鬼夜行迎撃作戦」の直後と言える豊前の極の内容はここ最近の出来事の中ではかなり重要なポイントのはずです。
そして今回の考察の結果から、私は豊前の手紙の中身こそ、己の求めるものを追い続ける姿勢の大切さと、それにも落とし穴があって「独りよがり」に陥ることがあるという戒めの二面性を持つ内容なのではないかと思います。
長義にしろ、その対となる国広の手紙にしろ、刀剣男士の修行手紙の内容は結局何が正しくて何が間違っているというより、プラスマイナス両方の属性を含む文章となっていて、読む人間がどちらの性質が強いかで内容の解釈が変わってしまうよう作者の意図として調整されているように思えます。
とうらぶの中に存在する表現の数々には、普通の物語にあるような作者の意図として一方向の解釈をさせようという誘導、あるいは親切心がありません。
それが逆に、「刀剣乱舞」の原作ゲームが目指す物語は完全な「中庸」、どちらの性質にも偏らないことなのだと思われます。
長義くんのほとんど内容がわからない手紙はもとより、かなり研究史の内容を正確に反映している手紙でさえ、我々は自分の欲望に合わせて都合よく受け取ることが可能です。
もともと刀剣男士の修行手紙はそういう性質で、豊前江の修行手紙はまさに何かを追い続けることの「大切さ」と「独りよがり」という正負両面を現わしたものではないかと思います。
そして、それがおそらくメタファー「疾(病)」。
病、病気のメタファーはちょこちょこ登場しますけど(沖田君の病気とか)、何を表しているかはよくわからなかったんですが、豊前の手紙から考えた方がいいんじゃないですかね。
スピードの表記で「疾さ」って字は普通使いませんからね。
疾風とか言いますから「はやい」という意味もありますけれど、少なくとも私のパソコンだと「はやい」「はやさ」とか打っても出てきませんよこの字は……。
「疾」の字は「病」「疚しさ」などに使われる字。
追い続けて周りが見えなくなる執着はメタファー「疾(病)」なのではないでしょうか。
その一方で、豊前が修行で選んできたように、例え独りよがりではないかと悩んでも、自分の望むものを追い求めなければ始まらないこともある。
豊前の極修行手紙は、そういう内容ではないかと思います。
一見独りよがりでも、限界へ挑戦してその「疾」を追い続けることの意味、その先に見えてくるものこそ光。
極の前に豊前は富田との回想148『光と闇のさきへと』で
おばけには影がねえってさ。だから、どんな強い光の中でも、どんなに深い闇の中でも、足を取られずに済むかもしれねえ
と言っています。
光と闇が生み出す「影=朧の物語」の先、完全な「お化けの物語」だからこそ、光にも闇にも足を取られない。
限界に挑戦する、自らの願いを追い続ける。一歩間違えればただの「病」となり果てる拘りでも、追い続けた先にこそ自分にとって本当の光が見えてくる。
そういうことなのではないかと思います。
己の使命や役割を意識した長義くんや鬼丸さんの極、航空管制官やお天気お兄さんなどと自ら役職を引っ提げて実装された雲生・雲次、一文字の中でもビジネスのためにバランサーに徹する道誉一文字などの流れをつくるトップバッターは、やはり「対百鬼夜行迎撃作戦」後の、豊前江極だったのかもしれません。
7.極めた山姥切長義の願い
ここ最近、「単独行」ようやく見たり時期的に「坂龍飛騰」も見終わったところですが、結局気になっていたのは先月の「十口伝」で長義くんが修行に行った意味がどこに繋がるか、ってところなんですよね。
あの本丸で、今、山姥切長義を極めなければならない理由。
ここで修行に行ったということは、つまり舞台本丸の第一節の締め、おそらく「対大侵寇」相当の物語の長義くんには、「慈伝」の国広のように極修行後に似た結論を出してもらう必要があるということでしょう。
舞台は国広が今のところ主役ポジションで、かつ三日月と特別な関係を持つ存在として描かれていますが、だからといって本来誰よりも縁深い刀である長義が蔑ろにされているわけではない。
むしろ「慈伝」の時点からあの描き方は「山姥切国広」にとって「山姥切長義」の存在が何より大きいことを示すもの。
そして今回の「十口伝」では山姥切長義主役の短編連作集まで公演している。
どう足掻いても、これは主人公に次ぐ格のキャラクターの描き方ですね……だからその長義くんの思考をここで極によって変化させることの意味が気になる。
色々その理由を考えていたんですが、ようやく文章構成から見た長義極の解釈が固まってきたのと、舞台の「対大侵寇」は山姥切国広にとって最も重要な物語、「聚楽第」の本質をやるのかもしれないということから、ここだと思います。
主へ
ひとつ頼みがある。
もしも、俺がなまくらになり下がることがあれば、すぐにでも折ってくれ。
君に総てを与える刀は、俺でなくてはならないからね。俺こそが長義が打った傑作。君が歴史を守ろうとする限り、俺は山姥切を名乗り、実力を以て敵を斬る。俺の主の刀として。さあ、伝説を作りにゆこうか
刀として、刀剣男士として敵を斬ることを何よりも選ぶ。主が歴史を守る存在である限り、山姥切として敵を斬る。主の刀として。
舞台本丸の審神者は三日月を刀解するくらいには役目に従って歴史を守る性格ですから、きっと歴史を守ることを諦めることなんてないのでしょうね。
だから彼は主の刀で在り続け、本丸を守ることを躊躇わない。それを忘れたならば殺せとさえ言う。
舞台本丸の第一節最後の物語が「聚楽第」ならば、それは「ゾーリンゲン友邦団」が自らの命を犠牲にしてまで北条氏政を逃がした物語。
三日月が「監査官」、本丸を、国広を見つめるものの立場としてやってくるのなら。
長義こそが、「ゾーリンゲン友邦団」なのではないか。
これだと何がわかりやすいって、単純に原作ゲームと三日月と長義の位置を入れ替えただけにも関わらず、そのおかげで原作ゲームの長義くんが監査官であった聚楽第の構造がどういうものであったのかと、三日月が対大侵寇で何をやろうとしていたのかその本心の問題が一気に判明するんですよね。
そこまで行くと逆にそんなわかりやすいことはないかなーと思いますが(どっちだよ)。
円環を何度もめぐっているのは国広の方ですが、じゃあ国広が原作ゲーム「対大侵寇」の三日月の位置にすんなり納まるとはあんまり考えられない。
というか、管狐のふくのすけに助けられ、混のように複数の物語を一つに統合した「朧の信長」と戦闘という形で描いたのが「単独行」だと思います。
繰り返しながら踏襲とは言っても、さすがにこれをほぼそのまんまもう一度はないかなと思います。
最後の物語(その後に「慈伝」的なエピローグはあるだろうが)が「聚楽第」の骨格を持つなら、その時描かれるのは原作ゲームの本丸側の物語ではなく、敵側の物語ではないだろうか。
うーむ。不安。とても不安。
山姥切長義の極修行の結論は、「国広との絆、本歌・写し関係への執着を捨てること」「主の刀として歴史を守り、それができないなら折ってくれということ」。
このメンタルになって帰ってくるのが極山姥切長義で、さらに「十口伝」の内容は古きを伝える、昔の刀剣学者の名前を付けられた創作のような学者を守ること。
己の役目を果たせ、あまねく伝えてくれと。
……「虚伝」から「慈伝」までの構造のように締めの物語が他の物語の構造を踏襲するならむしろ拾われるのはここかなと。
舞台が「山姥切長義」の物語を最大限尊重して完璧に描くためにここで修行に行かせたというのなら、やはり長義くんの修行の結論が何らかの形でクライマックスに反映されるからだと思うんです。
「慈伝」が実質山姥切国広の極修行であり、その極修行はもともと原作ゲームの方で「特命調査 聚楽第」と表裏の構造であったように。
まぁ、うん、あれだ。
予想なんてするもんじゃないね。
はいはい私は今回もいつも通り適当言ってますからねあまり本気にしないでくださいねー。そもそもお前長義くんの極修行の予想思いっきり外したばっかだろうが! って突っ込んでやってくださいねー。
実際、舞台が長義くんと三日月の役目を入れ替えることでもともと原作ゲームのこのポジションが複数の刀の物語であるという本質を描いているにしても、とうらぶのシナリオ構造はもうちょっと複雑だと思うんですよね。
その複雑さはメタファー「病」のように一つのテーマに正負両面が設定されていることでもあり、クソや死体、機械化や狂犬のようななんだか物騒なメタファーが示す部分の構造でもある。それらは正直まだよく見えていない。
舞台もだけどミュージカルの方も今回は坂本龍馬の代役となった物部、本来どこかで死ぬはずだったのに生き延びてしまった人間による「なりかわり」を描いた物語で、こっちの考察が進まないと結構片手落ち感あります。
朧の物語が行き着く先は何なのか、
友、なりかわりの物語が行き着く先は何なのか。
原作ゲームは今年の夏のレイドと目されるイベント、舞台やミュージカルは来年あたりに期待したいです。
(舞台はその前に夏の士伝に石田くんと小竜くんが登場する関係で蜂須賀の回想フルコースやるみたいですが)